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丹波の

樫原(かしわら)
京都府南丹市美山町樫原


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京都府南丹市美山町樫原

京都府北桑田郡美山町樫原

京都府北桑田郡大野村樫原



樫原の概要




《樫原の概要》
大野ダムがある集落で、和知側から行けば美山町に入って最初の集落、美山町域内では由良川の最下流に位置する。
古代は「和名抄」に記す弓削郷に属し、中世は野々村庄の地。
樫原村は、江戸期~明治22年の村。大野10ヵ村の1。園部藩領。明治4年園部県を経て京都府桑田郡、同12年北桑田郡に所属。同22年大野村の大字となる。
樫原は、明治22年~現在の大字名。はじめ大野村、昭和30年からは美山町の大字。平成18年より南丹市の大字。


《樫原の人口・世帯数》 63・27


《樫原の主な社寺など》

大原神社

大原神社(おおはらじんじゃ)は、大野ダムの北の山麓に鎮座する。府道12号(綾部宮島線)を下側から来るなら、「樫原大橋」が架かっている手前から左に入る。道ブチに案内板がある。

左側の道を登る、道なりに行けば300メートルばかりで社前に到着する。そこに見える不思議な姿をした↑大樹は当社ご神木の大欅(京都の自然200選)。本来はこの辺りから当社の境内であったという。わずか30戸ばかりの集落にしては立派な社である。
社伝によると、創祀は孝徳天皇の時代で、丹波六社の一と称するが沿革などは不詳。天田郡大原神社(現三和町)は本社の分霊を勧請したと伝える。祭神は伊奘冉尊。旧郷社。
近世期には園部藩主小出氏累代の祈願所と定まり、毎年使者が奉幣したという。例祭は七月一〇日で、御輿の渡御、曳物の奉献などを行う。氏子は結婚すればこの例祭に一度は奉仕するのが慣例で、これを樫原の鮓講とよんでいる。また六月、一二月に行われる大祓の供物は、六町余隔てた由良川井壷の一小祠前の激流に捨てるならわしという。本殿は南面、柿葺・神明造・三間四面で、内陣は桁行一丈六尺四寸、梁間一丈二尺。神体は長さ三尺七寸五分の幣串で、例の少ないものという。境内社川上神社は素戔鳴命を祭神とする。

社前に案内の石板がある。
天一位 大原神社由緒
◎祭神 伊奘冉尊・伊奘諾尊・天照大神
◎略記 大原神社は、もとの名を「大原神宮」「大原大明神」と呼び、我が国の本宗である伊勢神宮より御神霊を勧請し祀られた社である。
 古伝によると孝徳天皇の御代(西暦六四五年)に創立され、霊験顕著にして、その崇敬の範囲は丹波全地域は勿ろん広く近畿圏に渉り大原詣と称して、参詣者は常に跡を断つことなかりしと伝えられている。
その崇敬の深甚なる結果、天田郡川合の大原神社(文徳天皇、仁寿三年分霊)を始め地方分霊数多くあり、これら分霊地より当地を元大原と称し当社をして元大原大明神と称へ奉られ「大原講」なるものが各地に存在した。元和五年(一六一九年)より園部藩主小出公の十代(二百五十年間)御祈願社となり、丹波の国の古社六社に列せられた。明治四十年三月神饌幣帛供進の社に指定され、大正十一年七月に郷社に列せられた。伊勢神宮の遥拝所は明治六年公許である。猿田彦命を祭神とする摂社川上神社の「からす田楽」は京都府第一号の民族(ママ)無形文化財に指定されている。現在の本殿は文政六年二月火災にかかり弘化三年に再建されたものである。
◎末社 五社明神・金刀比羅神社
◎御神徳 全てに御神徳ありと伝えられているが、その中でも特筆すると「農業、林業、商業の振興」「縁結び・安産」「子供の成長・学力向上進学」「病気平癒・交通安全」
◎例大祭 四月二九日
◎からす田楽奉納神事 十月九日
◎神木 欅の大木 二本は京都府特別指定(樹齢不詳)



