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旧・平屋村(ひらや)
京都府南丹市美山町深見・長尾・又林・下平屋・上平屋・安掛・野添・内久保・荒倉


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京都府南丹市美山町深見・長尾・又林・下平屋・上平屋・安掛・野添・内久保・荒倉

京都府北桑田郡美山町深見・長尾・又林・下平屋・上平屋・安掛・野添・内久保・荒倉

京都府北桑田郡平屋村




旧・平屋村の概要




《旧・平屋村の概要》
平屋村は、明治22年~昭和30年の北桑田郡の自治体。由良川上流域の深見・長尾・又林・下平屋・上平屋・安掛・野添・内久保・荒倉の9か村が合併して成立し、旧村名を継承した9大字を編成した。
大正から昭和初期にかけて農林業のほかに養蚕業が栄え、また上平屋では平屋箪笥の製造が盛んとなる。大正11年4月上平屋に大火があり、34戸を焼失。昭和30年美山町の一部となり村名解消。村制時の9大字は美山町の大字に継承された。


旧・平屋村の主な歴史記録


平屋村
一、概説
石器時代に於ける原住民族の遺跡は之を本村に求め得べからざるものヽ如く、たとひ一二の石鏃石斧の類を發見するも、その出土の経路明確ならず、或は他より移入せられたりとの嫌ゐりて、本村固有の石器にあらずと断定するの眞に近きを感ぜしむ。而して我が上古に在りて本村が野々村の地域内に屬せしことは、幾多の傳説と現存の地形及び産土神信仰の關係等よりして、論議の餘地なきまでに明白なる亊實なり。既に前項宮島村の概説に述べたると殆ど全く同様の沿革を経て現在に至りしことも許多の史料の明證する所なり。即ち平安朝時代の初期より弓削郷の一部として禁裏御料地となり、中ごろ或は野々村頼房の所領に屬せしが、鎌倉室町両時代の交に至り京都建仁禪寺の庄園となりしことは既掲『建仁寺領諸国注進目録』に依りて明白なる亊實なり。戰国の世に細川勝元政元父子に隷屬せしがやか川勝光照の押領する所となり、川勝氏の子孫永く之を継承せしが、江戸時代の初に至り宮島村と共に園部藩主小出氏の管轄となり、以て明治維新に及べり惜いかな本村には研究資料としての記録古文書に乏しく、歴史の一般的考察と附近一帯の地形上の観察と本村に存せる口碑傳説との三者を参酌して。最後の断案を作る外に途なきことは。
明冶元年久美濱縣に屬し、同五年京郡府の管下に屬す。十一年下平屋、上平屋、又林、長尾、深見、野添、安掛の七ヶ村聯合して下平屋に戸長役場を設け、荒倉内久保の二村聯合して別に内久保に戸長役場を置けり。 この痕跡は今なほ小学校の配属に於いて正しく認め得べし 明治二十二年七月町村制實施にあたり、上記九ケ村を一團として茲に現在の平屋村を見出だせり。
二、境域地勢
本村はほゞ郡の北東部に位し、その東南は弓削村に、南西は宮島村に、北は鶴ヶ岡村に、北東は知井村に接續す。知井宮島鶴ケ岡三村との間には小濱高瀬両街道開かれて儼然たる府道となり交通便易なるも、弓削村と連絡せる小濱街道には深見峠の嶮路ありて往来やヽ困難なり。この往還はその開修を始めたる明治二十九年頃にありては、若州と京都市との間、小にしては南部と北部との間を連絡せる最要の道路なりしも、同三十九年の頃山陰線鐵道の開通するや、本村地方の物資も若州小濱高濱両地の物貨も皆鐵道を利用することヽなり、この道路の交通價値著しく減殺せられ、隨つて其の維持修繕もや丶等閑に附せらる丶傾あることは、既に第一編第四章交通の項下に説ける所の如し。本村の地勢概ね北東より南西に長く、山地多くして平野少し。水田は上由良川、野添川、深見川の河畔に存するのみ。白尾山(七四八・五米)は村の東北境に聳え、山勢左右に分れて遠く知井鷆ケ岡両村に蜿蜒し、いづれも海抜七〇〇米突内外の高度を有つ。深見峠は海抜五五〇米突ばかりなれば上由良川沿岸の平地よりは、約三百米突餘の高度を攀ぢざる可らず。上由良川は知井村より南酉流して本村に入り來り、野添にて野添川長尾にて深見川を容れ更に南西して又林川を合せ宮島村に去る。流程約二里半河床低く両岸壁立せるを以て洪水の害殆どなく、桴筏を通じ香魚を産し風致を添へ實に本村の一大動脈たるの價を失はず。


