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丹波の

豊田(とよた)
京都府船井郡京丹波町豊田


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京都府船井郡京丹波町豊田

京都府船井郡丹波町豊田

京都府船井郡高原村豊田


豊田の概要




《豊田の概要》
由良川支流高屋川lの上流域、須知高校がある一帯。豊田村は、明治7~22年の船井郡の村。紅井・新宮・谷の3か村が合併して成立した。明治22年高原村の大字となる。
豊田は、明治22年~現在の大字名。はじめ高原村、昭和30年からは丹波町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。昭和23年府立須知農業高校設置、同年10月須知高校と改称。

紅井村(くれないむら)。「圃場整備竣工記念 紅里豊穣」と刻まれた石碑がある、国道9号の南、九手神社の向かい側になる。正面の山は鼓山。

紅村とも書く。古来、兵乱の際に貴族や武士の隠栖地になったと伝える。
中世の紅村は、戦国期にすでに見える村名で、丹波国船井郡のうち。「蜷川家古文書」第23集に、戦国期(永禄初期か)と推定される「御料所 丹波山内庄八ケ村 小川殿御領」と題する注文があり、その8か村の1つとして「紅村 伊勢七郎右衛門殿御知行」と見える。
近世の紅井村は、江戸期~明治7年の村。船井郡のうち。旗本柴田氏知行地。九手神社がある。同社付近には九手梅と称される梅樹が多く、「紅村」は歌の名所であった。
今年の大嘗祭の主基田に隣の南丹市八木町氷所が卜定されていたが、文政元年・嘉永元年の大嘗祭には当村に主基田が卜定されている、「けさよりも夕は梅の咲きみちて日影に匂ふくれなゐのむら」と文政元年主基方屏風に記されたという。
集落部が東から順に谷・紅井・新宮と並ぶためか近世には中村ともよばれた。寛政11年丹波国大絵図には「紅井 谷村」に隣して「中村」と記されている。
明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年豊田村の一部となる。
『船井郡誌』
紅村 歌の名所にして、高屋川の岸に九手梅存す。文政元年、嘉永元年兩度の大嘗會に主基田に卜定せられたり。文政元年主基方御屏風に
   けさよりも夕は梅の咲きみちて
      日影に匂ふくれなゐのひら
とあり。


新宮村は、江戸期~明治7年の村、短波国船井郡のうち。旗本柴田氏知行地。曹洞宗新宮寺がある。新宮池の北の幅約100メートル、長さ1.5キロの通称新宮谷の村。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年豊田村の一部となる。

谷村は、江戸期~明治7年の村。丹波国京都府船井郡のうち。「旧高旧領」では紅井を冠称。園部藩領。曹洞宗玉雲寺末鳳尾山泉谷寺、真言宗松尾山遍照院神宮寺がある。地内城山は、須知氏の城跡で市森城の支城という。明治4年園部県を経て京都府に所属。同7年豊田村の一部となる。


《豊田の人口・世帯数》 (豊田と上豊田) 836・404


《豊田の主な社寺など》
集落東側の小字藤浪(ふじなみ)に豊田車塚古墳(鬼門の森)がある。南丹波に数少ない前方後円墳で、全長31.5メートル、前方部幅7.2メートル、後円部径19.2メートル。古墳中期の姿を残しており、表面には礫が散布され須恵器片も出土した。この古墳の南西に径7メートルの藤浪古墳(ラバ塚)がある。

藤浪車塚古墳(豊田車塚古墳・鬼門の森)
府道446号線に飛び出すようにある。

案内板がある。
丹波町指定文化財
 車塚古墳 一基
由来 前方後円墳
墳  長  三一・五メートル
後円部径  一九・三メートル
 高 さ   四・五メートル
前方部幅   七・ニメートル
 高 さ    一・五メートル
 この古墳は「車塚」ともよばれ五世紀頃に造られた古墳でこの地を支配していた豪族の墓とみられる。
 このような大きな古墳のあることは古くから村が開け、農耕生活が営まれていたと思われる。
 古墳の上には明治初期までケヤキの大木があって、里人から「鬼門の森」とよばれ恐れられ昔の形のまま保存されたものである。
 古代の丹波の成り立ちを考えるうえでも貴重な歴史的文化遺産である。
史  跡  車塚古墳 一基
指定年月日 平成七年三月三十一日
所 有 者 豊田生産森林組合
所 在 地 丹波町字豊田
丹波町教育委員会


