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丹波の

下粟野(しもあわの)
京都府船井郡京丹波町下粟野


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京都府船井郡京丹波町下粟野

京都府船井郡和知町下粟野

京都府船井郡上和知村下粟野



下粟野の概要




《下粟野の概要》
大御堂境内から見る下粟野↓ 右手の2つの石塔は蚕の供養塔のよう。刻文に、
蚕立願供養塔
 皇風永扇見昇平 帝道遐昌鎮鳳城
 四海波荒都尭化 法輪円転両輪明
  右志趣依大悲力満足家々永可願焉
 維時宝暦十三未天秋七月吉祥旦
     当時現住太平代立之
とあるそうだが、うまく読めない。大正末期頃近隣の村々は、河岸や山麓に桑を列栽し、養蚕で家計の7割余を得ていたといわれる、それよりも早く江戸中期頃より養蚕業が盛んであったことが知られる。

下乙見の奥、山間の中央を由良川の支流和知川が南流し、谷あいの小盆地平地に水田・集落が立地する。川の右岸を府道51号(舞鶴和知線)が走る。
中世には和智荘の荘域で、中世の土豪和智衆三人の一人粟野氏の本拠地であった。上流の上粟野と合わせて単に粟野とも称されたらしいが、すでに天正年間には九条家領「和智村」のうちとして「下あわの村」「下粟野」と見えて、九条家に年貢を進納している。
下粟野村は、江戸期~明治22年の村。元和5年から園部藩領。
当地は養蚕業が盛んで、通称大御堂の境内に宝暦13年銘の「蚕霊供養塔」が現存する。下流域5ヵ村に及ぶ子来(ねごろ)新田の用水は当村から引かれる。
明治4年園部県を経て京都府に所属。明治8年本庄村にあった小学校が分離し、阿上三所神社のかたわらに教室を造り下粟野校が開校する。後に和知第3小学校で、下のグランドがそれだが、もう廃校の様子。同22年上和知村の大字となる。
下粟野は、明治22年~現在の大字名。はじめ上和知村、昭和30年からは和知町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。


《下粟野の人口・世帯数》 26・78


《下粟野の主な社寺など》

阿上三所神社

下に駐車場がある、この石段はヤバイ、急だから登らない方がよい、もしコケルと命はない、助かってもリハビリ行き。右手に明隆寺観音堂へ登るスロープがあり、そこからもお参りできるのでその道を行かれるがいいと思う。


境内の案内には、
下粟野阿上三所神社について
当社は、和知地区に四社ある阿上三所神社の一社で、当社に現存する最古の棟札により、永徳三年(一三八三)に創建されたと推知され、古くは阿上三社大明神と称しました。
本社の祭神は、伊諾那岐尊、伊談那冊尊、国常立尊の三神とし、末社は、広峰神社に広峰大神、大神宮に天照大御神、稲荷神社に宇賀魂命、愛宕神社に火産霊命を祭神としています。
和知町誌には、近代の初めまで御田植式が行なわれたが現在は廃れたと記されています。また、昭和三十年代中ごろまでは、秋の大祭に稚児流鏑馬の儀式が行なわれていましたが、儀式に使う馬の手配が難しくなり現在は行われていません。   祭事は、年に大小九回執り行われ、秋の大祭の宵宮祭には年番氏子有志が演芸などを奉納、大祭には神楽と呼ばれる獅子舞が奉納され、神輿巡行の最後には太鼓を疫病や悪霊に見立て、逃げる太鼓を神輿が追いかけるという「五穀豊穣・無病息災」を祈願した儀式は勇壮で、永く伝承されています。
祭事
祈念祭  二月上旬    宵宮祭 十月上旬(秋大祭の前日)
節句祭  四月上旬    秋大祭 十月上旬
根付祈願祭 五月下旬  新嘗祭  十一月中旬
夏祭 七月下旬      年越し  十二月三十一日
二百十日祈願祭 二百十日前後 
下粟野阿上三所神社


