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上乙見(かみおとみ)
京都府船井郡京丹波町上乙見


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京都府船井郡京丹波町上乙見

京都府船井郡和知町上乙見

京都府船井郡上和知村上乙見





上乙見の概要




《上乙見の概要》
乙見川の上流地域で、この前の平成30年7月7日の西日本豪雨で大きな被害が出た、というニュースは聞いていたので、さてどうなっているものかと尋ねてみた。途中3ヵ所ばかり、山崩れと川に流されたりして、片側通行になっている所があった。ヤバイ!避難しろ、避難命令だ、といってもこれだから、そう簡単な話ではない、この道しか道はどこにもない。避難所までの道が安全ではない、そこをどう逃げるのかの判断には住民の命がそのままかかっていた。


町道のようだが、下乙見から上流へ向けてやってくると、このお堂の前にやってくる。ここはテレビや新聞で何度か見た所だ、それら報道とそこで作業されていた地元の方のお話によれば、この道↑(鋪装のアスファルトがみなめくれていた)とその手前にある「岡本橋」が川になって濁流が流れていた。ここは集落の中程で、奥にまだ半分以上の家々がある。公民館はすぐ左側にある。
←その橋は当時はこんな状態、水はヒザくらいあるからここを渡るのはヤバイ、避難路(町道)は土砂崩れで通行できない、先に避難した人達も道路が通れず、避難所(篠原にある体育館)までとうてい行くことができずに引き返してきた。
上流の人達はこの橋がこせず、このあたりにたむろしていた。
ここで指定避難所への避難は中止して、裏の高台にあるお堂に一時避難した、そうしているとやがて水位は引いてきて、橋を越せるようになり、いまだとばかり皆で町道を避難したという。消防車に分乗し崖崩れの箇所は土砂を樹木をみなで協力して乗り越えたという。
お堂からその現場を見る↓高台はチャートの岩盤のよう、これなら大丈夫。

適切な判断だったと賞讃の声が高い。こう落ち着いた判断ができるかどうかに命がかかっている。ここはヤバイぞ、と不断から覚悟していて、その時はどうするかを皆で考えておくことしかなかろう。第一の手、第二の手、それでもダメなら、こうしょう、と。子供の頃から当地で育った当地熟知の人達による何段にもかまえた避難計画がいるであろう。
しかし原発事故の時はヤバイ、30キロ圏くらいしかないから、自然災害と重なるだろうから、その時はどうするかよ~く検討しておくべきでなかろうか。まあ別に当地だけのハナシではない、放射能災害をよ~く検討したようなムラやマチはいまだなかろう。
どこかのマチなどは、だいたい避難所すらないというところがある、あることはあるが、氾濫が想定される川の対岸である、判断が少し遅れればもうナシに等しい、人の命よりも赤レンガが大事なマチを象徴するようなことのようである、行政側のイロハのイを書けないマチ設計のお笑いのようなことであるし、新興住宅地であり、住民側にも災害に対する認識が薄いといったことであろうか。一般的に古いムラはだいたい安全だが、新興住宅の安全はそれほどではない。ニュースなどで見る限りは「やられとるんは新興住宅地ばっかりや」。負の遺産を持たないし自然に対する関心も薄く、しっかりした指導層も持たずで、危険が認識されないのであろうか。


熊野神社参道の橋から乙見川の下流側と上流側。
この橋のあたりで濁流は道の方ヘ流れただしたと思われる、ここから下側の鋪装がみなめくれていた。たぶん上流から流れてきた樹木などがこの橋にひっかかりここにダムができた、溢れた水はすぐ右岸の道を流れたのではなかろうか。