『丹波町誌』には、
O前方後円墳
 本町では、現在古墳が四〇基発見されているが、そのうち前方後円墳が二基、他は円墳である。
 前方後円墳の一つ「藤浪車塚」は丹波町豊田小字藤波にあり、長さ。三一・
五メートル、後円部径一九・三メートル、前方部幅七・二メートルもある。
 墳丘の頂上に古くからケヤキの大木があって、里人から「鬼門の森」とよばれ畏敬されてきた。現在ではケヤキはなく、その切株が残っているだけである。
 他の一基は、富田小字カナヤにある「カナヤー号墳(乗鞍古墳)」で、藤浪古墳とほぼ同じ規模のものである。
 これらの古墳は五世紀後半ごろのものと推定される。むかしから神聖視されてきたため今日まで破壊されずに原形を保ってきたものと考えられる。
 こうしたかなり大きな前方後円墳があるということは、大和朝廷の勢力が早くからこの地域におよんでいたことが推察され、古くから開け、広大な地域を支配する豪族が存在していたことを示している。
○円墳と窯跡
 円墳は富田小字カナヤに七基、蒲生字蒲生野に七基、曾根小字宮の浦戸表に五基、曾根小字深志野に八基とい
うように群集墳があり、また単数あるいは複数の円墳も町内に点在している。これらはほとんど町中央部に分布している。。
 これら円墳からは、須恵器・土師器・高坏・つぼなどの生活用具や、まれに鉄刀が出土した。いずれも古墳時代後期(五世紀末)のものと考えられている。
 こうした円墳の存在は豪族に支配されてきた農民の中からも、有力なものが出現したことを物語っている。
 本町には、院内窯跡・天が柵窯跡がありて須恵器が出土しいずれも奈良時代のものと推定されている。これら窯跡は土地造成などにより破壊されて現存していない。



九手神社

国道9号線沿いに鎮座。長元2年の創建と伝え、祭神は大山咋命で、太古丹波が湖であった頃、鋤で湖水を葛野平野に流して丹波を干拓したという伝説を残す。本殿は三間社流造桧皮葺で室町期の造り。同社付近には九手梅と称される梅樹が多く、「紅村」は歌の名所であった。何鹿・能満・子守・瑞穂町の八幡・同酒治志・日吉の各社とは兄弟神社とされ、須知氏系の鉄系の神社なのかも知れない。
案内板がある。
九手神社の由緒
一、鎮座地…丹波町字豊田小字九一二五番地
一、祭 神…大山咋命
一、例 祭…十月十七日
(由 緒)
山城国松尾大社より勧請、長元二年九月二十一日社殿造営。このときの棟札は栗材に墨あと鮮やかに書かれており、今に保存されている。
明応七年三月三日再建、天正十年八月十七日松尾大社の神輿を受納した。御室御所から安政四年三月九手大明神の鳥居額を御染筆お納めになり、同五月菊御紋章付釣提燈一対を御寄付になった。
明治六年、村社に列せられたことがある
大正十年四月三十日、文部省告示第三五二号を以って古社寺保存法第四条により特別保護建造物の資格あるものと認められ、昭和二十五戸年八月二十九日を以って文化財保護法第二五条により重要文化財に指定され、昭和六十一年一月二十二日文部省告示第四号により棟礼二枚追加指定された昭和十年四月本殿解体大修理が行われ、遷座祭及び奉祝祭を奉仕した。これが現在の社殿である
当神社の南約四町に旧山陰街道がありこの街道筋に古昔の九手大明神一の鳥居跡がある。この辺を小字鳥居野という毎年七社の神輿が集合したと伝えられる
中納言大江匡房の詠進歌に
  「たころにそ色は見えけり朝日影
        匂へる椿は紅の里」とある


