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丹波の

升谷(ますたに)
京都府船井郡京丹波町升谷


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京都府船井郡京丹波町升谷

京都府船井郡和知町升谷

京都府船井郡上和知村升谷



升谷の概要




《升谷の概要》
綾部の方から来れば、和知ダムを過ぎて、高屋川が由良川本流に合流する地点、国道27号から大野ダムの方へ通じる府道12号線が分岐する地点、升谷橋という橋が2つ架かっている所の東側、由良川からなら左岸の段丘上、一部は右岸側にもある、かなり広い段丘に耕地と集落がある。
升谷村は、江戸期~明治22年の村。元和5年から園部藩領。安永年間、市場村の庄屋川勝善五郎らにより、由良川右岸に子来(ねごろ)井根が開削され、当村も含めた新田開発が行われた。
明治4年園部県を経て京都府に所属。同5年隣村奥村を合併。同22年上和知村の大字となる。
升谷は、明治22年~現在の大字名。はじめ上和知村、昭和30年からは和知町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。


《升谷の人口・世帯数》 107・249


《升谷の主な社寺など》

白山神社



鋼鉄の巨大な覆屋の中に本殿が鎮座。
『和知町誌』
白山神社(升谷)
升谷白山社の起源
升谷の白山神社は、古くは白山妙理大権現と称し、全国二七一六社に及ぶと言われる加賀(石川県)白山社の分霊社の一つである。当社には、次の「白山神社内御宝物目録」と、古文書類を所蔵している。
   白山神社内御宝物目録
一神代御巻      壱 通
一同御写巻  小出伊勢守様邸内  壱 通
       寺社御奉行様ヨリ
       并園部寺社御奉行様ヨリ加州御状壱通御代
       官職御方江次ニ渡辺与左衛門様邸状壱通
一御神号      壱 通
一八末社御神号   壱 通
一系 図 巻    貳 通
一御神号観袋写   壱 通
一御額仕様目録   壱 通
一御社棟札     壱 枚
一加州御状     壱 通
一同御本地堂御願書 壱 通
   正徳三年巳六月廿六日   (「白山神社文書」)
これらの資料により、当社の再建の状況について述べることとする。
 (注)白山は、越の大徳泰澄(?~七六七)が、養老元年(七一七)に開いたという伝承がある。泰澄は一四歳のとき、十一面観音の霊夢に感じて越知山で修業を始めた。当時は山林仏教の興隆期で、官府的仏教からは異端視されていた。また白山信仰は、白山を神体山(潔戒山・結界山=仏道修行や修法のため立ち入ることを許さない山)として、一切頂上を極めることなく、加賀・越前・美濃三国において白山ヒメ大神を祀る遥拝所から拝していたが、泰澄が白山に登頂し、山上に仏堂を作って十一面観音を祀り、高麗媛を崇拝したので、前記遥拝所を基地(馬場)として登山路が開かれた。その後、白山信仰は各地方に及び、白山の望見できる地点に分霊を祀り、岐阜県の五二五社をはじめ全国に二七一六社を数え、京都府には一一社がある (金沢文庫本『泰澄和尚伝記』、『白山信仰』(雄山閣刊)などによる)。
升谷における白山信仰の起源は明らかでない。白山神社所蔵の「丹州白山縁起」(天文十一年〈一五四二〉書写)、寛保三年(一七四三)の覚(仮題「白山由緒書」)などによると、
① 暦応年間(一三三七~四一)、神宮寺である椙雲山宝閣寺の嶺外智音が再興した。そのため毎年正月七日福富を執行してきた。
② 文明九年(一四七七)まで宝閣寺は存在していた。
③ 元禄十四年(一七〇一)四月十日、白山神社炎焼。
となっている。少なくとも南北朝時代には、この地に白山社、神宮寺である椙雲山宝閣寺が存在していたことが認められる。元禄十四年四月十日夜、天火にて本社・末社が炎焼する。これによって、宝物ならびに宮寺の由緒古伝記などを焼失した。これが、白山神社の起源および焼失の記録である。一般に南北朝時代の白山勢力の進出
は著しく、決して升谷白山社だけの特異な例ではなかったようである。

