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丹波の

曽根(そね)
京都府船井郡京丹波町曽根


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京都府船井郡京丹波町曽根

京都府船井郡丹波町曽根

京都府船井郡須知町曽根




曽根の概要




《曽根の概要》
丹波運動自然公園のあたりになる。南方の山手に、塩田谷古墳公園や京都縦貫道の京丹波パーキングがある。
高屋川の支流曽根川下流域に位置する。平城京出土木簡に「出鹿郷曽尼里」と見える、その「曽尼里」で、その時代までは文献的にもさかのぼる歴史を持つ。
村域は広大であるが丘陵が起伏する高原であるため、水田は比較的少ない。また土質は磽薄ともポロポロの黒土(黒ボク)とも呼ばれている。
当地一帯に広がる原野を深志(ふかし)野と称している。これと蒲生村の蒲生野を併せて須知野とよび、長田野(福知山市)とともに丹波の二大原野と称される。
曽根村は、江戸期~明治22年の村。旗本川勝氏と園部藩の相給地。旗本領は明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、園部藩領は同4年園部県を経ていずれも同4年京都府に所属。同22年須知村の大字となる。
曽根は、明治22年~現在の大字名。はじめ須知村、明治34年須知町、昭和30年からは丹波町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。

出鹿郷(いずしかごう)
 「和名抄」丹波国船井郡11郷の1つ。高山寺本・刊本とも訓を付していない。他国にみえる出石・出部・出水の「出」は「伊都」あるいは「伊豆」であるので、「日本地理志料」の「伊豆之加」は妥当な訓であろうという。
 郷名の所見は平城宮出土木簡で「丹波国船井郡出鹿郷曾尼里素人□□米」とみえる。また「東宝記」に載せる天暦8年(954)5月15日付太政官符は得度者4名を記すが、そのなかに「丹波福秀年卅八(割注・丹波国船井郡鹿郷戸主正六位上同姓継有戸口)」がいる。鹿郷はおそらく出鹿郷の謂であろうという。
「延喜式」神名帳の「出石鹿イソ部神社」は当地にある何鹿(いつしか)神社に比定される。イソ部がなまって曾根になったといわれる。郷域は現丹波町の曾根川およぴ須知川流域の高原一帯と想定されている。
『船井郡誌』
出鹿  伊豆之加と訓す、延喜神名式に船井郡出石鹿イソ部神社あり、東寳記天暦八年の官符船井郡出鹿郷の戸主丹波直繼有といふあり。本郷は郡の中央にありて、今の竹野村高岡、水戸、新水戸、須知町市森、曾根、塩田谷、安井、檜山村小野の諸村は古への境域なるが如し。


《曽根の人口・世帯数》 187・76

《曽根の主な社寺など》
塩谷古墳群(塩谷古墳公園)

正面の古墳が5号墳で群中最大(15.5m)の円墳、一番高い位置に築かれた盟主墳。
ここから巫女型人物埴輪2体が出土した。右のテントは京都縦貫道京丹波パーキングのもの、パーキングからも来られるそうである。

5号墳の墳頂から4、3、2号墳と続いて築かれている。1号墳というものがない。
もっと高いマウントだったと思うが、長い歳月の間に流されて、こう低くなったものと思われる。竪穴式の木棺墓のようで、古い型のほうであるよう。
当古墳群の南にも塩谷南古墳群、北側の写真の左右に通るのは府道444号で、その向う側水田中にも宮ノ浦古墳群がある↓

左の白いお家の右側の赤い木の後のちょっとコンモリしたものが古墳と思うが、道がない、どう行けばいいのか。それは横穴石室古墳で塩谷当古墳より新しいよう。
アンテナの山は花岡山。

案内板

塩谷古墳公園
京丹波町史跡 塩谷古墳群
 塩谷古墳群は、5世紀末から6世紀前半のもので、小高い丘の上に築かれた直径8メートルから最大15.5メートルの12基の大小の古貫で形成されています。丘陵最頂部に位置し規模も最大である5号古墳から、全国でも貴重な巫女の形をした人物埴輪二体が出土しました。
 古墳群の保存(現在11基)をするために、自然環境と歴史的環境を整備し、身近に歴史にふれあってもらう場として「塩谷古墳公園」として整備してあります。
 巫女埴輪は、京都府指定文化財として指定され、現在、公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センターに保管されています。