『丹波町誌』には、
九手神社
一、所在地 豊田小字九手
二、祭 神 大山咋命
三、例 祭 一〇月一七日
四、由緒、その他
 豊田地頭藤原定氏が京都の松尾大社より勧請した。長元二年(一〇二九)九月三一日社殿造営、丹波開発の祖神とした。この時の棟札は栗材に墨あと鮮やかに書かれており、現在保存されている。明応七年(一四九八)三月三日再建、これが現在の社殿である。天正一〇年(一五八二)八月一七日松尾大社の神輿を受納した。安政四年(一八五七)三月御室御所から九手大明神の御染筆の鳥居額をお納めになり、同五月菊御紋章付釣提燈一対を御寄付になった。
 大正一〇年四月三〇日、本殿を特別保護建造物の資格あるものと定められ、昭和二五年八月、国の重要文化財に指定された。昭和一○年四月、本殿の修造が完成、遷座祭及び奉祝祭を奉仕した。昭和二八年九月、工費七二万円を投じ桧皮葺屋根の葺替えを行ない、室町時代の面影を今に伝えている。
 何鹿・能満・子守・瑞穂町の八幡・同酒治志・日吉の各社とは兄弟神社といわれ、日照り、疫病流行の守神として信仰を集め参拝者が多い。
 当社の南約四町に九手大明神一の鳥居跡があり、この辺を小字鳥居野と呼ぶ。毎年七社の神輿を集合したと伝える芝生も鳥居野の畑中にある。
 平安時代の朝官・学者の大江匡房の詠進歌に、
   たころにそ色は見えけり朝日影
            匂へる梅は紅の里

とある。
氏子 豊田区、上豊田区 二六九戸



愛宕神社
どこに鎮座かわかになかった。
『丹波町誌』には、
愛宕神社
一、所在地 豊田小字シミ
ニ、祭 神 斉火産霊命
三、例 祭 七月二四日
四、由緒、その他
 創建は定かでないが江戸末期、新田に大火事があった後に「鎖火の神」として祭った。
 社は通常愛宕山と呼ばれる小高い丘の中腹に建てられており、この山一帯を昔は殿山とも呼び豪族が住んでいた所といわれる。昭和四七年八月忠魂碑を境内に建立、神域が厳かになった。七月二四日の例祭には、燈籠をつくり参拝人が多い。
 氏子 上豊田区 一二八戸
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曹洞宗馬眼山新宮寺

天正2年創建、笠翁開基。市森村の玉雲寺末で寛治4年創建の阿弥陀堂は当寺の付属。境内の長い石段を登ると子安権現堂があり、平安・鎌倉時代の仏像がまつられている。

石段を登ると正面が不動堂、その奥に子安権現堂がある。

『丹波町誌』
馬眼山 新宮寺
一、所在地 豊田小字新宮谷
二、宗 派 曹洞宗
三、本 尊 地蔵菩薩
四、沿 革
 子安権現で知られている当寺は、寛治四年(一〇九〇)新宮大和守重利によって建立されたと伝えられている。室町時代の末期玉雲寺二一世竹翁英公和尚を拝請して開山とし、曹洞宗として再興された。元禄五年(一六九二)新宮大和守の子孫により伽藍を改修した。昭和八年本堂改築、その後閑居を新築して伽藍をととのえ、同五〇年茶室と庭を築造した。境内の山腹に子安権現堂があり、平安・鎌倉時代の仏像がまつられている。(詳細文化財の章)
住  職 辻 昭雄
檀家信徒 六〇戸
年中行事 …


案内板に、
京都府指定文化財
京都府登録文化財
丹波町指定文化財
京都府指定文化財(彫刻) 木造不動明王坐像    一躯
             (平成二年四月一七日指定)
京都府登録文化財(彫刻) 木造熊野十二所権現木地仏像十二躯
             (平成二年四月一七日指定)
丹波町指定文化財(建造物) 権  現  堂      一棟
             (平成二年四月一六日指定)
丹波町指定文化財(書 籍) 紺紙全字法華経      七巻
             (平成二年四月一六日指定)
由来
 子安新宮権現は寛治四年、熊野参籠中、夢のお告けによって白河法皇がここ紅の地に創建されたと伝えられている。その時には、伝教大師御作といわれる多くの尊像が伽藍に祀られ法華経も奉納され、以来安産を守護して来た。
 しかし、長い年月の間には南北朝時代の寺領押収などかあり社塔はすっかり壊れてしまった。
 現今の社殿は元禄五年新宮道意という人が中心で再建の大事業が完成した
 その後三百年補修も折々に行なわれ、最近ては昭和四十五年に全尊像の奉修が、また平成五年には創建九百年記念て、全建物の修復が完了した。
所 有 者  新 宮 寺
所 在 地  丹波町字豊田
丹波町教育委員会


