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丹波の

富田(とみた)
京都府船井郡京丹波町富田


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京都府船井郡京丹波町富田

京都府船井郡丹波町富田

京都府船井郡高原村富田

富田の概要




《富田の概要》
舞鶴の方から国道27号を行けば、下山の次、国道9号と合流する蒲生のチョイ手前の広い一直線の道路になる広い農地が広がる(蒲生野)。古い村はこの国道の西側の府道446号線(富田豊田線)沿いにある。
富田村は、明治7~22年の村。高屋・坪井の2か村が合併して成立した。同22年高屋村の大字となる。
富田は、明治22年~現在の大字名。はじめ高原村、昭和30年からは丹波町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。

高屋村(たかやむら)
高屋川の左岸に位置する。坪井村の北になる。
中世の高屋村は、室町期から見える村名で、丹波国船井郡山内荘のうち。「康正二年造内裏段銭并国役引付」に「丹波国〈山だ庄高屋村〉」と見える。この山田荘は山内荘の誤りであろうという。下って「政所賦銘引付」巻2には「一〈飯加〉三上与三左衛門尉貞元同(文明13)八四 五十貫文 星野宮内少輔 丹波国山内庄塩田村并高屋村等 限五ヶ年」と見える。また、「蜷川家古文書」第23集中には、戦国期(永禄初期か)と推定される「御料所 丹波山内庄八ヶ村 小川殿御領」と題する注文があり、その8か村の1つに「高屋村 同前(奉公衆之給分)」が見えるという。
近世の高屋村は、江戸期~明治7年の村。船井郡のうち。「旧高旧領」は西を冠称。旗本武田氏知行地。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年富田村の一部となる。

坪井村(つぼいむら)
坪井村は、江戸期~明治7年の村。丹波国船井郡のうち。高屋川左岸に位置する。園部藩領。幕末に作成された「園部御領古新高附」によると当村は上分219石余・下分293石余からなり、上分の家数29・人数129、牛27、下分の家数40・人数174、牛16。寺社は上分に八幡神社・地蔵堂、下分に曹洞宗牛谷山宇津木寺・御霊宮社・才神社などがある。上分・下分とは川の上・下流域の意で上分は西、下分は東集落をさす。明治4年園部県を経て京都府に所属。同7年富田村の一部となる。


《富田の人口・世帯数》 431・175

《富田の主な社寺など》

美月遺跡
『丹波町誌』
美月遺跡
昭和五五年に発掘された丹波町富田の美月遺跡から、打製石斧、磨製石斧の基部・管状錘・つぼ・かめが出土し、弥生中期の遺跡と推定された。
 つぼは貯蔵用に使われたもので、その口縁部には凹線文・縱長貼付文・櫛描波状文・凹櫛描扇文などが見られた。
 かめは煮沸用のもので、たたいて作ったものが多い。これは畿内に見られる共通的な技法であるといわれている。
 なお、この遺跡からは、これよりさらに後年代の、平安後期から鎌倉時代のものと推定される遺物も出土しており、弥生時代に住んでいた人々が、多年代にわたってここに定住したか、あるいは、弥生時代に住んでいた跡に、別の集団が移り住んだものか不明であるが、わが郷土丹波町には、有史以前の非常に古い時代に、すでに先人が生活していたことが明らかになった。



子守神社

府道脇に鳥居がある。社名や祭日から見れば鍜冶の神社と思われる。一帯は鉄で繁栄した歴史がありそうに思う、鉄の5世紀までは確実にさかのぼれるものと思われる。河守や小森などと同じで水分(ミクマリ)神がミコモリ、コモリとなったものだろう。山内荘というのもこの関係から発した名かも知れない。
『丹波町誌』には、
子守神社
一、所在地 富田小字辻六四
二、祭 神 天水分神 国水分神
三、例 祭 一〇月一七日
四、由緒、その他
 創立の年月は定かでない。天文一二年(一五四三)に神階正一位の宣旨を受ける。天保四年(一八三二)改築、本殿は流造りである。昭和六年延長三八間の石玉垣を建設、この年石造狛犬の寄進があった。大正八年に上鳥居を再建、昭和一九年に神饌所を設けた。
 同二六年には社務所を改築し、新たに神輿庫を建てた。同三四年に第二鳥居再建。同四二年金属板で本殿屋根を葺替え同四三年、明治百年を記念して拝殿を改修、同五八年第一の鳥居を再建した。例祭には氏子たちの供奉で大神輿の渡御が行なわれ、近来は子ども神輿も出て町をねり歩く。当社には室町時代の有名な画家狩野元信の絵馬がある。
 氏子 富田元高屋地域 九五戸



