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丹波の

上野(うえの)
京都府船井郡京丹波町上野


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京都府船井郡京丹波町上野

京都府船井郡丹波町上野

京都府船井郡




上野の概要




《上野の概要》
「元禄郷帳」「天保郷帳」では須知を冠称。美女山(482m)北麓、今の国道9号の東側で、須知川の右岸、府道80号(日吉丹波線)沿いの集落。

〝二度と見られぬ美女がいる〟という美女山。〝見れば思わず身震いしてしまう絶世の美女〟が住んでいそうなやさしい山容。手前に低く森がある見えるが、それが枳殻の森か。能満神社が鎮座する。
上野村は、江戸期~明治22年の村。園部藩領。明治4年園部県を経て京都府に所属。同22年須知村の大字となる。
上野は、明治22年~現在の大字名。はじめ須知村、明治34年須知町、昭和30年からは丹波町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。


《上野の人口・世帯数》 176・81


《上野の主な社寺など》

美女山
須知にある山で、国道9号線からもよく見える。須知盆地の東南に位置する。標高は482.2m。西側は須知川に面し、西南方には中世の土豪須知氏の須知城址がある城山が位置する。東西になだらかな稜線を描き、古くから琴ノ滝・紅野(蒲生野)などとともに、「美女明月」は須知八景の1つに数えられた。北西中腹にある大円寺は仏国広済が開基と伝えられる臨済宗の禅院であり、そこからは須知盆地の全景を眺望することができる。
『丹波町誌』
美女山の北斜面
 美女山(四八二、二メートル)は南上野東方にそびえ、その姿は雄大で美しく、美女の眉形をしていることで、町民に親しまれている丹波町きっての名山である。
 この山の北斜面は急崖となっている。この崖は須知盆地の南縁を限る東西方向の急崖線の東端に当たり、この崖の部分には、古生層を切る断層はみられず、この付近の古生層は美女山がチャート、その北側の盆地の部分はチャートより軟らかい層岩やその千板岩化したものからなっているため、両者の岩質差による差分侵食によって形成されたものである。
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能満神社(のうまんじんじゃ)

村の中央部の丘陵端に能満神社がある。当村や須知・市森・蒲生を氏子圏とし、須知大宮とも称されていたので近郷の古社の一であろうといわれる。社伝によると延喜3年(903)に社殿建立という。また享禄4年(1531)には須智城主須智左馬守が願主となって社殿を修理し、その後慶長年間(1596-1615)、寛永年間(1624-44)にも修営を加えたという。現社殿は明和4年(1767)の竣工だが、社蔵の古記によるとそのために氏子たちは延享2年(1745)から毎月1文の積立を実施し、銀8貫720匁を費やして完成した。また今でも甲子歳に鳥居の建替えをすることを定式としているという。
案内板が社頭高い所に掲げられている。
京都府船井郡須知町上野
村社 能満神社
祭神 事代主命・武甕槌命
由緒
創立ノ由来及年代詳カナラサレトモ延慶三年(今ヲ距ル六百一二年前)十月社殿建立ノコト古書ニ明カナリ其後二百二十年ヲ経テ享禄四年九月市森城主須知左馬守若子丸願主トナリ山崎加賀守乾次郎左ヱ門奉行トシテ社殿大修理シ慶長十五年四月ノ造営ニハ米百石人夫千五百人ト記シ寛永十六年九月又銀壹貫五百餘匁ヲ投シテ上葺ヲ爲セリ
現在ノ本殿ハ延享二年二月ヨリ氏子壹人ニ付毎月壹銭文宛ノ積立ヲナシ宝暦年間ニ至リテ改築ノ議漸ク纏マリ明和四年三月(百五十四年前)竣工セルモリリ此工費銀八貫七百二十匁卜記セリ天保十四年屋根換ヲナシ明治三十四年ニ葺換ヲ行へリ元来當社ハ北方七社ノ一ニシテ祈雨祈睛其他國家有事ノ際祈願報賽ノ爲諸方ヨリ参拝スルモノ甚タ多シ明治六年六月村社ニ列シ同四十年九月十三日告示第三百六十五號ヲ以テ神饌幣帛料供進ノ神社ニ指定セラル
氏子ハ古来上野蒲生須知市森ノ四ヶ村ニシテ文政天保ノ頃壹千四百人餘リ元治慶応年間ニハ壹千三百五十餘人現在戸数口百餘戸
例祭 四月十八日
   十月十七日
大正十年一月