『丹波町誌』
子安権現堂(丹波町豊田)
 子安権現堂は新宮寺境内にあり、その名の示すとおり安産祈願所として鰐口の引き綱につけられた「かねの緒」というお守りをいただき、安産してお礼参りのとき新しい「かねの緒」を奉納するならわしとなっている。
 子安権現堂には愛染明王坐像を中心に千手観音・阿弥陀如来などの本地仏一二体がまつられている。


曹洞宗玉雲寺末鳳尾山泉谷寺

藤浪車塚の向かいあたりにある。裏山の右側は城山。
『丹波町誌』
鳳凰山 泉谷寺
一、所在地 豊田小字谷
二、宗 派 曹洞宗
三、本 尊 如意輪観世音菩薩
四、沿 革
 室町時代の初期、当地の城主樋口信濃守定光の発願により、玉雲寺一〇世太清玄智禅師を招請して開山とし創建した。天正年間住持信玉智蔵和尚の代に再建、昭和五七年本堂の大改修を行ない、翌年庫裡を新築して堂宇を改める。境外に当寺管理の観音堂、薬師堂がある。
住  職 鷹峰道雄
檀家信徒 七一戸
年中行事 …


案内板がある。
丹波町指定文化財
十一面千手観世音菩薩立像 一躯
由来  この観音像は、平安時代の仏像であるが、作者は不詳である。船井郡三十三ヶ所観音霊場第六番札所、旧清水山西王寺の仏像であった。
 御詠歌に「桜咲く清水山の夕栄えに大悲の光、紅の里」と詠われ多くの信仰を集めて来た。西王寺は平安時代に創建され、豊田愛宕山の南山麓に広大な伽藍を有したと思われるが、室町時代に焼失した。以来泉谷寺が護持し現在に至っている。
彫刻 十一面千手観世音菩薩立像 一躯
指定年月日 平成七年三月三十一日
所有者 鳳尾山 泉谷寺
所在地 丹波町字豊田
丹波町教育委員会



浄土真宗大谷派石光山円正寺

大きなお寺で屋根は遠くからでも見えるが、人家の建て込む所で、どこから行けばいいのかまよう。
『丹波町誌』
石光山 円正寺
一、所在地 豊田小字山内
二、宗 派 浄土真宗大谷派
三、本 尊 阿弥陀如来
四、沿 革
 確証はないが、天和三年(一六八三)創建と伝えられる。安政時代を前後して数度火災にあう。残存する唯一のものとしては安政六年(一八五九)と銘記する吊燈籠がある。伝えるところによると、明治初年浄土真宗本願寺派から浄土真宗大谷派に移籍した。
住  職 山田浅信
檀家信徒 一二○戸
年中行事 …



本門仏立宗本門寺

『丹波町誌』
本門寺
一、所在地 豊田小字九手
二、宗 派 本門仏立宗
三、本 尊 南無妙法蓮華経大曼荼羅
四、沿 革
 明治一三年(一八八〇)北桑田郡矢城、村山元右衛門が開導日扇上人より代講師を免許され、丹波一円に布教を広めた。寺はもと胡麻郷村にあったが、明治二一年交通便利な現在地に移した。それ以後、当寺には多数の講師が赴任、住職として布教に専任した。本門寺号は昭和二一年四月一一日呼称、昭和二八年二月二五日宗教法人登記が認定された。
住  職 勝山清敬
檀家信徒 三七戸
年中行事 …



