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丹波の

大迫(おおさこ)
京都府船井郡京丹波町大迫


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京都府船井郡京丹波町大迫

京都府船井郡和知町大迫

京都府船井郡上和知村大迫




大迫の概要




《大迫の概要》

大野ダムの方ヘ行く府道12号(綾部宮島線)と仏主の方ヘ行く府道51号(舞鶴和知線)の分岐点、三叉路を上和知川を渡って大野ダム側へ入った所の一帯。由良川本流に上和知川が合流する地点の上流側になる。由良川および上和知川の河岸段丘上に耕地や集落が立地する。明治初期からの人形浄瑠璃が伝わるところである。
中世には和智荘の荘域で、天正年間には九条家領「和智村」のうちとして「大さこ村」「大左近村」と見えて九条家に年貢を進納している。
大迫村は、江戸期~明治22年の村。元和5年から園部藩領。
寛政7年上和知川の上流下乙見村の地内から堰水路の開削を願い出て、享和元年藩の許可を得て翌2年新田を開発した用水が後世の大迫井根である。明治4年園部県を経て京都府に所属。同22年上和知村の大字となる。
大迫は、明治22年~現在の大字名。はじめ上和知村、昭和30年からは和知町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。


《大迫の人口・世帯数》 35・72


《大迫の主な社寺など》

八幡宮

『和知町誌』
八幡神社(大迫)
『寺社類集』には
一谷 若宮八幡社  三尺四間
      建立 未考
   右境内二十間四方
とのみ簡単に記されている。祭神は応神天皇。創立年代は不祥である。

山神社

曹洞宗天足山祥雲寺


向かって左に「天足堂」がある。ボケ封じのお寺として知られている。
どうかボケませぬよう、とか書かれた絵馬がたくさん納められている。:
『和知町誌』
天足山祥雲寺(曹洞宗) 字大迫小字上ノ山三六
伝承によれば、元亀・天正(一五七〇~九一)のころより堂宇はあったという。『寺社類集』には、元禄八年(一六九五)、龍沢寺五世鉄船寿門を招じて勧請開山とし、覚峰素宗が二世となり法地を起立している。本尊は如意輪観世音。寺有の記録によると、それ以前に、周防(山口県)徳山の名刹龍文寺を再建し一五世中興開山となった天足香禅が、二度目の諸国行脚の末、承応三年(一六五四)この地を訪れ、龍沢寺と交渉し、祥雲寺を閑居寺と定めた。里人を化導し、特に頭の病に苦しむ人々を神通力で癒し、丹波全域より多くの人々が集まり、その徳望に帰依した。寛文九年(一六六九)八月、在寺一六年、歳七六で、村人に「寂後と雖も人々に困苦の事あらば救ひ与ふべし」と遺言し、括伽趺坐して絶息したという。境内の天足堂に祀っている(現在の堂の祭壇の下には「正徳二年(一七一二)八月廿五日村中寄進」の記銘のある卵塔がある)。その堂の前のヒノキの双樹は、天足香禅が生前に植えたものである。

このお堂で浄瑠璃を演じた写真が伝統芸能常設館に展示してあった。いつのものかは不明だが、意外にもこれら人形のカシラのほとんどは舞鶴から買い求めたものという、瀬崎の物と思われる。



和知人形浄瑠璃

大迫に伝承されている人形浄瑠璃は、幕末からこの地で行われていたが一時衰微。昭和7年有志が郷土芸能として復活を図り、特に同22年頃から本格的練習にかかり今日に至っているという。
案内書に、