僧澄隆による再建
宝永元年(一七〇四)、白山神社氏子は、京都・大坂で出開帳中の加賀白山寺阿闍梨と名乗る澄隆に、偶然の機会と思われるが出会い、「白山峰札」を授けられ、白山神社の再興を頼んでいる。僧澄隆は、加賀金沢の出身で、白山で出家して、元禄期(一六八八~一七〇三)を中心に、地元加賀は勿論、桂昌院(五代将軍綱吉の母)とのつながりも深くて、江戸城中に出開帳するなど大いに活躍した人物である。江戸での活動が機縁となって、園部藩主小出氏とのかかわりも生まれ、和知升谷の白山社の再興にも関与することになったと思われる。以下の白山社と澄隆のかかわりは、仮題「椙雲山宝閣寺由来」(『史料集』
(一)白山神社文書)による。
宝永二年(一七〇五)三月二十七日、澄隆は園部に滞在して「神代巻」を写し、会所で氏子に手渡し当社に奉納している。四月には京都におり、ここで村民に「白山宮御守札ノ判木」を授与し、同年九月九日、白山社に参詣している(宿舎は甘露寺)。十日の夕食は野間平右衛門方で勧めた。このときの御供伴として仕僧二人、侍一人、笠持一人、草履取一人、駕籠の者二人を合わせて上下八人であった(『史料集』(一)三三七ページ、白山神社文書3「行列図」は、この参詣の状況を伝えるものであろう)。十一日の早朝には上京した。
宝永七年春、澄隆は江戸芝・増上寺清光院より書状を升谷に送り、「宝閣旧地護摩堂之僧指遣」したいが、いまだ加賀馬場修復が成らず、毎年参社している状態であると伝えている。
正徳三年(一七一三)四月十四日、澄隆は升谷白山社に参詣し、七月八日まで八四日間逗留した。このとき、園部藩に対して「白山御本地堂再興仕りたく存じ奉り候」と再興願を提出し、また、園部大殿様御悔みに四月二十三日お勤めし(三代藩主小出英利は二月十七日江戸にて卒)、六月十八日には白山祭礼を勤仕している。この澄隆の逗留中に白山社の再建が進められたと思われる。
翌年十月、澄隆は京都禁中において、御祈祷の勤めをしている。これはかつて白山七社(白山比咋神社の本宮とその摂社六社)惣長吏が行っていたが、戦国の動乱時に中絶したものである。
澄隆の終焉については、享保七年(一七二二)八月十八日、先に(享保五年ごろ)大雪のため加賀馬場の堂社が大破、そのための勧化や泰泣大師千年忌の許可願いに上洛中に、「京都ニ而病死」したという。しかし升谷白山神社境内の墓碑銘には
  傳燈大阿闍梨弘観澄隆 享保七壬寅天八月十八日 施主両村中とある。また、甘露寺過去帳には、
 傳灯大阿闍梨弘観澄降 享保七年壬寅歳八月十八日寂今年寛政七乙卯迄七拾三年ニナル 此大阿闍梨北陸道加賀国白山寺住職相勉、其後休隠シテ
此地ニ至リ、暫ク干レ茲寓居シテ加州白山寺ノ縁記並額字等写シ置カル、故ニ中興タル者乎 澄隆僧 アヤベノ南田野村出生ノ由也
とあって、出生地は、アヤベ(綾部)となっているが、地元加賀国では、「加州出生之僧」と伝えられている。
現在、升谷白山神社では、白山三所本地仏と泰澄像、澄隆の位牌を境内の「大師堂」(写真177) に安置し、七月十八日には、法印祭と称して甘露寺住職によって澄隆を祀り、「白山宮御守札ノ判木」で刷った「雷除け」のお札(写真179)を氏子に配っている。
  (付記)澄隆の事蹟については、行動と文化研究会発行『行動と文化』七号所収の小林一蓁「澄隆と升谷白山神社」を参照した。