別の案内板には、
この埴輪は、およそ1500年前葬られた人に仕えるように立てられていました。高さは約75㎝で、スカートのような服(裳)を??、筒袖の上着を着て、襲(おすい)と呼ばれるものを羽織り、その上から襷と帯をつけています。服や帯には斜線や円形の模様がていねいに描かれ、曲玉と丸玉の首飾りをしています。両手に弓とか壺をささげていたようですが、持っていたものは見つかりませんでした。

長い顔の渡来人、振袖のような衣装、頭は何というものか。須知集団の巫女だったのだろうか。興味つきない土地柄に残されたナゾめいた古墳、出土品としてはほかに円筒埴輪、須恵器、鉄鏃、刀子があるというが、詳しい資料は手元にない。
塩はシホ、塩谷は舞鶴の祖母谷とかと同じ地名かと思うが、遠いワレラが祖の彼らが残した地名と思われる。鉄を言っているのか、ソフルを言っているのかわからないが、どちらと見てもほぼ正しいかも。。。。
何ともミヤビな、ここは田舎でなかったな、この埴輪が出たから全体が整備されたのではなかろうか、そうでなければほったからかしではなかっただろうか。。。


何鹿神社(式内社・出石鹿イソ部神社)(イソは山偏に石)

何鹿神社(いつしかじんじゃ)
和名抄の郷名は出鹿、式内社名は出石鹿と書く。当社は何鹿と書く、漢字は違うが発音は同じ。
元々は南方の塩田谷に鎮座あったというが、今は府道444号沿いに鳥居が、その北に本殿がある、塩田谷を流れ出た曾根川東岸に鎮座するが、この川上にあったようである。大原神社ともお友達の様子に見える。


祭神は品陀別命・大山祇命・彦狭知命。旧郷社。「延喜式」神名帳の船井郡「出石鹿山+石部(イツシカイソヘ)神社」に比定される。祭神は、江戸時代は天御食持神とも大己貴命ともいわれ、定まっていなかったようである。そのためか、明治初期の「式内神社考証」は祭神不詳とする。
古来山内庄山王七社の一宮で、丹波・瑞穂両町に七宮を称する七社が鎮座する。
草創については不詳であるが、社伝によると天武期の創始で大宝2年(702)より出石鹿山+石部神社と称したという。当地は古代出鹿郷の地と考えられ、正和4年(1315) 「何鹿」と改称したとされる。永禄12年(1569)の本殿新築の棟札(寛文2年の写)に「奉造立山内庄塩田村何鹿大明神」とあり、瑞穂町橋爪に鎮座する二ノ宮八幡宮御輿寄進帳には「(山内庄)同庄曾根村一之宮」とあるので、この間に現在地に移転したと思われる。「塩田村」は当地西南方の塩田谷一帯と考えられる。神宮寺は安井の浄光寺で、当社の古記を保管していたが正和年中の火災で焼失したと伝えられる。先述寄進帳によると祭礼には二の宮から神幸があった。山内庄七社の神輿は当社の西方にある神輿(しんよ)岩(今は取り除かれているそう)に集合したという。
案内板がある。
何鹿神社(延喜式内 出石鹿山+石部神社)
鎮座地 京都府船井郡丹波町曽根小字竿代二十九番地
祭 神
大山祇命 山の守護、野の守護、田畑の作り物 延命長寿、産業発展の守り神
御神徳
品陀別命 健康、厄除け、家内安全の守り神
彦狭知命 建築、技能、芸能の守り神
年中行事
歳旦祭、一月一日。元始祭、交通安全祈願祭、一月三日。祈年祭、新入学児童修学祈願祭、三月中旬。春季例祭(誕生祭)四月二十六日 さなぶり祭、大祓式、六月下旬。秋季例祭、十月十七日。新嘗祭、七五三詣り、十一月下旬。大祓式十二月下旬
氏 子
曽根・森・安井・塩田谷・院内・幸野 一四四戸
境内神社
春日神社、大原神社 境内地 二三二五.七一㎡
由緒その他
天武十二年すでに社があってと伝えられ、大宝二年(七〇二)から出石鹿部神社、
正和四年(一三一五)から何鹿神社と呼称している。
永禄十二年(一五六九)再建、弘化五年(一八四八)再建。
貞和五年(一三四九)に書かれたと認められる大般若経が明治六年(一八七三) まで社内に存在していた天正の頃(一五七三~一五九一)まで中丹波山内荘 七社の神輿が当社に集まり祭礼式を執行した。
本社は山内の荘の一の宮とされ、昔から荘内の人々が尊崇し神輿の 存在中は例祭日に右七社の神輿をかついできて御旅祭礼があったと 伝えられる。
平成十一年五月十二日不審火により全焼した本殿は弘化五年二月 再建のもので、三間社流造桧皮葺(五〇㎡)軒唐破風の向拝を一間に 造る形式、端正な中に柔らかな味を漂わせ江戸末期の特徴をよく 現した建物で、その上に覆屋銅板葺(八二㎡)があった。
現在の社殿は、平成十一年氏子の中より再建委員八名、委員長は村山和夫を選出、 再建の議がまとまり、平成十二年四月より十年間、氏子一戸につき毎月二千円宛の積み立てにより工費を拠出することとなり、設計を谷垣俊平、施工を松本寛・森次郎・北村亨・西畑幸二共同企業体、代表松本寛が担当、平成十二年四月二十五日着工、平成十三年十月完成。その工費約七千萬円 その規模形式は三間社流造銅板葺神饌所を併設し約六十㎡である。



