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丹波の

水原(みわら)
京都府船井郡京丹波町水原


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京都府船井郡京丹波町水原

京都府船井郡瑞穂町水原

京都府船井郡




水原の概要




土師川と井尻川の合流点一帯で、鎌谷の入口、明俊小学校(跡地に体育館)がある。国道9号が東西に通り、交通の要所で山陰街道沿いに古く市がたったことを示す市場の地名がある。この周辺地域の中心的村落。
中世の水原荘。戦国期に見える荘園名。「経尋記」大永元年7月13日条、同16日条に薬師寺領「内藤分国(丹波)水原庄」に久我通言の違乱があり、同寺別当経尋は丹波守護代内藤貞正に久我家との折衝を依頼している。この水原荘とは当地のことかも。他に所見なく未詳。また平安期には下水原荘が見えるが、同荘との関係も未詳であるという。
水原村は、江戸期~明治22年の村。幕府領代官松平氏支配。「旧高旧領」では篠山藩領。
万延元年11月上大久保村に発した一揆では当村呉服商菊屋が打毀されている。地内の上里に郷蔵が設置され「ごぐら坂」の地名を残す。明治4年篠山県を経て京都府に所属。同6年当村に近隣12か村組合の小学校を創建,明俊校と称した。同22年梅田村の大字となる。
水原は、明治22年~現在の大字名。はじめ梅田村、昭和26年瑞穂村、同30年からは瑞穂町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。


《水原の人口・世帯数》 230・94


《水原の主な社寺など》

梅田春日神社・猿田彦神社



水原の西端、国道9号沿った山麓にある。国道からも大きな石の鳥居がのぞめる。祭神は武甕槌神・経津主神・天児屋根神・昆売大神。旧郷社。
創建年代などは不明であるが、文永年中託宣があって、大和国三笠山より勧請したと伝え、のち村内にあった梅田神社を移転合祀したので梅田春日神社と称するようになったという。境内面積は4656坪という広大さで、本殿は流造で上屋がある。
境内社四社の一社猿田彦神社は正中三年の創建と伝える。古くは帝釈天とも称し、現在は水原の庚申さんとして近隣に知られる。
正面の本殿が梅田春日神社、右手は境内社で一番奥が猿田彦神社↓。


近頃の「インスタ映え」しそうな社で、祇園庚申堂の「くくり猿」というのか、手製の物のようだが、たくさん奉納されている。5匹で「いいご縁」となるのだが、当社はそれよりずっと多いよう。
人の体の中に「三尸(さんし)の虫」という虫がいて、60日に一度くる庚申(こうしん・かのえさる)の日の夜、人が寝ている間に体から抜け出して天帝にその人の罪過を告げに行く。すると、天帝はその罪状に応じて、その人の寿命を縮めるという。
それならば、寝なければいいではないか、ということで、庚申の夜は人々が集まって、飲食や談笑しながら寝ずに夜を明かした、これを「庚申待ち」という。
「庚申」の「申」は猿なので、猿が庚申の使いと考えられ、猿が三尸の虫が密告に行かないように守ってくれるとか、庚申の本尊は青面金剛が多いが、「申(猿)」から猿田彦ともいわれるし、帝釋天ともいわれる。
雷除けの神様、雨乞いの神様というのも興味引かれる属性で、ヘビとか龍とか鍜冶屋と関係があるのではと思われる。