白山社をめぐる吉田・白川両家の対立
別に述べるように、升谷白山社は、加賀白山社の分霊社として、升谷・奥村・中山の氏子が宮座を結んで、順番に禰宜役を務めてきた。その記録が、正徳四年(一七一四)から享保十四年(一七二九)まで、「当社白山宮之講覚」として残されている(『史料集』(一)所収)。ところが、文政十年(一八二七)、京都吉田家から升谷白山宮も吉田家の支配に入るよう強要してきた。
  (注)吉田家は、京都吉田神社の祠官で唯一神道(両部神道のように神仏習合せず、唯一なる神道)の宗家で、室町時代兼倶のとき唯一神道を興して神道界を風びした。江戸時代になって、寛文五年(一六六五)に幕府から「諸社禰宜神主法度」を触れてもらい、宗判制度に対抗するため、神宮の自身葬祭免許の特権をはじめ、装束の許認可権を認められ、特に地方神職に対して絶大な勢力を持った。
一方神道界には、神道の宗家として白川家が存在した。白川家は、花山天皇(九八六~一〇〇八)の皇孫清仁親王
の子延信が、臣籍に下って白川家を立て神祇伯(神武官長官)となり、代々王と称し世襲して明治維新に及んだ神道の宗家である。しかし、戦国時代以降は、神祇大副である吉田家の勢力に圧倒されて、江戸時代には振るわなかった。
さて、文政十年、白山社氏子は、京都吉田家よりの改めに対し、口上書をもって次のように加賀白山寺へ訴えている(『史料集』(一)三六二ページ)。すなわち、
①当社は、御本山加賀国白山寺付きと申し伝え、例年、祭礼は格式をもって氏子が、左折という烏帽子に常衣という装束を着て、神前に供物をして氏神講を順番に勤めてきたところ、②このたび、京都吉田家より神社残らず改めると申し懸けてきたこと、③当社は古来より加賀国天霊山白山寺付きで、祥雲山宝閣寺と申し伝えてきたので、ほかに本山は一切なく、吉田家の改めは請けられないと答えた。①吉田家では、たとえ加賀白山付きという由縁があっても吉田家へ相靡くよう申してきましたが、加州の御神に背くことになると、吉田家へ言いましたところ、装束烏帽子のことは吉田表の威勢をもって差し止めると申してきました。⑤何とぞ古例の通り氏子が御神前の勤めがなりますよう、御本山の御威勢をもって、吉光へ仰せ付けくださるようお願い申し上げます。
と、吉田家の配下に入ることを拒否するというものである。この争論の基本には、両部神道の上に立つ白山社と唯一神道の立場を取る吉田家との宗論上の対立があるのではなかろうか。
 (注)「奉幣勧請記」には「右 忍穂耳尊 本地 正観音 中 伊奘諾尊 本地 十一面観音 右 大己貴尊 本地 阿弥陀 右三社垂迩本也如レ此」と、加州白山七社惣長吏・白光院によって述べられ、両部神道の立場を取っている。
その後も升谷白山社と吉田家との争論が続いたようである。升谷では最後まで吉田家の配下になることを拒み続け、天保十一年(一八四〇)、吉田家と対立している白川家の配下になっている。次の文書がそれである(『史料集』(一)三六三ページ)。
 一、当村鎮守 白山妙理大権現の宮座、往古よりいず方えも附属これなく候処、このたび村々氏子中相談の上、当御殿(編者注・白川家)配下に相成り候よう願上げ奉り、もっとも舛中奥太夫御門人に相加えられ、永々守護仕り度く候間、宜しく御許容なし下されたく願上げ奉り候(後略)
と、船井郡質美村の八幡宮宮主林権之丞を証人として白川家役所へ願い出ている。
  (注)この大夫名は、個人を表すものでなく、舛谷・中山・奥三村の村名から初めの一字ずつを取って名付けたものである。
白川家では、この願い出を許可して、風折烏帽子などの着用裁許状と神拝次第を授与した(『史料集』(一)三百六十三、三六四ページ)。
さらに、辰年二月(天保十五年(一八四四)もしくは安政三年(一八五六))、白川公文所では、白山妙理権現社舛中奥大夫あてにつ「当御殿付属の神社につき、自然他所より何事を申し出で候共、決して取放ち申す間敷く候、押して申開き候はば、其の子細御殿へ伺の上返答あるべく候」と達している。ここでは、特に吉田家を想定して、その申し出に対して白川家へ伺いを立てて拒否するようにせよ、というものである。升谷白山社をめぐって、白川・吉田両家の教線拡大の争いの一端をうかがわせている。