平屋番略記 丹陽桑田郡の北野々村といへば千早振神代の往昔より人の住みける所にてあるなれ。然はあれど野々村となん號けし亊は、醍醐帝の末の頃にやありなん。それより昔は野々村の名はあるまじく思ほゆ。人住むことはその濫觴を知りがたし。上古この國は湖水にしてその色赤かりしとなん大山咋神鍬にて川を掘り給ひしより、人住む邦となりしを國の名として丹波國とは號けしと神代系圖傳には見えし。此亊を思ふに其の湖水の頃しも野々村庄は水底にてはあらじ。龜山あたりの郷々などと此べ考ふるに、地形抜群の峻嶮にして且山上の石などまで、龜山邉を見るにいかにも往古は湖水の地と見えて皆滑なり。又野々村あたりの石は一として猾なるものなく嶮峻なり、これ等を以て知るべし。
野々村といふことは延喜の末天満神の末男慶能法師此の地に謫せられたまひ、此の地にて歸俗し五男一女を儲けたまふ。この六人の公達に六の姓をたまひ、三十三の邑を六の番に分ちて與へたまひしとなり。その六姓は野々村、公文、下司、大澤、菅生、武内の六なり。平屋丸岡和泉大野高野樫原なり 又異説ありて名同じからず 中にも野々村氏は六人の子の嫡子の氏にして、この御子平屋の番に住みたまひ、千年の末の今に至りても平屋の番 野々村氏はあることぞかし。しかはあれど今の人野々村といふは庄の名なりとのみ知りて、道眞公の御孫の嫡子の姓なるを知らぬもの多きぞ本意なき。嫡子の姓を尊みて六人の御子の住ひたまひし三十餘の邑を野々村の庄内とは言へりしなり。思ふに平屋番は三十三村の祖村にして、鄙ながらこのわたり景色も備はりて千歳過ぎし今の世、風雅の人は詩を賦し大和歌を詠じ賞びたまへるを見て、耳にふれし野々村の亊を書に記すもたわればかりとしかり。時は寳暦七とせ丑の春平屋の里に住みけるもの紙にそへ侍りける。
一説に云ふ、慶能法師は比叡山にて出家したまひ、常に不動尊を信じたまふ。菅公左遷の後不動尊像の霊験にてこの地に住ひたまふ。後の御名甚左衛門之丞と改め給ふ。蓋この不動尊今何國に御座亊を知る人なし。案るに此の尊像は上平屋の奧にして不動瀧といふ所あり。今尊像なし。恐らくは此處に慶能法師不動尊を安置し給ひしならん。この瀧の不動尊は中古山州岩屋山に移りたまふ。即ち彼の山の菅公御作の不動尊なる由わが里に言ひ傳ふ。
野々村を布(ぬの)村と書くことあり、里諺に庄内細長くして布を展べたる如き故に號けしと。又一説に平屋番の川上大内村の北山に布瀧といふあり、この瀧の下流に多く村里ある故號せしともいへり。(中略)野々村氏は中古までこの邊を領し、天正の比信長公に屬して度々軍功を勵ましたる野々村三十郎これなり。その後文禄の兵亂に利を失ひ所領を他に没收せらる。然れざも子孫は今に於て此處に絶えず。紋は梅鉢琴柱なり。