『梅田村史』
梅田春日神社   字水原小字安田に鎮座
 祭神 武甕槌神、経津主命、天児屋根神、毘売大神
 この神社の創立年代は詳らかでないが、国花万葉記に「亀山院文永年中託宣の事ありて、大和国三笠山より此所に勧請す云々」と記されていると云われ、その出緒書によると、初めは単に春日神社と号していたが、いつの頃からか村内(水原)字下里に祭祀してあった梅田神社を移転合祀して梅田春日神社と称号する様になったとの事である。その神社の跡地と思われる附近に、森谷、鳥居などの地名が残っている。
 本殿は流造りで、彫刻の極めて立派な建築で、近郷には珍らしい。文久三年三月再建したものである。
○摂社と末社
◇猿田彦神社    祭神 猿田彦大神
 この神社の由緒書によると「猿田彦神社は、正中三丙寅歳建立で承応二年修補し、文政年間上屋再建したらしい」とある。
 この社は昔時梵天帝釈天と称え、六十一年毎(庚申歳)に開帳を行う。その当時、京都三宝院の配下であった高原村字蕨の大福興寺が出張開帳をして来たのであるが、維新の際に神仏混合の制を解かれることになって、猿田彦神社と改称するに至ったという。また「明治九壬辰晩春吉日 同社由来記」には「抑々水原村帝釈天の出来を委しく尋ね奉るに、往昔和洲奈良の春日院内に准えて、氏神に春日大明神を勧請し奉り、其の頃神宮、社家数多くありて、其の傍に梵天帝釈若宮八幡宮を勧請し奉り、北方の深山幽谷には薬師如来を安置ありしを、いつの頃か里に移して、今時堂宇顕然たり。(長楽寺薬師堂ではない)其の外村の中に御霊の森ありて人民脇の下の痛みに信心を篭めて祈願すれば忽ち平癒ありしとかや、亦南方にあたりて地蔵堂あり、東方寅に当りて観音堂あり昔より今に至りて混里俗の申伝うる所皆其の古跡なり。星霜移りて凡そ四百余年を歴たり。
 其の昔水原の郷名、当村を宮とし、上水原、中水原、下水原と号して神社仏閣も一緒なりしを其の後年立ち事変りていつとなく別れ別れになり侍りぬ。就中今水原の帝釈と称して遠近の隔りなく世挙りて歩みを運び霊験あらだなる事昔も今もかわらぬは天下泰平御代長久のしるしなりと云々」と記されている。
 この神社は昔から雷除けの神として、又雨乞に霊験のある神として近郷の信仰も厚く、氏子の家には往時から雷が落ちないと伝えられている。そのほか毎年四月の庚申さん(かのえさるの日)には太々神楽の式典があり、神巫の舞があるので、多くの参詣人で賑う。
◇八幡神社
厄神んとして参詣人も多いので、昭和十年頃から二月の十九日に厄除の祈祷をするようになった。
◇稲荷神社
五穀を司る神として、毎年初午の日には、小豆飯、油あげを供える。
◇大山祗神社
山の神として、十月亥の日に「山の口講」を閧いて、山の平穏を祈る。