乙見というのはたぶん音水で、音がする流れの意味かと思われるが、渓流というのか、その時は激流だったろうが、その乙見川の渓流流域に耕地と集落がある、流域と呼ぶか全体が谷底、河川敷にあるような感じに見えた。
長老ヶ岳の最短登山路で、村の東部地域には長老ケ岳の寺院跡が多数残るそうである。平家の落人村との伝承もある。
上乙見村は、江戸期~明治22年の村。元和5年から園部藩領。耕地が狭隘で主に養蚕業・林業・製炭業を行ったという。
明治4年園部県を経て京都府に所属。同22年上和知村の大字となる。
上乙見は、明治22年~現在の大字名。はじめ上和知村、昭和30年からは和知町の大字、平成17年からき京丹波町の大字。


《上乙見の人口・世帯数》 21・43


《上乙味の主な社寺など》

熊野神社

社前を流れる岩谷川が大洪水の後を留めている。名のとおりに岩がゴロゴロしている。このあたりに不動の滝があるそうだが、この川の上流だろうか、行けそうにもなかった。
入口のその鳥居は今は石だが、以前は木造で、20年ごとに建て替えられた。建て替える鳥居の用材を神社まで引く木引行事は、古くは下乙見から2日がかりで引き上げたという。最近では昭和46年8月22日実施されたというが、それを最後に石造になったためもう見ることはない。また田楽が伝わり、10月2日の秋祭に行われ、踊子は10人、ほかに笛が1人、太鼓が1人からなる。

『和知町誌』
熊野神社(上乙見)
ナーム熊野の十二社権現
上乙見の熊野神社は、上乙見・下乙見両村の産土神で、古来から十二社権現と称した。この社号は今も氏子の間で伝えられていて、毎年八月三十一日の「願かけ」と十二月三十一日の「願済し」には、太鼓を打って「ナーム(南無)熊野の十二社権現」と、口に唱えながら、氏子全員で一〇〇〇回社殿の周りを巡っている。『寺社類集』には、
 産神十二社権現 勧請年歴未考 本社一間四方
とあり、また『丹波志』にも
 十二社権現 上乙見村 祭祀 九月十日 古熊野浪人榎川氏本尊を祭ると云ふ
と記されている。昭和十年(一九三五)ごろの調査によれば、全国に散在する熊野系神社は、合計二九八四社(京都府は五一社)で、上乙見の熊野神社もその一つである。熊野浪人榎川氏によって勧請されたという『丹波志』の記事は、口碑として伝承されたものである。十二社とも十二所権現とも言うのは、根本杜である熊野三山(本宮・新宮・熊野那智神社)に次いで、五所王子(若一王子・禅師宮・聖宮・児宮・子守宮)、一万宮・十万宮・勧請十五所・飛行夜叉・米持金剛愛子の四所(一万宮・十万宮を一所とみなす)があり、以上の三山(所)、五所、四所を合して熊野十二所(社)権現としている(前出『神社辞典』)。多くの熊野系神社が全国に祀られるようになったのは、熊野の山伏や卸師、あるいは熊野比丘尼の活躍によるところが多いと言われる。

