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丹波の

須知(しゅうち)
京都府船井郡京丹波町須知


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京都府船井郡京丹波町須知

京都府船井郡丹波町須知

京都府船井郡須知村須知




須知の概要




《須知の概要》
車でこのあたりを通った人なら、丹波町や京丹波町は知らなくとも須知と言われればわかる場所で、国道27号と国道9号の合流点(蒲生)の京都側への先の4車線直線道路がドッカーンと通る、当地の一帯を代表する中心地である。旧道の旧山陰街道も国道9号と併行して貫通し、その街道沿いにかつての宿場町としての町並みをとどめている。

須知郷
須知という日本語らしくない超古い地名から判断して弥生、古墳時代の古代から栄えた古い地であろうか。シュウチ、シュチ、スチ、シチなどは、人名というか国王・首長・ボスを意味する渡来語で、エライ人でかなり大物の称号で、今の日本語だとだいたいは「王様」の意味合いである。
阿利叱智干岐(『姓氏録』)、都怒我阿羅斯等・角干阿羅斯等(記紀)とかのシチ、シトで、漢字では須珍、須智、叱智、設智、朱智、,臣智などと記される。
阿利叱智のシが脱落して阿利智となり、さらに阿智となったものか。阿利智は大江町の有路、福知山市興の式内社・阿比地神社、丹後加悦町の式内社阿知江イソ部神社、阿比地神社の祭神とされる「アリヲチ」もアリシチと私は見るが、これらも須知と同じであろう。漢氏の祖とされる阿智使主。
『後漢書』の「韓伝」に、
もろもろの小さな別村には、それぞれ渠帥(首長)がおり、〔そのうち〕強大なものを臣智といい、つづいて倹側・??・殺?・邑借の順に〔官名がつけられて〕いる。
東洋文庫本の注には、
臣智は朱智(国王)の意味で、倹側は早岐(小国王・有力貴族)、??(?)は不例(首長・貴族)、邑借は新羅官位名の烏知にあたり、日本語の長(おさ)にあたる。
とある。
『魏志東夷伝』「韓伝」にも
それぞれ〔の国には〕長帥(権力者)がいて、権力の大きな者はみずから臣智といい、それに次ぐ者は邑借という。
須知とは、これら漢籍の臣智(シンチと読むものか)のことである。チは大己貴のチにあたり尊称という。
後漢や魏の時代だから、渡来人でもずいぶんと古い、加羅や新羅からの渡来人集団で天日槍系弥生人、古墳人か。弥生古墳時代に新技術を我国に伝え広めた国土開発のユウである。

手元の資料をちょっと拾ってみると、
遠江国周智郡(静岡県の西部、現行の郡名で、浜松、袋井、森町のあたり。当地の中世武将の須知氏の本貫地といわれる)
伊賀国名張郡周知郷
播磨国餝麿郡周智郷
因幡国須知
綾部市、三和町間にある須知山(国道173号に質山トンネルがある)
京都府船井郡京丹波町瑞穂町質志
朱智神社(山城国綴喜郡式内社)
須智荒木神社(伊賀国阿拝郡式内社)
酒治志神社(丹波国船井郡式内社)
静志神社(若狭国大飯郡式内社)
須知神社(丹後町成願寺)
山口県岩国市守内(しゅうち)
三重県桑名市志知
兵庫県三原郡三原町志知
兵庫県三原郡西淡町志知
大分県佐伯市塩内(しうち)浦