『船井郡誌』
出石鹿山+石部神社
祭神不詳 第八區曾根村何鹿神社此歟
 按スルニ何鹿神社ハ粛然夕ル舊社ニシテ、則チ數ケ村ノ土産神ナリ、今出石鹿山+石部神社夕ル確證ヲ見スト雖モ、何鹿ハ是出石鹿ノ文字ヲ轉シタルニテ、曾根村卜云ハ山+石部ノ訛夕ル如ク、又社傳ニモ正和年比迄ハ出石鹿山+石部卜稱セシト云ヒ、又舊藩ニ於テモ之ヲ出石鹿山+石部神社卜考ヘタルヲ見レハ、蓋シ疑ヒナカルヘシ
.

『丹波町誌』
何鹿神社
一、所在地 曽根小字竿代
二、祭 神 大山祗命、品陀別命、彦狭知命
三、例 祭 一〇月一七日
四、由緒、その他
 白鳳時代(推古天皇代)既に社があったと伝えられ、大宝二年(七〇二)から出石鹿石+砂部(いずしかいそべ)神社、正和四年(一三一五)から何鹿神社と呼称している。永禄一二年(一五六九)再建、弘化五年(一八四八)三度にわたり建営された。貞和五年(一三四九)に書かれたと認められる大般若経が明治六年(一八七二)まで社内に存在していた。
 天正の頃(一五七二~一五九一)まで中丹波山内荘七社の神輿が当社へ集まり祭礼式を執行した。ある祭礼式のとき、氷上郡黒井城主赤井悪右衛門尉が通りかかり、往来の妨害になるといって神輿を破壊した。その神輿の屋根と台だけが近年まで残っていた。このため現在も神輿を出さない。また、社殿から約四〇〇メートル西の方に神輿石と伝える大岩石があった。
 本社は山内の荘の一の宮とされ、昔から荘内の人々が尊崇し、神輿の存在中は例祭日に右七社の神輿をかの岩石にかついできて御旅祭礼があったと伝えられる。
 なお、『イズシカ』は「清い水の川のほとり」の意といい式内社として見えている。
 氏子 曽根・院内・塩田谷・安井・幸野の五区、一八〇戸


イソベの転訛が曽根と郡誌も述べているが、『大日本地名辞書』も、
曽根は山+石部イソメの訛なるべし、〔本国官社考神祇志料〕其例のあることなり。
としている。
『日韓古地名の研究』は、当社のシカはシキのこととしている。イヅシキのことなら、イヅ村の意味、その名から見れば天日槍系か。酒治志神社はシュチシキかも知れない。
イソベはソであろうから、須知の称号を持つソ系、新羅や伽耶系の金属技術を持つ渡来人たち、後に秦氏の一団となる人々の開拓になる村々であったのかも知れない。日本人の成り立ちのそもそもがわかやすい場所かも知れない。