木引き・田楽踊
当社は二〇年に一度、鳥居の建て替えを行う「木引き」が行われてきた。最近では、昭和四十六年(一九七一)八月二十二日であった。平成三年(一九九一)の該当年に石造りに建て替えられたため、この行事は廃止された。この最後となった木引きを、昭和五十年京都府教育委員会編『京都の民俗芸能』は次のように伝えている。
  木引きは二十年ごとに建てかえる鳥居の用材を宮へ曳いてくる行事である。近くは昭和四十六年八月二十二日に行われた。
用材は、欅の親柱二本、貫一本、小柱四本、栗の笠木一本、その他小材で、年のはじめに適当なものが選ばれ、山麓(木元という)まで伐り出される。そしてこの日、木元の一点を選び宮柱(長さ一・五メートル径十センチぐらいの桧の皮をむきそれに榊を添える)を立て、村人が見守るなかで綱つけの儀を行う。それがおわると、ダイとよばれる子供たちが中心になってにぎやかに「引きぞめ」がなされる。
    ソーレ サッサイ チョーサイ ハア
    ヨーイヤナー
と音頭の声があがり、証・太鼓がにぎやかにならされる。ダイガシテは用材の上に立ちダイ(采配)と扇子を振い、同様に稚児たちは声をあわせる。こうしてやがて「エイトー エイヤ-」の掛声で曳かれてゆくが、坂道などにかかると「エートコサーノ ヨーイヤサー」の音頭にかえ「ヨーイヤサー」で力を合わせて用材を曳く。このように一キロにもおよぶ行進ののちそれが宮に曳き上げられると、最後にひきおさめの神事があって、村をあげての木引きが終了する。昔はトギ谷(下乙見)から中道(上乙見)まで第一日、中道から宮まで第二日と二日にわたって行ったという。
こうして曳かれた用材は、秋の祭に鳥居となって現れる。このときの祭は大祭で、曳山も出、風流の者も加わってにぎわうのである。古材は神事用具に加工され、表札として各戸にわたされるならいであり、また用材を造替のたびに少しでも太くするきまりがあるという。
ダイフリともよぷダイには村の男子がすべて出るが、以前は長男に限った。長男であればどんな幼児でも父の付き添いで参加し、一ヶ所に集って精進潔斎したという。このダイのうち年長のもの四人(上・下各二人)が選ばれ采配をふるう。これをダイガシラといい、今も昔ながらの黒ハッピに足首までのモモヒキを着、ワラジを履いた姿である。ともに手にダイと日の丸の扇子をもち、木引き音頭をもってはやすのである。綱曳きの役は家主が全員で当り、鉦・太鼓もうけもつ。
石や木をこのようにはやしながら曳くことは長い歴史がある。この行事がいつ頃に起源するのか知るよしもないが、そうした風俗を伝えのこすものとして貴重である。
例年の秋の祭には田楽踊りが奉納される(この田楽は、和知町民俗文化財に指定されている)。この田楽も前書に取り上げられているが、京都府教育委員会編『京都の田楽調査報告書』には、次のように載せられている。
 午後一時頃から神職(兼任)をむかえて祭典がとりおこなわれる。その頃、田楽の役は、境内の庁ノ屋で衣装をととのえ、式典がすむと神殿に集合、本殿のまわりを一列になり右回りに三周して楽器を受けとり、社前にまつってある野菊をとって、めいめいが襟首にさし、一種の挿頭とする。この時は楽器の音もはやし詞もない。このあと拝殿と庁の屋(社務所)との間の広庭に出て円陣を作る。もし雨天の場合は拝殿をあてる。円の中心には笛と太鼓の役が入り、その周囲をビンザサラがかこむ形となる。笛と太鼓は合図方とも呼ばれ、太鼓の役はしゃがんで地面に太鼓を置き、片手でこれを打つ。
踊りは(一)尋取り、(二)肱、(三)息の三形態からなっている。
尋取りは、まず笛が「ヒーフーヒー」とふき、太鼓が「ドンドン」と打たれると、これを合図に踊り手はビンザサラを左手でつかみ、左足から三歩ちがえ足で進み、とまってビンザサラを目八分の高さにあげる。
肱も合図は同じで、踊り手は「ヒーフーヒ-」で三歩進んで左右の肩に交互にビンザサラをかつぎ、足はビンザサラの反対側を出す。これを三回くり返すと太鼓が「ドンドン」と打たれる。今度は逆にうしろむきに三度くり返し、再び太鼓の合図で一巡めと同じ方向にまわる。計九回のくり返しである。
息は、前と同じ笛と太鼓の合図があると、それまで一列であったビンザサラは円の外側をむいてしゃがみ、左の袖口で鼻を覆う所作をして立ちあがる。
以上で田楽踊が一回終ったことになる。一回目は氏神様(熊野神社)に奉納されたものにあたり、以下同じ場所で七回、計八回の田楽がくり返される。二回目は大川様、三回日は八幡様、以下愛宕様、行者様、金刀比羅様、不動様に順に奉納され、最後の八番目は山の神様にあげられる。これで田楽踊はすべて終り、庁の屋で直会が行なわれる。
田楽衆が襟首につけていた菊の花は踊が終ると神社の裏のすみに捨てられる。
以前は、七日の日に「どぶ」(濁酒)を仕込み、前日に頭人(その年当番に当たった氏子)がうまくできているか味見をし、参拝者全員に振る舞うというしきたりであった。なお、踊子が手に持つビンザサラは、杉の割り板でできており、長さ二四、五センチメートル、幅四センチメートルぐらい、短冊形にして上端に穴をあけてシュロの紐を通す。板は七枚を決まりと伝えるが、現在は五~七枚で一定しない。田楽のいわれは、中世の田楽の跡をとどめるものと推測されるが、記録は何も伝わっていない。
この田楽には厳しい潔斎が必要で、この日、家を出るときは神水をくみ切り火を受け、踊りのときには素足で
川に行き垢離をかく習わしであった。頭人は、この祭りが終わった後開かれる直会でクジによって決められ、以後一年間の祭事に当たるが、厳しい潔斎が求められた。