大原神社
大野村大字樫原に在る郷社 (大正十一年七月十日昇格) にして、伊奘冉尊をまつる。社傳によれば本社の創建は孝徳天皇の御代にして、実に丹波六社の一たりと。されどその沿革は之を知るに由なし、江戸時代には園部薄主小出侯累世の所願所なりしを以て毎年便を立てゝ奉幣せり。天田郡河合村及び同郡曾我我井村一宮神社境内に在る大原社はいづれも本社の分霊なるより推して、本社崇敬の範囲の廣大なるを知るに足らん。
例祭は七月十日にして、昔日は神輿の渡御曳物の奉献等ありて、頗る盛儀なり。社殿は老杉巨樫の間に建てられ荘厳の気自ら人の襟を正さしむ。本殿南向柿茸神明造三間四面、内陣は桁行一丈六尺四寸梁間一丈二尺なり。上屋を有すること諏訪神社に同じ。本社の神體は長さ三尺七寸五分の幣串にして、他社に類例稀なる所なり。摂社川上神社は素戔嗚尊をまつり、もと神の奥に在りしが、今は境内に存す。本社六月十二月両度の大祓の供物は、約六町を距れる上由良川井壷にまつれる一小祠前の激流中に拾つる習はしなるは、その古雅を偲ぶに餘りあり。摂社川上神社に関しては樫原住民間に鮓講(すしかう)と称する特殊の風習を遺存せるを以て、左にその梗概を記述せん。
川上神社は樫原部落住民の氏神なりと伝ぜられたれば、氏子たるもの結婚すれば一度はこの祭典を奉仕すべき慣例古くより行はれ、之を俗に樫原の鮓講といふ。即ち当月三日には三日月講と称へ、其の親戚知友相集り、九日に要する鯖鮓を調製して水漬にす。八日に至れば親戚知友を招きて披露の宴を張り、この夜より其の祭典に係る仕入九名神職と共にその家に籠りて、翌十日の祭式の練習をなす。當日に至れば早天行場(ぎやうば)に往きて水垢離を取りて潔齋し、神饌の調理をなす。祭式は一種の田楽にて、いづれも上下を着け、笛役一人太鼓役四人サヽラ役四人より成る。さて笛に合せて太鼓を打ちサヽラを摺る。(このサゝラは矢代の編木と同様の形にして古式の百子と称する楽器に類す其数は日本国数に揃へて国内安穏を意味すると傳ふ。) サヽラ役の中年少者三人は互に起ちて潤歩しつゝ仕人の前面を一周して拝をなす、終りに他の一人は三歩前方に跳躍して拝をなす。俗に之をカラスと云ふ。その献ずる神饌は盛相飯(もつさうはん)にして、之を圓錐形の型に詰めて松板の上に載せ、千切餅五個其他昆布??青豆青葉等を添へて奉るなり。又之と同様のものに杉箸を具して参詣者一般に配布す。これ往昔人身御供(ひとみごく)を行ひし餘風なりと解せらる。現今にては仕人の前夜より来泊することを廃し、當日早朝より之を勤むることに改めたれど、大體に於ては昔日の如き儀禮を行ふなり。

我が郡に於ける風俗史上特筆すべきは周山村矢代日吉神社に関する氏子の、古来相傳の儀禮を失はずして其の祭事には平安朝民間の歌舞に起源を有する、田楽踊を奏すること及び大野村字樫原に於て、氏神川上神社の奉祀に関して矢代と類似の古儀を存し、鯖講と称する祭典を行ふに當り同じく田楽を奏することなるが、共に山間に保存せられたる古代の習俗として最も重んずべざものとす。

井壷 字樫原大原神社の西南約五町の下流、上由良川の恰も南北に流るゝ二町ばかりの間に在り。奔流激湍一飛瀑を現出し、その落下せる處即ち眞の井壼にして、碧潭深さを知らず。而も両岸は數十仭の絶壁にして瞰下するもの皆肌に粟を生ず。こヽに郷社大原神社の六月十二月両度の大祓に用ひられし供物を放棄すろ風習は神代の贖罪禊祓の古俗を偲ばしむるに足るものあり。尚古来大旱の際此所に雨を祈れば必ずその驗ありと傳へられ。舊藩主小出氏も屡々使者を遣はしてこゝに祈雨せしことあり。明治二十七年上由一艮川筋開鑿の亊あり。十一月工成りて通船の式を擧ぐるや。時の郡長辻直方の發意に從ひ、こヽに水上安全の祈願をなし、翌二十八年七月有志者の唱道によりて、小祠を巖上に再建し、且開修記念の石標をも建設せり。かの飛瀑はこの度の工事のために稍奇観を損したるも、周辺の勝景は往時のまヽにて、老松傴蹇たる間に杜鵑花の紅を点綴せる、秋闌にして雑樹悉く紅黄の錦帳を張れる、文人墨客ならざるものを皆足を駐めて嘆賞の声を放たざるはなし。(『北桑田郡誌』)

