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丹波の

大簾(おおみす)
京都府船井郡京丹波町大簾


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京都府船井郡京丹波町大簾

京都府船井郡和知町大簾

京都府船井郡下和知村大簾

大簾の概要




《大簾の概要》
大溝ともいい、広野から大簾川沿いに府道59号線が走る山間の地域。
大簾村は、江戸期~明治22年の村。元和5年から園部藩領。明治4年園部県を経て京都府に所属。同22年下和知村の大字となる。
大簾は、明治22年~現在の大字名。はじめ下和知村、昭和30年からは和知町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。


《大簾の人口・世帯数》 37・20


《大簾の主な社寺など》

熊野皇神社

府道59号線沿いに鎮座。

熊野皇神社(大簾)
『寺社類集』には、
 産神 熊野十二社権現
     勧請年号未考
     本社 六尺四面
     末社 若宮社 三尺ニ一尺
        蛭子社 四尺ニ三尺
とあって、前出の上乙見の熊野神社と同じく、紀伊熊野十三社権現を勧請した社である。一般に熊野皇神社と称している(この社名の由来は不明)。
当社の棟札は、次のようになっていて、天安二年(八五八)の範座を伝えているが、この棟札の用材は後世の材である。
(オモテ)
天御中主尊 文徳天皇御時 太政大臣従一位藤原朝臣良房吾?官斎宮正三位中納言道主豊明朝臣奉守護所云ト
  天照皇大神
  伊奘諾尊 速玉之男神
奉斎敬 熊野皇太神宮   卿鎮座
  伊奘冊尊 事解之男神
  月弓尊
  瓊々杵尊   天安二年九月十一日祭日
(ウラ)
  丹波国舟井部大溝村
天安二年九月吉日 丹波国舟井郡和知庄大溝村仁  禊伊玉伊
御鎮座須掛毛ヒ? 熊野皇大神宮末社       清女天給
諸神乃広前仁恐美恐美毛申賜伎久上申佐久
抑当社乃神主氏子等合力一心志日本天上平
姶与五穀能成万民豊楽仁夜乃守田乃護仁守護幸賜陪止恐美恐美毛申賜波登申寿

また、もう一枚の棟札には、「安永二年(一七七三)一月三日、再造営」と記され、現在の社殿はこのときの造営と推定される。社殿は見世棚造り、柿葺きである。
当社は、昔から安産の神として崇められ、社殿の鈴の緒には、安産の御礼の晒布が結び付けられ、妊婦は五カ月目の戌の日にこれを一部頂いて着帯し、無事出産のときは新しい布を供える習慣となっている。  (『和知町誌』)
10月10日が例祭日なのかノボリが立てられていた。由緒などは明らかでないが、社伝によると千百年祭を終え、仏主の長老ケ岳の寺院とともに、あるいはそれ以上に古い信仰地であろうと考えられているそう。

大簾の熊野神社に詣でて
草尾峠から引返して大樫の在る三叉路から大簾の熊野神社へ参詣しようと左へ道をとった。道路は拡張工事が終ったばかりと見立て切りとった両側の山も赤土の傷あとを見せ路面も赤土や岩のかけた角々しいので歩きにくかった。それでも間もなく大簾の家の在る地点に出ることが出来た。凡そ村の中央の左手に大きな石の鳥居が立っていた。深い谷の水音を越えて大きな家が並んでいて、地勢も和知町のうちでもこんな谷間に広濶な感じのするところがあったのかと驚いた。この鳥居こそ、比の里を守って千年以上も鎮護して来た熊野皇神宮のものだった。鳥居をくぐり社殿に向って柏手を打つこと三度、振り返れば今くぐつた石の鳥居の裏側に昭和三十三年十二月千百年祭記念の文字、その記念事業改築造営の寄進者名の連記の木札も社殿にかかっている。社殿には愛敬のある狛犬が笑うように歩いている。普通の狛犬は座っていると云うより他に言えないが、此の狛犬はどうしても歩いているとしか言えない。それ程その彫りも太い丸のみで荒くその動的の姿勢、全く動いている。歩いている。民芸的で愛すべき逸品である。聞くところに依ると専門家も千年近い遠い昔のものと云う。なお社殿の梁に一つの金の燈籠が太い綱で乱暴につってある。これもその道の人の鑑定によって千有余年前のものだそうだ。今は腐蝕して赤錆で覆われて居るか、素人目にも、その年代を経たものと思われる。比の神は昔から安産の神として広く崇められ、他村から参詣者も多いと聞く、社殿の鈴の緒には何本となく数え切れぬ程の満願御礼の腹帯が結びつけてあり中に真新しいのも沢山ある。実にお目出度い限りである。今後又千年の後継者は続々と生れているのだと思うのだった。フト本殿の横右側を見れば、真紅に塗られて目が覚めるような小さい祠が眼にうつる。宝前には瀬戸物の狐が二匹対座している。お稲荷さんと直ぐ知れた。本殿につるされた金の燈籠の古さとの対比、千年余の隔りをチョッピリ見たような気がした。この神社に保存されている檜板幅三十糎、長さ一メートルに次のように記されているのを村人の好意によって見せて貰った。
 天安二年(八五八)九月吉日丹波国大溝に御鎮座(中略)熊野皇太神宮御鎮座文徳天皇御時太政大臣従一位藤原朝臣良戻(中確)天安二年九月十一日
天安二年の昔既に比の里に比の神社が建立されたことを示し、なお此の板に祭神として天御中主命、天照皇大神を始め八柱の神の名が記されている。他に一枚の板かあり安永二年一月三日(一七七三)に再造営したことが記されている。或は現在の社殿はこの時のものだろうと思った。前記の板に村名が大溝となっているが、その時間違えて書くこともなかろうから大簾はその昔は確かに大溝と云ったに違いない。すると大簾と改められたのはいつ頃なのだろうか。これも世の移り変りであり、又それが歴史と云うものかと思った。想像をたくましくすれば古の此の地方一面湖水であったと云うのもあながち嘘のようにも思えずその時代此の地は湖の入り江で溝のような地帯ではなかったろうかと思い、永遠の過去を夢見たのであった。
(『和知町石の声風の声』)




