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丹波の

坂原(さかはら)
京都府船井郡京丹波町坂原


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京都府船井郡京丹波町坂原

京都府船井郡和知町坂原

京都府船井郡下和知村坂原



坂原の概要




《坂原の概要》
このあたりも山が由良川にせまるところでだいたいは河岸段丘のかなりの斜面である、その北側は広大な山林のよう、対岸の「道の駅和」のある所一帯も坂原である。

坂原村は、江戸期~明治22年の村。元和5年から園部藩領。明治4年園部県を経て京都府に所属。同22年下和知村の大字となる。
坂原は、明治22年~現在の大字名。はじめ下和知村、昭和30年からは和知町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。
大正6年6月兵庫県須磨動物園のヒョウが脱檻逃亡、7月3日下和知村内の山中に出没した後、同月13日地内小字粟ノ谷で住民が射殺するという事件があったという。粟ノ谷は北部の山中だから、ヒョウ君はどこかで由良川を渡っていたのだろうか。


《坂原の人口・世帯数》 146・59


《坂原の主な社寺など》

阿上三所神社

由良川ぶちを走る旧国道27号から急な石段が作られていて、走りながらのぞくと、高い所にあるのか姿は見えない。車が留められそうなスペースもない、どこからどう行けばいいのかわかりにくいが車でも当社のすぐ脇まで行ける。道案内は何とも書きがたい、狭い急なところも多い道で、鎮守の森のしげみめざして進めばウンよければたどりつける。

阿上三所神社(坂原)
造営の沿革
先にも触れたが、新補地頭として関東より入部した片山氏によって、本庄阿上社より分祀されたと言われる。当社は元、阿上三所大明神と称した。当社の沿革を物語る史料としては、文化三年(一八〇六)改めの陳札の写しが、片山庫治家(中) や野間建明家(京都市伏見区在住)に伝蔵され(『史料集』(三))、また、明治四十四年(一九一一)坂原区作成の「社寺調査帳」にもさらに詳細に述べられている。以下「社寺調査帳」によって造営の沿革を述べる。
一枚目の棟札を示すと、次のようになっている。
 一、観応年中 阿上三所大明神奉二造立一
  丹波国船井郡和知下ノ庄 右志趣者願主片山三郎左衛門高親并ニ族等
  面々郷(御)助成、次庄(家脱カ)殿原至テ百姓等一紙半紙之結線如此、依而所願城(成)就現
  世安穏後世善所放也
 右ハ表書如レ此 是より裏書
 裏ニ
  観応元年庚寅八月十九日時正
  大願主   平ノ高親 敬白
    大工 治郎太夫 藤原宗盛
片山高親は南北朝時代、足利尊氏に属し、たびたびの合戦に参加して、武功を立てた片山氏の祖であるが、彼が願主となって一族統合のしるしとして、観応三年(一三五〇)に造立している。同名の神社が既に本庄にあったところからみて、この造立は本庄阿上社の分祀とみるのが適切であろう。観応の造立以降、社殿の造営と再建が行われていたことが、表97に挙げる棟札の一覧によってうかがうことができる。
観応①の造営以後、永徳②・応永③の二期の比較的短期間の棟札が存在することは、社殿の修復・増築がなされたものであろうか。造営の内容は不明である。文亀④の棟札は屋根の葺き替えの際のものであろう。慶長⑤の場合は内容が不明である。慶安二年(一六四九)⑥の修復は、かなり大がかりのものであったようである。「社寺調査帳」には「中興応永暦中建立たりと雖も、今や御上屋大破に及ぶにより、坂原、安栖里、中村三ケ村集寄ニテ并ニ下四ケ村奉加に加わり造営畢ヌ」と述べられており、さらに、稲次村・出野村・広瀬村・大簾村・角村・広瀬村・才原村氏子中より神社上屋造営に、貫木や材木の寄進があったことが記されている。天保六年(一八三五)⑧には、「御内陣廻リ破損、上屋根新ニ再建」とあるように、神殿の内陣や上屋根の修復、再建が行われている。前出『京都の社寺建築』には、同社本殿の「装飾細部は古い意匠と新しいものが混在して見られる。古めかしいのは、身舎の木鼻や虹梁の絵様で、一七世紀末頃(元禄前後)の形式を持つ。向拝の手狭は形としては桃山期の気分もあるが、旧殿に倣ったものだろうか。新しいのは海老虹梁や向拝中央間の虹梁絵様」であるとしながら、「全体としてはやはり江戸時代末期の建立らしい」と述べて、建築の上では新旧の形式の混在を示唆している。本庄阿上社のように、火災による再建と異なっている点ではなかろうか。しかし、「全体として江戸時代末期の建立」としているのは、棟札写の「天保六年三月十九日…再建」というのと一致している。
以上、棟札写より考察すると、中世は地頭片山氏の独占的な要素が強かったが、近世になると村人全体の地域的信仰に変わっていった様相がここでもうかがわれる。
  表97 坂原阿上三所神社検札写一覧