『和知町石の声風の声』
升谷の白山神社
升谷の家の密集地帯に遠くから見える大きな鳥居が建ててある。それをくぐれば直線に参道かあり行きつまれりの山裾に鎮座するのが白山神社と称さるる社だ。白山は直ぐに加賀の白山を人は連想するだろう。ところがこの神社は本当に加賀の白山との関係があるのだ。古記録によると此の社は養老元年(七一二)泰澄大師がこの地を通過されて、現在の社の後方の山の高いところに妙法権現伊奘諾命をお祭りしたのが始めだと伝えている。机辺の辞書に泰澄大師を求むれば、越前麻布に白鳳十一年六月生れで幼にして三宝を敬い十四才越智山に登り岩窟に住んで十一面観世音の号を唱えていた。時に人呼んで越の大徳と尊敬した。大宝二年鎮護国家大師の号を賜ったと伝う、養老元年に弟子浄空を供として加賀の白山に登って妙法菩薩を感見して後、山を降り京都の行基菩薩と交り、元正天皇からは神融禅師の号を賜ったと云う。天平宝字二年(七五八)に越暫山に帰り再び岩窟に入って読経持呪を事として寂滅したと伝えられる。比の事跡から見て京都へ出られる途中ここ升谷の地に寄られたのだろうか、その後高い場所で老幼の参詣に不便であるため養老五年(七二一)九月十日現在の所へ遷したが元禄十四年落雷の災火にあって、宝永二年(一七〇二)に再建された、此の社は始め白山妙理大権現と称して社僧が奉仕したのであるが、天保十一年(一八四〇年)神祇道官領白川家の支配に属し、明治維新の際の神仏分離によって妙理大権現を廃して白山神社と改称した。現在でも神紋は大法輸その儘である。宝物の中に神祇官統領伯王よりの継目許状がある。
 丹波国船井郡和知之庄升谷村鎮座白山妙埋権現社今般産子
 中依懇願当家令附属宮座升中貞太夫拝揖式被令授与之間神
 事執行之節風折鳥帽子浄衣浅黄差貫着用可令進退之旨者本
 宮所候也仍執達如件
   神祇官統領神祇伯王殿 雑掌 奉
    升谷村 奥村 中山村
    宮座  升中奥大夫殴
この文中の風折鳥帽子も社宝の中にある。この境内には本殿の北方に別に泰澄大師を祭ったお堂かあり、雷除けの御利益があると信ぜられている。社殿の中に昭和八年に奉額された。作者不明の歌が三首ある。
 升谷に雷除けのみ守りの大師はこゝにおはします
 ありがたや雷除けのみねがひとかくる大師はおはしまらむ
 雷除けを祈る心の升谷の大師のめぐみとうとかるらん
今民俗学の方で研究されている宮座のことこの升谷にはそのしきたりが多分に残っておるように思う。今のうち誰か研究していただき度いと思う。