《交通》
大簾峠

熊野皇神社のチョイ先、三叉路になっている。右ヘ行けば福知山市三和町の大原神社に出る。この道は行けそう。
左に行けば、大簾峠、あるいは七谷峠を越えて瑞穂町へ出るが、車はムリのよう。宝永5年何鹿郡上林藤懸領佃・忠・武吉の3ヵ村代表が江戸表へ強訴の途中当村に立ち寄り民家で旅仕度を整え大簾峠を越えたと伝わる。京街道の間道であった。


《産業》
和知栗

当地は特産和知栗の主産地だそう。
道ブチに立派なクリが実っている。舞鶴あたりのクリと違ってこのあたりのは実が大きい。とったらあきませんぞ。熊と間違われてテッポで撃たれますぞ。
栗の歴史
栗の歴史などと大けさに云う程のことでもないが、すべての物、時の流れに乗って各々に移り変りかあり、歴史があると思う。時にはこんな事を考えて見てもよいではあるまいか、小谷全一郎著「日本及日本人の起原」の中に蝦夷語ヤムトエが、日本の古い名の大和の語源であると云う。ヤムは蝦夷語の栗の意で、トエは多くあるの意であるから、栗の多く産した土地と云うところから、ヤムトエからヤマトと転化したと云うのである。尚栗は蝦夷人が最も好んで喰べた食品であったと書いてある。すると栗は有史以前から食べ統けて来た食品で今も吾々も喰べており今後も此の世のあらん限りは喰べ続けられて行くであろう。栗は人と共に長い歴史を持ち続けて行くことであろう。砂糖以前の薬子と云えほ、其の字そのまま栗榧栃等、吾等の祖先は賞味と云うより食糧の一つとして欠くことの出来なかったのではあるまいか。今でも歳徳神の供物には必ず栗がある。古来丹波の栗は有名であった。古事記に美都栗、万葉集に三ッ粟、和名抄にサヽグリ、毛吹革に父打栗、本草啓蒙に三度栗と出ておる。三度栗は、弘法大師の御恩徳として四国八十八ヶ所に今もその名を残し、親鸞上人の御遺跡として越後の七不思議の中の一つとしても残る。ところは中蒲原郡安田村で
 一歳に三度みのりを通はせて
    こゝろ安田に残す焼栗
とて一年のうちに三度実るから三度栗と云う。鹿の爪又は女郎栗は古い和知の原産と伝う。延宝九年の東日記に言水選に
  いが栗の仕方話や月の幅    勝 信
この仕方話とは手まわしながら話す軽口話としてこれ以前に世に流布されていたのだろう。
丹波の国人、栗の大きなる物語りして、此の位ありと、左右の手にて仕形して見するに、傍の人笑いて「いかに其程大きなる栗あらん」となぢりければ「実は此の位なり」と広げたる手を少し寄す「イヤまだ小さかるべし」と再び言われ、彼の人又せばめんとして考え「これより寄するといがで手をつく」と、
この和知の人となって「豊年柿にけかち栗」という諺を知った。勿論これは柿が豊年の時は栗は不作と云う意であると人に教えられた。
昔の人が自然を見つめた姿をなつかしく思う。尚大迫の向山のあちこちに現存する径三尺以上もある栗の大木を見て驚きもした。その後山口捨吉著「昔語り」で明治初年頃の向山の栗が如何に多かったか、その有様を知ることが出来た。その文を借りると「秋の栗拾いは期間が短いだけに精励した。先づ朝早く、其の頃は時計がないから、一番鶏で起きて身拵えの後向山へ落ちついてもまだ暗い位い、早くから我れ一と馳けつけた。場所は向山全体に栗の木があって、何処へ行っても差支えなく、すきな場所へ陣をとり、背に麻の一斗入りの袋を負い、腰に横付イドコを提げ左手に鎌を持ち拾うので、上手の人になると、午前二斗位、大抵は一斗拾うのが一人前で弁当持ちである。