『和知町誌』
阿上三所神社(下粟野)
創立と祭神
古くは阿上三社大明神と称した。当社には、既出の昭和六年(一九三一)十二月、『村社 阿上三所神社沿革史』(以下『沿革史』という)があり、また数点の棟(銘)札が伝蔵されている。これらによって同社の沿革を述べる。
当社の創立の起源や年代を推知する参考資料はほとんどなく、現存する最古の棟札が永徳三年(一三八三)とあるのは創建当時のものか、再建造営のときのものか不明である(『沿革史』)という。さらに、祭神については、「明細帳」には、伊諾那岐尊、国常立尊・伊諾那冊尊の三神と記されていることについて、「右ハ当時(明治維新)調査セル人ノ任意ノ偶作ニスギザルハ勿論ナリ」(同書)と、明治維新政権の神道国教化政策に出ることを暗に示唆して、これを批判している。
さらに、本庄阿上社を勧請したとすれば、同一祭神でなければならぬ。『寺社類集』に示すように、産土神として崇敬されていたものであろう。『沿革史』には、「コノ上下両和知ニ同ジ社号ノ神社四杜アルヲ以テ考フレバ、当和知郷ヲ開拓セル人文ノ祖タル方々ヲ地方部民ノ崇敬シ来タリシ所謂産土神ナランカ、或ハ直接開拓者ノ遠祖ヲ自ラ奉祀セル氏神ナリシヲ継承シテ自然当地ノ氏神トナリシカ姑ク推測ニ止メ、後世ノ参考ニ資ス」としている。
御田植式
当社も、本庄阿上社同様、近代の初めまでは御田植式が執行されていたという。現在は廃れている御田植式の模様を、『石の声風の音』に次のように記録されている。
 さてその日は神主六名、内一人は麻裃で、他の五名はすべて羽織袴を着用し、昼過ぎから神社に集まり式典の準備をなし、日が暮れるに及んで御田植式の係員十人が打ちつれて神主の家に行き、式次の練習をしてから、太鼓を叩きながら社頭に到り暫く休息していよいよ式に入るのである。初めに稲作りを真似て、先ず苗代を作って、肥料を与え(肥料は柳の葉)苗代を踏み終って休息、次に籾種(しきみの葉)を播き、田に水を注ぎ植付の支度をする。それから係十人の内の一人が、神殿の神主の前に進み「タノモー」と云う。
神主「ドーレ」
係「私は丹波の太夫でござります。柳の御田植えをしまするに付き、早乙女を傭いに参りました。五百人より八百人貸して下され」
神主「八百人なりと千人なりと出たら貸して備われましょう。先ずこれへ御通りなされ、屠蘇を頂かせます」
係「今日は農前でござります。帰りて居ります」
の応答をして式場へ戻り小休するのである。この時神主は神殿を下りて式場に行って停立する。それから苗代を作る。
その時、つぎの歌を三回繰り返す。
  苗のこなへの とりよさよ ヒャーレ
  あもとなへよ とらへたまへ
  あもとなへよ とらへたまへ
  あもとなへよ コンソウ
それから田植へにとりかかり、矢張り次の歌を各々三度ずつ繰り返す。
  第一
  一にまめに 三チビツ 島に四千 五はい弓 たんまたらら たらたらたに 丹波のすだれ 丹波のすの子 もうけたり
  第二
  国の神に、皆参る時は お柄杓 黄金の銚子 千代の盃
  第三
  この奥の三反田 つばめが巣をかけた 今年この種 七棟で八升 八穂九の升
  第四
  どこまで送るべし かじかが島へへーレ かんざき わたのめなさけは だんべに ヤーレまでに ヤーレ
現在、船井郡日吉町田原の多治神社の祭礼で行われているところの「田原の御田・かっこすり」(京都府指定無形民俗文化財)の神事と似た芸能であったと推測される。
沿革
当社には、次の五点の棟(銘)札が伝蔵されている。神社の沿革を知る上で、これらの棟札は最も有力な資料と言える。
 永徳三年(一三八三)
 永禄十一年(一五六八)
 慶長 二年(一五九七)
 享保 八年(一七二三)
 文化 二年(一八〇五)
これらの棟札によって、以下当社の沿革を述べることとする。
(一)永徳三年の棟札
この棟札は煤けて真っ黒になっている。赤外線カメラによって撮影すると、表裏両面には左のように記されている。
(オモテ)
上棟 永徳三年 癸卯月廿七日 大工 野々村衛門四郎   はうり今海小一郎 旦那 今西道賢 田中光宗 かうをさ孫次郎右口 惣庄々官百姓等
 (ウラ)
永徳二年壬戌十二月五日 鳥居立 大工 旦那 惣庄々官百姓等敬白