曹洞宗月中山甘露寺

『和知町誌』
月中山甘露寺(曹洞宗) 字升谷小字上皆地一二
『寺社類集』には「禅宗下胡麻村龍沢寺末、月中山甘露寺、四間半ニ七間半、明祐順清和尚為二開基一、開山不レ詳二年歴一矣、蓋夫当二于永禄、元亀之頃一乎」と記されている。永禄・元亀(一五五八~七二)ごろに、開基となった明祐順清が、この地に草庵を結んで村人を教化したのが当寺の起源である。なお同書には「然後龍沢寺三世鳳山和尚為二中興開山一、其年歴亦不レ詳矣」とあり、龍沢寺三世鳳山磨逸を請招して勧請開山としている。寺伝によるとこれは同寺覚天良仙によるという。良仙は法地を起立し、甘露寺の基礎を固めた。
寛文二年(一六六二)、火災を被り、本堂・本尊仏・過去帳・什具のすべてを焼失した。同寺にはそのときの住僧の申し開きの記録が残っている。この火災の後、天明八年(一七八八)、清拙澤澄がようやく本堂を再建して中興開山となり、さらに安政六年(一八五九)、四世蘭享黙芝によって、再度の再建・改築がなされたことが、境内の造営開山の卵塔に残っている(本尊については、寛文の火災以前は不明であるが、現在は釈迦如来である)。
当寺には、本堂と並んで、和知西国第一番の札所の観音堂があり、堂内には千手千眼観音を中心に三三体の観音像が祀ってある。この堂は、享保四年(一七一九)の創建で、もとは白山神社の南の堂川付近にあったのを移したものである。
(注)和知西国霊場場 一二世紀に始まるという畿内周辺の代表的観音霊場三三所を巡る西国巡礼を原型とする観音信仰によって、近世、和知にも和知西国霊所として次のように形成された(和知町仏教会・各寺護持全編『和知西国霊場案内』)。
一番甘露寺(升谷)、二番宝林寺(中山)、三番龍福寺境内観音堂(小畑)、四番龍心寺(安栖里)、五番東現寺 (稲次)、六番長源寺(出野)、七番長源寺境内観音堂(出野)、八番草尾観音堂(草尾)、九番大龍寺(大簾)、一〇番大成観音堂(大成)、一一番曹禅寺(才原)、一二番福昌寺(広瀬)、一三番打越堂(広瀬)、一四番釈迦堂(角)、一五番瑞祥寺(中)、一六番太虚寺(本庄)、一七番太虚寺境内庄元寺(本庄)、一八番太虚寺境内里の堂(本庄)、一九番善入寺(市場)、二〇番薬師堂(市場)、二一番泉明寺(篠原)、二二番東月寺(篠原)、二三番東福寺(西河内)、二四番明隆寺(下粟野)、二五番西光寺(細谷)、二六番池本寺(上粟野)、二七番日圓寺(仏主)、二八番昌福寺(細谷)、二九番仏光寺(細谷)、三〇番大福寺(上乙見)、三一番祥雲寺(大迫)、三二番常徳寺(塩谷)、三三番長泉寺(長瀬)。


由良川河岸の台地上に古い宝篋印塔が2基あり(升谷経塚)、1基には応永七年(1400)の銘が刻まれている。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


升谷の主な歴史記録




升谷の伝説など


『和知町石の声風の声』
小松の矢神
昔の武将で現代でも喧伝きれている人も少く無いが、那須与市宗高もその一人で老若男女を通して親しまれている。あの有名な源平屋島の戦に於ける輝かしい物語は誰でも知っている。併しその与市宗高が何等かの関係で此の和知町に祭られていることを知っている人は少なかろう。
国道二十七号線の升谷大橋を京都へ向って渡り切った高台に二尺位の高さの自然石か外屋までしっらえられて祭ってある。これを土地の人は矢神と言って、胸に痛みがあり腰に痛みがある時、その痛みを除いて貰うようにと参詣すると痛みが除かれると今でも願かけをする人があると聞く。碑前にお茶や線香などが供えられているのを時に見かける。村の古老は、其の昔那須の与市宗高がどこかの戦で胸に矢を受けて痛んだ時、比の石に願をかけて治ったので矢神と云って現在迄胸の痛みを除く神として祭られているのだと話して呉れた。与市は屋島の戦で扇の的を射落したことは誰でも知っている。胸に傷を受けたと云うことより、弓の誉れの方からの矢の神の方が辻褄が合う。又胸は宗高の宗に通じるから特に胸の痛みとなり、遂には腰でもどこでもかまわない病みを除くとなったのではあるまいか。彼の西洋の福の神キュウピットは弓矢を持って恋の病即ち陶の痛みを治すから、キュウピットも亦矢の神と言われるのではないかなどとつまらない連想まで起した。因に与市宗高は屋島の戦功によって、武蔵国外五州の大名となり下野守に任官し、その御礼言上に参内しての帰途、伏見桃山の即成院で病のため文治元年(一一八五)八月八日に死亡したことになっている、ここに葬られ、其の後幾多の移り変りで現在は京都泉涌寺に大きな墓石となっている。比の石も何か与市と関係があるのかも知れないが、それよりも我々の祖先の誰かが持った胸の痛みを此の石にうったえた時に治ったことがあり、それが今lこ残っているのかも知れない。それにしても何の字句も彫ってない此の石か外屋までしつらえられて祭られておるのか不思議なことである。神代の時代の自然物を祭った遺物かも知れない。理屈は抜きに胸の痛みのないようにと限うのは人間本来の願である。我も亦今は痛みはないが、身体に苦痛のないように福拝して置こう。