天狗飛び
当社の祭礼には、田楽の片鱗と思われる芸能が行われている。その内容は、前出の『京都の民俗芸能』や『京都の田楽調査報告書』に詳しく報告されている。
次に『京都の民俗芸能』を引用する。
     阿上三所神社の天狗飛び
              船井郡和知町坂原
弓取り式などでにぎわうこの神社の祭に、天狗飛びなる一風変わったものが行われる。本祭は十月十日であるが、天狗飛びは九日のヨミヤの行事で、安栖里の片山株だけしかこれに携われない。(中略)
この夜、宮ではまず「オミキドオン」がある。御神酒どおしは 「どこそこの誰さん、ヒルマ」というふうにお旅の諸役を定め盃ごとをする行事であるが、それが終ると天狗面をつけた木鉾が神前に祀られて天狗飛びが始まる。羽織・袴の鉾持一人、特殊な羽織を着た天狗役一人がこれに当る。この役を中心に諸役が神楽殿の前に二列に立つと、神主の手から鉾持に鉾が渡され、天狗役ははづされた面をつける。ほどなく中央に出た両者が向い合い、天狗がはじめに東、ついで西・南・北の順に鉾に向ってピョンピョンと飛び、最後に鉾を手に採って終る。このあと全員が寄り集って腰をおとし「皮太鼓もち」の先導で、ホーと声をはり上げ拍手しながら立ち上がる。やはりこれも東から順に四方に向いて行われる。これを「オドリ」という。
『京都の田楽報告書』では、「祭礼の役を片山株が独占していることがここで注意される」として、祭を担う」片山株は片山姓のうちでも直系を名乗る『ヨイ株』のみで組織され、本家である株親を中心に、正統の四家が絶大な力を持つ、他はこれら四家の承認をうけた『ユシ株』であるとされる。(中略)阿上三所神社に対しては、この株の先祖が創祀したといい、特別な役割をになっている」と述べて、現代にも残る祭礼の独占の形態を伝えている(既述)。
(『和知町誌』)

社格  名称  祭神  創建年月  社格公認年月  所在地

村社 阿上三所神社 国常立尊 伊奘諾尊 伊奘冊尊 観応元年 明治六年六月 大字坂原
無格 諏訪神社      正保三年(再建) 明治六年六月 大字坂原
無格 秋葉神社      明治十年       - 大字坂原
無格 稲荷神社      安永年中       - 大字坂原
無格 須川稲荷神社            明治六年六月 大字坂原
無格 猿田彦神社              - 大字坂原
阿上三所神社は旧和知庄に三ヶ所あり、本村大字本庄、大字坂原、上和知村大字下粟野に在るもの是れなり。三所神社の名之に基づく。大字本庄に在るもの創建最古く、徳治三年以前に在り、坂原に在るは観應元年、下粟野に在るは永徳三年の創建に係る、蓋し本庄の祭神を分祀したるものなり。(『船井郡誌』)