飛瀑、井壺というのはどこにあるのか、たぶんダム湖に水没したのでは…


本殿、「天一位 大原大明神」の神楽が架かっている。向かって左に「金刀比羅宮」。
金刀比羅社 字樫原にあり、大物主神をまつる。文化二年の勧請なりといふ。(『北桑田郡誌』)


本殿の右に「摂社 川上神社」、その左に「五社明神」(宗像宮・八幡宮・豊受宮・月読宮・天満宮)、さらに山の神、伊勢神宮の遥拝所がある。
五社明神社 字樫原にあり、丹波道主命宇氣比売命応神天皇菅原道眞及び蛭子姫をまつる。起源沿革詳ならず。(『北桑田郡誌』)

珍しい奉納芸能が伝わる。

大原神社祭礼
樫原の大原神社は、大野地区の氏神様で四月二十三日がお祭りである。古くから農業の神として祀られ、昔は他所からの参拝も多かった。神殿の裏に御幣を立てたお砂場があり、「お砂を田にまくと米がよくできる」と伝えられていて砂を貰って帰る人が今でも多い。
当日は御神輿の各区巡行があり、区から選ばれた若者たちが御神輿を出す。境内では毎年出店が出て賑わっている。近年は大正琴の演奏や有志によるカラオケの奉納なども行われている。

からす田楽
十月十日、樫原の大原神社の境内にある川上神社のお祭りでは「からす田楽」が奉納される。
戦前は十月三日に「三日月講」を開き、男だけで鯖のなれ鮨を四斗樽に漬け込み、田楽奉納後に当番宅で直会をもった。大盤振舞のため大金がかかり、別名「去(い)に講」ともいわれ、昭和三十年(一九五五)から直会を廃止し、神事と田楽だけが行われている(詳細は文化財の章参照)。

樫原の田楽
樫原の田楽 樫原田楽保存会 昭和五十八年四月十五日指定
旧樫原村の氏神である川上神社の祭礼に演じられている田楽を「からす田楽」とも呼んでいる。これは新入りのひとりが「カア、カア」と、からすの仕草をするところからきている。
この川上神社は大原神社の摂社で、境内にあり、猿田彦命を祭祀しているが、由来などは文化三年(一八〇六)の火災で文書などが焼失しているのでわからない。ササラという楽器には「天正七申歳(一八三六)作之」もう一つには「安政未歳(一八五九)九月再作之」と墨書されているが、これが始まりとは考えられない。町内で田楽が伝えられているのはここだけで、府下的にみても貴重な民俗文化財の一つである。
祭礼は十月十日で(古くは旧暦の九月十日)この祭礼には九人衆による講があり、田楽もこの九人衆によって守り続けられてきた。樫原では長男が嫁を迎えると講員となる。定員が九名であるので新入りがあると古い順に一人ずつ抜けていく。最近は若者の結婚事例が少なく、九人衆の年齢も高齢化し、継承すら危ぶむ声が聞かれる。しかし衣装の新調や地元小学校児童の継承学習などもみられるので明るい兆しである。
祭りの頭屋も、この九人衆が古参順に動め、一度頭屋に当たると、それを機会に家の壁を塗り替え風呂を造り替えるというように物入りが多かった。またこの講を「鯖講」とか「いに講」とも呼んだ。当日、鯖鮓を大量に用意して振る舞ったことからの別名であり、頭屋に当たるともてなしも含め大変な入用であったことからの別名のようである。当地方では帰るとか、どこかへ行くことを「いぬ」ということからついたと思われる。
田楽躍の構成は、ビンザサラ四人、太鼓四人、笛一人の九名で、最長老から順に太鼓の大・中・小とだんだん小さくなる。次がビンザサラで最後の一人が新入りの役とされ、これを別名「からす」と称し、笛は九人衆のうちで得意の者の役とされている。当日は社務所内で演技があり、あと山の神の祭場へと移動する。そこは神社から北東へ約三〇〇メートル余り行った山を少し登った所で、祠はないが榊の木が一本ある。その木の枝には二股枝などが掛けてはあるが、見過ごしてしまうような所である。その前の狹い場所に茣蓙を敷き、神主の祝詞のあとに田楽躍を一とおり演じる。今では僅かな田畑を耕す村であるが、本来は山の獲物を追う生活が長く続いていたのであろうか、躍が終わると山の神への供物といって新藁で作った「つと」を燃やしたり、神主が竹の弓に麻苧の弦を張った弓で的を射る行事を行う。山の神での奉納が終わると再び神社へ帰り、川上神社前で三たび演技をする。夕食は村人全員が参加して「もっそうめし」と称する木皿に高盛りした飯の周りに五菜を並べたものを食べる習慣があった。また午前中に頭屋において躍り手に搗いてもらった「直会餅」を長いまま切らずに子供たちに配って食べてもらうことをしたとも、また後宴として翌日は仕事を休んだとも伝えられているが、頭屋制がなくなった現在では、すべてなくなり、社務所で行う簡略化した行事ですませている。(『京都の田楽調査報告書』より) (『美山町誌』)