『水原区誌』
梅田春日神社
鎮座地 船井郡瑞穂町字水原小字宮ノ下四四番地の三
御祭神 武甕槌神、経津主神、天児屋根神、毘売神
 創建については、国花万葉記に「亀山院文永年中託宣の事ありて大和国三笠山より此所に勧請す云々」とあり、後年村内の梅田神社を移転合祀し、梅田春日神社と称号するようになった。梅田神社は森谷入口左手の山の中腹にあったといわれ、また、上大久保の地名「トリイ」は昔梅田神社の鳥居があったのでその名がついたといわれる。
 戦前の旧社格は郷社であり、梅田地区内の代表神社であった。
 現在の参道は国道九号からつながっているが、創建当初は北垣内からつながる参道が本道であったと思われる。境内を含め神社有地面積は一五、三六五平方メートルとなっている。
 本殿は流造りで、彫刻の極めて立派な建築で、近郷には珍しい。文久三年三月に再建したものとされている。
祭礼
 歳旦祭 一月一日
     毎年一月一日の朝、氏子が参集殿に集合し水原区の新年
互礼会が行われるが、その後、全員が参列し一年間の安泰を祈る。
 祈年祭 二月十七日(又はその日に近い日曜日)
     古くは「としごいのまっり」と読み、「とし」は穀物のことで、とりわけ稲を意味し、稲が豊かにみのることを祈る祭りである。
 早麦祭(さむぎさい)(大祓式と同時開催) 七月初旬(日曜日)
     この祭りでは最初に大祓式を行う。大祓は一年を二期に別け、半年の間に知らず知らずに犯した罪、積もり積もった心身のけがれ、いっさいの災厄を消滅し、清浄な本来の姿をとりもどすための行事である。早麦祭は麦の収穫を祝い稲や畑物の生育を祈願する祭りである。祭典終了後、氏子による境内植林の下草刈作業を行うのが慣わしとなっている。
 例祭 十月十五日(又はその日に近い日曜口)
   ふつう例祭は神社で行われる最も大切な祭りとされ、その多くは秋に行われている。当社を含め、梅田地域では十月十五日に行われていたが、近年では氏子の勤めの関係から、体育の日の前後に行われている。この祭りには、神社本庁から奉祝の意味が込められた幣帛(供物)が奉られる。
 新甞祭 十一月二十三日
    新穀を神々にお供えして収穫を感謝するとともに、諸産業の躍進をもあわせて神々に感謝し、国家・国民の平安と繁栄が祈られる。氏子から新穀などが供えられる。
境内神社
 猿田彦神社
 神社の由緒書によると「猿田彦神社は、正中三丙寅歳建立で承応二年修補し、文政年間上屋再建したらしい」とある。
 この社は昔時梵天帝釈天と称え、六十一年毎(庚申歳)に開帳を行う。その当時、京都三宝院の配下であった高原村字蕨の大福興寺が出張開帳をしてきたのであるが、維新の際に神仏混合の制を解かれることになって、猿田彦神社と改称するに至ったという。また、「明治九壬辰晩春吉日 同社由来記」には「抑々水原村帝釈天の由来を委しく尋ね奉るに、応昔和洲奈良の春日院内に准えて、氏神に春日大明神を勧請し奉り、北方の深山幽谷には薬師如来を安置ありしを、いつの頃からか里に移して、今時堂宇顕然たり。(長楽寺薬師堂ではない)其の外村の中に御霊の森ありて人民脇の下の痛みに信心を篭めて祈願すれば忽ち平癒ありしとかや、亦南方にあたりて地蔵堂あり、東方寅に当りて観音堂あり昔より今に至りて混里俗の申伝うる所皆其の古跡なり。星霜移りて凡そ四百余年を歴たり。其の昔水原の郷名、当村を宮とし、上水原、中水原、下水原と号して神社仏閣も一緒なりしを其の後年立ち事変りていつとなく別れ別れになり待りぬ。就中今水原の帝釈と称して遠近の隔たりなく世挙りて歩みを運び霊験あらたかなる事昔も今もかわらぬは天下泰平御代長久のしるしなりと云々」と記されている。
 この神社は昔から雷除けの神として、又雨乞に霊験のある神として近郷の信仰も厚く、氏子の家には往時から雷が落ちないと伝えられている。
祭礼
 春季大祭 四月三日(又はその日に近い日曜日)
     毎年四月には太々神楽の式典があり、巫女の舞や奉納芸能などがあるので、多くの参詣人で賑う。以前は四月の庚申の日に斎行していたが、近年は四月三日になり、最近は四月三日に近い日曜日となっている。
八幡宮