曹洞宗金桂山宝昌寺

旧山陰街道沿いにある。
『丹波町誌』に、
金桂山 宝昌寺
一、所在地 曽根小字曽根
二、宗 派 曹洞宗
三、本 尊 釈迦牟尼仏
四、沿 革
室町時代の中期、玉雲寺六世盧月禅林和尚を開山とし、長禄三年(一四五九)に創立した。明治の初め頃寺格を法地に昇格、昭和五六年本堂を改修、同五八年庫裡を建立して堂宇を改める。
 境内に薬師堂があり、立派な薬師如来の立像がまつられているほか、明治のはじめ頃、中上村より移築されたと伝えられる一間半四方の観音堂がある。
住  職 大倉寛道
檀家信徒 四〇戸
年中行事 …



府立丹波自然運動公園


国道9号側がメーンゲート、ふかし野の原生林を生かした大公園となっている。デカイ公園で写しようがないが、『丹波町誌』には、
京都府立丹波自然運動公園(丹波町曽根)
 京郁府は開庁一〇〇周年記念事業として、丹波町曽根の地に、丹波地方一体の文化・経済発展に資すべく、運動と憩いの場を完成させた。
 丹波高原の大自然を背景に、勤労者の休養、青少年のスポーツの交歓、子供の夢を育て、また自然観察などの場として、国道九号と二七号分岐点の南西に広がる丘陵地帯の一角に建設されたものである。この地は、山・川・池など自然公園には、最良の地形で、この地形の特性を生かし、運動施設・公園施設・サービス施設が自然林とともにうまくかみ合わせてある。
 昭和四三年一〇月着工、同四五年二月にオープーンした。
 運動施設として、トラックー周四〇〇メートル八コース、全フイルド競技のできる第三種公認陸上競技場一周三〇〇メートル、六コースのトラックと天蓋付き八〇メートル五コース直線走路をもつ補助競技場、テニスコートー○面、バレーボールコート六面、軟式野球場三面などがある。
 サービス施設として五三〇〇平方メートルのシンボル広場、バス八〇台・普通車五〇〇台収客できる駐車場、ゲート・緑の遊歩道・二〇〇人収容の宿泊所・財団法人京都府立丹波自然運動公園協力会による休憩施設数か所が設けられている。
 昭和四八年五月には中央管理棟が建設され公園の管理統轄が行なわれている。また、同年子どもの広場・三段池が設けられ、昭和五五年には国際児童年を記念して、体育館(四四メートル×三二メートル、一四〇〇平方メートル)が建設され、体育スポーツを通じてたくましい青少年の育成と府民スポーツの進展がはかられている。
 マラソンコース・ゲートボール場二面も設けられ、水泳施設・天文観測施設などの設置計画もある。京都府は昭和六三年に国体開催が計画されており、当運動公園は、府はもとより、わが国のスポーツ界の殿堂として名声を博する日も遠くないことであろう。
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花岡山
頃は元禄、貝原益軒がこの地を旅したそうで、「但州湯嶋道中独案内」に
 花崗山、この山つつじ美事なり。麓をふかし野という。
一休の歌あり『花崗や夜をふかし野に来てみれば、衣のすそはしおたえにけり』この辺塩田村という所あり

その花岡山は当公園の一番奥にある。


京都農牧学校
明治9年京都府によって京都農牧学校が創設され、米国人ジェームズ・オースチン・ウイードが教師主任として招かれた。構成員は実習教員5・専務1・農夫3・小使兼農夫2で、通訳として野見識之助があたった。現業技術1年半・学問講義3年間の科目が課され、洋牛18匹、羊およそ50匹などの家畜を飼育したが、同12年民間に払い下げられて廃校となる。現京都府立須知高校はその後身である。
国道9号沿いに記念碑がある。須知高校の向かい側。

