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丹波の

三埜(みつの)
京都府南丹市美山町三埜


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京都府南丹市美山町三埜

京都府北桑田郡美山町三埜

京都府北桑田郡大野村三埜

三埜の概要




《三埜の概要》

大野小学校(平成28統廃合されて今は空家)があるところの一帯、由良川支流の川谷(かわだん)川が地内を南流し、沿岸に川上側から川谷・小笹尾・岩江戸の3集落がある。
三埜村は、明治9~22年の村名。川谷・岩江戸(いわえど)、小笹尾(おざそお)の3か村が合併して成立した。はじめ桑田郡、明治12年からは北桑田郡に所属。同22年大野村の大字となる。
三埜は、明治22年~現在の大字名。はじめ大野村、昭和30年からは美山町の大字。平成18年より南丹市の大字。


岩江戸村(いわえどむら) (現)南丹市美山町大字三埜岩江戸↓は、

大野10ヵ村の1。由良川の支流川谷川が本流に合流する地点、府道12号(綾部宮島線)に沿った集落。天保郷帳は「岩江土」と記す。古代は弓削郷、中世は野々村庄の地。慶長7年(1602)幕府領、元和5年(1619)より丹波篠山藩領。
集落南方の岩江戸公園や浄化センターとなどのある由良川ぶちの小山に享和元年(1801)の創建と伝える本宮(ほんぐう)神社がある。寺院は大野にある曹洞宗林昌寺・日連宗蓮乗寺・真宗大谷派善西寺の檀家である。明治9年、小笹尾村・川谷村と合併し、三埜村となった。

小笹尾村(おざそむら) (現)南丹市美山町大字三埜
大野10ヵ村の1。川谷川の右岸に位置する集落。南丹市営バスの「小笹尾」バス停があるところ。古代の弓削郷、中世は野々村庄の地。慶長7年幕府領、元和5年より丹波篠山藩領。川谷川右岸に享和元年(1801)の創建と伝える大川神社がある。川谷の臨済宗妙心寺派行福寺の檀家。明治9年、川谷村・岩江戸村と合併し、三埜村となった。

川谷村(かわたにむら) (現)南丹市美山町大字三埜川谷
大野10ヵ村の1。川谷川に東谷川・西谷川が合流する地点にある集落。古代は弓削郷、中世は野々村庄の地。山椒太夫は当地の出という伝承がある。
慶長7年幕府領、元和5年より園部藩領。東谷川と西谷川の合流地点の山腹に菅原道真を祀る菅原神社がある。慶能法師(菅原道真の弟という)が当村に一小庵を結んで潜居したという故事によって祀られたと伝える。その下、菅原神社参道の横に臨済宗妙心寺派行福寺がある(川谷公民館)。寺伝によると延長6年(928)慶能法師供養のため建立、長福寺と称したがその後衰退し、寛文12年(1672)に菅原氏後裔の菅生道継が僧寿琳を招請して臨済宗の一寺として中興し行福寺と名付けたという。明治9年、岩江戸村・小笹尾村と合併し、三埜村となった。


《三埜の人口・世帯数》 146・61


《三埜の主な社寺など》

菅原神社(川谷)

岩江戸から市道(?)を川上向けて登って行くと突き当たりにある。石段を登ると菅原神社、左手の建物は公民館で、行福寺も兼ねている。
『北桑田郡誌』には、「菅原神社 字三野にあり、菅原道眞をまつる。起源詳ならず、傳へてこの地に道眞の弟慶能法師は一小庵を結びて僑居せりといふ。」としている。市指定文化財の神木杉がある、元気そうでまだまだ大きくなりそう。


大川神社

バス通りから西側の集落の方へ少し登った所で、『北桑田郡誌』には「大川神社 これ亦三野にあり、月読命をまつる。光格天皇の享和元年に創立せられたりといふ。」とある。市指定文化財の杉の巨樹がある。

本宮神社(岩江戸)

府道からは由良川の方へ少し下って、岩江戸公園や浄水場の先、突き当たりの小山の上に鎮座。『北桑田郡誌』は、「本宮神社 これ亦三野にあり、速玉男命をまつる。中御門天皇の正徳二年の創立なりと傳ふ。」としている。
社殿背後の急な崖の下を由良川が流れている。