鎮守の森は古木の森。ここには↑欅と藤の古木
祭神は国常立尊・伊奘諾尊・伊奘册尊。旧村社。江戸時代には「阿上大明神」と称したという。
創立は、承久の乱後武蔵国片山郷から来住した新補地頭片山氏の後裔三郎左衛門尉平高親が、武運長久を祈願して観応元年(1350)隣村の本庄村に鎮座する阿上神社より分祀したと伝えている。以後弘和3年(1383)片山親忠により、さらに応永7年(1400)には片山重光によって、修復や改築が行われている。現在の社殿は天保6年(1835)に建て替えたもの。
坂原・中・安栖里の3集落を氏子とし、祭礼は10月10日ころが本祭であるが、かつては大祭は9月9日で、重陽の節供の祭であったと思われるそう。
祭礼では片山株が特別な役割を果す。片山株は片山姓のうちでも直系を称する「ヨイ株」のみで組織され、本家である親株を中心に正統の4家が大きな力をもち、ほかは4家の承認を受けた「ユルシ株」である。株親の屋敷の裏にある椎の根元に株神の天神の祠があり、現在は7月25日(かつては1月25日・6月25日の両日)に株講の集りをするのだそう。
本祭に先立つヨミヤ(宵宮)には天狗飛びの所作、オドリと称する所作などが奉納され、本祭には字中の御旅所までの神輿渡御に先立ち、御旅所で弓取式(馬ノリ)とよばれる弓射の行事などが奉納されるが、天狗飛びは片山株4家に限り、馬ノリもかつては片山以外は出られなかったという。この天狗飛びは簡略化されているが、平安時代から中世前期にかけての神事芸能である王の舞であろうといわれ、またオドリは昔は花笠をかぶり皮太鼓・笛を伴ったと伝え、田楽と考えられる。祭礼における格式と役割の関係は厳しく、中世の芸能が特定一族の奉仕からなり、一族中でも本家や直系の家筋が諸役としてこれを負担し、それによって家格を確かめるという祭祀構造がうかがわれるものという。
当社の創祭者片山高親が、源昌寺に寄進したと伝える大般若経が現存するが(安栖里大小田家管理)、最近の調査によって平安時代のものと考えられている。
境内にかって西光山源昌寺と呼ぶ真言宗の宮寺があったが火災で焼失したという。

坂原の阿上三所神社の祭事
祭神は、速玉男命、伊奘冊命、事解命の三神と、国常立命、伊奘諾命、伊奘冊命との二通りになっている。創立は観応元年(一三五〇)となっている。それ以前西光山、源昌寺の境内に祭祀されていたものらしく、この寺の火災にかかった時古き記録は失われたものらしいと云い伝えられている。現在の建物は天保六年三月(一八三三)に建立したものらしいと聞く。ここに参考の為め原田銀之丞さんの調査された棟札の年月日を年代順に記して置く。
 一、観応元年八月十九日(一三五〇)
 二、永徳二年八月四日 (一三八二)
 三、応永七年五月十三日(一四〇〇)
 四、文亀二年     (一五〇七)
 五、慶安二年三月   (一五四九)
右の年号を見ると北朝の年号を使用して居ることに注意しなければならない。これについては祭事を述ぶる時にゆずる。比の宮の祭りは十月十日(之は十五日)で中村の馬場までの神輿御に先立って乗馬の青年一人が九つの的板を射駆ける流鏑馬風の「馬乗り」と称する神事とオドリコと称する宵宮及本祭に神輿の前で片山株の行う天狗舞の所作が呼び物となっていた。
天狗舞は天狗が戟をとろうとする所作を舞がかりて演ずるので、天狗の面をかける家筋は安栖里の片山株の中でも現浅之助他四軒にこ定まっていたと云う。なお馬乗りは安栖里でも片山でなければなれなかったと云うが、今は、坂原、安栖里、中交代で、青年の中から区長と青年団長とが会議して定めると云う。本人は一生一度の晴儀であると云う。右のように片山株が昔は重んぜられた理由は他ではなく、片山氏は新補地頭の家柄で、前述の観広元年の棟札にある願主片山三郎左衛門高親こそこの片山家の先祖であると云う由緒がある為めである。そして此の人は建武中興の時に武功を立てた人でもあるが後年足利尊氏に就いて北朝方となったのである。それか為め棟札の年号も皆北朝の年号を使用したと云うことになるのである。なお片山浅之助さん宅に所蔵せられる所謂「片山文書」として史料編纂所に於ても既に百三十余通が複本として入架されている。その他三百余通の古文書がある。(南北朝時代の片山氏の項参照)
なお藤山幸次郎さんのお話によると阪鶴道路工事の際比の宮附近で石棺らしいものが出て土器も沢山出た由、此の宮附近には古い文化の跡が秘められて居るのではないかと思う。
(『和知町石の声風の声』)


《交通》


《産業》
道の駅「和」(なごみ)

和知第二大橋の袂。案内書に、
道の駅「和」
国道27号沿い。由良川を見下ろす爽やかなロケーション。特産品の販売のほか、レストランも併設。山野草の直売もあります。毎年6月第3日曜日から9月末まで、あゆガーデンであゆのバーベキューが楽しめます。

