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新水戸(しんみと)
京都府船井郡京丹波町新水戸


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京都府船井郡京丹波町新水戸

京都府船井郡丹波町新水戸

京都府船井郡須知町新水戸




新水戸の概要




《新水戸の概要》
国道9号線(山陰道)の観音峠(水戸峠・三戸野峠とも、標高169mの分水嶺)の街道沿いの一番高い所にある集落。9号線も改修が進み、ここが最後に残された難所かも知れない、あとは老ノ坂か。
トンネル抜くしかなかろうが、それらが完成する頃はもうこちら側には誰も住む者はいまい、1000兆円超の借金と原爆何万個分超の死の灰と年寄りの後始末を託された若者は都会へ移住し地球の裏側で戦死する。田畑は荒れ、国土は放置され、ごリッパと自賛する政治と経済はワイロとソンタクと失言続きの低次元。真っ暗の将来見通ししか立たないのがメデタイ国の政治と経済であろうか、民主主義や平和といった価値あるものは脱ぎ捨ててそれが「国を愛する」ことだとのたまう、くそどもと一緒にこのまま進めばまもなくこの国は自滅する。
新水戸村は、江戸期~明治22年の村。亀山藩領。明治4年亀岡県を経て京都府に所属。同22年竹野村の大字となる。
新水戸は、明治22年~現在の大字名。はじめ竹野村、昭和26年須知町、昭和30年からは丹波町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。

《新水戸の人口・世帯数》 167・73


《新水戸の主な社寺など》

観音峠

観音峠トンネル(国道9号。園部町側より)
近世までは三戸野(みとの)峠、また水戸野峠といった。船井郡の分水嶺で、峠の東と南の水は太平洋へ、峠の北と西の水は日本海に流れる。京丹波町の新水戸から園部町の上木崎町に下る峠。国道9号、昔の京街道(山陰道)が通る。
貝原益軒は「西北紀行」に次のように記す。
 三戸野嶺(みとのたうげ)、(割注・園部より一里) 上下一里あり。坂は嶮からず。坂 の上に民家あり。其所を嶺(たうげ)と云。俗に云、山椒大夫が関をすゑし所也。
寛政11年丹波国大絵図は「水戸ノ峠」と記し、同所に「生ヌキ観音」と記す。昔、峠を通る旅人が使い古したわらじを道に捨てたところ、ある石に当たって急に腹痛が起こった。村人が石を振ってみると、下から観音をうつした石が出たので堂を建てて祀ったと伝えられる。この観音を「涌出観音」とか「生えぬき観音」とかよび、峠の名前も観音峠になったといわれる。観音堂は頂上に近い旧峠道の傍ら(上木崎町)に現存している。

「涌出観音」あるいは「生えぬき観音」は、園部町側にある。トンネルの手前の道路縁に少し車を駐められるスペースがある。フェンスの開いているところから下る道みたいなものがある、20mばかり下れば観音堂がある。背後の道路は国道9号。

『船井郡誌』
觀音峠 國道第二十三號路線山陰道の道ずる山路にして大字新水戸の東南に在り、元水戸峠又三戸野峠といふ、標高二百六十九米突九一あり。淀河、由良兩河系の分水嶺をなし、以東の水は大堰川に入りて太平洋斜面に注ぎ以西の水は由良川に入りて日本海斜面に注ぐ。實に日本本土の脊柱線なり。貝原盆軒の西北紀行に曰く「三戸野峠は上下一里あり、坂は険しからず、坂の上に民家あり、其の所を嶺といふ。俗に云ふ山椒太夫が関をすゑし所なりと」

『丹波町誌』
観音峠(丹波町新水戸)
 最も古い文献は『西北紀行』(貝原益軒)のなかで「三戸野峠 観音峠の旧称)上下ー里。その上に民家あり。その所を嶺という。俗にいう山椒太夫が関をすえし所なり」。と述べている。今もひっそりと残っている当時の小道(江戸時代以降の山陰街道)は、かっては参勤交代の行列や旅の商人などでにぎわった。頂上付近に今も現存している小さな観音堂は、当時の旅人たちがここで疲れをいやし、道中の安令を祈った。観音峠の名はここから出ているのである。
 昔、参勤交代を終えた山家城主の谷飛騨守がこの峠で休んだ時、江戸で買ったという名ウグイスに餌水をやろうとして逃がしてしまった。それ以来この峠にはウグイスが住みつき、他所よりはるかにすぐれた美しい声を聞かせたという。
 昭和の初期ごろより沿道に植えられた桜並木が名所としてにぎわっている。昨今の激しい交通騒音と排気ガスによって名物の桜並木は、ひん死の状態であったが社会福祉協議会の手によって、新しい桜の木が補植され花の咲く日が待たれている。