八幡神社
どこにあるのかわからなかった。
『丹波町誌』には、
八幡神社
一、所在地 富田小字大地一三
二、祭 神 誉田別尊 気長足姫尊 比口+羊神
三、例 祭 九月一五日
四、由緒、その他
 天正三年(一五七五)山内の荘太田出雲守秀政が河内国坪井八幡宮から勧請奉祀した。それから年とともに信仰するものが増加したので、神社境内地全部を坪井の人々に提供した。社頭には老杉が五木あり、創建の古さを物語っている。昭和一五年(一九四〇)社殿の改築ならびに神域の整備に奉仕し、また、京都府社寺課長技手後藤柴三郎の指導を受け、棟梁の精技と相まって、昭和一八年三月二八日立派に竣工した。その後も鳥居の再建、参道の舗装、社有林の造成など氏神奉仕に励んでいる。
 氏子 富田 坪井地域二九戸



曹洞宗仏生山宇津木寺

宇津木寺は嘉禎3年創建、釣雪寒江の開基で玉雲寺末。当地方には珍しい当麻曼荼羅が所蔵されているという。
『丹波町誌』に、
仏生山 宇津木寺
一、所在地 富田小字垣内
二、宗 派 曹洞宗
三、本 尊 薬師如来
四、沿 革
 宇津木谷に居城を持っていた宇津木氏の祖久下重光が天台宗の高僧を請して、嘉禎年間(一二三五-三七)に創立したと伝えられる。天文の頃(一五三二-五五)玉雲寺三九世利山正貞和尚を拝請開山とし、曹洞宗に改宗した。その後兵火に遭い伽藍を全焼、現在地に移転された。昭和四一年隣寺合宝寺を合併、同四八年山門ならびに鐘楼堂を建立し、翌年には庫裡を造築、同五〇年には位牌堂を建立して伽藍を完備した。
住  職 関戸恵定
檀家信徒 一一五戸
年中行事 …



曹洞宗雲居山龍泉寺

宇津木寺の隣で、今はこの堂をひっそりと残すのみであるが木喰仏があることで知られる。
『丹波町誌』には、
雲居山 龍泉寺
一、所在地 富田小字岩内
二、宗 派 曹洞宗
三、本 尊 釈迦牟尼仏
四、沿 革
 当山は亨保年間(一七一六-三五)高徳の無得良悟和尚により曹洞宗として開創されたと伝えるが、火災にあい山門小堂を残して堂塔が灰燼に帰した。文化四年(一八〇七)二月木喰明満上人がこの小堂に来寓し、釈伽牟尼仏、迦葉尊者、阿難尊者、自刻像の四体を彫刻、当寺の本尊仏及び脇仏として奉納した。当寺は檀家信徒少く、護持困難のため隣寺の福満寺に合寺することを議決し、目下手続中である。
 当寺の本尊仏及び脇仏の木喰仏四体は現在福満寺に安置している。
住  職 沢野井嘉成
檀家信徒 一一戸


木喰明満上人
 丹波地方で「木喰さん」といえば、この明満を指すほど有名である。
 明満は享保三年(一七一八)甲州八代郡古関村丸畑の伊籐家に生まれ、二一歳の時発心して仏門に入った。四五歳の時、木喰観海に従って「木喰戒」を受け、安永二年に「日本国巡礼」と「千体仏彫刻」を発願し、諸国を巡礼の途中諸所に仏像を刻んで安置した。
 木喰明満が丹波国船井郡八木町諸畑の清源寺を訪れた時はすでに九〇歳に近く、異様な姿で寺門に立った。
 清源寺の「十六羅漢由来記」に「実に僧に似て僧にあらず、俗に似て俗にあらず、変化の人かと思い、狂者の惑うかと疑う」と書いてある。明満は破れ笠をかぶり、一本の金剛杖をついて、箱の中に仏像・のみ・彫刻刀を入れて背負い、野に眠り山に伏して歩いた。
 長年、たった一枚の法衣ですごし、三度の食事も五穀を絶ち、塩味もとらず、ひげも髪も伸びるにまかせた。
 丹波国に巡礼した木喰明満は、文化二年二月、清源寺を訪れて十六羅漢像をはじめ、釈迦如来・阿難尊者・迦葉尊者の像や自刻像を刻んだ。次いで船井郡丹波町字富田の龍泉寺に至りしばらく滞在して四体仏を刻んだ。その後は故郷に向かい、文化七年(一八一〇)に入寂した。幕末最大の彫刻家とたたえられる木喰明満の作品には、仏に対する信仰の安らぎとほほえみを忘れないあたたかさがこもっている。(四体仏は現在蒲生福満寺にあり)




《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


富田の主な歴史記録




富田の伝説








富田の小字一覧


富田(とみた)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
『丹波町誌』
その他たくさん



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