田楽踊りの奉納 上乙見熊野神社(町指定文化財)↓




『和知町石の声風の声』
上乙見の熊野神社
上乙見の札所辻の堂に関する伝説の般若径を社宝の一つとしてのるのが熊野神社である。尚宝物の中にある着老五年(七二一)紀州熊野神社本宮司奏上の祝詞の写しからすると、養老五年に紀州の熊野本宮の大宮司に請いて御分霊を奉載し此の地に勧進して、上下乙見村の産土神とし斎き奉ったことになるが、又寛政十三年調査の船井郡姓氏録の中では、紀州熊野の浪人榎川氏が此の地に土着したので産土神として分霊したと記している。なお社宝の中に尾道蓮広章代藤原朝巨清章祝詞や、仁安之年(一一六六)三月一日の願主邸吉貞祠等がある。これ等の人が如何なる人であるか、歴史上に求むれば氏の往古の史実がもっと明らかになるであろう。免に角今日宮に参れば、宮のたたずまいは実に森厳そのものである。本殿前の石燈籠も立派建立年月日を己れは天明四年三月(一七八四)とありこれも二百年近い昔の建立である。神前の狛犬の美しいこと、これも相当昔のものだろう。時の洗れを遡ることは非常にむずかしいものである。神代のあるないを論ずるより近代の山村の歴史を深く探り由した方が意義があるのではないだろうか。


檀那寺は篠原の曹洞宗東月寺

大福寺


皆が避難場所とした「お堂」と呼んでいて、辻堂だが、「熊林山大福寺」の額が掛かっている。和知三十番札所大福寺ともある。
しかし何も記録がない、古い宝篋印塔があるそうだし、般若経が残るので、そうした古寺院があったものかも。長老ケ岳には100ヵ寺とかあったといわれる、その一子院であったかも…
『和知町石の声風』
上乙見の大般若経
昔上乙見に在った寺の坊さんか、或る日村人を集めて、明日から或る仕事をし度いから、暫くの間寺へは来ないで欲しい。そしてこちらからよいと云うまでは、寺の中を見ないように申し渡したのであった。それから坊さんが、寺から外へ出なくなった。村人は不思議でならない。見るなと言われれば見度いのが人の常である。それでも暫らくは坊さんの言うことだし、村人は我慢して覗
くようなこともしなかった。その後も続いて坊さんは姿を見せないので村人もこらえ切れなくなって或る夕方こっそり寺へ近づいて戸の隙間から中をのぞくと驚いたことに坊さんか二十人程もいて皆物を書いて居る様式なので驚いてしまった。その夜はこっそり家に帰って寝たのであった。
ところが朝になったら、驚いたことに、昨夜あんなに沢山居った坊さんか、一人も居らず寺は空屋になっていた。併し部屋の中にはお経を書いた紙が驚く程沢山あった。それか現在上乙見の熊野神社の宝物として保存されている大般若経であると云う。今日竹内義男さんのお父さんの御案内でその大般若経を見せて貰った。写真にある巾四十糎、長さ六十糎、深さ八十耗位の箱か十六個でその中に痛んでいて数えることは出来なかったが見たところ十五、六本はあった。すると合計二百五十本はあったことになる。その半分は木版刷りで半分は肉筆で、少くとも二人以上で書かれたように見た。すると写経したことも事実で、坊さんの数の二十人一寸多過ぎるが一人でない事も事実のようで、伝説に近いことになり、どうやら此の伝説の裏にも史実か隠れて居るように思われる。此の年代かわかると調査の手段もあろうにと甚だ残念である。或は紙質、木版刷り字体などから推定出来るだろうか、その能力の持ち合がないのか恨めしく思った。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