 厄神さんとして参詣人も多いので、昭和十年頃から二月の十九日に厄除けの祈祷を行うようになり、戦後は一月十九日に厄除祭として斎行している。
稲荷神社
  五穀司る神として、毎年初午の日には、小豆飯や油揚げを供える。
大山祗神社
   山の神として、十月亥の日に「山の口講」を開いて、山の平穏を祈る。
宝物 帝釈天木像 帝釈天由来記
境内建物 昭和四十年七月梅田地区内七神社の共同社務所(春日殿)を新築、また、昭和五十年には帳舎を建替え参集殿とする。
 猿田彦神社の開帳
梅田春日神社が本社であり、したがって水原の氏神さんであるのだが、多くは水原の春日さんと呼ばずに水原の庚申さんと言っている。水原の庚申さんなら、かなり遠方の人でも知っている人が多い。それくらい水原の庚申さんは知れ渡っているのだが、この庚申さんこそ猿田彦神社なのである。
 当社の特色は開帳と太々神楽にあるので、これらについて以下述べてみたい。
開帳とは仏教用語と思われるが帳(とばり)を開くことであり、平常は信者に拝観を許さない秘仏(本尊)をこの時期を限って許されることをいうのである。
 神社においては御神体の拝観は宮司と言えども本庁の許可がいるから、開帳ということはありえないのである。
 この神社の前身である帝釈天時代、開帳ごとに拝観を許していた本尊帝釈天の木像は、明治の神仏分離が行われた際、屋根裏に放置されたものらしく、昭和三十九年社殿修理の祭に発見された。直ちに府教育委員会文化財保護課に持参鑑定を受けたところ、平安末期(八〇〇年前)の作と推定されるということであった。現在は社宝として保管し、開帳には参拝者に拝観してもらっている。
 多くの神社で式年祭という臨時の大祭があるので、この開帳を式年祭として明治以降は開扉祭典という名称で執り行ってきたのである。
 式年祭が斎行されるのは、五年、七年、十年、二十年と各社によってそれぞれ異なるが、当社では庚申の年毎、即ち六十年ごとに本開帳を、本開帳から三十二年後に中開帳とよぶ中間祭典を斎行して今日に及んでいる。
 当社では明治の神仏分離令の出た際、廃仏毀釈の運動にあおられて、古記録等一切を焼却したと聞かされているが、明治以前の文書は皆無といってよい。
 記録に残る開帳は明治二十五年以降であるけれども、この記録に昔から開帳を行ってきたことが記されているし、神社の明細帳にも江戸時代のことが少し書かれている。もし仮に当社創建以来、開帳が行われてきたとしても、昭和五十五年の開帳は本開帳としては第十一回目、中開帳と併せた開帳としては第二二回目ということになる。記録に残っている明治二十五年以降の開帳にふれるまでに太々神楽のことを述べてみたいと思う。
 猿田彦神社の御神徳は前述したが、そのほかに大神は神楽の神として御神徳がある。大神の御名の解釈は二つあって、一つは猿田は狭田のことで田畠、五穀の守り神としての信仰であり、今一つは猿田の猿は猿楽の猿と同じで神楽や狂言等に見られる舞踊や神楽舞をすることを意味する。この神は神楽を奉祀し神の御心を慰め奉ることをその仕事とされたために、この神に猿の名を附し
たというのである。また、神祭、神幸のときその先頭に立って舞踊をしながら導きの役目を務められることもその一つであった。
 このように大神の祭りには神楽を奉納して神慮を安めようとしたものか当社においては祭りの日、即ち第二庚申の日には多紀郡から専業の巫女を招いて神楽の奉納をすることを明治二十二年から始めて、大正、昭和と及んだが昭和十三年からは、氏子で神楽を奉納することにし、加佐郡の元伊勢宮で受講(「猿田彦神社太々神楽の記」参照)、小学校の女生徒が巫女、青年が太鼓を奉納して今日に至っているが、この太々神楽の奉納は近隣ではまったく見られない姿である。
 ついでに近隣では見られないものの今一つに手縫いの奉納猿がある。たくさんの猿を糸につるして社前に奉納してあるので参拝者は誰しも目をみはる。
 日本の三庚申の一つと言われる京都八坂の庚申堂にも金網にたくさんのぬいぐるみが結わいつけられている。庚申はかのえさると読むことから猿と縁が深く「悪因縁をさる」という縁起をかつがれて、奉納した人の悲願を背負って、その身代わりともなってぶら下がっているものと思われる。