詳しくは未調査ではあるが、こうした時代に「臣智」に率いられた渡来人たちによって開かれた地と見てよいと思われる。幼稚なのがすぐケンカしたがるが、こちらからケンカしたらアカン、世界が笑う、血を分けた兄弟同士である。
ガッコの歴史ではというか、官僚が牛耳続ける官学の歴史学では、こうしたことは語ることはほぼない。図書館へ行ってどんな書物を読んでも書かれていないかも知れない。日本人はあたかも天から降ってきたか、元々からいたかのようなことにごまかすか、ウソをついているが、それらは神話か宗教かシロウト考えであり歴史とか学ではない。
天皇制支配とアジア侵略体制を支える学問、理論としては、真実の過去を語るることは大変に都合が悪かったのである、多くの「ガクシャセンセ」もそれら加勢した。クソ官僚のウソ学問を教えて戦後GHQによりパージになった教員は5000余名とか、クソ学問を疑わない日本兵によって殺されたアジア人は2000万人にも登った。正しく歴史を教えなかった者、教えられなかった者がどうした道をたどるか、ほんの70年ばかり前にワレラが経験した慚愧耐えぬ過去がある。本当に日本人をダメにしてしまったのである。
憲法が変わり、教科書が変わったくらいでは、人の頭の中は変わらない。「過去の亡霊」の「軍国主義者」や「アジア人蔑視者」どもが今の日本にも無数に生き残っている、そして何ぞ新しい思想かのように言っているが、70年前に多くの犠牲の上に否定されたものである。中学生に公教育でバルカン砲操作を教えても問題ナシのどこかの教育委員会だけではない、キミのココロ深くにも住んでいるかも知れないからまずは自身から疑ってかかるべきかも知れない。教育改革とかこんな神話宗教軍国盲信連中が言っているが、驚いたハナシである、改革ではなく改悪だろが。。。

丹波国船井郡須知郷は、「和名抄」丹波国船井郡11郷の1つ。丹波町から瑞穂町にかけての由良川支流高屋川の中・上流域に比定される。郷域には式内社酒治志神社(瑞穂町質志三宮)が所在する。高山寺本・刊本とも訓を付していない。中世、当地には国人須智氏があり、「太平記」巻九の「足利殿着篠村、則国人馳参事」によれば元弘3年(1333)4月に足利尊氏が篠村(亀岡市)で布陣した際にはせ参じた者の一人として「志宇知」氏がいる。観応3年(1352)8月日付中津川秀家軍忠状に「須智之城」が記され、城跡は須知の市森にある。須知の訓は前引「太平記」に「志宇知」とあり、「園太暦」文和2年(1353)6月2日条に地名「志宇智」がみえるので、現在の呼び方が中世以来一般的であったと思われる。古くは本来はどう呼んでいたのかは不明、漢字で表記されているのは、中国人が現地語を聞いてそのように表記したもので現地語の発音通りのものだったかはわからず、シウチが本当に近かったかも知れない。

中世の須知村
南北朝期から見える村名で、「平治物語」に志内六郎景澄と当地名を名字とする者が見え、「太平記」巻17山門牒送南都事に「志宇知・山内・芋毛・村雲ノ者共」、「園太暦」文和2年6月2日条に、「丹波志宇智」と見え、村名は室町期に入って「蔭凉軒日録」に多出するそう。同書永享8年12月19日条に「丹波国須智村 拝領御判」とあり、寛正3年9月8日条には「雲沢軒領丹波須智村」と見える。寛正3年には畿内に大規模な土一揆が起こり「同年十月朔日土一揆、大将蓮田終二遁ルル処ナクシテ淀ニテ誅ラレケリ。残党ドモ丹波国須智村ニテ皆被誅」という。「蜷川家古文書」第23集所収の戦国期の「御料所 丹波山内庄八ケ村 小川殿御領」と題する注文には「須智村 須智知行乱世以来」と見えるそう。

近世の須知村
江戸期~明治22年の村。亀山藩領。山陰道筋には宿場が形成され交通の要地。寛政11年丹波国大絵図に旅罷屋・人足問屋の所在地と記され、京街道の交通の要地として繁栄していた。貝原益軒も「西北紀行」に「須知村、園部より二里有。民家多し」と記す。
万延元年船井郡上久保村に発した一揆では、中台村・院内村経由と橋爪村・紅井村経由の農民が当地で合流している。明治4年亀岡県を経て京都府に所属。同22年須知村の大字となった。

近代の須知村
明治22年~34年の船井郡の自治体。須知・市森・上野・蒲生・曽根・院内・森・塩田谷・安井の9か村が合併して成立し、大字は旧村名を継承した。山陰街道に面する当村は宿場町が形成され、物産の集散地として栄えた。明治32年山陰線京都~園部間が開通。当村は園部以北の交通の要所として、一層貨客の往来が増加、商工業の発展に期待が寄せられた。同34年須知町となる。

