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旧・美山町(みやまちょう)
京都府南丹市美山町


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京都府南丹市美山町

京都府北桑田郡美山町

京都府北桑田郡知井村、平屋村、宮島村、鶴ヶ岡村、大野村




旧・美山町の概要




《旧・美山町の概要》

旧・美山(みやま)町は、京都府中部、旧・北桑田郡の旧自治体。人口は現在4000人弱。由良川上流部の山間にある。美山というくらいで山ばかり、町域内の約95パーセントが山林(3万2千ヘクタール)、耕地面積は全面積の2バーセン上でしかない。町域内には三国岳・天狗岳・品谷山・ハナノ谷段山・奥八丁山・ホサビ山・白尾山などの標高700メートルを超える山々が立ち並ぶ。これら諸山を分水嶺とするヤスケ谷川・五波谷川・知見谷川・佐々里川・深見川・棚野川などが流れ、町のほぼ中央を西流する由良川に合流する。樹枝状の山間渓谷盆地を形成し、集落はこれら渓谷沿いに立地する。地質は秩父古生層に属する。由良川を横切って国道162号(周山街道)が南北に通じている。
当町域は、木梨軽皇子、慶能法師、甲賀三郎が隠棲したとの伝えがある。若狭と京都の中間地として古くから栄え、平安期には禁裏御料地であったが、天文年間には宇津氏が勢力を広げ、その後は川勝氏の所領となった。近世には大部分が園部藩領となり、多くの古寺古刹を持ち、農林業が盛んに行われた。江戸後期には平屋の箪笥製造業などの新しい産業もおこったが、近年過疎化で、人口も減少している。美しい自然に囲まれた京都の奥座敷として、将来の発展が期待されている。
明治22年、町村制施行により、南・北・中・河内谷・下・知見・江和・田歌・芦生・白石・佐々里の11ヵ村が合併して知井村に、深見・長尾・又林・下平屋・上平屋・安掛・野添・内久保・荒倉の9ヵ村が平屋村に、宮脇・板橋・下吉田・原・静原・和泉・上司・長谷・島の9ヵ村が宮島村に、鶴ケ岡・高野・豊郷・盛郷・福居の5ヵ村が鶴ケ岡村に、萱野・大野・三埜・肱谷・小淵・向山・樫原・音海の8ヵ村が大野村になった。昭和30年、5ヵ村が合併して美山町となり、平成18年に南丹市の一部になる。

もう少し詳しく書くと、
〔原始・古代〕
下平屋から、縄文時代と推定される石棒・凹み石が出土、内久保の光瑞寺境内からは凹み石が、また上平屋の教誓寺境内からは弥生時代と磨製石斧(大型蛤刃)が出土している。
律令制下では、丹波国桑田郡12郷のうち、弓削郷の郷域に含まれ、のちに郷域内から野々村荘や知井村が発生した。鶴ケ岡は棚野村に属したとされ、平安期に入って、それらは弓削郷の後身の弓削荘の一部として禁裏御料地となった。
古代の寺社としては静原の観楽寺が延暦年間の創建とされ、知美寺(のち本像寺と改称)は貞観16年(874)の創建と伝えられる古刹で、ともに真言宗寺院。