京都府登録文化財
丹波町指定文化財
能満神社
祭神 事代主命 武甕槌命
 当社の由緒については、正面掲額の通りであるが、現在の本殿は延享二年(一七四五)二月から十ヶ年間、氏子一人に付き毎月一銭文ずつの積立をし宝暦八年(一七五八)四月奉行の建築許可を得、宝暦十二年十二月大工須知村勘右衛門に落札、明和二年(一七六五)二月より着工、明和四年(一七六七)三月完成したものである。
 棟梁は外に中台村磯之烝、庄右衛門、彫物は京都六条堀川久兵衛とあり、積立開始より実に二十二年を要して竣工したものでその工費八貫七百二十七匁三分。そのつくりは極めて彫刻が多く賑やかである。
建造物能満神社木殿 一棟
指定年月日 京都府登録文化財(昭和五八年四月一五日)
      丹波町指定文化財(平成二年四月一六日)
所有者能満神社
所 在 地 丹波町字上野
丹波町教育委員会



『船井郡誌』
村社 能滿神社 事代主命・武甕槌命 延慶三年 - 大字南上野

能滿神社は元須知大宮といへりしとて、延喜式酒治志神社に充てんとする説あり。今採らず。現今の社殿は寶暦十二年の再建にして明和四年三月竣成せしものなり。.



『丹波町誌』
能満神社
一、所在地 上野小字北垣内
二、祭 神 事代主命、武甕槌命
三、例 祭 一〇月一七日
四、由緒、その他
 延慶三年(一三一〇)一〇月社殿建立、その後、二二〇年を経て、享禄四年(一五三一)九月須知左馬守若子丸願主となり、山崎加賀乾治郎左衛門奉行として社殿を修理し、慶長一五年(一六一〇)寛永六年(一六二九)九月に営繕を加えた。現在の社殿は、延享二年(一七四五)二月より、氏子、一人につき毎月一銭文ずつ積立をして、明和四年(一七六七)三月竣工したもので、その工費銀八貫七二○匁(昭和五八年の額で約八千余万円)と記されている。
 本社の祭神は、もと事代主大神と虚空蔵菩薩であったが、明治五年の神仏分離により、虚空蔵菩薩を除いて境内末社の春日大明神を相座の神とした。また、境内の池に辨財天の祠があったが、これも同じように取り除いた。
 昭和五八年四月一五日、本殿が府の文化財に指定された。
 氏子・上野・市森・須知・蒲生・蒲生野の五区、四九二戸


何ともサッパリわからんが、能満というのは、のうま神(娘媽神女・天后・天妃・媽祖)のことではなかろうか、しかしそうだと祭日が合わない、当社は鉄の祭日のよう。また山内庄7社の1で、祭日もそれになっているよう。元々は当地一帯を開発した須知集団の神社であったと思われる、須知氏は新羅や伽耶から渡来であろうから、その渡来元が忘れられたか、あるいは丹後あたりだと新羅大明神とか名乗るのだが、そういいにくい事情があったものか、どうしたものかと思案重ねた解答で、渡来だから同じだろうと、中国南方からの渡来神を祀ったのだろうか。のうま神は美女というから、美女伝説もここから発生したものかも知れない。

『丹波町誌』
能満神社の祭礼
能満神社は古米より、甲子年毎に鳥居を建て替える習わしがある。
大正一二年三月鳥居を新たにし、絵馬堂・社務所の移転改築などを行なった。
大正一三年四月一七日落成奉祝祭が行なわれ、三日間種々の催物が続いた。
●鳥居の通り初め式 老夫婦五組 (林栄二郎・由良市太郎・岩崎竜三郎・田端庄二郎・田端連古)が参列した。
●飾り物  須知の町で造り物が設けられた。
●曳き山と踊り 南上野区民が町内を一周して練り込んだ。
●子どもの練り込み  七歳から一〇歳までの子供たちが揃いの衣装に鳥帽子・千早を着け、須知導観稲荷神社に参集した。そして須知-三日市-蒲生-北上野を経て、三時すぎ社頭に参進した。
●二日目 境内に清めの真砂が敷かれ、午前一〇時、第三号砲を合図に祭礼が始まった。午後は各地より曵山に奉納物・飾物をして歌舞・管絃の音勇ましく練り込んだ。祭のクライマックスには民間飛行士安井荘次郎が加藤助手と共に二機翼を連ねて祝賀飛行を行なった。なお当日は仮装行列や須知少女団の舞台練り込みもあって大いににぎわった。鳥居の建て替えも昭和五九年三月が六〇年に当たり前述のような祭礼のもとに盛大に行なわれた。