わち山野草の森
森の中を和知川が流れる総面積12万㎡の自然をそのまま生かした公園。山野草や果樹、ハーブなど合わせて約900種の植物を楽しむことができます。1年を通して多彩なイベントがあり、木の枝や皮で昆虫を作る森のクラフトや苔玉づくりなど体験できます。



《姓氏・人物》
片山高親
南北朝時代の和知郷士片山氏
延元元年(南朝建武二年)(一三三六)頃和知地頭片山彦三郎高親は北朝に属し足利尊氏の執事丹波守護仁木頼章の部下として各地に転戦、同年六月足利尊氏九州より大挙京都に入った時は延暦寺山門の攻撃に参加し、延元二年三月越前金ヶ崎城に新田義貞を破った戦にも参加している。延元二年五月二十三日には栗林の河原合戦、七月二十三日には土師原合戦(天田郡)九月二十日より十月九日迄は山家の和久城攻撃、翌延元三年には荒賀城、雀部城、細見城等奥丹波の各地の攻撃には何れも参加して何れも殊勲を建てている。更に北朝貞和四年(一八四八)(此の年楠正行四条畷に戦死)には一族を始め地侍を率いて和知を出発、紀州へ遠征して石垣城や天満崎城、戸矢峯城等を陥入れて日高郡までも進出している。実に南船北馬して席暖まるいとまなく活躍しているが、北朝に属して働いた為め正史にはその名が出ていないのが残念なことである。その他坂原の阿上三所の建立などに力を尽している。延文元年(一三五六)田辺城、竹田城等奥丹後の各城の攻撃に出動している。康暦元年(一三七九)頃は地頭片山帯刀丞で和泉国の八木郷を併領している。その後南北朝統一された後小松天皇の頃は地頭職片山彦左ヱ門重親となり八播宮へ燈油田や修理田など多くの田畑を寄進している。  (『和知町石の声風の声』)

坂原の主な歴史記録


坂原阿上三所神社の芸能
 名称  オドリ・天狗飛び
 所在地 船井郡和知町坂原
 時 期 一○月九日阿上三所神社祭


和知は由良川をはさんで、両側に山がせまる川沿いの細長い町である。川はまがりくねっているが、谷はさほどけわしくなく、川の両側には、わずかな平地があり、山もなだらかな丘のような部分がしばらくあり、民家はこのゆるやかな山すそに点在する。山陰線の和知駅と安栖里駅のちょうど中間あたりの国道沿いに阿上三所神社(字坂原小字森ノワキ)がある。ここの祭礼に田楽の片鱗と思われる芸能がおこなわれている。
祭礼日は、本祭が一○月一○日で前日のヨヤミ、つまり九日の夜に天狗飛びがおこなわれる。以前は九月八日がヨヤミ、九月九日が大祭であったといい、もとは旧暦の重陽の節句の祭であったらしい。現在のヨミヤは九日の夜に神社に集まり、まず境内の庁ノ屋で「オミキドオシ」がおこなわれる。これは御神酒通しの意味で、翌日の祭礼の役ぎめをおこない、「どこそこの誰さん、ヒルマ」というふうに指名があったのち、かための盃ごとをする。ついで天狗飛びとなる。
天狗飛びは片山株のきまったものだけがこれを奉仕する。場所は本殿と神楽殿の間にうつり、神前には天狗面をくくりつげた木鉾がまつられる。天狗飛びの役割は天狗一人と鉾持が一人、ほかにその年の両役にえらばれなかった者がひかえている。天狗は一風変った羽織と袴をつけている。まず神職が神前から鉾をおろし、鉾から天狗面をはずして、面は天狗に、鉾は鉾持ちにわたされる。天狗がその場で面をつけると、両者はむかい合い、天狗は東にぴょんと飛ぶ。ついで反対の西側に飛び、南、北ととんで四方をとびおわると、最後に鉾持ちの鉾をとって終る。これが天狗飛びである。
つぎはオドリで、全員が腰をおとす。このうちの一人が太鼓の枠の金とおぼしき鉄の輪を持っている。この役を「皮太鼓持ち」という。
まず皮太鼓持ちが東をむいて「ホー」という声をはりあげながら立ちあがると、残りのものもそれにあわせて拍手をしながら立ちあがる。再びしゃがむと、次は西、ついで南・北の順に同じ動作をくり返す。つまり四方にむいて四回くり返すわけて、これをオドリといっている。
本祭の一○月一○日は阿上三所神社の神輿が坂原の本社から中のお旅所まで渡御するもので、神辛には「ヒルマ」と称する高盛飯に箸をつけたものを持つ役があり、さらに片山株のものが羽織、袴姿で先導するならわしである。お旅所では「弓取り式」とよばれる弓を射る行事がある。これは現在は徒歩でおこなわれるが、本来は「馬ノリ」「馬駈け」といわれているように、麻の袴をつけた青年が馬にのり、九つの的を射ぬく流鏑馬の行事で、つい最近より、馬の調達ができなくなって徒歩にかわったものである。片山右衛門氏の話によれば、昔はこのあと、神輿の前で天狗飛びとオドリを父親たちがしていたのを記憶しているという。このあと神輿は坂原の阿上三所神社に還御する。
さて、この天狗飛びは、現在はごく新しい面を用いているが、昔は冠があったとも伝える。これらはおそらく、王の舞の天狗面と鳥甲のことと思われる。また「オドリ」についても、昔は花笠をかぶり、笛、鼓をともなった田植踊であったという伝承がある。田楽のわずかな痕跡をのこすものと考えられる。更にこれらを担当する片山株の株親が、毎年綾部市里の祭礼(高倉の高倉神社祭礼のことと思われる)に必らず出席したという。その地の祭礼にもヒヤソ踊という田楽躍があり、かれこれ考えあわせると、なかなか興味ぷかいものがある。