〔中世〕
禁裏御料地であった当地は、弓削荘域の一部として知井・棚野地区も飛地のような状態で含まれていた。同じ弓削荘の一部から出たと推定される野々村荘は、一時源頼朝が管理し、女房某の所領となった。南北朝期には一条殿女房が領主で、建武年間には建仁寺が地頭職であった。当荘は由良川流域に開けて荘園であったらしい。戦国期に入り在地の土豪川勝氏の領有地となるが、当地に点在する城跡から、有力な土豪の台頭の形跡を看取することができる。
天文年間になると、右京大夫宇津頼重が新たに広大な領地を所有し、禁裏御料への貢租を絶つようになった。当時松永久秀の力をもってしても、宇津氏を制止することができなかったといわれる。その後、明智光秀が宇津氏を制して善政をしき、その功により光秀は織田信長の感状を得ている。一方、川勝氏は光秀とよく提携し、さらに豊臣秀吉からの信頼を受け所領を安堵された。当町全域が川勝氏の分国内であった。
北の知井八幡神社は、延久3年(1071)南の上宮山に勧請されたが、永禄10年(1567)の洪水で長床・舞台・巫子屋・鳥居などがことごとく流失したので、十苗の宿老が北の久保屋敷に遷宮したとされる。宝物庫に蔵する鰐口は文明10年(1478)の刻銘を有し、北桑田郡中の最古の鰐口となっている。
宮脇の道祖神社は、允恭天皇の長子木梨軽皇子が当地に潜居された故事をもつことから軽野神社と称したとされる。応永15年(1408)の火災により灰燼に帰したが、程なく再建された。その氏子圏は旧宮島・大野・平屋村にもわたり、北桑田郡北部における最大の規模を有した。
鶴ケ岡川合の諏訪神社は、応安2年(1369)信濃国諏訪明神を勧請したものと伝え、社蔵の正徳2年(1712)棟札には「建立永和二年」の文字が見られる。15年ごとの大祭には、福居・盛郷の両区より刀踊が奉納され、豊里からは振踊、鶴ケ岡・高野からは神楽がそれぞれ奉納される。振踊は、道行の歌・お伊勢踊・長者踊・小鷹踊・商踊・武者踊からなるが、それらは室町期前後に民間に流行した風流踊の遺風を伝えたもの。
内久保の光瑞寺(真宗大谷派)はもと真言宗であったが、蓮如上人が越前吉崎から若狭小浜を経て内久保に入り、草庵に居したことにより庵主原田重兵衛兼寿(了照)が帰依し庵を一寺としたとされる。寺には蓮如の六字名号を有するほか、天正年間顕如上人から大坂石山城によって織田信長との対戦の時、光瑞寺から軍資を送って後援をした消息を物語る文書が伝わっている。なお平屋には、教誓寺・西乗寺・正覚寺・西方寺・覚了寺など計6か寺の真宗大谷派寺院があり、他宗派を圧倒する教線拡張をみせていて、真宗勢力の若狭からの伝播のあったことが知られる。
知見の正法寺はもと本像寺といい、真言宗から日蓮宗に転宗した寺院で、本山妙顕寺(京都)貫主歴代の隠棲地となった名刹で、暦応3年(1340)北朝年号の銘文が背後に刻まれた□黒の大黒天木像がある。
静原の観楽寺は真言宗泉湧寺末で、桓武天皇の勅願寺とされ、貞治4年(1365)・応永2年(1395)・延宝7年(1679)の3度火災にあったといわれ、その後明治19年宮島村役場の東北約300mに台地に移建された。仁王門は草葺単層六脚門で、2体の木像仁王像は鎌倉期のものと伝えられている。

〔近世の村々〕
江戸期の村々としては、棚田・深見・長尾・又林・下平屋・上平屋・安掛・野添・上久保・大内・荒倉・南・北・知井中・知井下・知見中・知見・江和・田歌・芦生アシウ・白石・佐々里・宮脇・板橋・下吉田・原・市場・野々中・和泉・上司・沢田・島・河合・殿・棚・船津・栃原・砂木・今宮・名島・洞・神谷・松尾・上吉田・田土・林・大及・熊壁・山森・庄田・脇・萱野・野々村大野・川谷・肱谷・向山・樫原・音海・岩江戸・小笹尾の各村からなり、総村高8,340石余(天保郷帳)。そのうち大部分は園部藩領に属していたが、知井中・知井下・北・南・河内谷カワチダニ・江和・田歌・河合・松尾・神谷・名島・洞・田土・庄田・岩江戸・大野・小笹尾・小淵・萱野・肱谷・向山は篠山藩領、脇・山森は旗本武田兵庫領に属した。
〔村の行政〕
知井の南・北・中・下・河内谷・江和・田歌の7か村では、村役として大庄屋1人を置き、その下に下役番人を置き、各村には、庄屋・年寄・百姓各1人の三役と五人組頭を置いたが、宮島村・平屋村では各村庄屋1人・年寄1~3人となっていた。役人の任期も村により異なってはいるが、1~2年がほとんどで、旧門閥ないし富裕農民の中で交互に回り持ちというのが多かった。またそれらは宮座と深い関係を持ち、地主層と小前百姓との分化をきたした。市場村では若狭方面との物資交流が盛んで、100余戸の家が街村状に並び、商品取引が行われていた。また大及村は木地師が多く居住し、椀や杓子などの商品を若狭方面に出荷、上平屋村では江戸後期に京都から箪笥の製作技術を習得して生産が始まり、現在まで続いている。