明治二十五年の開帳



『水原区誌』
その他の社
御霊神社
 北垣内の町道側に木立があり、そこに社がある。北垣内の軽野株の人々が護持にあたっており、毎年一月の株講の際に祭典を行っている。この社について「ふる里水原と思い出」には次のように記載されている。「やわ(脇の下)の病む人が祈願すると忽ち平癒するので『やわ神さん』と呼び、平癒するとお礼参りに小さな鳥居(鉄製)を作って供える風習がある。」

稲荷神社
 祭神は富吉稲荷大明神である。従前から稲荷講によって護持されてきており、現在の講員は十四戸である。社は以前は市場の国道九号と府道の交差点から北西の山の中腹にあった妙見宮の下に建立されていたが、昭和四年に国道の拡幅工事のため、同山の西方の谷間に移転改築された。更に平成十七年に国道拡幅工事が予定されたり、社殿が老朽化したため、平成十八年一月に的場の区グラウンドの南側に移転予定である。
その他の祠
 八幡さんと地(氏)神さんについて「ふる里水原と思い出」には次のような文が記載されている。
 武士谷の入口から左側の山を少し上ったところに二つの祠があります。どちらが八幡様か地(氏)神さんか分かりませんが、一つの祠には御神体はなく、一方の祠には小さな五輪の塔がお祀りしてあります。この祠の横には少し大きな五輪の塔があり、下の墓地には石で作られた屋根と扉のついた石碑の様なものがあります。周囲には普通の石碑がたっています。この谷は武士谷とかしょうぶ(勝負)谷とかの地名があり、また少し離れたところに城山もありますが、「昔ここで武士が戦いを勝負したところではないか」という事も聞いています。又扉のついた石碑の下を発掘すれば古代の資料が見つかるのではないかと古老から聞いたこともあります。然し何分古いので石に刻まれた文字がうすれて読みとれず、本家が明治時代に他出しているので文献が何も残っていません。



曹洞宗無量山西方寺

西方寺は文正元年開創と伝え、,釣鐘は天明3年胡麻郷在住の鋳物師藤原国清の鋳造で,船井地方三鐘の1つに数えられる。村内に悪疫が流行し日照りも厳しく村民が困窮した時、寺の和尚が雨を祈り、満願の日大雨が降り、悪病も退散した。村人は報恩のために鐘楼を寄進したという。現在の鐘楼は明治19年の再建で,再建時の辞により「雨ごい楼堂」とも称し山門を兼ねている。観音堂は茅葺宝形造りで西国三十三か所霊場の観音像を安置し彼岸に観音講、8月10日に千日会が催されて参詣者を集める。味噌封じの祈祷で知られたが、現在は行われていない。
当寺も洞光寺の末。写真では中央が山門兼鐘楼、右手が観音堂。

『梅田村史』
西方寺
寺号 無量山西方寺        所在 字水原小字ヤケ田
開創 文正元年          開基 勅賜大化如幻禅師相悦道根大和尚
宗派 禅宗曹洞宗 永平寺派    本寺 曹洞宗派 洞光寺(兵庫県多紀郡城東町)
本尊 阿弥陀仏          住職 小川義道 第十六世
仏堂 本堂 庫裡 祖堂 観音堂 山門兼鐘楼  担徒数 七十五戸
本堂の建立年代は不明であるが、現在地に再建される迄二回も火災にあっている。
 年代不詳の寺録にはその模様をつぎのように記している。「仏法開山老山面静大和尚法憧地寺院として始祖となり、その法嗣大然全孝大和尚 中興二世として諸堂宇の整備にっくす」と。
 鐘の鋳造と共に鐘楼もまた建立されたが、現在の鐘楼は明治十九年十一月再建宍れたもので、山門を兼ね瓦葺の優雅なたたずまいである。
 この鐘楼は「雨ごい楼堂」と呼ばれ、つぎのような秘話がある。明治十九年の夏、村内には悪い病気が流行し、また打続く日照りに村人は生きる力も失っていた。この姿を見かねた十二世見童和尚はついに担中総代を連れて丹後国宮津に舟をうかべ、二十一日間、竜王水天に雨を祈った。満願の日に青天俄かにかき曇り、どしや降りの雨となって、旱魃は救われ、悪疫は退散したという。このため村人はこの恩に報いようと財を集め、奉仕してこの楼門を建立した。
 観音堂は茅葺宝形造り(寄棟)で西国三十三ヶ所の観音像が安置してあり、春秋の彼岸には観音講で賑い、八月十日の千日会には子供の踊りもあって参詣者が多い。
 またこの寺には昔から味噌封じの祈祷があった。味噌を小さな壷に詰め、これに病気を封じ込み祈願すれば霊験あらたかとの事で、遠近から祈祷をたのみに来る人が多かったが、宜観和尚の時代迄で、後はいつの間にかなくなった。
 全孝和尚の代天明三年檀家水原村の谷垣羽右衛門重和の母が巨財を投じて鋳造させたという釣鐘は、当時胡麻郷に住んでいたと云う有名な鋳物師 藤原国清の作といわれる。それだけに船井地方三鐘の一つとして戦時の供出をまねがれた。