山内庄(やまのうちのしょう)
近衛家領の荘園。天福2年(1234)8月付青蓮院門跡滋源(関白近衛道家の子)の所領注文(華頂要略)に、その末寺常寿院領として、
  丹波国
   山内庄
    所当三十石 在雑事
とみえるのが早い例。
建長5年(1253)10月21日付近衛家所領目録に「庄務本所進退所々」として「(丹波国)山内庄 信輔」とみえ、左注に「京極殿領内」とある。以後、具体的な伝領関係は不明であるが、室町時代のものと思われる年号不詳の蜷川家文書断簡に、
  御料所
  丹波山内庄八ケ村 小川殿御料
 志津師村
 鼓打村
 十勢村
 八田村 勝智院領
 須智村 須智知行乱世以来
 塩田村 奉公衆之給分
 高屋村 同前
 紅村  伊勢七郎右衛門殿御知行
  残三ケ村御年貢百七□余歟、此外地子春成等卅貫文歟、
とあり、山内庄が11村で構成されていたこと、およびそのうち足利義満弟(満詮)の「小川殿御料」分八村の村名が明らか。

『丹波町誌』
山内荘
 丹波町曽根の出鹿神社の祭礼には、そのむかし、荘内七社の神輿が集まったと伝えているから、山内荘は、曽根・院内・森・塩田谷・安井はもとより、その近隣の地域を含めたかなり広い荘域をもっていたものと考えられる。
 瑞穂町橋爪の二宮神社の文書に「船井郡山内荘」とあり、丹波町豊田の九手神社の文書にも「山内荘内」と書かれている。また、丹波町富田の龍泉寺跡の裏山にある経塚の碑に「船井郡山内荘高野村」と刻んである。こうしたことからみても、山内荘は丹波町・瑞穂町にまたがる大きな荘園であったことがわかる。
 山内荘は摂関家(摂政・関白になる家)藤原氏の荘園であった。関白藤原道家のとき、その子の青蓮門跡滋源に与えたものとみえて、天福二年(一二三四)の『滋源所領注文』に、青蓮院末寺の常寿院領として「丹波国山内荘所当二十石 雑事あり」と記されている。
 山内荘は、その後近衛家の領地となったものとみえて、建長五年(一二五三)の近衛家の所領目録に「丹波国山内荘 信輔」とあり、家司の平信輔に荘務を行なわせていたことがわかる。南北朝期の延元元年(一三三六)にも近衛家に安堵されている。
 室町時代には応仁の乱までは足利氏が領有し、足利満詮や義視の料所となっていた。応仁の乱後は幕府料所となっていた。文明年間荘内塩田村を飯河中務丞忠資が知行していたのを須知源三郎が横領したという記録がある。
また、同じ文明年間の『山内荘三か村名主百姓等言上案』には
  御料所丹波国船井郡山内荘三ヵ村
  名主御百姓等謹上
右当所三か村者 小河殿様御料所以来 養心院殿御相続之由緒等によりて、一乱以前まで今出川殿様の御料所として御年貢を進上候事 無其隠者也 然一乱中守護人無謂千今知行候 所詮任先規被補御料所候て被成下御奉書候はば 御年貢等厳重可進納仕候 此事連々雖言上仕候 御成敗遅々候間重而中上候 此旨早々預御披露候 仍粗謹言上如件
 文明十四年十月日

とあり、丹波守護細川政元が山内荘三力村を勝手に自分の所領としたとき、荘民らがもとどおり幕府料所にしてほしいと願い出たものである。しかし、この訴えは通らなかったようである。
 この山内荘から国人山内氏が台頭し、しだいに強大な勢力を持つようになった。



城山
谷集落の北にある山内(やまのうち)谷の東西にはそれぞれ三〇〇メートル近い山がある。谷の東の山(泉谷寺の裏山)を通称城(しろ)山とよび、山頂の平坦部分に土塁や空堀が残り、須智氏の古城跡といわれる。須智城の支城かという。

豊田山城は一番左側の山。一番右側の山にも宇津木山城があった。下から見ればリッパな山城のようである。
『船井郡誌』
城山 大字豊田小字谷に在り。須知氏の城址なりといふ。城主は伊賀に逃れ、須知庄左衛門を稱して藤堂氏に仕へたりと。其老臣樋口某泉谷寺の下に住し、廣大なる屋敷跡を留めたり、子孫山内を稱し尚存す。按ずるに豊田の須知氏は須知町大字上野に存する周知氏の一族にして、谷の古城は市森の支城なり。
丹波・豊田城