黒ぼくの大地を拓いた人々
 明治九年から、同十二年まで、この地に我らが母校の前身とも言うべき、京都府農牧学校が存在した。青雲の志を抱いて各地から集まった生徒ちが、米国人ジェームス・オースチン・ウィード先生を主任とする教職員から、当時最新のアメリカ式近代農業を学んだ。
 授業は、今も保存されているアメリカの教科書、農具を用いて英語で行われ、馬に曳かせた米国式大農具を使って開墾がなされたという。学校の敷地は、約二町歩、四方に濠をめぐらし土塁を築いて、東西南北に門があった。この背後の池は、その正門前の濠の一部である。
 駒場農学校(現東京大学)、札幌農学校(現北海道大学)と共に、日本三大農業教育発祥の地と謳われた京都府農牧学校は、もしその後も存続していれば、大学にもなりえた学校であった。
 我々、船井郡立実業学校、京都府立須知農学校、同須知農林学校、同須知高等学校の卒業生は、ここを訪れる若き後輩諸君が、近代日本の黎明期に、その礎を築いたウィード先生と先輩諸氏を偲ひ、彼等のあとに続いてくれることを祈念し、この碑を建立する。
平成十二年四月吉日
  京都府立須知高等学校同窓会

農業やったことがない者が説明するのもエエンゲンなハナシだが、黒くてボクボクした作物が育たないやっかいな農家を苦しめた土壌のようである。「黒ぼく」は火山の噴出物と植物の腐植土からできた土のことだが、非火山性のものもあるという、酸性のため土壌改良を必要とし、風害や干害を受けやすい痩せた土地で、自然のママならススキの原野などになるという。

《交通》
須知飛行場
大正11年から一時期民間飛行場(須知飛行場)が置かれたという。16師団の飛行場も計画されたというが実現はみなかったという。

《産業》


《姓氏・人物》


曽根の主な歴史記録


平城京出土木簡
『丹波町誌』
平城宮木簡(出鹿郷)
 昭和三六年、平城宮跡から多数の木簡が出土した。この木簡は奈良時代の文化を語るきわめて貴重なものである。その中に丹波町に関係のあるものが一点あった。その木簡には、
丹波国船井郡出鹿郷曽尼里秦人□□米
とあった。これは出鹿郷の曽尼(現在の丹波町曽根)に住む中国渡来人が朝廷に米を貢献したときに付けた荷札である。年号や日付は書いてないが、書式から判断して霊亀元年(七一五)から天平一二年(七四〇)の間のものである。
 この木簡によって当時この地方を丹波国とよび、船井郡という地域があり、その中に曽尼(曽根)という里が存在していたことや、この曽尼には、その頃秦人が住んで農業を営んでいたことが立証された。
 本町の近隣に綾部市・園部町があり、その名が示しているように、古代からこの地方の各地に大陸から移住してきた人が多くあったのである。
 そして今日までの長い間に大陸文化を伝え、また、先住していた人々と混血同化していったものと考えられる。
出鹿郷は「船井郡誌」によれば、高岡・水戸・市森・曽根・塩出谷・安井・小野(現在の瑞穂町小野)などがその領域であった。


データーベース「木簡庫」によれば、
「丹波国船井郡出鹿郷曽尼里秦人吾□米」と読めるそうである。
秦人は、秦氏の類というか秦氏そのものというか、近い関係にあるよう。秦の始皇帝の裔、中国からの渡来人というのは彼らの自主申告で、実際は新羅や加羅からの渡来人である。須知という称号を持った人に率いられた古い渡来人の裔が、新来の秦氏とはもともと同郷の出身だったので、秦人と名乗るようになったものかも知れない。


曽根の隕石


府道444号線、須知から入って「椿坂」の切り通しを越した所、ひかり小学校の入り口の手前の道縁に「農耕飛翔 須知何鹿の大地」と書かれた大きな石碑がある。実際の落下地はここではないそうであるが、この近くであろうか。
隕石のレプリカはどこかのクソがドロしたようで、残念にもない。小さいほうの石碑には、
宇宙から丹波町への贈物 丹波町に落ちた曽根隕石
宇宙から丹波町へ西暦1866年6月7日(慶応2年)に贈物がありました。それが丹波町の曽根に落ちた「曽根隕石」です。曽根隕石は重さ17.1㎏、縦約16㎝、横約29㎝、高さ18㎝。日本で保有する球粒隕石としては3番目の大きさで、科学的に貴重な資料とされています。落下当時の様子は「正午過る頃、天に大砲を発するが如き二音あり、これに続て吹螺の如く雷の四方に轟くが如き其中に礫を弾きて気を凌ぐに似たる音して何者が落ちたるやうに覚ゆ」と陰陽道土御門家文書に記録が残っています。
現物の曽根隕石は、現在、東京の国立科学博物館に保管されています。