上野の争論
或る老人からこんな話を聞いた、其の昔勿論年代は判らない、又実際あった事かどうかも判らないが面白く聞いた、それは今は升谷区に属する上野の事についてである。此の上野は大迫と升谷との地続きであるから昔の事だからありそうなことでもある。大迫村と升谷村と上野の地を己が村に属するものとして互に相譲らなかったのだそうだ、遂に時の権力者に訴えてその裁きを受けることになった。
すると権力者は、或る年の或の月の或る日両村の代表者を呼び出した、裁判官は早速、大迫村の代表者に「かみの」とは如何なる字を以って書くやと問うた。上下の上と、野原の野であると答えた。続いてその土地は大迫から云って川上なりや川下なるやと問う。その土地は川下に在ると答えると、今度は升谷の代表者に同様の問を出した、勿論升谷は川上と答えた。裁判官はすぐ判決を下して曰く、川下にある土地を上野と云う理由はない、この土地は升谷のものに相違なしと、遂に大迫の負けになって現在升谷の土地になっているのだとの話であった。昔はこれで済んだのだろうが現代では多くの人の智恵が進んでいる、或いは川下に向って走っている汽車でもところによっては上り列車と云うなどと反問するだろうなど独り興がったのである。こんなこと書いた後升谷の野間様持伝の古文書中から次の書類を発見した。
 升谷村奥村と大迫村山境及争論を吟味候処大迫村より申旨
 証拠不相立、奥村より差出越後林之子細文判形在之越後と
 申者奥村より出る処分明ニ相聞候、其上為見分並河覚右衛
 門、鈴太八郎兵衛羅越惣山境目吟味古荒田畑之場所民図帳
 に引合せ明細相改之処奥村より申荒地取其謂相聞候、大迫
 村より申荒地之字類多く其場所不慥、是又山尾通り水流し
 奥村より申越に見え候、依て升谷村奥村倚企の通り申付
 候、別表書絵図に墨引遣候間比の旨急度可相心得者也
  享保六年(一七二一)十一月
   林与次右衛門(印) 他四名印
   並河覚右衛門(印)
 尚この場所は升谷村奥村と大迫村山境ぬたみたわより連尾
 出合之鼻となっている。
これから察すると左記に述べた伝説は此の史実が、二百年余を経た後即ち現代に伝説化して伝わっているのである。換言すれば、史実も長年立てば伝説に変化すると云うことを知る好資料と思う。