上乙見の主な歴史記録


『京都の田楽調査報告』
乙見の田楽踊
    名称  田楽
    所在地 船井郡和知町上乙見
    時期  一〇月一一日熊野神社祭
   一
乙見は和知から東へ八キロほどはいったところに下乙見があり、さらに猪よけが両側につけられた山道を三キロほどのぼると、つきあたりの村が上乙見である。上乙見二六戸、下乙見一八戸からなり、信仰の関係でこのうち三六戸が熊野神社の氏子となっている。
この神社は二〇年に一度、鳥居の建て替えをおこなう。その用材の運搬にあたっては、鉦や太鼓の鳴り物いりで、「エイトー エイヤー」のかけ声で一キロほどの坂道をのぼる。最近では昭和四十六年の八月二二日に木引きがおこなわれた。
神社には五人の氏子総代のほかに、頭人がえらばれ、宮守りの役をする。頭人はくじ引きによって上乙見から三人、下乙見から二人の計五人をきめる。むろんけがれのある者は対象外であり、また途中で不幸事のあった場合はくじの引き替えをおこなう。これらの頭人が春二月、夏七月、秋一〇月、冬一二月の宮のまつり事の世話をする。頭人の交代は秋祭のある一〇月ときまっている。
田楽は、毎年一〇月一一日の秋祭におこなわれるもので、旧暦で祭礼をおこなっていた頃は九月一〇日であったという。田楽は先の宮座の組織とは無関係に、氏子総代・頭人を除く氏子男子の中から適当な者一二人がえらばれる。ただ、以前は官座の帳づけの順に上乙見から八人、下乙見から四人が奉仕したものという。一二人のうち、田楽の踊子は一〇人、他に笛が一人、太鼓が一人からなる。いずれも紋付、羽織に袴をつけ、足は素足で、川で垢離をかいてから集まったものだという。また全員、背中の襟に野菊の花を挿す。笛は六孔の普通の横笛、太鼓はクリ筒の鋲打ち太鼓できわめて一般的なものを使っているが、もとは締太鼓であったという。踊子は手にビンザサラを持つ。ビンザサラは杉の割板でできており、長さ二三~四センチ、幅は四センチ、その上を三角にけずり、上端に穴をあけてシュロ縄を通し、五枚一連とする。板数は七枚がきまりと伝えるが、現在は五枚となっている。板片には一枚ずつ表側に「上氏神」又は「上氏神様」と墨書されている。