『紅村雑記』
豊田にも昔のことを物語る所や名前が若干あるので、拾ってみたのであるが何の資料もないので想像に過ぎないことをお断りしておく。
城山のこと
 字豊田小字谷に在り。須知氏の城址なりといふ。城主は伊賀に逃れ、須知庄左衛門を称して藤堂氏に仕へたりと。其の老臣樋口某泉谷寺の下に住し、広大なる屋敷跡を留めたり、子孫山内を称し尚存す。按ずるに豊田の須知氏は須知町大字上野に存する周知氏の一族にして、谷の古城は市森の支城なり。
と船井郡誌には記載されているが、紅村に須知氏があったことを証明する資料もなく、おそらく大正の初期船井郡誌の編纂に当った当時の小学校長が誰かに聞かれた話を中心に作文されたのではないかと考える。ただ頂上に近い所に屋敷跡らしい所や井戸の跡らしいものがある。城山といっても城門や天守閣があっだのでなく砦であったと思われる。従って平和な時は在所で百姓をしていて、有事の場合は城山の砦に上り武士として働きをしたのではないかと考えられる。



紅村義塾
『船井郡誌』
紅村義塾は島根縣人木島恒太郎が明治九年頃大字豐田に開設したるものなり、経書、史書を授け塾生十名内外あり、二三年にして閉鎖したり。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》
山内(やまのうち)氏
山内荘荘主は山内越中守とされ、土佐藩主山内氏の出身地とされる。その案内看板を当地で見かけたが、『大日本地名辞書』にも、印内村と「中尾村」(中台村)の間に、
山内村あり、是れ土佐大守山内氏の先祖の住めりし所なりと云、

橋爪城(瑞穂町・当地の西隣・檜山のこと)は山内一豊の祖父久豊の居城で、山内氏は当地に早くから勢力を有していたといい、山内伊豆守憲邦(1282年没)、山内越後守憲方(1331年没)などの居城は三ノ宮(瑞穂町・酒治志神社鎮座地)城で、西の城跡には井戸・濠を残しているそうである。
…-久豊-盛豊-一豊-…と続くが、祖父久豊の時代はまだ当地にいて、父の盛豊は岩倉織田家の家老、一豊(猪右衛門)は一時3ヶ月ほどだが若狭高浜2万石の城主を勤めたり秀吉や家康に仕えて、その功により、土佐20万石を拝領したという。恐らく当地の古代須知氏を祖とする一族ではなかろうか。
ついでながら、高浜のあとは長浜城に移り、すぐに天正大地震にあっている。M8以上の直下型、館は崩れ一人娘をなくした。自然には勝てないようで超幸運児にも最悪の悲劇が見舞った。


『船井郡誌』には、
山内氏 土佐藩主山内氏は當町の出なりといふ。貝原盆軒の西北紀行に「山内村あり、是れ土佐大守山内氏の先祖の住めりし所なりとぞ、此邊朝倉山椒多し云々」とあり。太平記に「志宇知、山内、芋毛の者共」といひ、又「長澤、志宇知、山内、葦田の者共」といへり。天正中迄山内氏此處に住したき。

『丹波町誌』
文中(『太平記』のこと)の山内氏は山内荘を拠点として台頭してきた国人で、塩田城・豊田城などを構えていた。延元元年(一三三六)山内宗誉が南北朝の戦いに摂津太田郡に出陣した記録がある。.
「山内一豊の妻」で有名な山内氏。その本貫地については諸説ありで、必ずしも当地とされているわけではない。この時代は名の通った武将でも元は海賊山賊野盗の類や何やらワケワカラン者が多く、当地本貫なら立派すぎる部類にはいるのでなかろうか。



