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丹波の

質実(しつみ)
京都府船井郡京丹波町質実


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京都府船井郡京丹波町質実

京都府船井郡瑞穂町質実

京都府船井郡瑞穂村質実




質実の概要




《質実の概要》
三峠山(667m)・といし山(536 m)などの山々の南麓で、かなり高い所で北側の村境付近は標高500メートルを越す。西隣の接地区水呑との境付近に源を発する質実川が地内の中村・和田・上野を東南流する。その谷間の流域にあり、広大な村である。上野から下村・北久保に向かって東北に流れを変え、丹波町との境で高屋川に合流する。川沿いに耕地と集落が点在する。質実街道(府道26号・大身下山停車場線)が質実川に並行して東西に貫通する。

質美荘は、平安後期~戦国期に見える荘園。石清水八幡宮寺領。初見は治安3年10月15日付の宮寺僧兼清解案。兼清は下院極楽寺とその荘園田地について、非門徒宮寺司の押妨を停止し定清をもって相伝進退させるべき旨の宮司裁判を申請しているが、ここに荘家8か所の1つとして「丹波国一所〈名質美庄〉」と見える。次いで、天仁元年12月30日、保元3年12月3日両度の八幡宮寺・宿院極楽寺宛て官宣旨にも、極楽寺領の1所として見え、保元3年の官宣旨では「質美園」とされている。
この間、天喜3年の丹波国後河荘田堵等解に「当国船井郡北県八幡宮寺御領所志津禰御庄」と見えるが、これは当荘を指すものであろうという。
その後鎌倉前期の石清水八幡宮文書目録に「一通、文治二年六月、三和庄住人延包付質美下司可召進之三由別当宣、宮寺所司等請文」とあり、元応元年8月日付の弥勒寺権別当方祗候人数等定書に「自当時可有御管領庄々」の1つとして当荘が見える。戦国期に入って天文6年7月2日、幕府は細川晴元の同朋衆万阿なるものの押領を停止し,当荘を石清水善法寺に領掌させるよう命じており、文亀2年12月日の石清水八幡宮領所々納下米注文にも「一 十一月分 丹波国質美庄より上米、弐拾壱石漆斗三合 但木代升なり」「一 十月分 捌石弐斗弐升五合 此内弐石壱斗九升壱合 丹波質美庄米也」などと見える。
近世の質美村は、江戸期~明治22年の村。はじめ旗本田中氏知行地、のち幕府領小堀代官支配。
領有関係については『旧高旧領』によれば、上村・下村合わせて309石余が篠山藩領、714石余が鶴牧藩領であるが、廃藩当時領主及石高調(「京都府市町村合併史」所載)には323石余幕府領、748石余鶴牧藩領と記す。丹波六郡御料私領高附帳(「船井郷誌」所載)も、右の石高とは異なるが、幕府領と鶴牧藩領の分割支配としている。ほかに、全村幕府領であったとするもの(船井郡誌)や、鶴牧藩領になったのは天保14年からとするもの(丹波誌)などがある。
明治4年鶴牧県・篠山県を経ていずれも京都府に所属。同6年小学校質実校を開設。同7年質実上・質実下・北久保の3か村を合併して質実村に復す。同22年市制町村制施行後も単独で自治体を形成した。
近代の質美村は、明治22年~昭和26年の船井郡の自治体。大字は編成せず、昭和3年、質実村実業補習学校設立。中学校は新制度発足以来、須知町などの組合立による蒲生野中学ブロック(現丹波町)に入っていた。大正14年山陰線下山駅開設により府道大身下山停車場線が開通,昭和24年には下山駅~三ノ宮間に丹波バスが運行され,隣接地区との関係が密接になった。同26年瑞穂村の大字となる。
質美は、昭和26年~現在の大字名。はしめ瑞穂村、同30年からは瑞穂町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。


質実の質は須知のことあろうか。隣の酒治志(質志)のシも質実のミはなくてもいいような語かも知れない。神、公、臣とかのミでなかろうか。シの隣と区別するための語かも。。。
シツミというところは意外に多い。
西国29番札所「松尾寺」の縁起にも、漁師が嵐に流され、きかいが嶋へ着き、そこからは大木に乗って「神野浦しつみのはまに着にけり」という。高浜原発3・4号機のすぐ隣りの浜である。
若狭で言えば小浜市に志積、但馬国七美郡七美郷、ここには式内社志都美神社二座、大和国葛下郡の式内社志都美神社。弥生か古墳時代に遡る古い言葉のようである。
富山県新湊市七美、石川県羽咋郡富来町七海、石川県鳳至郡穴水町七海、島根県飯石郡頓原町志津見。但馬の七美荘の開発領主は日下部氏の流れを引く七美五郎大夫という。


