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鎌谷中(かまだになか)
京都府船井郡京丹波町鎌谷中


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京都府船井郡京丹波町鎌谷中

京都府船井郡瑞穂町鎌谷中

京都府船井郡瑞穂村鎌谷中




鎌谷中の概要




《鎌谷中の概要》
国道9号の水原信号から南ヘ府道711号(遠方瑞穂線)を2㎞ばかり南下したあたり。鎌谷奥から東北流する土師川が当地で弓谷川を合流し川沿いの谷間に耕地が開け、集落が立地する。
鎌谷中村は、江戸期~明治22年の村。亀山藩領。明治4年亀岡県を経て京都府に所属。同22年梅田村の大字となる。
鎌谷中は、明治22年~現在の大字名。はじめ梅田村、昭和26年瑞穂村、同30年からは瑞穂町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。


《鎌谷中の人口・世帯数》 115・48


《鎌谷中の主な社寺など》

春日神社

府道沿い、鎌谷中と鎌谷奥の中頃である。
古来鎌谷一宮と称されていた。社伝によると創建は永享3年(1431)で、大和春日社より分霊を奉祀したという。文政3年(1820)3月の火災の際記録類いっさいを焼失し、同10年再建し現在に至るという。
『梅田村史』
春日神社  字鎌谷中小字宮ノ前に鎮座
 祭神 武甕槌神、経津主神、天児屋根神、毘売大神
 創立鎖座は永享三年九月九日、大和国春日神社旧社家富田三位から分霊して奉祀したのであると伝えられているが、文政三年三月一日火災によって社記一切を失った。
古来鎌谷中、鎌谷下、鎌谷奥、東又四ヶ村の一ノ宮と称されて、氏子は鎌谷中・奥の両部落の住民である。



臨済宗妙心寺派東光山薬師寺
集落の一番高い所、スゴイお寺がある。元々は薬師を祀った寺院だろうから、臨済宗はいうまでもなく天台宗よりも古いのではなかろうか。境内からは軒平瓦・布目瓦などが発見されたというから、もともとは奈良時代にさかのぼる鉄の薬師寺でなかろうか。いつの時代ことか七堂伽藍を完備した寺院であったという。山門脇には窯跡(薬師寺窯跡)があるという。

山門は長屋門の感じ。


『梅田村史』
薬師寺
寺号 東光山薬師寺       所在 字鎌谷中小字寺谷
開創 弘仁元年          開基 伝燈大阿闍利白大僧正(台宗白明和尚)
開山 涼禅玄叢大和尚禅師   宗派 禅宗 臨済宗 妙心寺派
本寺 竜泉寺派 宿防春浦院  本尊 薬師如来
住職 八木啓一(宗黙啓一)第十四世  仏堂 本堂 仏堂 鎮守堂 地蔵堂 庫裡 山門 土蔵
檀信徒 七十戸
 この寺は元、天台宗大本山延暦寺に属していた。寺内に残る五輪塔(名作)三基はその時代を偲ばしている。当時は稀な大刹で、法堂、本堂、山門、鐘楼、書院など、七堂伽藍が立並び荘厳な仏教霊場として栄えたらしく、現にその跡を留めている。この寺の最も近縁の京都花園春浦院の旧記にもその模様が書かれているとのことである。その後、天正・慶安年間の戦火によって殿堂は勿論古い寺録も全部焼失して、その由緒は明かでない。平安時代から鎌倉時代にかけ、政治が武家に移ると共に武家の間には禅宗帰依が盛んになるに及んで、享保八年臨済宗妙心寺に転派し、建久三年頃から寺小屋を開いて子弟を教育したとも伝えられている。
 鎮守堂は本寺の建立と同時に厄神として八幡宮を祠り、鎌谷中の厄神さんとして近郷に聞え高く、毎年一月十九日を緑日として、厄除の祈祷を行ってきた。
 地蔵堂の由来は極めて複雑である。柑樹地蔵尊由来記によると「仁皇五十三代淳和天皇の御宇、天長八年の頃、宰相中将之春御母堂追善のために在世の日、愛したまえる柑子の木をもって、紀州牟婁郡平瀬村海蔵院(妙心寺末寺)住持知仏によって彫刻する所の地蔵を尊像とされていた。その霊験極めてあらたかで、その後、同国同郡北郡村の農家 全通という者が海蔵院に寄附した柑子の大木をもって、また尊容を彫刻、天明六年皇室に献じそれが妙心寺に賜り、更に天竜寺に贈り、大徳寺管長から当時に贈られて安置したのであるという。この間天長八年より天明六年まで九百五十六年の星霜を経た」と記してある。なおまた別の由来記には「きのくにむろのこほりひらせなる海蔵禅院にあかめ申せる地蔵大菩薩はこうじの木の三寸二分なる尊容、かのみいでら実叡といえる大とこのえらび侍にし霊験記にみえたるわきはるの宰相中将かせんその追福に造立供養し侍る霊像につゆたかわせたまはず崇信たぐひなきほどなり、ことにこのころ故夫人のむなしくなりにしも此さった。結縁の日にあたればはじめておがみたてまつる毋ひとがのなきかけれ成。正覚をえんは此菩薩のちかひによるならひとの化。心きさしいちしろきをあふきにてまつるにもふかくかたしけなさのせちにくはらりおもほゆれば柑子の木と心やることを勺。上におきてかの院なる知仏大とこのもとかくなん
  かぎりなやむつのちまたにしるべして三地びくきみかめくみは
     右近中将藤原朝臣花押