平屋村上平屋戸数姓氏増減沿革(教誓寺所蔵) 抑丹の波州桑田郡上平屋の里にして眞宗の宗義ひろまりしをつらつら慮るに、往日蓮如上人若州を御立ありて、この道莇を御とほりありし比、初めて専修の門弟にやなりなん。併しこの里に佛閣を建て尊像を安置せし亊は延寶年中の頃かとよ。往日は淨教または淨念などいへる人小庵の道場造立せしめ、同行寄集まりて御報謝をいとなみしとなん。こ丶に丹の後州に三兩となんいへる層あり、來りて此の里に住し方便法身の尊像を宣如上人の御代に願ひて道場に安置し、久しく住まれしとかや。寶暦元年まで凡そ百年にあまる。この時の道場は湯谷の西の山際にぞありし、後には吉右衛門といふ仁の地となり、小き石の塔を末の世まで残し置きけるこそ道場の尊像の御座ありし跡なれ。この時道場の門徒は僅に五六輩ばかりなり。平井氏烏洞屋株と云ふ三軒程あり。湯谷株一軒場株一軒若州遠敷より來りし仁となり。この頃江州の鑄物師株不慮の難にて江州を出奔して丹州に來りてこ丶かしこに住居す。桑田郡下平屋に住する金屋株西乘寺門徒となり、船井郡上林に住みし金屋株丹の後州瑞光寺の門徒となり同郡和知篠原村に住める金屋株七軒この道場の門徒となりしとなり。これより宗風盛にして道場をも莊巌せんと思ふきざしあり。この三雨こそ安掛の長竹氏より妻をまうけて道場に久しく住みつゝ往生せし仁なり。又この子孫は在家となりて門徒となりし、岩井氏近澤氏二株これなり。
その後遠州産の層にて膽顔といふ仁來り住し、同行を勸めて法燈をかヽげその功をなせし。常如上當に願ひて延寳九年辛酉水無月に教誓寺と精舎の號を賜ふ。寺號の御免證文あり、寳暦元年まで七十一年となる。又三年を經て同上人の御代に天和三年癸亥閏五月に木仏尊像をたまふ。
この頃この里の仏心宗に谷久助と云ふ人あり。本宗をさしおきて専修の門に改宗しつヽ無二の信者となれり。その頃は仏心宗は盛にして淨土眞宗は有か無きかの亊なりしに、宿善の催にや追々と信者の數を加へ、この谷氏後に中庵株といふ。
貞享元年の頃豊後の國の仁に回山といへる僧宿縁ありしにや、此の地に來りて寺務せしめ、貞享四年丁卯の秋の頃湯谷山際の道場を同き里の東坪の内と云ふ處に五間四面に再建せしめ大功をなしにき。岩井氏の娘隣村に嫁するものあり。その頃夫婦とも來りてこの寺の門徒となれり。太田株これなり。回山は近き里の野々村氏より妻をもらひ終に享保の末に当寺にて往生せし仁なり。この子孫此寺の門徒となる小島株これなり。
享保十二丁未の年の頃より同国の産(當郡荒倉村に出生)に珠元と云ふ人あり、光瑞寺にて剃髪して層となり、當寺に住職して五尊を初め佛具多く成就して當寺中興の僧と云べし。この僧より現今まで父子血續當寺を相續せり。この僧の兄に無相文雄と云ふ大學者あり、晩年この寺に來りて事あり。當村奧の谷の墓地に弟珠元の建てし兄文雄の石碑あり。享保の末丑寅卯の三年の間に隣村より來りて門徒となりし仁三軒あり。この頃漸く門徒の敷も二十ばかりの棟に足れりとかや。或は隣村より信心の施主ありて蓮師の名號を寄附せしより木佛の脇がけとせしめしとなん。
上平屋の戸敷
五六軒ばかり      延寳の初   二百四十八年前
二十軒ばかり      享保の末   二百五年前
六十軒          大正元年
五十三軒        大正十年
天和三年     岩井近澤株の出来し時代
貞享元年     太田株の出来し時代
平井氏湯谷氏場氏は二百五十年
岩井氏近澤氏 現在下平屋 谷氏は二百三十年
小島氏は二百年
平川氏平元氏高野氏小石氏等は不明
  (編者いふ。本書は上平屋戸教姓氏堆減沿革と題すれども、其の内容を精査するに、教誓寺檀徒縁起といはん方むしろ妥當なるべし。さはれ其の中に自ら上平屋現存舊家の由来を散見せるは、貴重なる史料の一ならずんばあらず。)
(『北桑田郡誌』)





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『北桑田郡誌』
『美山町誌』各巻
その他たくさん



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