和知人形浄瑠璃
「人形」と「三味」「語り」の三業が一体となって、聴衆を魅了します
和知人形浄瑠璃は、江戸時代末期に大迫村(現:京丹波町大迫)の村人の楽しみとして、農閑期に有志が集まり粗末なものながら人形回しを楽しんだのが起源と言われています。
その後、大正時代には大阪文楽で修行した方が参画し、昭和に入ってからは大阪文楽の指導を受けました。昭和12年には舞鶴から人形の頭を購入し、更に昭和29年には現在使用している人形の頭の大部分を舞鶴から買い求めました。その当時に購入した頭の中には名匠天狗屋久吉作(天狗久)のものもありました。芸能の充実と共に次第に名が知られ、各地での出演も増え、「和知文楽」と呼ばれるようになりました。人形を操るのが一人遣いというところが特徴で、三味線、義太夫は他と同様であります。昭和60年には、京都府無形民俗文化財に指定され、名称も「和知文楽」から「和知人形浄瑠璃」となりました。

『和知町誌』
浄瑠璃
浄瑠璃愛好の気風も、村芝居とその根を一にする。これは村芝居が村中の特定の芸能集団、浄瑠璃は奥和知に特に行われる。ともに郷土色豊かな遊芸の形と言える。奥和知と俗に呼ばれる旧上和知の村域に特にその傾向が強かった。このあたりは冬季の積雪期間も長く、交通も不便という生活の条件も手伝って、長い冬の夜すさびの形で、いつのころからか浄瑠璃が広まったものらしい。浄瑠璃の発展期はほぼ一八世紀初期以降で、上方に勃興・発展したものが丹波地方にも波及したと思われる。
 (注)近松門左衛門・竹田出雲・竹本義太夫などといった人たちが歌舞伎や浄瑠璃の作者として盛んに活躍したのが、大体一六〇〇年代の後半から一七〇〇年代の前半(元禄末期から享保を経て宝磨年間)にはぽ集中している。それらの京・大坂の上方文化が、徐々に丹波あたりへも浸透してきた点がまず考えられる。既述の『日本九峰修行日記』の著者野田泉光院が、丹波福知山在の長安寺(現福知山市奥野辺)で宿を取ったところ、あいにく雨降りとなり近所の若者たちが集まってきて、「浄瑠璃本の素読を予に習わる、所々文句の知れざる所あり講釈を聞かる、在方と云ふものは面白きこと多し、昼飯馳走あり」と日記に書きとどめている。文化十一年(一八一四)秋のことである。いわゆる町民文化がこんな形で村々へ浸透しつつあった一つの例証と言えよう。
それに加えて、ほかの所(医事の項)でも触れるように、一八〇〇年代の初め(文化年間)あたりからは全国的に交通事情も急速に好転し、都市と田舎の往来が頻繁になっていくにつれて、実業や仕事の面だけでなく遊芸や文学の世界でもその伝播を早めてきたことが大きく影響していよう。「俳諧」の項でも取り上げたように、このころになると京都辺の俳諧宗匠と和知の俳人ともつながりが生まれている点にその傾向がうかがえる。参考までに、そのころから紙の生産量が飛躍的に増えてきたことも庶民文化の広がりに照応するようである。
紙は従来、宮廷や上流階級に主として用いられたが、江戸時代にはわずかながらそれ以下でも使用され出したと思われる。町内史料の上で見ても、京都や藩の役人への礼物や付け届けの品物にはいつも「杉原(紙)何々」と記録されていることでも、その間の事情の見当がつく。ところが、元文元年(一七三六)の資料によると、大坂市場での紙の取引量(金額換算して)が代銀六八五四貫とり、米の代銀八六三七貫や木材の代銀六九五五貫とほぼ肩を並べるまでになった(阪本太郎著『日本史』)。従来上・中流階級の専有物であった「紙の文化」が大衆化していく時代に向かい始めたのである。