『丹波町誌』には、
曽根の隕石
 天体の一部が空中を飛んでいるものを流星といっているが、たいていの場合、空気との磨擦によってすり減り、地球に達するまでに消滅してしまうものである。しかし、まれに地球上に到達するものがあり、それを隕石とよんでいる。
 慶応二年(一八六六)に隕石が曽根に落下した。その時の記録を、院内の藤田信濃と八木玉の井の山本伊豆正とが作成して陰陽道の土御門家に提出した。その文書が次に示すものである。
 丹波国隕石之事
 慶応二年四月二十四日天気快晴巳半刻頃より暖気俄に過度陰雲四方に飛走すること宛も白雨を催すが如し。されども雨は大滴少し零るのみなり。正後過る頃天に大地を発するが如き二音あり。これに続で吹螺の如く雷の四方に轟くが如き其中に礫を弾きで気を凌ぐに似たる音して何者か落ちたるやうに覚ゆ。さる程に轟音も止み午の半刻迄に天も晴れり。人の子出て見渡すに船井郡曽根村の土橋の南なる麦作れる畑より土煙の如きもの立登れり。行て見しに其辺塩硝の香気甚しく畦なる木とも焼折たるもあり。畑の土乾きて方三尺ばかりは白き灰の如く其中に土はらけて打窪める処あり。(俗云すりばちなり)其処を掘らば弐尺五寸ばかりにして石灰の如きものあり。猶穿ちて此石を得たり。其形風折烏帽子の如く其本周二尺中にては壱尺許長九寸許にして末尖れるが如し。重きこと四貫五百六十匁末の半ば塩硝気ありて黒塗たるが如く本の半ば鉱山より出る所の鉱石に似たり。其日村人庄屋勘右衛門の門に持帰り翌日地頭川勝中務より人来り改めて今其代官の宅に在し候也。玉の井村より乾に当りて相距る事三里半程なるに大炮の如き音聞きて地ひびきせりとぞ。院内村よりは巽に距ること五町に過ざれば其轟音甚しき事云ばかりにあらずと申しき。
  慶応二年六月三日
丹波国船井郡玉の井村
      山本伊豆正藤原守忠
同 郡 院 内 村
      藤田信濃藤原元良


国内に落下したものとしては三番目に重い隕石だそうで、現在は府が所有し、寄託を受けた国立科学博物館で常設展示されているという。幅29センチ、高さ18センチ、重さ17.1キロで、かんらん石、輝石、鉄とニッケルの合金などからできているそう。