臨済宗嵯峨鹿王院末仏日山大円寺

美女山麓の小高い所。案内板がある。
西国巡礼第五番札所
禅 臨済宗 天龍寺派 大圓寺
由緒
人皇八十七代後嵯峨天皇第二皇子佛国広済国師を開基として延慶二年(一三〇九年)春三月に建立されました。
康永二年(一三四三)に至り兵火に依り悪しくも焼失する所と成りました。
国師の孫弟子に当たる普明国師が之を惜しみて文元年(一三五六年)再建然るに不運にも又、明徳元年(一三九〇年)秋九月連日大雨のため美女山西麓の山崩れに遭遇し普明国師再建の堂塔は流失或いは埋没し現地はこの時、仮屋を構え移転した所と謂われています。尚寺伝えは寛文八年(一六六九年)三月十一日に園部藩主小出伊勢守親公卒去位牌を当山仏殿に安置せられ是により格式を進められ(毎年年賀暑寒三候を窺ふ)とあります。
本尊 釈迦如来脇立千手観音菩薩
一、境内佛堂 足利尊氏将軍御寄進薬師堂
(尊氏将軍国師追崇瑠璃光如来を安堵す)とあります。
時代は流れ平穏無事なるも、昭和六十一年(一九八六年)十二月二十三日不運にも不慮の失火により、本堂及び庫裡の全てを焼失するも当時の
現在、宣隆和尚及び檀家一同は是を悼み、区内住民一致団結致し浄財寄進と労務提供を惜しみなく募り、復旧に総力を拳げ三年後の平成元年(一九八八年)六月この時、従来の茅葺屋根の本堂を一新致し瓦葺屋根として本堂と庫裡など全てを再築した。


『船井郡誌』
大圓寺は美女山の中腹に在りて眺望絶佳なり、雪の晨、月の夕當寺の茶席に在りて茗を啜らば、心身頓に塵寰を脱するを覺ゆ。

『丹波町誌』
佛日山 大円寺
一、所在地 上野小字寺奧
二、宗 派 臨済宗天龍寺派
三、本尊 釈迦牟尼仏
四、沿 革
 臨済の禅僧広済国師が延慶二年(一三〇九)三月開創した寺であったが、庚永二年(一三四三)兵火により諸堂焼失、延文元年(一三五六)再興されたが、明徳元年(一三九〇)の大雨により諸堂は崩壊した。現在の伽藍はその後移転建立されたものである。昭和五〇年鐘楼堂改築、同五五年書院を建立した。境内に古い薬師堂があり、薬師如来を中心に日光菩薩・月光菩薩がまつられている。また境外には当寺に付属する小堂があり、堂内には慶応の頃(一八六五-六七)廃寺となった元恵日寺の仏像がまつられている。
住  職 重谷宣隆
檀家信徒 三○戸
年中行事 …


境内からの眺望がすばらしい。

真宗大谷派金福寺末法林山正安寺

上野の一番北側にある。『丹波町誌』に、
法林山 正安寺
一、所在地 上野小字坂口
二、宗 派 浄上真宗大谷派
三、本 尊 阿弥陀如来
四、沿 革
 元禄一一年(一六九八)三月創建、文化元年(一八〇四)五月住職吉田霊海師の在職中に改築された。安政四年(一八五七)雲海師死去、その後、亮山・加藤正渕・岸本秋甫・顕壽・憲雄と相続、明治一八年就学児童増加に伴って本寺を分教場にあてたが二〇年に閉鎖した。憲寿師は教育指導者として熱心であり、農繁期には児童の教育に当たり、また幼児託児所を開設して子女の指導に力を尽した。
住  職 岸本 宏
榱家信徒 三八戸(外和知町に二○戸)
年中行事 …
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《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


上野の主な歴史記録




上野の伝説

『丹波町誌』
絶世の美女の話
  〝丹波権現 枳穀(キコク)の森に
      二度と見られぬ美女がいる″
 美女の名はわからない。枳穀の森とは権現(能満神社)の森らしい。今もその森は残っている。
 美女がそこに一人住んでいた。とにかく髪を結ばなくても、赤いものを着ようが何を着ようが、その顔だち立居振舞いは身ぶるいするほど美人だったそうな。その美女をひと目見ようと近郷から多くの人々が次から次へと権現さん詣りしたという。その美女は、嫁がぬまま四〇年余りで死んだということである。
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枳殻はカラタチのこと。




上野の小字一覧


上野(うえの)
坪ノ下 中井根 荒井根 北坂 中野 出知坂 一ノ瀬 大阪 寺奥 南垣内 八反目 中垣内 北垣内 慶庵 浜付場 岩ケ谷 四出倉 坂口 下代 美女山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
『丹波町誌』
その他たくさん



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