現在、「和知人形浄瑠璃」として伝承されている民俗芸能も、正確な記録を欠くが、ほぼこのころから芸能集団としての形成を取り始めたと言い伝えられる。従来旧家に伝蔵されていた浄瑠璃本が、敗戦後多く転用・散逸され、残存するものは管見ながら現在、野間長八家(升谷)に残る稽古本は書き本(木版印刷でなく毛筆書のもの)で「神霊矢口の渡し」「宗五郎の子別れ」の二冊がある。同じく升谷の野間幸雄家の五冊の浄瑠璃本の芸題は次の通りである。
 〇菅原伝授手習鑑(手習児屋の段)
 〇絵本大功記(尼ケ崎の段)
 〇鎌倉三代記(三浦別れの段)
 〇日吉丸稚児桜(三段目)
 〇花曇佐倉曙(宗五郎子別れ)
この稽古本は大正十三(一九二四)~一五年、および昭和二年(一九二七)の書き込みがある。
以上のほか、和知人形浄瑠璃に現在も上演される演目は、次のようなものである。
 〇艶姿女舞衣(三勝半七酒屋の段)
 〇生写朝顔咄(宿屋の段)
 〇御所桜堀川夜討(弁慶上使の段)
 〇奥州安達ケ原(袖萩祭文の段)
 〇義経千本桜(寿司屋の段)
 〇傾城阿波ノ鳴門(巡礼内の段)
 〇壷坂霊験記(沢市内の段・山の段)
 〇伽羅先代穐(政岡忠義の段)
以上わずかな資料ながら、限られた地域において浄瑠璃が稽古され、上演されたことをうかがうことができる。

和知人形浄瑠璃
その伝承・経過
現在、「和知人形浄瑠璃」と呼ばれ、昭和六十年(一九八五)五月に京都府指定無形文化財となったこの民俗芸能は、それ以前は「和知文楽」と長い間呼ばれてきた。さらに明治・大正までさかのぼると「大迫人形」と称した時代もあった。そしてこの呼称の変化はそのまま芸能それ自体の今日までの発展の経過を示している。
元来、江戸時代の農山漁村は娯楽に乏しく、特に積雪地帯では農閑期には無聊に苦しむことが多かった。和知もそうした地域の一つであった。そうした中で和知の地に人形浄瑠璃がどのようにして根を下ろしたか、確かなことはあまり知られていない。伝承によると、江戸時代の末ごろ大迫村では農閑期には有志が集まり、粗末なものながら人形回しを楽しむ風習があった。きわめて素朴な作りであるが、当時使ったとされる人形の首も五個が保存されており、往時をしのばせる。
丹波・丹後の各地で見られる民間芸能の勃興同様、大迫の人々の手すさびがこの芸能の発生を促したのであろう。その時期は明確でないが、文化・文政期の年紀のある浄瑠璃本の伝存などから考えて、一九世紀初頭にはかなり一般化していたと考えられる。
初期のこうした人形浄瑠璃が同好の域を脱して芸団が構成されたのは明治初期と伝えられるが、本格的な活動に入った時期は日露戦争の終わったころからで、大正に入ってさらに活発化する。大阪文楽で修業したこともある堀伊織(三味線。船井郡日吉町佐々江出身で結婚して大迫に在住。昭和十二年没)が活動に参加するようになったのもこの時期である。
明治二十年(一八八七)前後には京都府下だけでも各地にあった人形浄瑠璃は二七座を数えたと言われるが、それらの多くが衰退をたどる中で、所々の人形の首なども譲り受け大迫人形は次第に発展した。
昭和に入って、さらに芸域の向上を図るため大阪文楽から吉田辰五郎・桐竹亀三らを招いて指導を受け(十一年)、十二年には舞鶴から多数のかしらも買い求めた。こうして次第に整備された首は現在六十余個、その中には名匠天狗屋久吾作の首も三〇個に達する。芸能の充実とともに次第にその名を知られるようになり、各地への出演も増え「和知文楽」と呼ばれるようになった。この時期、大田房吉・大田久吉・堀幸治郎らがその中心であった。
そして戦後に入るとさらに飛躍的な発展期を迎える。社会が娯楽文化隆盛の時期を迎えたことと、安積治郎(綾部市在住、品川製材㈱和知営業所長を長く務めた)が昭和二十七年からその活動に加わったことなどがその大きな理由である。安積は昭和二十九年から浄瑠璃指導のため「響声会」を組織して後継者育成に取り組む一方、積極的に公演にも参加した。当時の町外公演の足跡は府下一円は言うまでもなく、遠く但馬(兵庫県)・播磨(兵庫県)・若狭(福井県)にまで及ぶ盛況で、出演回数も昭和三十年代に早くも四〇〇回を超えた。堀仲雄・大田石之助・榎川数之助・陸田京村らが人形の中心であった(安積は民俗芸能振興の業績が認められ昭和五十九年度京都府文化功労賞を受彰した)。また、昭和三十七年には町長堀格太郎の主唱によって「和知民芸保存会」が結成され、人形浄瑠璃・和知太鼓・文七踊りの振興推進の体制が整えられた。
和知文楽は昭和五十四年に和知町指定文化財に、六十年には京都府指定無形民俗文化財となったのを機会に、名称も「和知人形浄瑠璃」と改め、初代会長に西村敏夫(元町教育長。日本顕彰会および文化財保蓄基金表彰)が就任、二代目は藤井儀平、現在は大田喜好(三代)が会長を務める。