祭礼の役を片山株が独占していることがここで注意される。片山氏は、元来は関東武士の一族で、武蔵七党の一つとして武蔵片山郷を本貫地としていた。承久の変後、多くの関東武士団と同じく、新補地頭として西にうつり、和知庄の地頭職にあてられた。その後、南北朝の動乱に際しては足利尊氏にくみしたことが幸いし、かずかずの特権を認められて中世の土豪としての勢力をほこった。同家には、この地方としては珍しい量の中世文書が残されている。
片山株は片山姓のうちでも直系を名乗る「ヨイ株」のみで組織され、本家である株親を中心に、正統の四家が絶大な力を持つ。他はこれら四家の承認をうけた 「ユルシ株」であるとされる。株親の家の屋敷裏にそびえる椎の木の根元に、株神である天神の洞があり、毎年七月二五日(以前は一月二五日と六月二五日)に株講のあつまりをもって結束を確かめあっている。
阿上三所神社に対しては、この株は自分達の先祖が創祀したといい、特別な役割をになっている。また神主が不在の時は、鬼面をかぶった株親がこれを代行して神遷しができるといい、かつて神主職を直接掌っていたことをしのばせる。
天狗飛びとオドリの役も片山株にかぎられる。天狗飛びは正統四本家が毎年交代でこれにあたる。また鉾持ちは、安栖里の片山薰家とその分家である片山兵太郎家が交代であたるしきたりであったが、兵太郎家は近年絶家した。また天狗飛びの最中、天狗と鉾の役以外は後にひかえているが、本家の残り三人は前に出てならび、他は年令順にそのうしろにつくことになっている。このように格式と役割の関係はきわめてきびしい。中世の芸能が特定の一族の奉仕からなり、一族中でも本家や直系の家筋が諸役としてこれを負担し、その事によって家格をたしかめるという祭祀の構造が想像される。


ところで、このような王の舞や田楽がいつごろからこの地でおこなわれるようになったかはたしかな伝承はない。おそらく、これらの芸能の流行のことや、当地の情況からおして、鎌倉時代にはすでにおこなわれていたものと推測されるが、文書記録によるかぎりでは、室町時代のものまでしか確認できない。ただし片山家の文書の中に、地頭片山三郎左衛門重親が応永二八年(一四二一)に庄内の八幡宮に出した田地の寄進状がある。その中に、「又九月十日てんかくさけ一おけ・白米一升・ゑた豆一そくまいるへし」という条項があって注目される。この八幡社と現在の阿上三所神社との関係は不明であるが、かりに別の社であったとしても、この和知の地にこのときすてに田楽があり、それに片山家がふかくかかわっていたことだけはたしかなことといえる。
以下、片山家文書のうち関係文書二点をあげておく。