近代の須知町
明治34年~昭和30年の船井郡の自治体名。須知村が町制を施行して成立。村制時の9大字を継承。昭和26年竹野村を編入、大字は旧竹野村の4大字を加え、13大字となる。同30年丹波町の一部となる。町制時の13大字は丹波町の大字に継承。
近代の須知
明治22年~現在の大字名。はじめ須知村、明治34年須知町、昭和30年からは丹波町の大字。平成17年からは京丹波町の大字。明治22年横町に須知村役場が設置され、村の中心地となる。


《須知の人口・世帯数》 698・298


《須知の主な社寺など》

愛宕神社
『丹波町誌』
愛宕神社
一、所在地 須知茶ノ木山
二、祭 神 斉火産霊命 大物主命
三、例 祭 四月二四日
四、由緒 その他
 創建は定かでない。社前の石灯籠に寛保三癸亥年(一七四三)とあり。神殿内厨子には安永六年(一七七七)六月吉日とある。天明四年(一七八四)二度の大火に須知の大半を焼失、鎮火守護のため、社殿を改築し、祭祀を盛んにする。 氏子 須知区 約二〇〇戸.



導観稲荷神社

『丹波町誌』
導観稲荷神社
一、所在地 須知小字岩清水
二、祭 神 食稲魂命
三、例 祭 五月五日
四、由緒、その他
 古来、茶の木山の中復岩窟に社殿と鳥居が建っていたが、弘化年代(一八四四-一八四七)本殿・拝殿・鳥居を改築する。大正九年境内の大整備を行ない、現在地に本殿・拝殿を新築し、翌一〇年八月五目盛大な遷座祭を行ない、昭和五六年五月五日再整備、社務所改築、大祭を行ない鳥居を建て替える。
 この神社の祭神は、商売繁盛、勝負の神様である。寛政の頃、力士須知山導観が他の力士七人と共に江戸の土俵で大勝し、篠山藩主青山下野守より恩賞を与えられた。ところがその力士達はことごとく稲荷を信仰し、名もまた、その神社の名をつけていたので、藩主は神の加護に感謝して、自ら諸社を巡拝し幟一流を献納した。この神社も七社の中にある。現在、多紀郡篠山町小田中の稲荷神社本殿に、この力士七人の肖像額が掲げてある。
 例祭は、子どもの日に当たり、祭典のほかに、曵き山、こどもみこし、提灯みこしなどの町内練込みのほか、境内では各種の催物が開かれる。昭和五七年遷座の大祭には稚児行列も繰り出した。
 境内には大杉があり、その下方からきれいな清水が湧き出ている。
 氏子 須知区約三○○戸


導観稲荷神社(丹波町須知)
 毎年例祭が五月五日に行なわれ、曵山一台と子どもみこしが出て須知の町は賑わう。昭和五七年には御遷座六〇年の大祭が行なわれた。歴史は比較的新しい神社である。


曹洞宗普照山正燈寺


『丹波町誌』
普照山 正燈寺
一、所在地 須知小字本町
二、宗 派 曹洞宗
三、本 尊 準提観世音菩薩
四、沿 革
 慶長一一年(一六○六)土地の豪族前田弥五郎が、玉雲寺四七世大通守仙禅師に帰依し請して開山とし創建した。当寺所存の文書「庚申霊験記」によると、明和四年須知の大火に当寺も類焼したと記されているが、現在の伽藍がいつ再建されたものか不明である。昭和五七年位牌堂が建立された。境内には安永の頃(一七七二)建立された庚申堂がある。
住  職 魚住良道
檀家信徒 六五戸
年中行事 …



曹洞宗高野山金剛寺
『丹波町誌』
高野山 金剛寺
一、所在地 須知小字金剛寺谷
二、宗 派 曹洞宗
三、本 尊 釈迦牟尼仏
四、沿 革
 当山はもと真言宗の寺であったが、享保年間(一七一六-一七三四)開基岩崎氏が下方の現在地に堂宇を建立し、玉雲寺四二世応庵妙曇和尚を開山に請し創立された。境内には十一面観世音菩薩の小堂がある。昭和四九年位牌堂を改築、同五七年本堂の修理を行なう。
住   職 河方道彦
檀家信徒  九七戸
年中行事 …