永徳三年(一三八三)に、当社が造営されたことを示す棟札である。
このころ既に粟野付近には集落が成立し、和智庄庄(荘)官の下に、有力在地豪族か名主層が成長し、独占的
に神社を支配し得る段階になったと考えられる。その前年に、鳥居の建立が行われ、神域が確定した中で神社の造営が進められたのであろう。
(二)永禄十一年の棟札

(オモテ)
      大工若州住 藤原朝臣四郎左衛門尉宗次
奉当社大明神御造作 永禄拾壱戌辰年 各々名主百姓中 神主権守 敬白 □□
      同     藤原朝臣次郎右衛門尉宗長
永徳三年から二世紀近く経過した永禄十一年の段階で、「奉当社大明神御造作」と記されているところから見
て再建が行われたものであろう。さらに、前には施主が「惣庄々官百姓等」とあったのが、「各々名主百姓中」
と変わっているのは、和智圧の荘園権力の衰退を物語るものでなかろうか。
この棟札の裏面には、「勧進之事」と記して勧化の記録が書き込まれている。
…略…
田中越後守が、このときの造営の奉願人で、以下有縁の
人々一二九人が、貨幣(銭)・米・紙などを勧進している。
これを表示すると上のように、銭六貫一四六文、米六斗二升、その他紙となる。この中で、女性の勧進が多いのが注目される。女性は、母・妻・かか・乳母など三〇人ほど名が挙がっていて、それぞれ米一升あての寄進である。尾十見村(乙見村)からの寄進一九人もあり、うち五人は紙を寄進している。
 (注)官途成り 永禄十一年の棟札に官名を付した武士の名が多い。武家において主君が家人を官に推挙する旨を書いて朝廷に出す文書が官途挙状で、朝廷によって官に任ぜられるためには主君の挙状を必要とした。しかし、戦国時代には朝廷の補任がなく挙状だけで官名を称した。田中越後守という官名もそうした類ではなかろうか。
(三)慶長二年の棟札
…略…
『沿革史』には、「最古の永徳三年の棟札を神殿の造立とすれば、それより一八〇年余り後の永禄十一年の造営
は、神殿であるか、上仮屋であるか容易に判定し難い。何となれば、それより三〇年後にこの慶長二年上棟の棟
札があることによって、このような疑問が生ずる」としている。この棟札の筆者の「大田参河守」は、『史料集』(一)所収「九条家文書」中「和智村侍交名」に「太田三河」、同書「野間桝太郎家文書」の「丹波船井郡之
内和知郷士覚」に、「太田参河延忠、住粟野村」と、それぞれ名前の挙がっている人物と同一人物であろう。
次の享保八年の造営は明らかに神殿の再建で、これが現在の社殿である。
(四)享保八年の棟札
…略…
現在の社殿構造について、『沿革史』には
梁行 八尺八寸(二・六七㍍)
桁行 十三尺七寸(四・一五㍍)
向拝出 五尺四寸(一・六四㍍)
三間社流造唐破風付柿茸
と記録しており、前出『都の社寺建築』には、
 規模形式 三間社流造 柿茸
とし、本殿については、
 本殿は向拝を三間に分ち、軒唐破風を設けるが、木階は中央間にのみでなく、三間分にわたって広くとる。
この形式は三神に同時に奉仕するのに便利であったろう。身舎のつくりをみると、正面は蔀戸で内陣正面を弊軸板扉にし、妻筋は二重虹梁、組物は出組に支輪、とし、坂原・本庄の阿上三所社とほとんど同じである。
と述べている。
(五)文化二年の銘札
この札は棟札ではなく、「明神御官位之次第書」と表記されたもので、京都の吉田家より、同社の官位「正一位一ノ宮阿上三社大明神」が御免になった経緯を記録したものである。宝暦年中(一七五一~六三)より、官位の授与について、園部藩と吉田家双方に願書を提出していたところ、延び延びになっていたが、ようやく文化元年(一八〇四)十二月に、氏子三人が上京して官位書を吉田家より受けている。例によって、そのとき吉田家への納金は次の通りである。
 一金七両   御官職料
 一銀一三〇匁 御額料
 一銀 六八匁 四組木綿手繦料
  外に二一六匁 諸入用
 (注)木綿手繦 神事奉仕の際に、袖を掲げるのに用いた椿の繊維から作った襷のことで、吉田家から与えられる装束の許状の中で、最も簡易に許されるものであった。
なお、文政八年(一八二五)八月、烏帽子浄衣免許状を、弘化二年(一八四五)、六根中臣三種之祓の下付をそれぞれ受けている。吉田家の許状は、官金・礼禄金と呼ばれる金銭を納入した上で与えられるもので、本庄阿上社について述べた通りである。