鎌谷城
集落東の300メートルほどの山の頂上部に鎌谷城跡があり、細見河内守居城の鎌谷城跡であったと伝えられる。今は妙見宮があるという。
水原城跡周辺には武士谷・しょうぷ谷・陣屋ケ谷などの地名を残しているが、それら諸城は天正6年(1578)の明智光秀の丹波攻略により没落した。鎌谷は細見将監が明智光秀によく応戦した激戦地であった、という。
細見氏は「細見氏、孝元天皇の後と云、紀氏也」(天田郡志資料)。紀氏のようで、丹生氏や葛城氏と同系のよう。薬師寺地蔵堂にしても紀州と縁がありそうである。
西隣の三和町に細見村があったが、府下では三和町、瑞穂町に同氏の勢力があった。村名にもなっている梅田神社や春日神社は同氏の勧請になると言われる。勢力の中心は多紀郡で、府道をこのまま行った今の兵庫県多紀郡西紀町本郷のあたり。
鎌谷城」「細見氏

《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


鎌谷中の主な歴史記録




鎌谷中の伝説


『ふる里梅田』
鎌谷中に伝わる伝説と行事
       中村 三千治
(一)持越山の伝説
 鎌谷中小字弓谷山の峠、頂上の向側に俗称「持越山」があり、その尾根境は裏山が多紀郡大芋村(現在、篠山町藤坂)となっています。
 今から何百年も前の事ですが、大芋村に死人が出来た場合、持越山を越えて当区内迄運び出し埋没したと聞いています。そこには埋地穴らしい大きな穴跡が残っており、その附近には石碑らしい切石が転々と転がっており戒名などの字句は読みとれないまでに老化しています。
 この事は古くから聞き伝えられていましたが、丁度今から十年程前に、その土地に植林作業に行き、実際知る事が出来たのです。
 共同墓地もない昔は、あんな高い山越しに捨場を作ったものでしょう。持越山の俗称名もそんな所から名付けられたものと想像されます。
 尚、この事実から考えてみても、その当時の葬儀がどの程度で執行されていたかが併せて想像されます。

(二)妙見宮の由来
 鎌谷中の中央部に妙見山があり、参道を高く登って行くと、うっそうと繁った森があります。
 その中に鳥居が建っており、その鳥居をくぐって石段を登ると妙見宮の社があります。そしてその附近に昔は長納屋が建っていたそうで、毎年大晦日の夜には禰宜が長納屋に籠って焚火をたき、一夜を明かしたそうです。
 この事から見ても、随分昔からの古い妙見宮である事が知られています。
 尚、この妙見宮は雷除けの神様だそうで、祭典も毎年七月の酉の日に行われており、区中一同が参拝して落雷除けを祈願するのです。
 尚、一つの風習として、この妙見宮の御旅所が公民館の横に建造されていて、毎年秋の氏神祭には妙見宮から御魂の剣が下降して御旅に立寄り、春日神社と共に三ノ宮神社へ参行され、式典に参加する事になっています。