当社を元宮とする大原神社はあちこちに祀られ、三和町川合の大原社や福知山のイッキュウさんの境内にもある、舞鶴の鹿原神社の境内にもある。
大祭には熊を献じたと伝わる、そんなことからか狩猟の神様かとも考えられたりしていると言うが、「天一」と名乗っているから、本来は天目一箇神を祀る鍜冶神だろう。「川上社」も鍜冶神と思われる。

カシワラ、ずいぶんと古い時代の地名が残る、神武が即位したという橿原(白梼原)と同じ重要な聖地地名、渡来系鍜冶氏族が祀った歴史があるものと思われる、当地の奥に樫原山があるそうだが、それはクシフル岳であって、誰か大王の先祖が天から天降った山で、当地はその子孫が即位した何とか王国の建国の地なのかも知れないが、そうした伝承も記録も何も残されていない。
樫原と大原は漢字にすれば何も関係のない名のように見えるが、実は同じものらしいことがうかがえる。
この上流で山椒太夫が生まれたとか丹波道主命が薨じたと伝わるという、それはその地で語ることとしよう。


曹洞宗永照寺

府道から大原神社の方へ入って最初の集落にある。
永照寺 字樫原にある曹洞禅宗の寺にして、寛文五年僧麟朔の開基する所なりと傳ふれど沿革詳ならず。 (『北桑田郡誌』)


石田家住宅

大原神社前の道をそのまま300メートルくらい奥にある。土日祭日だけしか公開されない。それとも知らずに行ったので、ヘイ越しに見るだけで中身はわからなかった。
石田家住宅は、解体修理中に発見された祈祷札から慶安3年(1650)の建築と認定された、築368年。木と草で出来ているために、日本ではこれくらいが最古の民家になる。北山型民家の遺構を残す全国最古の民家として国重文に指定されている。同家の「だいどころ」から「おもて」「しもんで」「へや」の各室に通じる間境の柱間装置は、すべて袖板壁・引込戸の形式となっている。また「上げにわ」は北山型の大きな特色で、土間の代わりに板間とし、普通の低い土間はわずかしか見られない、という。


《交通》


《産業》

大野ダム

和知街道(府道12号・綾部宮島線)で和知側から行けば、美山町に入った所にある。府道から見る↑

見学できるので、ダムの上を歩いてみる、長さは305メートル、標高は176.4メートル、下流側の川からは61.4メートルある。
覗いて見る、コエッ~!。幾つかの予備堰があるよう、「滝の後退」を避けるためか。ダムのあたりは左岸側はしっかりした地盤のように見えるが、右岸側はチト頼りなさそうに見える。

ダムの下流側。自然のものすごいエネルギーが見えるすごい川、こんなV字谷を流れる、何万年か何十万年か、もっとも何億年かの地層の歴史がある、人間よりもはるかの大昔から流れていて、この谷を刻んだ、下流に住む人間の猿知恵とわずかな工事では、完璧な治水などは絶望かも、何でも出来るなどと思い上がってはなるまい。

大野ダムは戦前にも一度計画され、昭和18年には一部工事にも取りかかったが、起工式の翌日は山本五十六長官の国葬日、時局悪化にともない翌年には中止となった、それは今のダムよりも200メートルばかり下流側で、今のダムよりも高いものであったという。
余談ながら、この幻のダムと舞鶴は関係が深い、電気がないと溶接もできない駆逐艦が造れない、電力供給を受けたいとの舞鎮の永年の宿願とからめ側面からの支援あってのことであった。舞鎮のもう一つの宿願は東西舞鶴の合併であったが、それは同年海軍記念日に実現している。今の電力も舞鶴方面へ送られているという。