『和知町石の声風の声』
下粟野の阿上三所神社の御田植式
永徳年間に本庄の阿上三所神社より分霊したと聞くが、その祭神は伊奘諾命伊奘冊命国常立命で、本庄の豊受比売命、誉田別命、三穂津比売命と異なるのが不思議である。その後永禄十一年(一五六八)匿修繕、慶長二年(一五九七)三月三日建て換えられたと云う。宮の動輿は永徳年間の創製であり、嘉永六年(一八五三)に再製されたものと聞く、此の神社で行われたと云う御田植式その記録を見ると中々凝ったもので、その歌の如きも、その恵は今でも解き得ないところも多い。昔は毎年正月十九日に行われたのだそうだ。本庄も同じ正月十九日に御田植式御蚕飼式が行われているが、此の正月十九日は、何か特別に取り扱われた理由がありそうに思われるがどうだろうか、民俗研究の一つの材料となるかも知れない。
偖てその日は神主六名内一人は麻裃で、他の五名はすべて羽織袴を着用し、昼過ぎから神社に集まり式典の準備をなし、日が暮れるに及んで御田植式の係員十人が打ちつれて神主の家に行き、式次の練習をしてから、太鼓を叩きながら社頭に到り暫く休息して愈々式に入るのである。初めに稲作りを真似て、先ず苗代を作って、肥料を与え(肥料は柳の葉)苗代を摘み終って休息、次に籾種(しきみの葉)を播き、田に水を注ぎ根付の支度をする。それから係十人の内の一人か、神殿の神主の前に進み「タノモー」と云う。
 神主「ドーレ」
 係 「私は丹波の太夫でござります。柳の御田植えをしまするに付き、早乙女を傭いに参り与した。五百人より八百人貸して下され」
 神主「八百人なりと千人なりと出たら貸して傭われましよう。先づこれへ御通りなされ、屠蘇を頂かせます」
 係 「今日は農前でござります。帰りて居ります」
の応答をして式場へ戻り小休するのである。この時神主は神殿を下りて式場に行って停立する。それから苗代を作る。その時次の歌を三回繰り返す。
 苗のこなへの とりよさよ ヒャーレ
 あもとなへよ とらへたまへ
 あもとなへよ とらへたまへ
 あもとなへよ コンソウ
それから田植へとりかかり、矢張り次の歌を各々三度宛繰り返す。
 第一
 一にまめに 三チビツ 島に四千 五はい弓 たんまたらら たらたらたに 丹波のすだれ 丹波のすの子 もうけたり
 第二
 国の神に 皆参る時は お柄杓 黄金の銚子 千代の盃
 第三
 この奥の三反田 つばめが巣をかけた 今年この稲 七穂で八升 八穂九の升
 第四
 どこまで送るべし かじかが島へへーレ かんざき わたのめなさけは だんぺに ヤーレまでに ヤーレ
その実際の動作を見なければ一寸想像しがたいが思うに狂言のようなものだろう。
豊年を祈る心を形に表わしたものだろう。民俗的の行事何とか記録に残し度いものである。