《質実の人口・世帯数》 441・194


《質実の主な社寺など》

三峠断層
三峠断層は、福知山市南東部から船井郡京丹波町の北部まで、西北西−東南東方向に延びる長さ約26kmの断層で、北東側隆起の成分を伴う左横ずれ断層と推定されている。昭和43年に和知地震を起こしている。

三峠・京都西山断層帯」より↑

『和知町誌1』
和知地震と三峠断層
昭和四十三年(一九六八)八月十八日十六時十二分に地震が発生し、十六時十三分にも再び発靂した。気象庁によれば、震源の位置は東経一三五度二三分、北緯三五度一三分で、震源の深さは最初が○キロメートル、二回目が四〇キロメートル、マグニチュードは一回目が五・六、二回目が五・二で、和知地震と呼ばれている。これらの地震は三峠断層の活動によるものと推定されている。
三峠断層は、三峠山の南側を西北西-東南東方向に走る断層で、断層線を横切る河谷に系統的な左ずれの屈曲が認められることや、高位段丘堆積物が断層によって切られていることなどから、活断層の一つと見なされている(活断層研究会・一九九一)。
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三峠断層


八幡宮

参道の入口は質実街道に面してある。山城の跡地なのか、八幡神といい、そんな感じがする境内である。一番高い所にあるのが本殿の八幡神社、中にあるのは高良玉垂命を祀る高良神社、一番手前が厄除神社。
沿革は明らかではないが、社伝によれば、天暦年間(947-957)に現在地に社殿を建てたが、延元年間(1336-40)兵火によって焼失したという。寛正元年(1460)や慶長年中(1596-1615)にも社殿を焼さ、安永5年(1776)社殿再建。現社殿は寛政8年(1796)の再建で、この時の仕様書が現存する。正徳6年(1716)の年紀をもつ鰐口もある。現在10月15日の例祭には山車4基、屋台4台が列を正し、社前に参入する。船井郡内ではほかに類例のない規模であるという。
高良(たから)神社が当地の元々の氏神かと思える。この名の社はけっこうあちこちにあるが、タは接頭語でカラはクリと同じで大村の意味か、それとも加羅国のことか。ラを接尾辞とみれば、ar神社か。また託羅、高良、田倉はよく鉱山でもあるよう、三峠断層の谷なので、どこかに鉱物があっても不思議ではない。何とも史料なくこれ以上はわからない。

社殿が並ぶ下側境内に「産子堂」と屋台庫がある。
産子堂は和知町下粟野の観音堂に似た建物で、その室町時代の、同じ役割のものではなかろうか。

案内板がある。
産子集会所(うぶこしゅうかいしょ)
由錯
ここ質実八幡宮には、江戸時代後期の本殿と室町に遡る部材を持つ産子集会所と言う有形文化財(建造物)がある、産子集会所は、もとは宮寺の本堂だったかとみられる桁行五間、梁行五間と大型の仏堂である。宮寺及びその建物についての記録類を欠いており、由緒 来歴は詳らかでなく、わずかに「昔、質実庄四ヶ村(行佛 庄 下村北久保)と和知庄(安栖里 中山 小畑)の鐘打山の帰属をめぐる論争に、質実側が破れた時に鐘打山から仏堂を持って帰ってきた」という伝えがある。丹波地方に残る数少ない中世仏堂の遺構として評価できる。お堂内に祀るられている仏像は八幡大菩薩とその両脇に雨宝童子 難陀龍王と思われる。


鐘打鉱山だったよう。最近まで鐘打マンガン鉱山のあった所で、中世以来、鐘撃山寺と言われる金打山(金撃谷)に七堂具備の大伽藍があったと伝えている。真言の大刹であったが、南北朝動乱の兵火で焼かれて廃寺となり、同寺の仏像などは、小畑・中山・角・安栖里などに疎開・避難させ、その後各地で堂宇を建立して仏像を安置したと伝えられている。
質実もかなり利権を持っていたのでなかろうか、しかし鉱山は裏山の向う側なので質実は負けて、このお堂だけ貰ったものか。


曹洞宗徳善寺(中村)

延文2年の創建で、足利尊氏の開基という。

曹洞宗洞現寺(ダン)