和知人形浄瑠璃の特徴
最も大きな特徴は、基本的な人形操作を一人(一曲のうちのある部分は二~三人で操る場合もあるが)で行うという点である。人形の首も淡路型と呼ばれる種類で大ぶりのため、人形を操るのには相当の体力を必要とする。また、一人遣いのため、芸に制約が生じることもある。
上演に当たって、「義太夫」「三味線」「人形」の三業一体の形で進められるのは他の人形の場合と同様である。
現在、上演のできる演目は次のようなものである。
・絵本太功記 (尼ケ崎の段)
・艶姿女舞衣 (三勝半七酒屋の段)
・傾城阿波ノ鳴門 (順礼歌の段)
・伽羅先代萩   (御殿場の段)
・生写朝顔咄   (宿屋の段)
・壷坂霊験記   (内の段・山の段)
・菅原伝授手習鑑 (寺小屋の段)
▽鎌倉三代記   (三浦別れの段)
▽御所桜堀川夜討 (弁慶上使の段)
▽新版歌祭文   (野崎村の段)
 (注) ▽印は近来あまり上演していないもの
なお、新作として安積三響作「長老越節義之誉」があるが上演時間が長く、あまり公演されていない。
 (付記)
(1)研修場兼町内公演向けとして、民俗芸能伝承施設「大倉文化センター」(大倉)が昭和六十年に完成した。
(2)第三回および第四回、第五回(平成五、六、七年秋)全国人形サミットが淡路で催され、和知人形浄瑠璃も出演し好評を博した。
和知人形浄瑠璃は伝統芸能常設館(道の駅「和」の隣)で、だいたい毎月1回公演されているという。

《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


大迫の主な歴史記録


『和知町石の声風の声』
和知文楽
文化とか芸術とか論じられるものは主として都会近くのそれに就いてのみに限られて居るようだ、ところがここ丹波の山奥の草深い和知の町に、古典芸術の粋とも云われる文楽人形を、せわしい野良仕事の片手間に、徳川時代から今に至るまで二百年父子相伝で守り育てて来た名誉を忘れてはならない。その起源については今のところ知るところ全く不明であるが、古老の語り伝えるところによれば、文化時代に始まり、その後衰微し、慶応二年に一度復活したが明治の初年に再び衰えた。昭和七年に大迫の有志が相寄り、何とか郷土芸術を復興しようと、古い人形を持ち出して見様見似ねで踊らし始め、昭和十二年に舞鶴市から現在使用している人形一式を購入、従来の人形も修理して加えたもので本格的に練習にかかり、二十二年大阪の文楽座から文五郎氏の弟子吉田玉徳相升亀三を招いて正式の指導を受け、その復古の波に乗って活気付き、今では府下はもとより福井県下からも招かれて急造の舞台で素朴な熱演に、地方の人々の喝釆を浴びて農民芸術の気を吐いている。人形は国宝級と云われる阿波の「天狗久」の作品であるとか、現在のメンバーは義太夫は堀幸次郎太田房吉、人形使いは太田石之功、榎川数之助、福井留吉、堀仲雄、陸田京村、太田宇一郎氏等である。得意外題は「先代萩」「佐倉宗五郎」「日吉丸三段目」「寺小屋」「三勝半七」「阿波の鳴門」「朝顔日記」等中々数も多い。この他同志諸君の自慢話を聞くと方々へ行くと浄瑠璃の好きな者が義太夫を演じ人形を廻して呉れと依頼に一度もやった事のないものも即座に引受けると云う。大胆不敵な度胸も持っていると云う。尚面白いことを聞いた。も早や故人になった人だが、同好者の中には、百姓のこととて肥料として人糞を担ひながら、野菜に人糞を撒いていたが人形使いのことを思い出して、その型をば、肥杓でやりだしたから、たまらない。振り上げた肥杓の中の人糞、遠慮会釈もなく本人の頭にかぶってしまった。文字通りの黄金仏とはなりにけり、としやれる訳にもならなかったと今でも笑話に残っている。今、後継者の養成にも力を入れて居られるようだが、今後共この尊い地方芸術の存続発展を願うものである。