万延の一揆
『丹波町誌』
万延の一揆
 万延元年(一八六〇)一一月一三日天田郡大身村の半左衛門・甚六・茂助らが、米価があまり高いので豪家と強談しようとして民衆を煽動して細野峠に会合した。これがもとになり一団となって東に向かい、道々住民を集めて、上大久保村の酒屋辻金右衛門方に押寄せて乱暴狼籍の限りをはたらいた。ここで同勢益々加わり、さらに東に向かって水原村に至り、呉服屋菊屋の家尾を破壊した。
 翌一四日には百町(井脇町田)越えで井脇村に出て、旗本柴田領の掛屋である西野又兵衛方に乱入し、槌や斧などで家財道具をうちこわし、天井を破り、銀札を押切りで刻むなどの狼籍をした。
 これより北方に向かい、保井谷・粟野・妙楽寺の各村を襲った。三ノ宮村には綾部藩士が防備していたので引き返して南下した。桧山村で二隊に分かれ、一隊は出口村より和田村に入り、同村の中丹波総代中尾定治郎方に乱入、隣家の中尾弥一郎方をまきぞえにして破壊し、転じて油商上田忠左衛門方を襲撃した後桧山勢と合した。
 群衆の数は二千人ほどで、蓑を着け、笠をかぶったものや、赤い布で鉢巻・たすきがけなどして、手に手に鍬・斧・竹槍・槌などを携えていた。
 沿道の商家は災害をまぬがれるために、たき出しをし、酒食を供するなどして平身低頭してもてなした。
 群衆はまた二手に分かれ、一手は中台村・丹波町院内村を経て東進し、別隊は橋爪村・丹波町紅井村を通って須知村に至り、ここで両隊が合して狼籍におよんだ。米屋や酒屋を襲撃しようとしたが、すでに亀山藩士らが防備をしていたので、これと戦うために竹槍を作った。そのため、深志野の薮はたちまちのうちに伐りつくされたと伝えられている。
 ここで群衆は亀山藩兵に撃退され、首謀者は捕えられた。撃退された群衆は退いて西に向かい、井尻村に至って塙仁輔・荒木茂兵衛らの家を破壊したのち四散した。
 この事件は四日間にわたり、襲撃された地域は一〇ヵ村におよぶ大規模なものであった。首謀者たちは、細野峠で処刑され、京都東町奉行所により罪状を認めた高札が掲げられた。梅田村史はこのように伝えている。
 丹波町曽根にも一揆の記録があり、文中「文久元年辛酉」とあるが、これは「万延元年庚申」のまちがいで、さきに書いた。一揆と同一の事件を記したものと考えられる。参考のため原文を紹介しておく。
 文久元年辛酉冬月日詳ナラズ大身村ヨリ発端シテ人気阜井脇村西野又兵衛殿家屋早朝ニ破リ其毀音近辺江聞へ候 亦火事亦竹ノハゼル音ノ如ナリ ソレヨリ奥へ質志村迄行 又後ヘ帰候故桧山会所江村々役入出張仕其夜須知村へ詰掛ルト申該村街道通行時刻ハ夜四ツ頃ナリ 村々村境ニテカガリヲタキ庄屋役人ハ上下着用ニテ出向下一統之者ハ身ゴシラヘシテ出向申候 此辺ニテハ新田村新江田喜助曽根村明田三太夫是両家ハシダシヲコシラヘ出向申候 夫ヨリ須知村へ追々詰カケ須知村庄屋役人大商皆々赤坂迄酒シダシ澤山持参ニテカガリヲタキ出向申候 須知村庄屋役人商ノ者事売々ノ物品何ニ不限下渡ニ什候間須知村へ詰褂ル義ハ御許申上度ト段々願候得共何事モ申聞ス詰カケ始テ船坂屋喜助宅ヲ毀リヌ笹屋両家ヲ破リ其音前以聞シ故須知村庄屋急亀山へ忠信什候ニ依テ亀山藩士二三人庄屋宅へ出張有之 亀山藩士卜大タイニテー夜須知村ニテ夜明シ翌日大タイノ上に須知村立去曽根村深田迄後へ帰リ蒲生野へ掛ソレヨリ高屋村へ詰行追々実勢木戸新町へ行新町村喜左衛門蔵ヲ破リソレヨリ下胡摩上野へ行上野村喜平次高へ毀シソレヨリ追々段田ノ方江詰行村名ハ分ラズ候へ共其辺ニテ召トラレ又逃去モアリ其後ハ二条役人取調トナリ大身村発頭人証罰シ行レ申候也
 文中「忠信」とあるのは「注進」つまり報告のことで、古い文書に時々出てくる。「大タイ」というのは「応対」のことであろう。また「高へ」は「高塀」のことである。
 幕政の貧困が社会のいろいろな面にあらわれ、幕府の土台をゆさぶるような動きや、外国船の来航など、国は内外ともにゆれ動き、物情騒然としたものがある中で、庶民の生活は貧しく荒廃していて、豪商が物の買い占めや物価の高騰をはかって暴利を得ていることに対する怒りや、日頃のうっ積したものが爆発して、雷同的にこうした行動に走ったものであろう。


曽根の伝説








曽根の小字一覧


曽根(そね)
由り 深シノ 小山八代 塩谷 宮前 岸ケ下 石浦 中道 綾栗 八反目 中上 曽根南 曽根北 宮浦戸麦 北ノ坊 竿代 崩下代 清長

関連情報





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資料編の索引

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京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市








【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
『丹波町誌』
その他たくさん



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