天文6年の創建。ここから登るよう…

曹洞宗福寿寺(下村)

正保2年の創建という。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


質実の主な歴史記録


『船井郡誌』
質実村
一、沿革  古の郷名詳ならず、或は鼓打郷の一部なるべしといふ。今、北久保、下、上野、中の四大字あり。徳川時代には徳川氏直領にして代官小堀數馬の支配地たり。明治二年久美濱縣に屬し、翌三年篠山縣に轉屬せしが、四年十一月京都府の所轄となれり。五年五月行政區劃を定むるや、船井郡第十二區に屬し高原村の四村と一區をなしゝが、十二年郡區町村編成法により、三宮村檜山村の諸村と組合となり、十四年二月組合の改正に當りて分離せり。十七年七月又高原村と聯合して聯合戸長役場を設けしが、二十二年四月町村制育施に當り、北久保、下、上野、中の四村を合併して質美村と稱し、獨立の一村を形成したり。


質実の伝説








質実の小字一覧


質美(しつみ)
一ノ谷(いちのたに) 岩倉(いわくら) 大谷(おおたに) カラト石(からといし) 北山(きたやま) 行仏(ぎょうぶつ) 久保田(くぼた) 下祠田(げしでん) 清水本(しみずもと) 谷岡垣内(たにおかかいち) ナ畑(なばたけ) 松尾(まつお) 山内垣内(やまうちかいち) 高岩(以上、行仏(ぎょうぶつ)
岡崎一ノ切(おかざきいちのきり) 岡崎二ノ切(おかざきにのきり) 岡崎三ノ切(おかざきさんのきり) 尾長谷(おながたに) 才ノ奥一ノ切(さいのおくいちのきり) 才ノ奥二ノ切(さいのおくにのきり) 谷垣内(たにがいち) 谷ノ下(たにのした) 谷ノ奥(たにのおく) 田部(たべ) 寺ノ下(てらのした) 徳善寺(とくぜんじ) 中村(なかむら) 西ノ林(にしのはやし) 西丸尾(にしまるお) ハナソゲ 三好本(みよしもと) ユリノ上(ゆりのうえ)(以上、中村)
アンノ上(あんのかみ) 庄ノ上(しょうのうえ) 庄ノ下(しょうのした) 丹垣内(たんかいち) ダン 段ノ奥(だんのおく) 林垣内(はやしがいち) ユリノ谷(ゆりのたに)(以上、庄ノ路(しょうのじ))
奥ノオク(おくのおく) カマタ 庄和ノ上(しょうわのうえ) 田中地(たなかぢ) ノダジ 林ノ下(はやしのした) 宮山(みややま) 宮ノ奥(みやのおく) 森峠(もりとうげ) 和田(わだ) 和田一ノ切(わだいちのきり) 和田二ノ切(わだにのきり) (以上、和田)
上野(うえの) 上野ノ下(うえののした) 上ヒロノ(かみひろの) カヤノ木(かやのき) 竹村垣内(たけむらかいち) ノボリヲ 広野一ノ切(ひろのいちのきり) 広野二ノ切(ひろのにのきり) 広野三ノ切(ひろのさんのきり) 山田垣内(やまだかいち)(以上,上野)
一貫杉(いっかんすぎ) イワタ 桑ザコ(くわざこ) 沢田ノ下(さわだのした) 白フジ(しらふじ) 白屋ノ下(しらやのした) タカヲ 西分(にしぶん) 山内(やまうち)(以上,白屋)
今山(いまやま) 大西(おおにし) シチ山(しちやま) 峠ノウラ(とうげのうら) トビガヲ(以上、老路)
市ケ畑(いちがはた) 岩尾(いわお) 奥ノ本(おくのもと) 下辻(しもつじ) フノカ 室垣内(むろがいち) 柳迫(やなぎさこ) 吉尾(よしお)(以上、空路)
イ子山(いねのやま) 熊ガ谷(くまがたに) クラモト 黒尾(くろお) ナカノ 東谷(ひがしたに) 的ガ市(まとがいち) 丸尾(まるお) 丸山(まるやま) ユリ ワキ谷(わきたに)(以上、中野)
アシタ谷(あしたたに) ヲウゴ 上垣内(かみがいち) シヲヤ 庄谷(しょうだに) 中地(なかち) 西地(にしち) 野田(のだ) 東地(ひがしち) ヒデリ 南地(みなみち) 山内垣内(やまうちがいち)(以上、北久保)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
その他たくさん



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