今はダム湖に沈んでしまったが、川面に近い所を和知街道が通り、人家や田畑もあった。 水没したのは家屋132棟、宅地約23a、田畑60ha、山林96ha、墓地66a、畝歩6、500m、橋梁10ケ所であったという。
今のダムは、樫原集落の下流800メートル辺りに、昭和28年から工事に入り36年に竣工、建設省の直轄工事により完成し、京都府に移管された。

工事にあたる2000名の住宅が建てられ、砂利は乙見からケーブルで運んだ、重機を入れるための道路をつくり、本流の流れをそらす仮流路用のトンネルも左岸に掘られた。工事中6名の犠牲者が出たという。

洪水防止を目的としたダムで、洪水期にはダムの水深20mとして貯水能力を高めるようにし、洪水期以外には18mの水深を利用して最大1万1、000kwの電力を起こし得るように設計されている。


ちょうど晩秋、何もフィルターなどはつけていないが、こうした光景であった。ダム湖は別名虹の湖とも称し、鮮やかに染め分けられた虹の七橋が架かる。ダム湖のほとりには1000本の桜と500本の紅葉が植えられていて、周辺の山々の自然美とも相まって写真のような景観をなしている。




秋よりも春が人出があるよう。大野ダム千本桜、歩けないほどには混み合わない。美山町も桜の美しい町、あちこちに植えられているが、ここも結構なもの、涼しいのか舞鶴あたりよりも桜は遅い、5日くらいは遅いよう、もうダメかと思って出かけてもまだダイジョウブ。
動画




洪水常襲地帯の中下流(福知山・舞鶴あたり)は、このダムだけでは水害は防げない。大野ダムから流れてくる水は由良川全体水量のの15~10%と言われる、もう少し高いのではないかと思われるが、当ダムが完璧に防いでくれたとしても、その割合でしかない。残り85~90%の水が、その大部分がどうにもならない。
当時の蜷川京都府知事も府会(S28)で、「それから大野のダムばかりでは駄目なんでありまして、どうしても由良川の川口を拡げ、かつあの積っておる土砂を排除する、そうして流通をよくする。この二つをやるのでなければ、本当に由良川の治水は困難じやないかと思っております。」とか答えている。
ダムを造り、川口のフンヅマリ部を仮に全部排除したとしても、なにがしかの効果はあるだろうが、それでも洪水対策としては限界がある。さらに堤防も新たに造ったが、それでも内水氾濫が防げなかった、どうすればいいのだろう…
下流の流路を広げると河床に土砂が堆積するだろうし、狭げて流れを早くすれば、洪水が恐いし、むつかしい所ではなかろうか。河口のフンヅマリは両岸から堰堤を海の中へ伸ばしていく、沿岸の海流をそらせて河口の流れをブロックさせないようにする、そんなくらいしか手もなかろうが、どちらもやるとしたら大変なこととなろう。もともとが由良川の氾濫原に、川の川原であった所に、後に人が住むようになっただから、対策といってもむつかしかろう。