当庄一宮きしんの事
 [  ]小田貳反四斗代あんこ(安居)僧ほいたう
     同此内九十日とうめう
    定 とうあふらの分たはかいち壹反半同くはともにきしん申也。
一、やくしたう(薬師堂)寺とう分、いま山かさくの五斗代きしん申也。同たう 明分、井のしり分畠壹反くはともにぎしん申也。
一、尼寺のあふらてん(油田)に、同尼寺の西方畠壹反きしん申也。十四日、五日、つこもり、二きのひかん入中日にて、よくよく堂明をましらせ候へく候。正月十四日のおこないの田ハ、くりやたに一斗代あり。
一、しゆり田ハ、むかいのゑもきうに参斗代むかしより在之。後日ためたきしん状如件。
    応永廿八年かのとのうし五月十八日
                    片山三郎左衛門
                          重親(花押)

八幡宮きしん申下地の事
一、小しやうとうなしの田壹反石代也。
一、此年貢にてハ正月より三日の御ミき、同十五日ほうし(法師)たちニしん
きやう三くわん、そんしやうたらに廿一へん、くわんをんきやう一
くわん、よませ申て、ときさけ(斎酒)にてもてなし申候へく候。
一、まい月十五日ことに如此とりさため候也。
一、此内御せっくには、ミこ(巫女)神人にて御かくら(神楽)をまいらせ候へく候。
同三月三日より五月五日、七月七日、八月十五日ハ、御ほうしやうゑ(放生会)
ニ御こしらゑ候へく候。又九月十日てんかく(田楽)さ一をけ、白米一
升、ゑたまめ一そぐまいるへし。
一、正月十九日と八月十五日の御ミこく(同御ミき)田ハ、すけまち三斗代なり。
かうおさ(講長か)もち候ハん物、御ミき御ミこく(御供)をハ、しやうし(精進)もよくし、
火をい(忌)ミてとりさた申へし。
一、しゆり(修理)田ハ中田の内きやふつくり壹反にて、よくよく惣りやうも
ち候ハん物、とりさた申へし。なをなを正月十九日、八月十五日ハ、
ミこ神人にて御かくらをもよくよくまいらすへし。又ほうしたちニ
正月十九日ハ大はんに(般若)一はこよミ申へし、八月十五日にハしんきや
う、くはんをんきやう、そんしやうたらにもよませ申へし。しけち
かかしそんとして、あとをつぎ候ハん物にをいてハ、このむねをち
ともちかえへハゝ、ふきやう(不孝の物とあるへし。よって後日ためにき
しん状如件。

   応永廿八年六月廿四日
            片山三郎左衛門
               重親(花押)
一、此外とう明田ハこたは貳斗代也。
   かのとのうしとし

     註
① 旧和知庄内には阿上三所神社という同名の神社が三社あって、「三所」の名の由来とする。それぞれの所在を示すと次のようである。
一、(旧上和知村)字下栗野小字西友圃
二、(旧下和知村)字本庄小字丸山
三、(旧下和知村)字坂原小字森ノワキ
 なおこれら「三所」のいわれをもつものとは別に、和知町細谷小字ナカオにも同名の阿上三所神社がある。
② 坂原の阿上三所神社は坂原・中・安栖里を氏子範囲とし、坂原に本社が、中に御旅所がある。
③ 竹田聴洲「庄園地頭家とその同族祭の変遷」(『村落同族祭祀の研究』吉川弘文館)による。
④ その一部一五○点が東京大学史料編纂所の手で影写されている。
⑤ 現在、「四家」と「ユルシ株」をあわせて約二○戸である。
               (伊東久之)
(『京都の田楽調査報告』)


坂原の伝説







坂原の小字一覧


坂原(さかはら)
ヲカサキ イテウ谷(いてうだに) 東畑(ひがしはた) 久ゼ(くぜ) 大道ノ下(おおみちのした) 森ノワキ(もりのわき) タハ(たわ) 久ゼノ坂(くぜのさか) 細尾(ほそお) イカリバナ アワノタニ口(あわのたにぐち) アワノ谷(あわのたに) カミノアハノタニ ヌクイ ユリノ上(ゆりのうえ) ナワテノ上(なわてのうえ) 山ワキ(やまわき) ナワテノ下(なわてのした) イズモダニ チバナ 川原(かわら) 上モジリ(かみもじり) 東ナル(ひがしなる) 大柿(おおがき) 清水本(しみずもと) モリノモト 大通り(おおどおり) ノバタ ノビラキ 東西(ひがしにし) 旭(あさひ) 中川原(なかがわら) 下モジリ(しももじり) ユリノ上(ゆりのうえ)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
『和知町誌』各巻
その他たくさん



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