目あき盲人に教えられる
升谷の立屋の人家の在る山の手に金毘羅さんがある。これは文政十年(一八二八)に土地の人が四国からお迎えして祭ったと聞く。今社前に拍手参拝後よく見ると、祠は縞目の多い一個の石の上に安置されている。此の石について古老から聞いた話、ここに金毘羅さんをお迎えした時、村人寄って祠を据える石について相談し会っていると、その座にいた常蔵さんと云う盲目の人が、その石なら自分が既にあの不動さんの境内で見定めて置いた、その石に何条かの縞があるそれを持って来るようにと申し出たそうだ。盲人の言うことだから始めは誰も相手にしなかったが、余り熱心に云うので、兎に角行って見ようと云うことになり、次の日皆行って見るとその通りの石があった。それを運んで台石として祠を据えたと云う。
尚その老人は話を加えた、塙保己一も盲目であったが立派な正統群書類従と云う書物を出した。目の見えない人の探した石、不思議と言えば不思議だが、心眼と云うものがある。
其の心眼を開けば目明きの心眼の開けない者より大きな業績を残すことが出来るとの教訓を与えられた。心眼いまだ開かない自分を恥じて老人と別れた。
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血ケ滝
小松から中山へ向って国道二十七号線をたどると、交通安全協会で建てた地蔵尊が左手の石垣の上に座し給う。交通安全を祈顧してから僅かに歩を進めると滝と云う程ではない小さい滝が、水音を立てて落ちている。これを地方の人は血が滝と呼び、此の滝の水の流れ出る谷を合戦谷と書いて、かせ谷と云う。
血ケ滝、合戦谷聞く丈でも何か由緒がありそうだ、古老の話によると、昔比のところに合戦があり、その時の戦死者の血が流れ出て時には滝の色が赤くなるから血ケ滝と云い、合戦をした谷だから合戦谷と書くのだと云う。因みにその後升谷の旧家に伝わる古文書に永禄年中安栖里の片山源太四郎升谷合戦に於て戦死すと書いてある書を見た、どうやら比の伝説の裏にも史実があるようだ。永禄年中と云えば織田信長が活躍した時代である。此の辺でも小競り合いの戦はあったであろう。戦死者の名前まで出て来る書類がある程だ。
誰と誰とが戦ったのかも判るような書類がどこかの蔵に在るような気がする。その後こんな話も開いた。此の谷から明治時代にさびた刀が出たと、兎に角戦争があったことに違いない事実だろう。話は違うがついでに中山の人家が、一部升谷の白山神社の氏子で、他が本庄の阿上三所神社の氏子である事実について、昔、両神杜が氏子となることをすすめに来た時、中山の鍛冶屋の前で出合ったので両者か相談してわけ合ったまま今日に及んでいる。その鍛冶屋跡と云うのが丁度、小畑方面から中山へ出る道と現在の国道二十七号線と三叉路をなす地点であり両者の氏子の違うわかれ目だとの話を聞いたがこれも面白い歴史を語る資料だと思う。.

白山神社の社僧の伝説
升谷で或る人から昔白山神社の社僧で白山神社の衰微したのを建て直そうと苦心して富籤まで行ったが、余り成功せず、遂に自分は旅に出て、遠くの人々から喜捨を集めて来るつもりだが、若し帰って来なかったらこの出た日を命日として祭って欲しいと村人に言い置いて出たまま帰らなかった坊さんがあったと聞いた。その後その坊さんの碑は現在大師堂の前にあると聞いた。今その碑を見ると、表面に伝燈大阿闍梨弘観澄隆を真中に左右た分けて享保九年八月十五日、西河内建之と刻ってある。此の碑と西河内との関係を探って見れば、何か史実が出て来るのではないかと思われる、誰か史実を探り出して下さればとお願して置く。
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升谷の行者講に就いて
帰農して農業程自然の条件によって、左右される事が多いものはないと云うことを知らされた。少し日照りが続くと、田はひびわれ、稲は枯れる。思わぬ台風に襲われれば稲の実りは悪い。百姓とは常に祈らないではおられない仕事に従事する者だと知った。昭和二十八年八月三十一日、所用があって上升谷橋を通りかかった。折しも橋の上流に、川の中に松を立て、七五三縄を張り、其の前に河原石を積んで祭壇を設けて、線香を供え、長老と思わるる人が何ごとかを口ずさんで合掌し、礼拝し、その後方に、皆パソツ一つの裸形で河中に座って居る姿を見た。その人数は十四、五人だったろう。中にはこちらを眺めて居るのを指して、皆不思議に思って見ているだろうと大声を出して笑って居る人もいた。本当にこちらは何事かとびっくりした。後で村人に尋ねたら、八月三十一日に由良川で水垢離をして身体を浄めた後白山神社に参詣して、二百十日の厄日を無事に過ぎるように祈願するのだと云うことだった。今見たのは水垢離の行だった。そしてこれを行う人々は行者講の仲間であった。行者講とはその名の通り役の小角創始の山嶽信仰を等崇する人々の集りである。
この行事が終った後、講の当番の家であらかじめ準備された粥をいただくのだとも聞いた。この行事も古くは心からの祈願であったのだろうか、科学の進歩した今日はこれを形式化してしまい、此の司祭者が此の世を去られたら、後は多分行う者もなくなるだろう。祈らないでは生きて行かれない人間の弱さを、行事として集団で行うことは美しいと思うが、時の流れに逆らうことは出来ないで消えて行くのは止むを得ないだろう。ついでに喜雨を恵まれた時、升谷の人々が、河原で美しい小石を拾って、白山神社に供えて感謝すると云うこともこの目で見たが、こんなことも自然に行うことがなくなるだろう。「立ち寄れば茶碗に一極喜雨の酒」この旬は前年升谷の水番をした時のものだ。水番とは云いながら、稲作りの仕事に、その一端を荷なった為めなのか、此の時の酒の甘さは忘れることは出来ない。