豊田の主な歴史記録


『紅村雑記』
萬燈山のこと
 豊田の南東、小字下川原で国道九号線と胡麻街道にはさまれた山を、今でも年輩の人は萬燈山と呼んでいる。この萬燈山は明治維新頃まで盆の八月十六火に送火を燃して精霊送りをした山なのである。京都の大文字や妙法舟形のようにあの山に在所の方に面して、釣鐘の形に点々と床を作り、十六日夕方に村中の青年層が薪、割木を持って上り、暗くなった頃一斉に火をつけると、全山に萬燈をつけたように、然も釣鐘の形が浮び出て見事な送り火であったようである。火床がいくつあったのか詳らかでないが萬燈を供えたように見えたのであろう。そんな風景を想像し、ゆかた姿で団扇手に送火を眺め精霊を送った昔の人々の暮しに、ゆかしさを感じ心のゆたかさを思うのである。
 送り火が立派に燃え終ると庄屋からお礼の挨拶があり、その後大踊りが行られたようである。こうした風習から豊田の盆踊りは八月十六火が大踊りということが長く続いた。二十四日を「うらぼん」といって踊りが行われたが、盆に裏表があるのでなく、盆のことを盂蘭盆というのが正しいので、二十四日の「うらぼん」は地蔵盆と関係があるように考えられる。なお萬燈山という呼名の山は所々にあって珍しいことではないが、信仰と結びついた昔の人の生活をなつかしく思うのである。


豊田の伝説


『京都丹波・丹後の伝説』
白盆のキツネ  船井郡丹波町豊田
 その昔、タヌキ狩りが大変はやったときの話である。紅村(いまの丹波町豊田)に、二人の男がいた。仮に源吉、三次と呼ばう。この二人が、ある日、さそい合わせて近くの白盆という林にタヌキ狩りに出かけた。
 林の中をかけずり回り、タヌキの穴とおぼしきものを見つけた源吉と三次が、さっそく掘り返してみると、五、六匹の子ギツネが肩を寄せ合い、ふるえていた。「あれ、これはキツネだ」と二人は意外な成りゆきに立ち上がり、ふと振り返ると、子ギツネの親と思える大きな白ギツネが、じっと二人をにらみつけているではないか。気味悪くなった二人は逃げるように家に帰った。
 その夜のこと。三次は、寝ついたところを、だれかに呼ばれたような気がして目をさまして驚いた。マクラ元には白装束の女が一人立っていた。「われは白盆のキツネなれど、お前たち二人は、きょうわが住み家を荒らし、子を奪おうとせしはなぜか。その辺の野ギツネと異なり、われは福知山に祀る稲荷の眷族なるぞ。わが仕うる社は昔は大いに栄えて眷族も豊かにありしが、いまは参拝人もまれになり、供物も少なく、眷族一同たつき(生活の手段)にもならず、ついに別れ別れに出かせぎに出て去り、われはこの地に現れたり。なれど年に一度の祭りには一同相寄り、社に帰るならわしなり。神に仕うるわれらは人に害を及ぼせしことさらにあらず。何のうらみありてお前たち。われらをあやうきにあわせしや。返答いかんによっては、われにも覚悟あり。いざ、いざ」とハッタとにらみ、詰め寄った。
 三次はふるえながら「夢か」とそばを見ると、妻子はスヤスヤと寝息をたてている。ふと上を仰ぐと、何と天井がない。あたりは暗いのに空は一片の雲もなく、太陽が照り輝いている。助けを呼ぼうとしたが、声が出ず、身体は金しぼりにあったように身動きも出来ない。半死半生のままでときがたち、やがて白ギツネの影は消えうせ、青天井も元のすすけた天井にかえっていた。
 あまりの恐ろしさに、三次はふとんをかぶって、まんじりともせず夜の明けるのを待った。やがて朝。外は一面銀世界に輝き、キツネの足跡が家の周りにたくさんついていた。一方、源吉も同様の目にあっていた。
 翌日、二人は赤飯をたき、生魚を持って、あばいたキッネの住み家を訪れてあやまり、後ろも振り返らずに逃げ帰った。その後、二人は白盆の林には足を向けなくなった。それからかなりたったある日。二人が福知山に行ったさい、白ギツネがいった稲荷社を訪ねたところ、くちかけた社があり、昔は参拝も盛んたった様子で、すべて白ギツネが話したとおりたったという。
 紅村の白盆の林のあつたところには、現在、京都市内の電機会社が工場を建設。近くを国道9号線が走り、昔の面影はない。.




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
『丹波町誌』
その他たくさん



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