其の期間中は子供だけ残して、家中留守にして出かるので、村には子供と老人ばかり、足腰の立つ者は一人もおらず淋しかった。家族の多い家では一日に一石も拾うのは楽なもので、大抵四、五斗は拾った。其の栗を持って帰ると、栗買人が待っていて、毎日の相場で売るのであった。一升四、五銭位であった。其の栗を蒸して干したり煎ったりして、一年中の子供のナンドに勝栗として使い。又生栗を麦の代りに使い栗飯をどこの家でも常用した。一升の栗の皮をむいて五厘の駄賃を貰った(中略)栗の枯枝は炭に焼いて消炭として鍛冶屋へ売った。その後植林法が出来て栗の木は伐採された」とある。明治初年頃の栗の多かった有様は今では想像することも出来ない。その頃の栗は柴栗であったのだろう。今はまた農業協同組合では栗の増産に力を入れその育成に奨励金まで出している。勿論その栗は大栗である。歴史は繰り返すとよく云われるが、斯くして栗も人と共に進歩して行くのだろう。和知の菓子司、七福堂さんの提灯持ちをするのではないが、和知の名菓「鹿の爪」の由来も栗の歴史には書き落すことは出来まい。「明治二十二年全国栗作りの名人が丹波に会し、四百余程の栗の内より最高級品種として女郎栗を選出した(中略)女郎栗は其の昔より土地の百姓に栗の最高級品と伝えられ、土地の人は美しいものは女郎の如くとしていたので、其のまま女郎栗として選出されたのであるが、丹波栗の最高級品たる名前に女郎とは、其の栗の品位がうたがわれるとして、ここに女郎栗は始めて鹿の爪と始めて改名されたり云々」鹿の爪とはその時出来た名前か往古よりあった名前か疑問だが、兎に角面白い名前だ。栗の形全く鹿の爪によく似ている。七福堂の七福の字から急に、頭の働きが次の狂句めいたものを書かしめた。これは栗より自分の一生一時の歴史とでも言わんかお笑い草までに書き加える。
 大黒神 大男の鎚に面ける宝珠こそ栗によく似て目出度かりける
 恵比須神 いが割れ中より栗の恵比須顔その笑いこそ我も学ばめ
 布袋神 つぎはぎのほていの袋栗のいが破れゝばこそき実が出る
 毘沙門神 甘き実の熟るヽ守る栗のいが国を守るは毘沙門の鎚
 弁天神 弁天の奏ずる琵琶の音を虫の音と聞くころうるゝ栗の甘さよ
 寿老人神 寿郎人神長き頭は栗々のいかなく毛なく無病息災
 福禄寿神 福禄の寿を授くる有雉き糧が解一栗もその一つ
なお此の地は南北朝時代北朝に関係深かった為め神社の棟などは北朝の年号を使用しているのであるが、北朝と云えば足利尊氏を思い出す。尊氏も丹波の栗を歌にしている。
  都をは出てゝ遠近くりの名もあらは
      やがてめでとう勝栗となれ
勝てば官軍放ければ賊軍、尊氏比の栗に勝ち栗となれと祈ったが遂に敗れて賊軍として名を残したのもいとあわれである。
(『和知町石の声風の声』)



《姓氏・人物》


大簾の主な歴史記録



大簾の伝説






大簾の小字一覧


大簾(おおみす)
カヤノ ナカシマ 上郷(かみごう) ミヤノワキ ミヤノ向(みやのむかい) ベツトウ オカノモト イワバナ モリノモト カワラ キドノモト 下ナカオ(しもなかお) 上ナカオ(かみなかお) 笹谷(ささだに) 西(にし) カガミ石(かがみいし) コナル 中島(なかじま)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
『和知町誌』各巻
その他たくさん



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