観音峠(慈眼洞)
 この峠は、昔からいろいろの伝説や歴史上の話も残っている峠で、室町時代は、三戸野峠(又は水戸の峠)と呼んでいた。観音峠と呼ぶようになったのは、江戸幕府が成立し、参勤交代の人名行列が通るようになってからのことである。観音像は国道の南側すぐ下の御堂に、西側は袮安寺の小高い山の上に(船井西国三十三ヶ所の一番として)まつられている。このことから、観音峠の名がついたものと思われる。
 標高二六〇メートル、由良川・淀川の両水系の分水界にあって、昔から三回、道の変遷があった。 第一は江戸時代に利用された嶺線を越える山陰道、第二は明治一〇年からの山陰街道(後に国道一八号線と呼ばれた現トンネル上の廃道)第三が現在の国道九号である。
 そしてまた、通った人も、徒歩・籠・馬から、馬車、次に自転車、自動車へと時代の進歩とともに、その姿を変えてきた。
 現在のトンネル工事は、園部大橋から新水戸までのコンクリート舗装工事とともに、昭和八年から一〇年にかけて、当時の不況時代における失業救済の政治的意味をも含めての工事であった。トンネルの幅員七・五メートル、延長二四六メートル、総工費四七万一〇〇〇円をもって完工したものである。
 その後、竹野村青年団員の手で桜二○○本が植えられ昭利二〇~三〇年頃は人変きれいであった。その後、自動車の排気ガスなどにより死滅しようとしたので、社会福祉協議会員の奉仕作業で若苗が植えられた。


袮安寺から見る観音峠道↑


天満宮

元禄16年遷祀という天満宮は、称安寺の少し奥に鎮座する。
『丹波町誌』
天満宮
一、所在地 新水戸小字大谷
二、祭 神 菅原道真
三、例 祭 一○月一七日
四、由緒、その他
 創建は定かでない。もとは、通称天神山(小字黒地四八)に祭られていたが、元禄一六年(一七〇三)八月二五日、現在地に遷座した。鰐口の刻銘に「南無天満自在威徳天神口歴八年正月新水戸村中」とある。
 氏子 新水戸 六二戸



曹洞宗大慈山袮安寺

観音峠の名の起こりともいう、観音堂はどこか、国道9号からは少し高い所にお堂のようなものが見えるが、アレだろうか。
『丹波町誌』
大慈山 袮安寺
一、所在地 新水戸小字東浦
二、宗 派 曹洞宗
三、本 尊 釈迦牟尼仏
四、沿 革
 御花園天皇の御代寛正三年(一四六二)徳望の高い浄興生似とよぶ人を開基として創立、玉雲寺二八世玉園瑞公和尚を開山に勧請した。現在の伽藍は弘化二年(一八四五)に改築されたものであり、嘉永二年(一八四九)寺格が法地となった。境内の上の山に船井郡三三ヵ所第一番の札所一一面観音が祭られている。
住  職 西村良典(兼務)
檀家信徒 二〇戸
年中行事 …


浄土真宗本願寺派摂取山金福寺

楠公史跡という金福寺、大きな寺院である。
『船井郡誌』
金福寺は慶長七年八月の建立にして元京都市下京區天使突拔四丁目に在り、明治三十九年二月二十七日維持上の都合に依り檀信徒より移轉を出願し、四十年二月二十日現在の寺地に移築したるものなり。

『丹波町誌』
摂取山 金福寺
一、所在地 新水戸小字イカガ谷
二、宗 派 浄土真宗本願寺派
三、本 尊 阿弥陀如来
四、沿 革
当寺は、元、京都市六条天使突拔町にあったが、明治四〇年(一九〇七)二月二〇日、現在地に移転した。当時の住職は楠慈潤である。現存する控帳によれば、慶長七年(一六〇二)、楠正成の後胤正保が本願寺一二世准如上人に随順して、その子正行菩提のため空寺を再興して金福寺と改めたとある。
住  職 坂口真道
檀家信徒 九〇戸(町外を含む)
年中行事 …





《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


新水戸の主な歴史記録




新水戸の伝説








新水戸の小字一覧


新水戸(しんみと)
中垣内 黒地 西浦 二反田 イカガ谷 東浦 大谷 徳尾 東大谷 登り木 深田 笹ケ谷 峠 四十垣内 広谷 浦ケ谷 大峠

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
『丹波町誌』
その他たくさん



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