『由良川子ども風土記』
和知文楽      和知町・和知中 文楽研究部
今年、私たち「和知中学文楽研究部」は文化祭で「伽羅先代萩」に取りくみました。私たちが人形をつかって上演をしたわけです。
中学校で文楽研究部があるのは、めずらしい事だと思いますので、なぜなのかを紹介したいと思います。
クラブのできたきっかけは、町の文化祭で文楽をみたのがきっかけでやりたくなってはじめました。
和知町には古くから和知太鼓、文七踊りなどとともに文楽が伝えられてきました。和知町は、今では山陰線や国道が走り便利になりましたが、その昔江戸時代のころは、都から遠く離れた草深い山里でした。由良川のつくった河岸段丘にへばりつくように、人々は山林や養蚕や、稲つくりにはげんでいました。これといって娯楽の少ないその時代、長い冬の雪の中で、ささやかな楽しみとしてあちこちの部落で三味線にあわせて浄瑠璃を語りあったのが今に伝わる文楽だそうです。
現在では、貴重な町の伝統芸能として「和知町民芸保存会」の人の手でうけつがれています。
文楽は、人形を三味線と浄瑠璃という語りにあわせてつかうもめで、ずい分古い歴史をもっています。いろいろ研究部で調べてみたので紹介しましょう。
浄瑠璃というのは、今から四八〇年も昔、源平の戦のあとに牛若丸と浄瑠璃姫の恋愛物語をえがいた浄瑠璃姫物語を琵琶を用いて演奏したのがはじまりで、常盤津、清元、新内、河東節などもこうした流れをくんで発達したものだそうです。
これに人形をくみあわせた、人形浄瑠璃は豊臣秀吉の慶長のころにはじまり、江戸時代に入って一六八四~五年に竹本義太夫が集大成して今日に伝えられています。
和知文楽のカシラは五〇個余りありますが、そのうちの三〇個ほどは、名工といわれた天狗久の作品だそうです。カシラは、眼やロやまゆなどが動くように作ってありますが、女のカシラは眼だけが動くのがほとんどです。また胴も女には足がありませんが男には足がつけてあります。文楽の人形は頭、胴、手足など別々のものを一つにあわせて、自然な動作になるようにつかう、むずかしいものです。
私たちは、文楽研究部に入ると、和知町民芸保存会の方々に人形の持ちかた、人形の振舞いかたなどを教えてもらいました。そして人形のしまいかた、頭のしまいかたまでこまかく注意されました。私たちのクラブでは去年に「太功記」今年に「伽羅先代萩」をやりましたが、太功記では人形が重たくて、五分ももっていると、手がしびれてくるはどでした。
でも今年のは人形も小さくて軽くあつかいやすかったです。練習は毎週土曜日のクラブの時間にやっています。私たちは、将来和知文楽のにない手になれたらなあと思っています。