《交通》


《産業》


《姓氏・人物》
須知氏
須知氏は、遠江国周知郡に住した周知景基が源為義に従い丹波追分(今の須知)に移住して当地須知氏の初代となったもので、9代秀基が足利尊氏挙兵時に活躍して摩気・下村の荘を与えられ、市森の須知城主となったと、須知氏系図に伝えられるという。

『船井郡誌』
須知氏 市森城主周知景光の後裔にして、今大字上野に存す。天正七年城陷るに及び、遁れて此處に潜匿したるものなり。

『丹波町誌』
 …(太平記)文中にある久下氏は関東から役人として派遣され、兵庫県栗作村を本拠に勢力を伸ばした国人である。丹波町富田の宇津木寺の文書によれば、その子孫は丹波町高屋村宇津木(現在の丹波町富田小字宇津木)に住んで宇津木城を守っていたという。
 また、文中「志宇知」とあるのは須知氏のことである。須知氏も遠江からこの地へ来て勢力を持ち、須知城・上野城を守りていた(この上野城には上野氏がよっていたとする文書もある。)丹波町豊田にも古城跡があって、「船井郡誌」は須知氏の支城であったと推定している。
 文中の山内氏は山内荘を拠点として台頭してきた国人で、塩田城・豊田城などを構えていた。延元元年(一三三六)山内宗誉が南北朝の戦いに摂津太田郡に出陣した記録がある。
 丹波町口八田には中畑城跡があり、『口本城郭大系』には北道氏の居城であったと記されている。
 これらの国人たちは、乱世を生きぬくために、時には味方となり時には敵となって興亡をくり返したがしだいに衰えていき、明智光秀の丹波攻めを最後にことごとく滅亡したのであった。
 須知氏については、平治物語巻下『悪源太誅せらるる事』の一節に。「須知景澄」が「志内六郎景澄」の名で登場するので知られている。
 -悪源太、父のをしへに任せて山道をせめのぼらんとて、飛弾国に下り給うに、勢のつくことなのめならず。然るに、義朝うたれ給ひぬときこえしかば、みな心がはりして、我身ひとりに成りぬれば、自害せんとし給ひしが、いたづらに死なんよりは、親の敵の清盛父子が間、一人なりとも討って、無念を散ぜんと思ひ返して、都にのぼり六はらにのぞみでうかがひ給う所に、左馬頭の郎等、丹波国の住人、志内六郎景澄といふ者に行きあひ「いかに汝、日頃の契約は。」との給えば、「いかでか忘れ奉り候べき。去りながら身不肖にして、見知る人もなければ、敵をはかって命をつかんと存じて、しる者に付いて、やがて平家の被官となり侍。何が思食。」といひかければ、則ち景澄をたのみてかれを主とし、義平下人に成りて、太刀はき物を持ちで六はらに入り、敵に近付きでうかがひみられけり。-
このことが平家に知れて悪源太義平は誅せられ。景澄も死んだ。籾井家日記は義平の身代わりとなって忠死したと伝えている。
 降って北朝年号の正慶二年(一三三三)足利尊氏挙兵のとき、須知氏がほかの丹波衆とともに味方したのは前述したとおりである。
 さらに時代が降って北朝年号の観応二年(一三五二)時の丹波守護代萩野忠朝に属した中津川小次郎らの寄せ手によって須知城が落城したことが、遠山家文書に記録されている。
 延徳年間になって、時の守護代物部氏が守護細川政元の威を借りて横暴を極め、多くの寺社の荘園を押領し、また国人たちの所職を奪ったとき、無足人(浪人)となった国人たちはその返還を迫って、須知氏を中心にしていわゆる「延徳の国人一揆」を起こした。争いは四年間も続き、須知城は細川氏に攻められて落城した。
 勢いを盛り返した須知氏は弘治年間、八木城内藤氏と戦い、須知城の一郭にある真礼寺が全焼するという痛手を受けた。
 天正年間、須知元秀は明智光秀に味方して八上城攻めに加わり、さらに八木城内藤氏を攻めて討死した。その喪中を明智氏に攻められ須知城は落城、ここに須知氏は滅亡した。天正匕年(一五七九)七月のことであった。
 このように須知氏は記録に残るだけでも数度におよぶ興亡をくり返している。他の国人たちも同じような運命をたどったことであろう。
 真礼寺跡一帯には数多くの石塔が散乱し、埋もれていた。昭和四三年この土地の篤忠家が四年間という月日を費してこれらを探し集め、城山の麓名勝琴滝の近くに安置し、法界万霊塔を建立して供養をした。



