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旧・下和知村(しもわち)
京都府船井郡京丹波町和知町


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京都府船井郡京丹波町本庄・坂原・中・角・広瀬・才原・大簾・広野・出野・稲次・安栖里・小畑

京都府船井郡和知町本庄・坂原・中・角・広瀬・才原・大簾・広野・出野・稲次・安栖里・小畑

京都府船井郡下和知村





旧・下和知村の概要




《旧・下和知村の概要》
下和知村は、明治22年~昭和30年の船井郡の自治体。本庄・坂原・中・角(かど)・広瀬・才原(さいばら)・大簾(おおみす)・広野・出野(いでの)・稲次(いなつぎ)・安栖里(あせり)・小畑(おばた)の12ヵ村が合併して成立した。旧村名を継承した12大字を編成。村役場ははじめ中に設置、明治40年角に移転した。
村内は山地が多く西流する由良川の河岸段丘にわずかな平地が開けている。ほぼ中世の和智下荘の地域にあたる。
明治43年8月京鶴線(のちの国鉄山陰本線)園部~綾部間が開通し本庄に和知駅開業した。昭和28年台風13号により由良川大洪水、金比羅橋以外の全橋梁が流失した。同年国道9号全線が開通した。



旧・下和知村の主な歴史記録


『和知町誌』
上庄と下庄
ところで、仁和寺と片山氏は和知荘をどのように分け合ったのであろうか。弘安五年(一二八二)二月三日、和知荘の預所藤原行網と地頭片山盛親は、とりあえず下地を中分し、境を設けることで合意した(『史料集』(一)三四ページ)。その後、何度か坪合わせが行われ、八月になって、大河(由良川)より北側(右岸)は左近垣谷、南側(左岸)は高桑水谷を、それぞれ東西の境とし、境杭は仁和寺側が打つこと、大河そのものの境は、左近垣谷から流れ出る水が大川と合流するところまで、とすることで解決を見たのである。
左近垣谷・高桑水谷の地名は残っていないが、現在の地形から推測すると、由良川の上流に当たる高桑水谷は、小畑と安栖里の境界をなす高たらび谷を言い、左近垣谷は本庄と坂原を区切るイチョウ谷を指しているものと思われる。また、この区間の由良川は仁和寺領に属することで合意したのであろう(図11参照)。
和与が成立して間もなく、現地で境界設定に当たった仁和寺の雑掌は、「私が堺を定め、地頭は西方を選び取りました」と報告している(『史料集』(一)三六ページ)。以後、仁和寺分を上庄(荘)、地頭分を下庄(荘)と呼ぶようになった。
片山氏が下庄を選んだのは、幕府から与えられた地頭の給田が下庄分にあり、未墾地の開発なども行って、本拠とするにふさわしかったからに相違ない。交渉に当たった盛現も、元弘二年(一三三二)四月、子息貞親に坂原西北部の出雲谷・久世・細尾・粟力谷などの区域を譲与している。



『船井郡誌』
下和知村
一、沿革 古の鼓打郷の一部なるべし、中世和知荘と称し、承久の乱後北條氏が新補地頭を置きたること前章既に之を述べたり。後仁和寺の所領となり、地頭片山左街門入道道縁の子萬歳丸地頭職を安堵せらる。弘安三年十月十八日の下文に
 可令早萬歳丸領丹波国和知庄 除舎弟分 地頭職事
 右去年十月十八日関東安堵御下文之旨可令致沙汰之状如件
               左近将監  平 朝臣
               陸奥守   平 朝臣
とあり。此時地頭と頭所と所務の紛争あり、和知荘を東西に分ち境界を定めて落着したり、其和與状に曰く
  和與
    丹波国和知庄中分東西両堺事
 右大河以北者以左近垣谷為東西堺、大河以南者以高乗水谷為東西之堺、各守谷口之融為其堺、雑掌□
□打傍示者也、□大河者同以左近垣谷之融可為其堺、如此治定之上者一事以上一切相□不可入交、
 仍永代不可有変改、堅可守此状也、仍和與中分立堺之状如件
   弘安五年八月□日
        地頭  平  盛親
        頭所  藤原 行綱
右に封する関東の下知状に曰く

 仁和寺領波丹国和智庄雑掌與地頭片山左衛門入道々縁後家並子息萬歳九所務事
 右如六波羅去年七月六日注進状者頭所地頭成和與可中分之由出両方状之上不及別子細守□状相□可
 致其沙汰状依鎌倉殿仰下知如件
   弘安六年九月 日
        駿河守  平  朝臣
        相模守  平  朝臣
六波羅に於では此下知状に基き、翌年二月次の如く認可を與へたり。
   仁和寺領丹波国和智庄雑掌與地頭片山左衛門入道々縁後家並子息萬歳丸所務事
 右□去年九月日関東御下知可令致沙汰之状如件
   弘安七年二月九日
        左近将監  平  朝臣
        武蔵守   平  朝臣
東西の分界は恐らんは後の上下の分界となりしならん。阿上三所神社弘和元年(北朝永徳元年)の棟札に丹波国船井郡和智下庄だあり。而して下荘は更に片山、出野.澤田三氏の分額する所となれり、永正二年三月七日の下文に
 丹波国船井郡和知下庄 除出野分沢田分 事、片山助次郎本領之段分明矣云々
ちあり。天正の頃には上下二荘に豪族三家あり安栖里の片山兵内、出野の出野甚九郎、粟野の粟野久次にして之を和知衆といへり。其草高左の如し。
  三百二十石一斗二升      片山 兵内
  七百八十七石二斗二升五合   出野甚九郎
  百九十二石八斗四升二合五勺  粟野 久次
元和の初園部藩の所領となり徳川時代を通じて変動なし。明治四年七月園部県所管となり、同年十一月京都府の所轄となれり。五年五月行政区割を分つに当り、本庄、小畑二村の聯合戸長役場を小畑村に置き、坂原、中、角、廣瀬、才原、大簾、廣野、出野、稲次、安栖里十ケ村聯合戸長役場を稲次に設け、船井郡第十五区に属せり。九年九月行政区劃の改正に伴ひ船井部弟六区となの、十二年三月郡区町村編成法に依り船井郡第九組となる。十七年以上の十ニケ村合併して聯合戸長役場を中村に設けしが、二十二年四月町村制実施に際し、下和知村と改称し、四十年村役場を大字角に移転したり。





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
『和知町誌』各巻
その他たくさん



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