《姓氏・人物》


樫原の主な歴史記録



樫原の田楽
 名称  田楽
 所在地 北桑田郡美山町樫原
 時 期 一〇月一〇日(古くは旧暦九月一〇日)
     川上神社祭

山陰本線和知駅よりバスで入るか、京北町周山からさらに国鉄バスで美山町の中心地へ赴き、そこから和知行のバスに乗り換るかして入る樫原は、交通こそ便利とはいえないが、由良川の谷沿いに拓けた静かな山村である。近くに戦後完成した大野ダムのため、若干の山林と耕地を削られたが、村のたたずまいにさしたる影響があったとは思われない。
この村を通る街道より、バス停前の小径を山の中腹にむかって進むと、大鯖の茂った杜がある。そこが大原神社である。この大原神社のたたずまいは、村落の大きさには不似合のほど立派なもので、かつてこの神が地域を越えて相当に広い信仰圈をもっていたことがわかる。田楽はこの大原神社の横に鎮座するこの村の氏神川上神社の祭礼に演じられる。
大原神社は、洛中や丹波地方に広く信仰をもつ神社で、平安時代初期にまつられたという伝承があり、樫原がその本家であるともいう。しかしこの神社が知られるようになったのは、元和年中(十七世紀初頭)に、桑田・何鹿・船井三郡の園部城主として小出信濃守吉親が入城。この神社を深く信仰してよりともいう。近世から近代にかけて、大原詣と袮し、遠くからの参拝客が多かったという。
村ではこの大原神社を旧大野村の神社として、四月二三日に祭礼を執行。樫原一村の氏神は川上神社としている。この社はもと山奥の地に別に社地があったが、後に大原神社境内に移したといわれる。
田楽はこの川上神社の方の一〇月一〇日(古くは旧暦九月一〇日)の祭礼に演じられるものである。この祭りには九人衆による講があり、田楽もこの九人衆によって躍られる。この村は戸数三〇数戸であるが、そのうち長男が嫁を迎えると講員となる。定員が九人であるから、新入りがあると古い順に一人づつ抜ける。祭りの頭屋もこの九人衆が古参順に勤めるもので、一度頭屋に当ると、それを機会に家の壁を塗りかえ、風呂を建てかえるというように物入りが多かった。この講を別名スシ講ともいう通り、鯖ズシを大量に作るので知られもする。
鯖は若狭から売りに来るのを例とするが、一〇月三日にスシ漬けと称し、鯖の骨を抜き、皮はそのままにして笹を敷いた四斗樽に小ぶりの鯖を一匹につき一合の御飯をつめて漬けこむ。二斗樽で三〇匹、四)斗樽で六〇匹程は入るという。この樽にカラおとしをした後、水を入れその上から重しをしたまま入日迄漬ける。入日にはサカおとしをし、一晩で水を切る。九日の晩には味見と称し、親類を呼んで馳走。一〇日の本祭りを迎える。
頭屋の家では、一〇日に本客として九入衆と神主・区長等を迎えて馳走をするから、相応の量が必要で、一度頭にあたると相当の出費があったらしい。このスシ講も昭和三〇年頃より中止となった。


スシ講がまだ行なわれていた頃は、九入衆は一〇月一〇日朝に各自禊ぎをし、頭屋の家に集まる。朝食はオカユで、昼食が本膳。焼き物のかわりに鯖ずし一本が付く。この本膳が済むと田楽の練習がある。新入りの入入衆に躍り方を教えなどし、二回程度躍る。次が区長の挨拶で、それが済むと屋祈祷と称して神主が竈ばらい以下の行事をする。この折、頭屋宅の床には神号の軸がかけられ、注連縄が張られ、御斎として入豆・ごぼう・昆布・胡麻などの御供が供えられている。神主の竈ばらいが済むと、家の祈祷として座敷にて田楽が一度躍られる。その後、二時頃に一行は行列して川上神社へ赴く。行列が神社入口にかかると練り込みと袮して笛・入鼓・ビンザサラを奉して神社前まで行く。
川上神社には拝殿はなく、本殿前に薦を敷き、円座を一一置いて既に準備が出来ている。一同着座すると、まず神事がある。この時の神饌は、古くからの決りがある。
次がいよいよ田楽躍である。田楽躍の構成は、ビンザサラ四入、入鼓四入、笛一入の九名で、九入衆が勤めるが、最長老から順に入鼓の入、入鼓の中、太鼓の小とだんだん太鼓の入きさが小さくなる。次がビンザサラで、最後の一入が新入りの役とされ、これを別名烏と称する。笛は九入衆のうち得意の者の役とされる。
川上神社前の田楽が済むと、次は山の神の祭場へと出発。そこは神社よりさらに山側に十五分程入った山口の地で、特に祠などがあるわけではない。目立たぬ木が一本あり、その枝に、二又枝などが掛けてはあるが、知らぬ者は見過してしまうような所である。その前は特に平坦地というわけではなく、人の二・三人も座せぬ所であるが、そこに薦を敷き、祝詞の後に田楽躍を一通り演じる。
今でこそ若干の田畑を耕作する村であるが、本来は山の穫物を追う生活が長く続いたのであろう。田楽躍終了後に、山の神への供物と袮する藁ヅト(新藁でツトをつくり、その中ヘスリヌカを入れ、ウラジロの木の箸を添えたもの)を燃やす。また神玉が竹の弓に麻苧の弦を張った弓で、的を射る行事を行なうことがある。
田楽の山の神への奉納が済めば、一同再び神社へ帰り、練り込みで川上社へ奉告をして終る。
 夕食は村入全員が参加してモッソウメシと称する木皿に高盛にした飯のまわりに御斎(五菜)を並べたものを食べることがあった。また直会餅として、午前中に頭屋にて躍り手に搗いてもらった餅を、長いまま切らずに子供達に配り、食べてもらうことをしたという。
後宴として祭りの次の日は、仕事を休んだとも伝える。
頭屋のなくなった現在、それまで個入の家でやっていた諸行事は、神社社務所にて行なわれるようになった。昼頃に九人衆と関係者は社務所に集合。そこにて頭屋のこしらえる膳を受け、神主の屋祈祷や田楽も、この社務所に祭壇を飾って行なう。このため練習の田楽と屋祈祷としての田楽が一つになり、社務所では一回しか演じていない。また鯖のすしも膳には出されないようである。