これだろうか。

須知の主な歴史記録


『船井郡誌』
須知町
一、沿革  古の須知郷の境域にして、蔭凉軒日録寛正三年の條に雲澤軒の丹波國須智村を領することを載せ、太平記に志宇知、山内の者共と記せること通誌第二章に既述の如し。足利氏季世に至り周知景基、市森城に據りて土豪を服し、近郷を掩有せしが、其孫景光の時天正七年明智光秀織田信長の命を以て當國に徇ふるに及び、其攻陷する所となれり。今、須知、市森、南上野、北上野、蒲生、曾根、院内、森、鹽田谷、安井の十大字あり。徳川時代には須知、市森、蒲生、鹽田谷、安井の五村は亀山藩の所領にして、南北上野及曾根村の一部は園部藩に屬し、曾根村の一部は旗本の士川勝中務の知行たり。院内村は本梅村加舍の代官前田佐助、檜山村の代官柴田七九郎に分屬し、森村は一部は川勝中務の知行にして、一部は泉湧寺、龍安寺、上賀茂社の所領たり。廢藩の後園部、亀岡、久美濱三縣に分屬せしが、明治四年十一月悉く京都府の管轄となれり。二十二年町村制實施の結果、以上の十村を合して須知村とし、三十四年七月村を改めて町となせり。


須知盆地
船井郡京丹波町の丹波町・瑞穂町のけっこう広い盆地。高原のような感じを受けるが由良川支流高屋川の上流部に広がる断層盆地。東西7㎞・南北5㎞。大堰川(淀川の上流)との分水界に近接し、標高160~220mの間にある。
成因的には福知山盆地と同様に、周囲の摂丹山地が南に移動したために生じた断層角盆地で、盆地中には、さらに3段の河岸段丘がみられる。盆地東北部の山陰本線胡麻駅付近は、高屋川と大堰川支流の田原川が谷中分水し、標高わずか208mながら日本海側と瀬戸内海側の水系を分ける分水嶺となっている。
当盆地は古くから交通の要所で、特に古代山陰道が篠山経由を廃してからは、当地を東西に横断する一方、綾部街道が分岐。現在も国道9号と同27号の分岐点にあたる。

『丹波町誌』
須知盆地
 須知盆地の谷底の標高は約一五○メートルで、東隣りの胡麻の地形を見てもわかるように丹波山地の日本海斜面と瀬戸内斜面との分水界に位置している。
 盆地の南縁に沿って標高二〇〇メートルの上位段丘面が分布している。この段丘層は丹波町域外より運ばれできた礫層より成り、外来河川が盆地を縦断していたことが推定される。上位段丘を切って、その下位に高さ八〇メートルの洪積層より台地状の地形が広がっている。この洪積層は盆地内の南部から供給された型を示している。盆地の南側には東西に平行に走る断層角盆地状の篠山盆地があり、さらに須知・篠山両盆地の南縁には東西に平行に走る傾動地塊状の地形が並んでいる。したがって盆地の部分が相対的に沈降する地盤連動が存在しうる可能性が推定され、そこに洪積層が堆積したと考えられる。
 このようにして形成さねた洪積層台地が蒲生野である。

構造線
丹波町全図を広げてみると、町域の中央に須知盆地が大きく位置を占め、その周りが山地となりているが、この盆地からは、安井の谷、竹野の谷がそれぞれ南方へ延びていることに気がつく。安井の谷は、曽根・森・観音寺・光久とほぼ直線状になっているが、これは兵庫県西紀町から藤坂・瑞穂町小野を通り、曽根付近に至る構造線によるものであり、竹野の谷は、日吉町志和賀付近から兵庫県篠山町(大芋)方向に延びる構造線によって形成されたものと思われる。
 また、瑞穂町質志の谷も構造線によるもので、この延長が南東に延び下山から豊田方面に走る構造線と交差しているように思われる。このように須知盆地は複雑な構造線の交差するところに広がった盆地である。





須知の伝説





須知の小字一覧


須知(しゅうち)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
『丹波町誌』
その他たくさん



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