(三)阿多古講の習し
 当区に限らず昔から数々のお講がありましたが、今も尚継続されているのは、伊勢講と阿多古講の二つであり伊勢講は年に一回忘年会として開講されていますが、阿多古講は盆の八月二十四日、当番制の講主によって開講され、講員八名によって形成されています。
 阿多古さんは、薬師寺の裏山に阿多古山があり、そこの鎮守に祀られています。尚そこからは東の方向、遥か遠く京都の阿多古山が見え、拝む事が出来ます。
 お講の当日は鎮守の神様にお燈明をあげ、区民の火難を祈願し、後その燈火を消さぬ様にして講主宅に持帰り会食をしてからお燈明を各自それぞれの大松に移して持ち帰り、自宅附近の道端に高々と供え、家難を免れる様祈念するのです。
 尚、講員外の家庭もその大松の火を貰って次々と道路脇にお供えします。この大松が高々と立並ぶ様は実に立派な風景です。
 この風習は火魔除けの神様として、未来に続けられる事でしょう。

 人子谷伝説と八幡田のいわれ
              上田 重雄
 東又に人子谷があり、こゝに古くから鎮護されている若宮八幡宮は、古老の言い伝えによると、七、八百年前都落ちした藤原源氏の公卿武者族が、亀岡篠村若宮八幡に詣でヤブサメの矢を立て「倒れた方向に落ちて行きます。暗示を与え給え」と祈願した。倒れた方向は西になり、突き当った処という卦が出たと言う。その途中、園部の観音峠にさしかゝると山深く霧立ちこめ行先不明となった。困り果て若宮八幡の御札を拝し「この峠の難所を越す方法を教え給え」と祈ると、霧は晴れ一匹の白狐が現われ「我は須知の導観稲荷である。我について来い」との事で、突き当った谷は兜山の下であった。ところがその谷は山深く、石と岩と、そして害虫の谷で村人は誰も寄りつかない所であった。
 この谷は地頭に狩り出された人々の労働力の厄介者として捨てられていた所で、飢餓に苦しむ住民の子供が大勢泣いていた。落武者達はこれを助けるため寺小屋を開き、自給の道を教え、母田形(ボタガタ)を作り、自給の農作業をさせた。これが人子谷のはじまりであり、又ボタガ谷と呼んでいる地でもある。
 落武者族は、爾来、若宮八幡宮を建立、篠村若宮の分身を守護神として導観稲荷を合祀し、護り続けて来た。祠は奥行二間、間口一間半であった。
 この祠の神木は大きな桜の木であり、幹の周囲七尺程あり、杉の古木を抱いて岩のがけの上に今尚そびえているが、昭和二十七年のジェーン台風により祠が倒壊、二基の鳥居と杉の古木一本も根こそぎ倒れた。後、祠は修復され小さな祠となった。
 この社は毎年八月一日(ハッサク)を祭りの日として上田株全員が参拝し守護している。
 若宮八幡の恩恵を受けた人子谷の子孫は、兜山を中心として田を耕作し、名称を八幡田として次々開墾して奧八幡田、中八幡田、口八幡田を作った。今尚その地名が残っている。
 都落ちした公卿武者のヤブサメの矢数本、矢筒上下三つ、巴定紋蒔絵輪島塗の矢筒、今尚家宝として存在している。





鎌谷中の小字一覧



鎌谷中(かまだになか)
イヤデン 上ノ谷(うえのたに) 丑町(うしまち) 小田谷(おだたに) 上中筋(かみなかすじ) 北垣内(きたがいち) 才谷(さいだに) 三ノ田(さんのでん) 新開(しんかい) 杉山(すぎやま) 谷口(たにぐち) 田ノ尻(たのしり) 段(だん) 寺ノ谷(てらのたに) 堂坂(どうさか) 中筋(なかすじ) 鳴子垣内(なるこがいち) 西又(にしまた) ノケ坂(のけさか) 宮ノ前(みやのまえ) 弓谷(ゆみだに) ユリ 脇ノ田(わきのた) ?尾(わしお)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
その他たくさん



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