現在の祭礼では田楽躍は四回躍られることになる。頭屋を廃して社務所に集まった九人衆は、午後一時頃社務所で衣裳(黒紋付に裃)をつける。頭屋の座敷に凝せられた社務所の一室には、正面に祭壇が整えられ、山の神の供物なども置かれている。九人の田楽衆は、ここにて一度リハーサルをする。新しく加わった者に一通りの演じ方を教え、他の者も年一度の本番にそなえて、順番を復習する。これが済むと、専門の神職が正面の祭壇にむかい祝詞を読み、いよいよ本来頭屋で演ずるべき第一回目の田楽躍をおどる。
芸態は基本型が図Ⅰの如く二列に並ぶもので、正面にむかって左側が、奥から笛・ビンザサラの四人が年齢順、右側が太鼓役の四人で、これも年齢順である。太鼓役の一番奥が最年長者で、ササラの一番手前が最年少者、即ち新入りの役である。この人を別名カラスと呼ぶ。
① 基本型のまま跪座し、笛の前奏にて楽器をそれぞれ三打。
② 全員が立ち、楽器を三三九度(ビンザサラは左右中と三回づつ)に打ちながら、逆まわりに一周してもとの位置に戻る。太鼓は腰に結ばず左手にて緒を持つ。
③ ①と同様二列に対面して座す。ビンザサラの1が正面中央にむいて一人立ち、閉じ扇を右・左・右と持ちかえつつ三拝。次に両手を膝に置いて前かがみとなり、片足を大きく横に出し、後足をそれにスリ足で揃えるという動きを九回して、元の位置まで戻る(図Ⅱ)。はじめと同じく三拝して復座する。
④ 次にビンザサラ2、3と同様にする。
⑤ ビンザサラ4のみは、1同様に動きを終えた後、足を揃えて前方に三歩跳び、三歩跳びさがる。手には閉じ扇を持つ。これを俗に烏跳びと称して、新入りの最年少者であるビンザサラ4だけが行う所作である。
③から⑤の間、残りの太鼓四人とビンザサラの三人は跪座したまま一動作毎に、それぞれの楽器を打つ。
 以上が樫原に伝えられた田楽躍の芸態である。
社務所が済むとまず山の神社に行き、同様に演じ、再び帰って川上神社前に薦を敷いて演じる。
以上が現在の演じ方であるが、山の神社と川上神社との演じる順序が昔とは逆になっているようである。
なお、楽器については第五章を参照されたい。


この田楽についての歴史を知るべき古文献等は樫原には一切ない。
ただ現在使用のビンザサラの一つに「天保七申歳作之」とあり、もう一つには「安政未歳九月再作之」と墨書されている。 (『京都の田楽調査報告』)