大迫の伝説など


『和知町石の声風の声』
夜泣き止め稲荷
大迫の人家の密集地の山手の中腹に太田善三さんの屋敷神らしい、お稲荷さんが祭ってある。比のお稲荷さんは、子供の夜泣きを止めて下さる御利益かあり、近年まで多くの人が参詣したとのことだ。迷信だなどと軽口を言う人は今の科学の進歩した時代のことだけしか知らない人の言うことで、祖先の恩など少しも考えない軽薄の人のことである。今の人でも死生の間に立てば、神にお百度を踏む人も多いのである。子を思う親の心の温かさを、此の稲荷参りにも見出さなければならないと思う。

宮講と堂叩き
これも人に聞いたままである。大迫には宮講と云うものがあり、何時の頃から始まったかはわからない。順番た当番が廻り其の年の当番の家では、大迫中の人々を招待して大酒宴を開くことが例になっていた。昭和二十九年から生活改善の第一に取り上げられて節約を目的として当番が一斗の酒を買って肴は各自か持ち寄って村の公会堂でその酒を頂く事に故められた。それ以前は大変な御馳走を当番が負担したのである。尚その昔は家のせまい場合は臨時の張り出し櫞まで作り出して乱痴気騒ぎをしたと云う。堂叩きはその前祭であった。即ち毎年一月十二日に宮講の当番の主催で行ない、其の年の豊年を予祝すると共に厄神を払う趣旨で行なわれたのである。其の日は新しく整えられた、タガ桶一荷に泊酒を作り、村の阿弥陀堂で村人に振舞われたと云う。そしてそこで寺僧の読経があり、米の粉のオシロイ餅に田の泥土を混ぜたものを、レンゲでお堂の柱に叩きつけて、十二カ月に型どり各月の天候を占ったと云う。今ではどんな形が吉か凶かさえ知る人はいない。占いの行事が終ってから一同棒を持って堂を叩きながら廻り、厄神を追い払ったので堂叩きと云う。尚話は続く。和知川を隔てた篠原でも、観音堂で同様の行事があったので、両村は、競って厄神を自村に入れないよう、堂叩きははげしくなって大騒ぎであったと云う。終って仏時に供えてあった、長さ二尺五寸位のユゾラの木を二本宛貰って帰り家に祭り、苗代を作る時に斉の紙をつけて、山の神の祭りの時の福柴と共に、苗代の水口に立てて苗のよく出来るように祈ったと云う。想うに百姓仕事である稲作りのために行なう一年中の行事は、始終比の宮講の当番が主催したのであろう。或は昔の宮座の名残りではあるまいか。春、堂叩きに始まり、秋の収穫を祝う祭りまで祝う当番は、神主の役をしたものであろう。.

久右ヱ門婆の鉄砲
昔大迫村と黒田村(現市場)と茶畑の争奪戦があったのだそうだ。其の日黒田村の方では関東の牢人を語らいその牢人を先頭の大将として村界長佐川辺に押し寄せて来た。その日大迫村では、伊勢講参りで男手かなく、これに勝ち目のないのは明白であった。比の時大迫の太田久右ヱ門なる者の妻女が家伝来の鉄砲を引下げて、長佐川の岸辺に飛び出して、其処にあった楡の木に筒先を持たせかけて、敵の大将たる関東牢人を狙う。牢人も去る者、又婦人とあなどってか、からから笑って、胸を開いてここを打てと云って待った。よし打つぞと引金を引いた。放った一発狙いあやまたず、見事胸板を貫き、関東牢人一言も発することなく息が絶えたので、黒田村の打ち寄せ勢は茶畑を奪う勇気も失せて逃げ帰ったと云う。尚又別の日に大迫村と篠原村とが、平野と云う山くぢに、広瀬と云うところで戦い大迫村の方一人が殺されてしまった。其の時も久右ヱ門の妻女が鉄砲を持ち出して、西の下と云うところで篠原村の一人を打ち殺して五分五分の勝負をしたと云う記録が現在大迫の太田家に保存されている。比のような記録があると云うことでさえ忘れられ又それをそんな事と一笑に附してしまうような結構な世の中になっていることをよく考えねばならない。尚此の他古い記録の中には村と村との争事が多くあるのを見る。古い記録と言っても極近年のものの中に沢山あるのである。それは大迫村と黒田村とのように人の殺し会いの記録は珍らしいことではあるが、とにかく久右ヱ門婆の武勇伝は今は面白く見られる世となっている。今や世界一国説まで飛び出す世となっている。近い過去に於ては極小地域での争いのあったことは事実のようだ。それが大きな和知町となって平和の村となって各自が暮して居るのだ。此の現代に於て一国と一国の争い即ち戦うのも、昔を振り返って見ると一村と一村の争いと同じように思われる。此の村と村との争いが無くなり、国と国との争いとなり、今や国と国との争いが無くなって世界一国となると云うのも結構なことであるとつくづく思う。併し、村々が全く失くなってはいないと同じように一国はそのまま存在しての世界統一でなければならない。征服しての世界一国であってはならない。それではいつまでたっても世界平和は来ないと断言出来ると思う。理想は遠いが各自それに向って進まねばならない。久右ヱ門婆の武勇伝を紹介するつもりが、遂に筆がすべり過ぎてしまったようだ。