〔林業の発展〕
当町は農業を主としたが、一方、林業も重視され、マツ・スギ・ヒノキ・モミ・ケヤキ・トチ・カツラ・ブナ・カシ・クヌギなど、天然林の切り出しを行った。夏土用の入前後から9月中旬頃までに伐木が終わり、順次平落としをして、シュラ出し(山地の傾斜を利用して、木材の重力によって桟路面を滑らせる)を行い、堰出し、流し筏または管流しをして、京都郊外の嵯峨・梅津・桂の3か所に運送した。材木の売買は、上記3か所に仲買商を兼ねた問屋が置かれ、そこで行った。材木商を営むためには相当な加入金の徴収があり、株仲間が営業を独占していた。また江戸期には盛んに植林も行われるようになった。
知井・鶴ケ岡の炭焼きも盛んに行われた。炭焼窯は、前に高く後ろに低い「おたふく窯」と呼ばれる窯で、歩止まりも悪く7分くらいであったという。また炭の焼け具合も、煙の色やにおいで判断し、経験にものをいわせた方法がとられていた。
鶴ケ岡では、他地方に先がけ養蚕製糸業が農家の副業として広がった。水田や畑地に利用できない土地で家に近い所に桑樹が植えられたが、古木が多く摘葉にも時間と労力を要した。

〔近現代の行政区画の変遷〕
慶応4年閏4月28日久美浜県の管下となり、明治4年11月京都府に属し、同5年桑田郡のうち第21~24区に入り、同12年3月4日北桑田郡に所属した。明治8年棚田村と沢田村が合併して長谷村に、同9年野々中村と市場村が合併して盛郷村に、同年山森・庄田・脇・熊壁の4か村が合併して福居村に、同年川谷・岩江戸・小笹尾の3か村が合併して三埜村に、同年河合・棚・殿・船津の4か村が合併して鶴ケ岡村に、同年今宮・栃原・砂木の3か村が合併して高野村に、同年洞・名島・神谷・松尾の4か村が合併して豊郷村に、同12年知井中村と知見中村が合併して中村になる。明治22年市制町村制施行により、深見・長尾・又林・下平屋・上平屋・安掛・野添・内久保・荒倉の9か村が合併して平屋村に、南・北・中・河内谷・下・知見・江和・田歌・芹生・白石・佐々里の11か村が合併して知井村に、宮脇・板橋・下吉田・原・静原・和泉・上司・長谷・島の9か村が合併して宮島村に、鶴ケ岡・高野・豊郷・盛郷・福居の5か村が合併して鶴ケ岡村に、萱野・大野・三埜・肱谷・小淵・向山・樫原・音海の8か村が合併して大野村となる。昭和30年4月、5か村が合併して美山町が成立した。

〔史跡・文化財・分化施設〕
国重文に、下平屋の西乗寺に木造阿弥陀如来及両脇侍坐像、樫原に日本の農家の石田家住宅(慶安5年7月吉日と書かれた祈祷札がある)がある。ほかに同種の文化財として下平屋に小林家住宅(文化3年)がある。




旧・美山町の主な歴史記録




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『北桑田郡誌』
『美山町誌』各巻
その他たくさん



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