木材運搬と升谷
北桑田の木材運搬は明治二十年(一八八七)以前は殆んど大堰川の流筏によっていたが、其の頃山陰街道が改修され、次いで舞鶴街道が須知より分れて和知を経由するようになって、木材及板を筏に組んで升谷に下ろし、ここから牛車で陸路で京都へ運び出されたので、今の上升谷橋附近は宿屋などもあって、その街道筋に家も多く建っていたと聞いた。その頃北桑田の木材者組合が、上由良川開墾工事を明治二十七年八月二十七月に工事を始めて十一月七日開通式を宮島村役場で行ったと北桑田郡誌にある。こうして知井から和知迄舟筏路が通じ多大の利便を得たが、その後水害により水路は殆んど全滅した有様となった。一方阪鶴鉄道の開通舞鶴福知山地方が発展して来たのでこの方面の需要が急増して来たので、更に綾部まで改修工事を延長しようと企が起った。本川筋は府費支弁に属したので府に請願して、府で改修工事並に延長工事がなされ筏で福知山まで送られるようになって升谷の陸揚も漸く減って来たのであるが、又山陰線の鉄路開通によって再び升谷の陸揚げが多くなって、鉄路で京都福知山方面へ送られるようになった。尚この頃は由良川棚野川筏は升谷の関門で課税されたと云うから、比の頃の升谷橋附近の賑いは想像することが出来る。昭和二十年頃には時々筏を見ることがあった「筏師の足のあぶなし猫柄」の駄句は此の頃の自分の駄句である。話は升谷と関係の薄いことであるかも知れないがこれより先文政十三年(一八一三)に丹後由良の港から、大野村(現美山町)まで船道を造り曳き船を通わせて物資を運んだことがあった。それは江戸から役人が来て由良川通船閉堀の台命を受けて普請奉行川村与左ヱ門がその下役人塩沢源八郎、武川庄三郎等が工事を始めたのが文政十三年五月であった。此の工事に岩磐を割って取り去るのに岩上に種油を流し火をつけて割ったと云う。その後の土木工事作業の技術の進歩のはやいのに驚く。なおこの塩沢源八郎永像は歌をよくして立木村久右ヱ門宅に長く滞在して由良川八景を残している。
   継橋の夕照
 夕日影渡る姿やかきつばたなか紫の袖の継橋
   井坪の秋月
 我もまた井坪立木に捨てられて幾夜も見たし比の液の月
   立岩の秋雨
 夜時雨に木々の錦は散り果ててつれなくここに立岩の松
   山家の晩鐘
 相傘の時雨も嬉し山寺の乳までぬるし入相の鐘
   綾部の青嵐
 さくらさく嵐や狼に綾かけて荷舟も花の綾部にぞよる
   白米の暮雪
 丹汲富士いつも木の花咲くや姫おも白妙の雪の夕碁
   角田落雁
 墨色の黒瀬と見乏し濡れ文をおのがすみかと落すかりがね





升谷の小字一覧


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
『和知町誌』各巻
その他たくさん



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