大迫のおくぬぎさん
特種な形をしたり、又その名によったりして樹木を神木とか、霊木とか云って祭り、伐採することを忌む風がある。ここ大迫にもおくぬぎさんと云って恐れられていたと云う大きなくぬぎが、村の中央の高台の突端に立っている。古老の話では、天田郡の大原神社の神が、今の美山町の樫原へ出向かれる時に、休息された場所が、このくぬぎの立っているところであると、現在のくぬぎは植えつかれたもので、その昔くぬぎが枯れた時その年は悪疫が流行したそうだ。今もこの場所へ鍬を入れることは恐れられ、古い神々の御札の納め場所となっている。今のおくぬぎさんは直径三十糎位はあろうか。春来れば芽吹き夏来れば茂って流行病もなく村の平和を守るように立っている。又聞く、大晦日の晩より松の内に、炉で焚く木はくぬぎ以外を使用しないと、苦抜きに通じるからだと、此の理を以ってすれば、苦抜き大迫と祝わねばなるまい。).

木樵橋の歩く地蔵尊
大迫より大野川を渡り升谷へ通ずるための一本の橋がありこれを木樵橋と云う。この橋へ下る坂の途中に径一メートル程のくぬぎ一本あり其の根方に三十糎程の石の地蔵さんが祭られている。名なしの地蔵さんである。此の地蔵さん子供が好きなのか、子供の持て遊ぶに任せながら、少しもおこらず、子供が転がせば転がすに任せ、坂から落せば、落すに任せてござった。ところが、いつの間にか又元の場所に戻って居られると云うのだ。子供達が川へ泳ぎに行く時などは川までかつぎ込んで水中に沈めても、帰りにはチヤンと元のところに戻って居られたと伝える。その後大迫の或るお婆さんが、勿体ないことをすると云って、よだれ掛をかけて上げてから、子供が地蔵さんにいたずらをしなくなってお地蔵さんも歩かなくなったと云う。).