『水原区誌』
無量山 西方寺
所在地  京都府船井郡瑞穂町字水原小字ヤケ田五番地
本 尊  南無釈迦牟尼佛(南無阿弥陀如来)
宗 派  禅宗の曹洞宗
本 山  大本山永平寺(福井県)・大本山総持寺(横浜市)
開 基  谷垣羽右衛門(谷垣羽代継氏の先祖)
創 建  文正元年(一四六六年)
寺 宝  正法眼蔵肉筆書全巻
     大梵鐘(瑞穂町指定)
     雨乞いの鐘楼
     雨乞い鐘楼龍王水天の図
会津塗り涅槃絵図の衝立
版画(井堂雅夫師作)「永平寺の四季」「総持寺の夏」

西方寺の由来
 年代不詳の寺録であるが「佛法開山老山泰靜大和尚法憧地寺院として始祖となり、その法嗣大然全孝大和尚は二世中興として諸堂の整備を尽くす」とある。その後、十世祥山金峯大和尚の代には、消失した寺の再建に力を尽くしたと推定される。
 十六世の大宮義道大和尚に至っては、昭和三十一年に開山堂・位牌堂を建立、昭和四十九年には本堂の改築再建、昭和五十九年には書院の建立等の伽藍整備に檀信徒と共に尽くしている。また、十七世代には、平成十三年度より西方寺墓地建築委員会を設け、平成十五年八月二十三日には面積約五千平方メートルの西方寺墓地を起工し、平成十0六年五月に開苑となった。
歴住の大和尚



城山
繁谷の城山跡があり、その付近には武士谷・菖蒲谷・陣谷ケ谷などの地名が残る。

『水原区誌』
城山
 丹波の山陰道は平安時代、亀岡から篠山を通り但馬に抜けるルートが主要街道であるが、南北朝期から室町にかけて現在の国道九号に沿う形で軍勢が移動していることが遠山家文書(『亀岡市史』史料編第一巻)などからわかる。残念ながらこれら軍忠状の中には「水原」の地名は未見であるが、その移動範囲をみていると、水原も通過した可能性は否定できない。水原には中世の市があったであろうことを示す「市場」という地名が残っており、今もブシ谷の入り口付近を「市場垣内」と通称している。また、集落の北部、西ノ谷林道と重谷林道の中間の尾根筋は「城山」と称されている。また、ブシ谷・菖蒲谷・陣谷ケ谷などの地名も残る。ただ、中世城郭の研究家である若江茂氏によれば「城山」には明確な遺構はないとのことである。



万延一揆
『水原区誌』
万延口郡騒動(万延元年の一揆)
 万延元年(一八六〇)十一月十三日夜、細野峠(三和町菟原中)に大身村ほか多数の一揆勢が集合、九ツ時(午前○時)上大久保村の酒屋金右衛門宅を打ち壊し、船井郡西部から南部一帯にかけての大騒動となった。一揆勢は上大久保から井脇、粟野、三ノ宮から加用を経て再び大身へ、さらに大久保から水原、桧山から須知、殿田まで広がった。船井郡八田村庄屋卯兵衛の「乱法一条記」によれば、十一月十六口にようやく終結したようである。
 同記によれば「七ばんめ十四日夜五ツ半時頃水原きくや又左衛門」が「乱法」(打ち壊し)されたとある。また、「乱法ニ付テ水原西方寺之住持死す」「古今、無弐之事ニ御座候」と続けている。
 以下、少し長いが「乱法一条記」の水原周辺での動きの記事を取り上げておく。
 (前略)
  十四日夕方之頃、夫よりう原峠大久保筋を水原へ行、市場はづれの堂之前へかま谷下村油屋長左衛門より直下ケ致し、油壱升代四匁与中断書付ヲ出し、其断相立其侭済、夫より水原きくや方へ来ル十四日夜□五ツ時頃家財つぶしあわれ至極之事也