臨済宗妙心寺派行福寺(川谷)

菅原神社の下にある、これは公民館、それともひょっとしてお寺、という感じの建物になっている。このごろあちこちで目にする風景で、お寺に公金は出せないし、限界の集落で行政が手を拱いてほっておけばたぶん寺院は潰れるし、苦しい妥協策なのか。
お寺はだいたいは、よい避難所になっていて、昔からの知恵なのかも知れない、そこに目をつければ公金が出せる。おもわぬ自然災害に対しては、ということで、放射能というとんでもない人災には無力だろう、このあたりで30㎞圏かぎりぎりだろうか、原発などというものがその安全対策に本当はどれほどゼニがかかるものか想像ができる。安全といって何の対応もせずゼニを出さず手を抜いて、人をイノシシくらいにしか考えない者が安い安いと言っているにすぎない。。
『北桑田郡誌』は、「行福寺 三野の山腹にありて南面す。もと延長六年慶能法師法要の爲に建立せしものにて長輻寺といひしが、近く寛文十二年に至り菅生道継之を廃して臨濟禅宗の一寺を起して行福寺と號け、僧壽琳を請じてこの開山とす。今花園妙心寺末に属す。本尊大日如來木像はその製作頗る古く優雅の中剛健を交へ、他の十六善神像 絹本着色全紙大 と共に郡内抜群の逸品たるべし。」としている。

玄関に市指定文化財の大日如来像がある旨の案内がある。長老ヶ岳からなら最短のような所である。『美山町誌』は、「木造大日如来坐像 一躯
 美山町字三埜小字久里谷一四(川谷)
  行福寺
大日如来は宇宙と一体と考えられる密教のご本尊である。
伝承に長老山頂近くに真言密教の寺院があったともいわれているので山麓の本寺にあるのも頷ける。
本像は手で智拳印を結ぶ金剛界仏で、平安後期に畿内の一部で行われた大日如来信仰の一つのタイプといわれ、構造は正中線で矧合わせた左右の二材からなっている。櫛目をいれた髪を螺髻に結いあげ天冠台は彫出していない。現在の銅製宝冠は瓔珞などとともに後補のもので、元来は別製の宝冠を釘止めしたのではなかろうかといわれている。
豊かな頬の面部に細く切長の眉目を刻み、体躯の肉取り、衲衣の彫法ともに穏やかなまとまりがあるというのが専門家の評価である。町指定直後に虫蝕が発見され、条例に基づく補助金支出で修理された。」としている。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


三埜の主な歴史記録




三埜の伝説


『北桑田郡誌』に次の伝説が集録されている。
上庵下庵 菅原道真の弟慶能法師は嘗てこの地に匿れ、後還俗して野々村頼房と稱し、神樂坂以北三十餘ヶ村を領せしが、上庵下庵共にこの頼房に因縁ありと傳ふ。上庵は今の字大野野々村伊之助氏宅の地にて、往時一祠を建てヽ天満天神を祀り、野々村氏を稱するもの毎年八朔の日この社殿に参集し神事を行ふを例とす。下庵ももとは尼寺にして、今の字大野野々村龜三部氏方の地にして、かつては秘傳録傳はりしも、いつの頃よりか個人の手に歸したる爲跡を滅したるぞ惜むべき。

