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丹波の

中(なか)
京都府南丹市美山町中


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京都府南丹市美山町中

京都府北桑田郡美山町中

京都府北桑田郡知井村中

中の概要




《中の概要》
「かやぶきの里」北の一つ奥の集落。由良川本流に北から支流知見谷川、また南から支流河内谷川が合流する付近に位置する。由良川沿いに府道38号(京都広河原美山線)、知見谷川・河内谷川沿いに府道369号(八原田上弓削線)が走り、沿道に集落がある。八ケ峰中学校・知井小学校の跡地がある。
由良川本流に、右手(北側)から知見谷川が流れ込む。

中村は、明治12~22年の北桑田郡の村。知井中村と知見中村が合併して成立。同22年知井村の大字となる。
中は、明治22年~現在の大字名。はじめ知井村、昭和30年からは美山町の大字、平成18年からは南丹市の大字。

知井中村と知見中村
知井中村(ちいなかむら) (現)南丹市美山町大字中
知井12ヵ村の1。由良川本流に知見谷川・河内谷川が合流する地点に位置し、若狭(小浜)街道沿いに開けた集落。古代は弓削郷、鎌倉時代以降は知井庄。
慶長7年(1602)幕府領、寛文4年(1664)より篠山藩領。山林は享和2年(1802)より禁裏御料となり京都代官の支配を受けた。
北にある八幡神社の氏子で、当地には古くから蔵王権現を祀る社があり、八幡神社の御旅所になっている。寺院には曹洞宗継福寺(けいふく)がある。

知見中村(ちみなかむら) (現)南丹市美山町大字知見・大泊
知井12ヵ村の1。由良川の支流知見谷川流域の、若狭(小浜)街道に沿った山間集落。北(上流)は知見村、南(下流)は下村で、東西はともに山地が迫る。古代は弓削郷、鎌倉時代以降は知井庄。
慶長7年(1602)幕府領、天保6年(1835)より園部藩領。村域内には社寺ともになく、知見の八幡宮の氏子で、日蓮宗正法寺の檀家である。明治9年知見村に合併。
両村の間に下村があるが、途中は飛ばして合併したのだろうか、同じ中だし…

《中の人口・世帯数》 146・55


《中の主な社寺など》

稲荷神社

継福寺の少し上手、府道沿いに鎮座。この社も苗社の一つだそう。中村の住人、主に大隅氏が祀つたと伝へられるているそう。

蔵王権現

この社も府道沿いに鎮座。二つの支流が合流する所の地名をとったものなのか、河合社と呼ばれていたという、元々は蔵王権現。由緒不詳。北の知井八幡社の御旅所となっている。


曹洞宗継福寺

由緒などの記録が見当たらない。


《交通》
古来若狭湾岸から京都への最短路として栄えたところ、特に知井坂・堀越峠を越えるコースは重要路であり、商人の通行が盛んであったという。主な商品は塩・乾物・釘・蝋燭・糸などが運ばれた。若狭の村人の中にも行商にでかける人も多く、月のうち20日も行商に歩く人があったという。行先は現在の当町付近であり、知井坂を越えて8㎞ぐらいの範囲であったという。今も美山町に知見・下・中などの峠の先の名田庄村と同じの地名が残るのも古来より通交の名残であろうかともいう、若狭由来の地名なのかも知れない。このような行商は戦前まで続いたが、明治期~大正期に敦賀~舞鶴間に鉄道が開通すると、この交通路も次第に寂れていったという。

《産業》


《姓氏・人物》


中の主な歴史記録




中の伝説







中の小字一覧


中(ナカ)
下前下モ(シモマエシモ) 下前(シモマエ) 穴原(アナハラ) 上前(カミマエ) 勘定(カンジヨウ) 下前上ミ(シモマエカミ)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『北桑田郡誌』
『美山町誌』各巻
その他たくさん



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