最古の農家建築-石田家
 北山型民家-石田家住宅 一棟
          桁行九・四㍍、梁間九・九㍍
          入母屋造り妻入 茅葺
            附祈祷札 一枚
             慶安五年七月吉日の記
石田家住宅は、縁桁の墨書から江戸時代初期の慶安三年(一六五〇)に建てられたことがわかった。現在建築年代の判明している農家としては全国で最古という折紙付きである。昭和四十七年に国の重文指定を受け、直ちに解体修理工事がなされ、建築当初の姿に復原された。この時の修理工事報告書によって、この建物の特徴をあげると次のとおりである。
(一)棟木下の棟通りで間取りが縦に二分され、南側には奥から「おもて」(座敷)「しものま」「まや」北側には「なんど」「だいどこ」「にわ」(土間)があること。
(二)入口をはいった(妻入り)土間「にわ」は「あげにわ」に復原された。
「あげにわ」とは普通の土間より高く土を盛り、板床より約一五㌢ほど低いくらいまで高めたもので、古くは美山町の民家にも実際にみられたと「北桑田郡誌」には書いてある。
(三)各室の境の間仕切りは、ほとんど開口部が片袖板壁引込戸に復原された、側まわりも「おもて」「しもんで」の縁に面するところを引違戸にする他は、すべて片袖板壁の引込戸になった。これは古い民家の特徴である。なお「にわ」から「だいどこ」の正面をみると、敷居を一段高めた納戸構えが二つ黒びかりして並び大変立派である。「なんど」が一室なのになぜ二つの入口があるのか不思議であるが、このあたりはこの形式が多い。昔は一家の主は「ゆるり」を前に、この立派な構えを背にしてどっかりと坐っていたのであろう。
(四)「おもて」は八帖で表には縁側があり、「床の間」「仏壇」がつく、しかし、床の間には落しがけはなくて内法貫(うちのりぬけ)がそのままみえており、長押(なげし)もどこにもない。江戸時代後期に一般に普及した「座敷構え」はまだなくて、床の間は神棚に近卜性格、仏壇は位牌壇に近い性格をもっていたのかもしれない。庭先にも、さかきとしきびの古木がみられる。
(五)柱はほぼ四寸五分(一三・六㌢)角と太く、大体一間(六・五尺、約二㍍)ごとに建てられ、指物や梁で柱を抜いているところは少ない。これも古い民家の特徴で不便だが頑丈なのである。
(六)梁組は上屋の梁間が四間あること(両側の下屋各半間をたすと家の奥行は五間(約一〇㍍になる)江戸時代も中期以後は新規に家を建てるときは、三間梁間にすることを御法度できめていたが、古い家柄の建物では従来通りの四間梁が認められている。なお美山町には五間梁の家もいくつかあるが、それは下平屋の小林家住宅(文化十三年上棟、重文)のように大庄屋か有力郷士であったところに限られているようである。
(七)小屋組は「おだち・とりい組」になる。四間梁間の中央棟通りに棟束をたて、その梁行両側に一間強はなして母屋束をたてる。棟束(おだち・うだつ)と母屋束をつなぐ梁を「とりい」という。このやりかたは美山町の型の民家だけでなく丹波東部一帯の古民家に共通している。
(八)柱などは鉋はかけてなく、ちょうな(ちょんの)がけで仕上げている。丹波の古い民家は、ちょうなの刃型が魚のうろこ状につく、はまぐり刃を用いている例が多いが石田家もそうである。
(九)壁はすべて板壁で「ひぶくらはぎ」とし、土壁は用いない。これもこの一帯の美山町の民家ではほぼ共通している。また天井は「おもて」「しものま」「なんど」がひぶくらはぎ仕組の根だ板天井で、他は竹の簀天井になる。畳は「おもて」だけで他は莚をひいていたのだろう。
昔の民家は、今と違って村の人々の労力奉仕などの協力でつくられたので、同じ地域には同じつくりの家が多かった。民家史研究上、石田家のような型を「北山型」とか「東部丹波山地型」などという。分布は京都市の北部から京北町、美山町、滋賀県の朽木谷、福井県の遠敷郡南部山地や大飯郡である。このあたりは中世は杣地系荘園としてしられ、広い農地にめぐまれず林業中心の生活であった。「にわ」が狭く「あげにわ」になるのはそのためである。
北山型民家の特徴
 (北山型民家の祖型に見られる構成的な特徴)
 1平面は棟行に走る中央の柱間通りの筋によって分割される
 2入口は妻側に設ける(妻入)
 3内部は座敷、台所、寝間、それに土間と厩で構成され居室三室はそれぞれが喰違いに配置される
 4土間は狹く土が床面近くまで盛り上がっている(アゲニワ)-美山町民家独特の特徴)
 5土壁を用いない
これらの特徴を基本にしながら、いくつかの変形があり、また時代を追うごとにそれぞれ変化を遂げる
    (京工繊大日向進教授「農村景観シンポジウム資料」より)
(『美山町誌』)





樫原の伝説






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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『北桑田郡誌』
『美山町誌』各巻
その他たくさん



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