大迫井根に就いて思う
親の恩は返せても水の恩は返せぬと古い言葉にあるが、人間一生涯の中、真に水の有難さを自覚する時は何度あるだろう。日常の食べ物が水を離れては絶対に調理が出来ないことを思えば、常に感謝しなければならないことながら、これに気の付いている人は稀である。夏の早天続きで、苦労して植付けた稲が枯れようとして居る時でさえ、水の恩を思わず、返ってお日様を恨み、やがて降雨でも有れば、早天の慈雨だなどと漸く水の恩を思う。それが三日も続くと、又雨かと云う、人間はどこまで我か儘に生れて居るのだろう。それにつけても現在の用水路の構築などに努力した我々の先祖の恩に対して同じことが言われるように思う。我々は先祖のこれ等に費した労力に対し、常に感謝の念を持たなければと探く思う。大迫の井根の歴史を調べてその感を深くしたのであった。大迫の堀雄一郎氏所蔵の「井根溝諸用記」と表記した古文書、及区所蔵の古文書に依ると、最初代官に井根構築の願書を出したのは寛政七年(一七九五)でその年は、許可なく、続いて再三願出した結果、下乙見と話し合えとのことで、川勝平兵衛に依頼して交渉したところらちがあかず、又願を出して白土村の大槻勘七、川勝平兵衛を世話人として公式の交渉をして貰ったところ、下乙見村より毎年溝下料として玄米捨石を出せと言われ、それでは余りに負担が大きくて困るので、実地見分願出し、此度は大槻勘七、下横田村の石川治郎ヱ門が世話人となり、交渉を重ねた結果、溝下料壱石と定り、其の旨を附記して願を出し、銀札参貫匁を藩から借り受け。壱貫匁を村役人が手配し銀札四貫匁で築造させて欲しいとの願い出たのが享和元年(一八〇こ十二月漸く許可が出たのである。最初願を出してから六年の歳月が流れている。そして享和二年の正月十六日に起工し、その年の四月未に完成している。此の永い間辛抱強く熱心にこの事に当った村の役人方の苦心は、並大低のことではなかったろう。又僅か四ケ月間に、しかも冬の寒風すさみ時には雪も降ったであろう、その中で、或いは土を梱り、或は石を割り、或いはこれを運んだ人々苦労も大変であったろう。尚この時の借入れ金の返済には十二年の辛苦が必要であった。返済方法は開通の年は壱畝につき玄米一升二年目は二升、三年目よりは参升宛納めて十二年目に完済したと記してある。これは年貢を納めた上のことであるから、その間の村人の骨折りは、大変だったと思う。併しこれ等故人の労苦は昭和十四年の大旱魃にも大迫は苦労をしたのであるが、池かかりの田は無収獲だったのに平年より稍上廻った収獲があった程にその結果をもたらしているのである。故人もさぞ満足して居られると思う。なお大迫太田伝内氏宅にこの時の、園部の殿様始め工事に関係した人々の名前を書きその恩を忘れないようにとした一軸があり左記の如き一文が添えてあるのを見せて貰ったが、現代の人にも読んで考えていただき度いと思う。原文は漢文だがこれを棒書きにした。
 夫れ一生水々と言ひ下を潤す 水無げれば物生ぜず 水の徳大なるかな、我が大迫村昔より水に乏しく 若し雨降らざること二旬に及べは井水も亦渇す 旱に苦しむのは殊に甚しきは是に依る 君侯為めに租を免ずること歳々にして恩賜を拝すること久し、隣境乙見村に一水流あり、享和壬戌の歳 之を府に告げ之を堰き之を引く 衆之が為めに力を尽し 溝溢れて既に巧なる 吾が全村 よりて潅漑の益を得て更に旱魃の景なし 爾来毎歳の秋その利を収むること少からず 是に於て君侯及有司と嘗て事に与る者数人の姓名を禄して歳時之を祭り 皆之を仰ぐこと神の如し 尚後世に遺して永くその恩徳を忘れず 国の事を記して云爾
この井根に関して大迫所蔵の文書の中で次の如き面白い受取状を見た、それは、神に上る御神酒料の打ち切りの受取書なのだ。即ち大迫井根は下乙見の山の神の祭ってあるところから上乙見から流れ出る川水を分水して居るから、大迫から多分井根開通の年から毎年氏の山の神様へ御神酒を供えて居ったものを嘉永二年(一八四九)にそれを止めたのだろう。
その証書の文面を見よう
  書付覚書之事
 一金 拾匁也
 右者御神酒料上げ切能為成下候而慥ニ請取申候実証ニ御座候 尤も講毎年両度此利息銀札を以て添御神酒ニ仕御講相勤め可申候右之通請取書依而如件
  嘉永二年酉四  日
          下乙見村農神講
            惣 代  弥  助(印)
            同 断  佐太ヱ門(印)
   大迫村庄屋太市殿
御神酒料の上げ切りとは一寸例を見ない事でその受領書で面白いと思ったのである。





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
『和知町誌』各巻
その他たくさん



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