『和知町石の声風の声』
木槌奉納
親が生れて来た子供の無事に成長するように神に祈ることは実しいし又尊い。今下粟野の阿上三所神社に参詣、鈴を鳴らし柏手し礼拝して、ふと目を本殿の外屋の板壁に向けると大小様々の木の槌が打ちつけてあるのが、その目に入った。
中には地を長ずなどと書いてあるのもある。この槌は何の為めに奉納されたものなのか、その理由が知り度くなった。社前で又礼拝して石段を下りて、大道に出た。丁度その時稲車を挽いて来る人に出合った。早速その理由を聞いたが、知らないとの返事、そのままバスの停留所に来て発車時刻を見る、発車まで一時間近い間得たねばならない。近くに知人の老人がいることに気付き、尋ねて開いて見ることにした。老人と子供の無事成長するよう祈瞑してのものだ位で、其の意味づけは知らなかった。こちらの不満を察してか、あの人に聞いて見ようと立たれたので後に従った。その人と云うのは先の稲車の人であった。礼を言うて再びバス停留所で立っていた。その時稲車の人が、親切にも、実際に槌を奉納した人からその本意を聞き出して米て下さった。それは土用に生れた子は、早く地に帰ると云う伝説から、即ち早く土に帰る若死をすると云うのだ、その為め、神に槌を奉りその槌で、土を打ち固めて貰って土に帰ることを防いで貰うのだと云うことであった。中に土を凍って槌を作り、それを金粉で塗り、美しい槌を納める人もあったと云う。その願をかけて貰った人は現在三十六才と云うことだから、極最近まで此の信仰があったことも知ることか出来た。なおこれ等の話を側で聞いておった婦人が、今二十六才の長男の為めに、槌を奉納をしたと申し出られたのには驚いた。今見て来た槌の中にはこんな新しいのがあったのだった。二十六年前と云えば昭和十五等頃のことだ。氏族の伝統はそう易々と滅却するものでないものだと深く感じた。それから今の槌の中に二個一連のものがあったことに気付いて、聞くと双生子の為めのものだそうだ、親が子を思う事程有難いことだと今更に心を打たれた。土用に生れたから早死にすると云うことは迷信と断定してよいが、比の婦人は自分も迷信とは思いなからそんなことを耳にすると、どうしても槌を奉納しないではおられなかった。明日知れぬ生命を持つ人間の弱さとでも言うべきか、やがてこれ等の迷信は消えて行くであろう。しかし子の無事成長を祈る心の親心は永久に失われないだろう。若しこれか失われる時は人間は畜生の世界となるだろう。此の槌もこの親心の現われである。美しく尊いものなのである。


寿命山明隆寺観音堂



阿上三所神社の右手高い所、小学校の真上にある。下から石段もあるが、車ですぐ脇まで登れる。立派なお堂が残っている、大御堂と呼ばれている。
長老山の寺院群の一つか、あるいは粟野氏の氏寺であったものか…

『和知町誌』
明隆寺観音堂
   所在地 和知町字下粟野小字東タンボ
   所有者 下粟野区
   室町時代後期
当寺は平成五年(一九九三)四月、京都府登録文化財(建造物)に登録され、その機会に京都府教育庁文化財保護課により「明隆寺観音堂報告書」(「報告書」と略称)が作成された。以下「報告書」から抄述する。
(一)寺院の概要
当寺は一般に大御堂の名で知られ、寿命山明隆寺と称されている。当寺についての資料などはきわめて少なく、文化十年(一八一三)の修理に際して、古老からの伝聞を基に作られた「明隆寺記」(銘札)が、寺歴を示す唯一の資料となっている。それによると、当寺の本尊は、聖徳太子が自刻した三十余体の観音菩薩のうち、丹波に安置された一体であり、この像を祀る霊場として当寺が開創されたという。その後衰退したが、文明年間(一四六九~八七)に再興された。しかし、再び荒廃、天文八年(一五三九)に至り、修行僧の賀蔵主によって細谷から現在地に移され、復興されたと伝える。
その後は、地元の住民および近隣の地蔵院によって護持された模様で、元文五年(一七四〇)、園部藩寺社奉行による「寺社類集」には「地蔵院之を支配す」と記されている。なお、丹波国三十三札所の第二十七番に設定されている。