杉山城址及び経堂 松平石見守兵部は世々公家に仕へて祿八千五百石を食むの士なり。第百代稱光天皇の應永三十一年七月十八日法皇殿炎上の難に赴き、多大の功を奏せしを以て江州高島郡の内五千石を加増せられ、一諸侯の地位に上りぬ。のち本村岩江戸に住み今の小字風呂ヶ谷二番地に城き 古俗この地を城屋敷といふ しが、文明二年十月十日病みて卒す。長子土佐守家を襲ひ、天文十年六月斎藤道光に仕へ、新に美濃國の地を領す。天正三年五月甲斐武田氏と織田信忠の軍と信州拮梗ヶ原に戦ひし時、土佐守重傷を負ひしかば、其の臣瀧田新八事の由を松山城に注進す。留守居役濱源吾等之を聞きて驚愕一方ならず、如何はせんと怖れ惑へる間に年去り歳末りて、天正五年二月土民等隊を組み農具を携へて急に城を圍めり。源吾等力戰せしも之を鎭定する能はず、幼君と共に自刄して果てたれば、城は陷り松平家終に難散の悲運を見たり。 この伝説は寛永十一年十月道尾日彦太夫にるものゝ編せる松山城由来書の大要を抜けるものなりといふ 源吾等の屍に今の岩江戸小字溝の下十九番地に葬られしものゝ如く、現に源吾塚と傳ふるものあり。
松平氏が高島郡を領しける頃、一年米穀登らず民貢米に窮しければ、大般若経六百卷を以て代納せることありしといふ。松山落城後土民之を岩江戸妙見山の西側なる小字小山元三十三番地に一堂を建てゝ格納せり。経堂といへるは即ち是なり。毎年夏土用丑の日に讀経曝涼をなすを例とし以て現今に及ぶ。この大般若経は鎌倉時代の版本とおぼしく、古雅優麗の逸品たるを失はず。奥書に
 此御経在所付亊市別當 泉賢蓮臺坊 仰依レ難レ去不レ顧二悪筆一奉レ書二寫之一冀酬二此功徳一十六善神二世悉地
令二成就圓満一給
    享徳四年乙亥卯月上旬右筆 天台沙門最承 最成
と記され。箱書には
 大日本國江州高島郡田中郷於二南市之本社夷大明神御寳殿庵室一而爲レ奉レ向二此大乗経王一願主徳阿勸二進十方旦越村人之衆力一得二此大乗経一。右意趣者天長地久現世安穏後生善所志不二何満一哉。則是可レ得レ到三願主徳阿共二蓮臺閣一者歟。願主徳阿益満足渇仰村人大喜悦。
却惟 昔玄奘三蔵今徳阿弥仏 信心不二不二皆同。
    永享七牟乙卯正月吉日 願主徳阿彌陀佛
と載せらるヽに據れば、初め永享七年正月を以て、徳阿より近江國高島郡田中郷南市夷大明神の社に寄進し、ついで間もなく享徳四年即ち康正元年には既に松平氏の有に歸し、天台宗の僧最成最承等が右筆として、この版經の處々に加筆し、以て寫經に擬したるものなるべし。

三庄太夫 三庄太夫は本村三野地内川谷の住民にして、山椒の皮を集めて之を丹後地方に鬻ぐを業とせり。往復の途上丹後の七廻八峠を越ゆる毎に、必同一の石に躓きしかば、怪みてその石を掘り取りしに、其の下より巨多の小判金を發見して忽ち大富豪となれり。かくて川谷の田地を買收し、區民を小作人とし大に威福を張れり。然るに三庄太夫尚大望を起して由良に移り、名を後世に殘さんが爲兇悪の徒の巨魁となり、つひに由良岡田等の三庄を押領して横暴を逞しうしたり。かくて山椒太夫のちには三庄太夫となりぬ。誠に傳説の好標本といふべし。







三埜の小字一覧


三埜(ミツノ)
涌掛(コウゲ) 勘定木(カンジョウギ) 竹ノ下(タケノシタ) 樋ノ口(ヒノクチ) 家田(イエダ) 久里谷(クリダニ) 大畑(オオハタ) 菅生(スゴウ) 大棚(オオタナ) 中農手(ナカノテ) 空山(ソラヤマ) 桑ノ木(クワノキ) 欠土(カケド) 仲筋(ナカスジ) 梅木田(ウメキダ) 三通田(ミトオリダ) ムセノ尾(ムセノオ) 溝ノ下(ミドノシク) ヒシリ 東田(ヒガシダ) 小山ノ元(コヤマノモト) 後田(ウシロダ) 北ノ元(キタノモト) 南畑(ミナミバタ) ノバタ 島田(シマダ) 西ケ谷(ニシガタニ)

ユウゲ、ユウケ
勇サンズイに封でユウゲ、また勇ケでユウケ、としている。古い伊吹でなかろうか。

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『北桑田郡誌』
『美山町誌』各巻
その他たくさん



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