 水原の市場で値下げの約束をした鎌谷下村の油屋は打ち壊しを免れたが、水原の菊屋は乱暴にあっている。
 上大久保の酒屋には今も口郡騒動の際にうけたという刃物傷が柱に残っている。水原にもこの騒動を語り伝える遺物や伝承が残っているのではなかろうか。





《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


水原の主な歴史記録


『水原区誌』
水原のおいたち
水原村のはじまり
水原庄
 水原は船井郡の西部鎌谷から北行する土師川本流と、井尻方面から西行する井尻川が合流する地点を中心に位置している。
 水原は「水原」と書いて「ミワラ」と呼称する。なぜ、「ミズハラ」「ミハラ」ではないのかは定かでない。いつ頃から「ミワラ」と呼んだのかも、カナ書き史料未見のため不明である。後記する「水原」の記録(四七頁)で紹介する史料で、豊岡町の町名主の「参宮道中記」は、伊勢参りで水原を通った時に書き留めたものである。もちろん豊岡の町名主であるので、この近辺の土地勘があったとは思えず、水原以外の集落名を見ても当て字が散見される。土地勘がない者が日記に記していく場合には、その土地の者ないしは当日の宿で村の名前を尋ねて書き留めているはずである。水原は「三原」と書いてあるということは、村の名前を尋ねた時には「ミワラ」または「ミハラ」と聞き取って記したことになる。
 水原の近隣では瑞穂町中台で縄文・弥生の土器片が採集されており、また丹波町冨田や豊田には古墳が残るが、これらはいずれも高屋川流域である。古代の船井郡は「和名抄」によれば刑部・志麻・船井・出鹿・田原・野口・須知・鼓打・木前の九郷からなるが、水原が何郷に属していたかは不明である。
 平安時代、天禄四年(九七三)九月一日の「東寺伝法供家牒」(東寺百合文書『平安遺文』古文書編第二巻、『兵庫県史』史料編古代二所収)には「於船井郡」「新薬師寺下水原庄田」と記されている。「下水原庄」を現在のところ水原と特定することはできないが、そうである可能性が高いと考えてよいのではないかと思われ、そうだとすれば「水原」の名が初めて文献に登場するのがこれにあたる。
 少し時代が下がって室町時代に書かれた、興福寺大乗院門跡経尋の記録「経尋記二薬師寺別当記」(内閣文庫所蔵―写真版京都府総合資料館所蔵)には「水原庄」の記事がみられる。大永元年(一五二一)七月十三日条では、薬師寺領「内藤分国水原荘」に久我通言の違乱があり、経尋は守護代内藤貞正に久我家との折衝を依頼している。十六日条にはこれをうけた貞正の十四日付の返答がある。他にも前後して「水原庄」の文字を散見することができる。ただし、ここでは「水原庄」が水原に特定できないなどの課題もあるので、紹介するにとどめて詳細の検討については後考に譲りたい。


水原の伝説








水原の小字一覧


水原(みずはら)
岩谷(いわだに) 姥ケ谷(うばがたに) 王子ノ宮(おじのみや) 片山(かたやま) 上垣内(かみがいち) 上里(かみさと) 北垣内(きたかいち) 久保(くぼ) サケ石(さけいし) シゲ谷(しげたに) 下里(しもさと) 滝尻(たきのじり) 谷垣内(たにかいち) タハ トチ原(とちはら) 中里(なかさと) 中西(なかにし) 西ノ谷(にしのたに) 西ノ谷口(にしのたにぐち) 六ノ坪(ろくのつぼ) 東谷(ひがしたに) ブシ谷(ぶしたに) フロノ元(ふろのもと) 文谷(ぶんたに) 前垣内(まえかいち) 的場(まとば) 丸山(まるやま) 廻り町(まわりまち) 宮ノ下(みやのした) 森谷(もりたに) ヤケ田(やけだ) 安田(やすだ) 岼ノ下(ゆりのした)

関連情報





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資料編の索引

50音順

市町村別 
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市







【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
その他たくさん



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