曹洞宗長谷山地蔵院


『和知町誌』
長谷山地蔵院(曹洞宗) 字下粟野小字東タンボ一三一
寺伝によると、室町初期の嘉吉・文安(一四四一~四八) のころ、備前の僧剛繁昌金が長老山に登って修業し、たまたま大御堂(明隆寺。当時は現在地よりはるかに山上にあった)に寄寓して村人を教化し、村人がその徳望を慕い、一堂を建てて昌金を開祖としたのが当寺の起源とする(『船井郡誌』では、文安元年創建、開祖剛繁昌金)。正保三年(一六四六)、住僧高円芳和が龍沢寺二世日照孤峰を勧請開山として曹洞宗に改め、自ら第一世となり二世峰前雲的が伽藍を再建、三世石原心円がこれを継承、さらに境内を整備して檀徒の教化に努め、法地に昇格させた。寺宝に釈迦十六善神図(町指定文化財、文安五年勧進の記録あり。既出)がある。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》
粟野氏
天正10年(1582)、筑前守(後の豊臣秀吉)への差出状には和知三人衆といわれた片山兵内、出野甚九郎、粟野久次の草高と人数指出が見え、石高は増石が加えられており、これは天正の大閤検地によるものと思われる。片山兵内は196石余、うち増分123石余の計320石余、出野甚九郎は483石余、うち増分303石余の計787石余、粟野久次は118石余、うち増分74石余で計192石余であった。という。


下粟野の主な歴史記録




下粟野の伝説


『丹波の話』
和知の大男
今、和知の上粟野で農にはげんでいる梅原健太郎君が教えてくれた話に次のようなのがある。
昔々、大男が住んでおって、村から山へ登るのにも一跨ぎで登れる程の大きな人だった。或る時は山へ登ろうとして片足を山へかけてもう一方の足をふんばったら足がフケ(湿田)へずり込んで足跡が出来た。その大男の足跡だといわれるものは今もある。又山に登ったその大男が握り飯を食べたらその中に石があったので、それを摘んでぽいと投げたらそれが遠く下粟野へ飛んでいった。その石は今もあるが大変大きな石である。
というのである。上粟野は和知の奥、長老岳の麓に息づいている静かな山村である。この話はいうまでもなく巨人伝説であって、常陸風土記、播磨風土記をはじめ古い記録にのせられ、この国土全域にわたって古くから、伝承されている著名な伝説の一形式である。中郡五箇村でも和知の同系の伝説が採集せられている。この地方ではぼくはこれより外に採集例をしらないが調べてみればまだあるだろう。
巨人の名前は和知の場合何といったかは梅原君の話にはなかったが、一般にはダイダラ坊という変った名を持つ男なのであった。和知の谿々を一跨ぎにまたいで歩み去った巨人がいたということは愉快である。
この説話は人間以上の偉大な仕事をなしとげた者は皆非凡な体格の持主だろうという極めてあどけない想像から生まれたものであることはまちがいない。神の人格化である巨人が池を作り、山を造り出したという考え方は世界人類共通の考え方といえる。古代人の信仰は前述の説話の形の通り、当初の信仰と手を分って素朴な人達が榾火のほとりでかく語り伝えてきたのである。  (一九五〇・四)


『和知町石の声風の声』
埋められた金の鶏
この伝説は日本国中至るところにある話であるが、此の和知町にも例に漏れずにある。しかも御丁寧に二ヶ所にある。それは下粟野の石の塔と大成の長者の屋敷跡と言われるところ。即ち両方とも、金の鶏が埋めてあって、それが、大晦日の晩に鳴くと云う、そしてその声を聞いた者は次の年幸福がやって来ると云うのである。






下粟野の小字一覧


下粟野(しもあわの)  野ジリ(のじり) 東タンボ(ひがしたんぼ) 西タンボ(にしたんぼ) シオタケ 川東(カワヒガシ) 下山(しもやま)

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京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市









【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
『和知町誌』各巻
その他たくさん



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