       二
祭日には午前中から氏子総代や頭人が神社によって準備を行なう。以前は七日の日に「どぶ」(濁酒)をしこみ、祭の前日に頭人がうまくできているか味見をした。更にその場で氏子の帳面を見ながら踊りの役をきめ、あたった家へ伝えにいったというが、今は行なわれていない。
午後一時頃から神職(兼任)をむかえて祭典がとりおこなわれる。その頃、田楽の役は.境内の庁ノ屋で衣装をととのえ、式典がすむと神殿に集合、本殿のまわりを一列になり右回りに三周して楽器を受けとり、社前にまつってある野菊をとって、めいめいが襟首にさし、一種の挿頭とする。この時は楽器の音もはやし詞もない。このあと拝殿と庁の屋(社務所)との間の広庭に出て円陣を作る。もし雨天の場合は拝殿をあてる。円の中心には笛と太鼓の役が入り、その周囲をビンザサラがかこむ形となる。笛と太鼓は合図方とも呼ばれ、太鼓の役はしゃがんで地面に太鼓を置き、片手でこれを打つ。
踊りは(一)尋取り、(二)肱、(三)息の三形態からなっている。
尋取りは、まず笛が「ヒーフーヒー」とふき、太鼓が「ドンドン」と打たれると、これを合図に踊り手はビンザサラを左手でつかみ、左足から三歩ちがえ足で進み、とまってビンザサラを目八分の高さにあげる。
肱も合図は同じで、踊り手は「ヒーフーヒー」で三歩進んで左右の肩に交互にビンザサラをかつぎ、足はビンザサラの反対側を出す。これを三回くり返すと太鼓が「ドンドン」と打たれる。今度は逆にうしろむきに三度くり返し、再び太鼓の合図で一巡めと同じ方向にまわる。計九回のくり返しである。
息は、前と同じ笛と太鼓の合図があると、それまで一列であったビンザサラは円の外側をむいてしゃがみ、左の袖口で鼻を覆う所作をして立ちあがる。
以上で田楽踊が一回終ったことになる。一回目は氏神様(熊野神社)に奉納されたものにあたり、以下同じ場所で七回、計八回の田楽がくり返される。二回目は大川様、三回目は八幡様、以下愛宕様、行者様、金刀比羅様、不動様に順に奉納され、最後の八番目は山の神様にあげられる。これで田楽踊はすべて終り、庁の屋で直会が行なわれる。田楽衆が襟首につけていた菊の花は蹄踊終ると神社の裏のすみに捨てられる。
      三
祭礼に関する史料としては、神社に頭人の帳箱が残されている。これは本来は頭人の家に申し送りされるものだが、今は神社に置かれている。箱の上書は「明治三十壹年 熊野神社当人箱 戊拾月大安日」とあり、神社の願書、くじ、帳面などが入っている。帳面には明治末頃からの踊子の名を記した踊子記も綴り合わされている。又、近代のものではあるが田楽踊の順序を記したものがある。以下にあげておく


  熊野神社祭典田楽踊順序書
一、踊子は氏子中より鬮を以て人員拾貳名宛内貳名は合図方羽織袴着用し素足とす
二、踊子は御神酒の終りたる時神殿に集合し御庭を三回廻り広庭雨天の際は拝殿に円陣をなす 合図方は一名を太鼓一名を笛とす円陣の中央にありて総ての合図をなし桶を斉一ならしめる
三、(イ)最初は尋取り ササラ木を左より上げて足を違へて三歩行きて止り 前へササラ木を高く目八分に上げること
  (ロ)肱 前と同様三歩左へ行きて肱を行ふて又三歩行きて後向なり「左りむきに廻る」 中腰となる 合図ドンドン
  (ハ)息 合図により前向きになりササラ木を上げて左にて鼻を覆ふ
四、左の八神様に一回づつ踊ること
一、氏神様 二、大川様 三、八幡様 四、愛宕様 五、行者様 六、金刀比羅様 七、不動様 八、山の神様
     乍恐願上口代

一、熊野神社様へ    御灯明
            御供米
            御神酒
            御千度
            御日待
一、大日本大小萬神様へ 御灯明
            御神酒
            御日待
一、魔神様へ      御灯明
            御神酒
            御洗米
 右 昭和四十八年九月一日悪日が無難に過ぎます様 又病鳥害等のがれます様御顧ひ申上げます
          上乙見部落中
   萬 叶
                           


上乙見の伝説





上乙見の小字一覧


上乙見(かみおとみ)  中道(なかみち) 岡ノ本(おかのもと) 居モフ(いもふ) 竹ノ鼻(たけのはな) 田中(たなか)


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
『和知町誌』各巻
その他たくさん



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