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丹波の

静原(しずはら)
京都府南丹市美山町静原


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京都府南丹市美山町静原

京都府北桑田郡美山町静原

京都府北桑田郡宮島村静原



静原の概要




《静原の概要》
国道162号(小浜街道・周山街道)と、府道12号(綾部宮島線・若狭街道・高浜街道)の交差点で、付近はムラというより市街地化している。由良川支流棚野川の下流域、美山中学校がある一帯である。
静原村は、明治9年~22年の村。市場・野々中両村が合併して成立した。はじめ桑田郡、同12年からは北桑田郡に所属。明治18年1月28日、地内の真言宗泉涌寺末観楽寺が焼失、翌19年7月現在地に移り、焼け残った仁王門を移築した(観楽寺由緒書)という。同22年宮島村の大字となる。
静原は、明治22年~現在の大字名。はじめ宮島村、昭和30年からは美山町の大字、平成18年からは南丹市の大字。

市場村と野々中村
市場村(いちばむら) (現)南丹市美山町大字静原市場
古代は弓削郷、中世は野々村庄。
市場村は、江戸期~明治9年の村。宮島11ヵ村の1。棚野川の右岸側に位置する。村名は、若狭国高浜方面から輸送した魚介類を、この地で市を立てて販売したことによる。市場跡にある高さ3尺5寸、周囲6尺3寸の巨石は、夷(えずひ)岩と称し注連縄をめぐらしていたと伝え、当時は100余戸の人家が市街地状を成していたという。慶長7年(1602)幕府領、元和5年(1619)より園部藩領。明治4年園部県を経て京都府に所属。同9年野々中村と合併し静原村となった。

野々中村(ののなかむら) (現)南丹市美山町大字静原中村
古代は弓削郷、中世は野々村庄。東は九鬼(くき)坂を越えて上平屋村に達する。
野々中村は、江戸期~明治9年の村。野々村中村ともいう(天保郷帳)。宮島11ヵ村の1。 慶長7年(1602)幕府領、元和5年(1619)より園部藩領。明治4年園部県を経て京都府に所属。同9年市場村と合併して静原村となった。

《静原の人口・世帯数》 136・68


《静原の主な社寺など》

菅原神社
菅原神社(静原)
社伝によると、天徳2年(958)の創祀、安永8年(1779)修築、天保9年(1838)再建という。氏子は市場・野々中・和泉・島の4集落、10月10日の例祭には氏子が参拝してにぎわうという。参道を国道162号が横切る。
『北桑田郡誌』は、
「菅原神社 靜原天神の森にあり、菅原道眞及び慶能法師 即ち野々村頼房 をまつる。社殿及び『菅生氏系圖』『觀樂寺由緒書』等によれば、村上天皇の天徳三年に創建せる所なりといふ。江戸時代に至り安永八年に修築せしも朽損せしを以て、天保九年八月再建せり。これ現存の社殿なり。本社の北方約一町の地に在る臨濟禪宗光照寺はこの別當寺なりしものゝ如し。毎年十月十日の例祭には靜原和泉島三部落の氏子悉く参拝し、餘興角力などを行ふ。社頭の老杉は高く天を衝き而も數本の多きに達し、 一は廻十五尺高百八十尺、一は廻り十四尺高百七十尺、一は廻り十三尺五寸高百七十五尺あり。 本社創立の古きを偲ばしむるに足る。」とある。
『美山町誌』は、
菅原神社祭礼
十月十日は、静原にある菅原神社のお祭りである。ここの大祭は二十五年ごとに「万灯祭」が行われる。ちなみに次回の大祭は平成十四年である。
大祭の時は神楽が奉納されるが、珍しいはしごの上での「幟りさし」がある。高い所で幟竿をあやつるさまは、見物人が声を掛け拍手喝采である。子供たちも男子は太鼓打ちを奉納する。順番に変わりながら赤いたすきをなびかせて打つさまは、軽やかで可愛い。女児たちは花笠をかぶり曳山をひく。例祭の時は、神輿の巡行がある。台風で被害があったあと、昭和四十年ごろ子供神輿が新調され、稚児行列とともに復活した。平成五年の例祭で神輿や稚児の巡行を奉納したあと、隔年に奉納することになり、現在は、宮司、役員が参列する神事の後は氏子のお参りだけの年もある。」と記す。


八幡神社
裏山の麓に鎮座。

『北桑田郡誌』に、
八幡神社 靜原にあり、應神天皇をまつる。社傳には菅公の息女知愛子を合せ祀れるが故に、もと知愛権現といひしと。」とある。


臨済宗相国寺派温泉山光照寺

国道162号沿いの温泉山光照寺は臨済宗相国寺派、寺伝によると、当地の北方今宮城に居住した土豪川勝光照が、元亀元年(1570)相国寺(京都市上京区)より周鉄清尊を迎えて入道受戒し、一寺を創立、周鉄を開山としたのが始まりという。現本堂は元文年中(1736-41)の再建。堂内に僧体の川勝光照の木像があり、坐像の高さ一尺八寸、戦国期のものと思われる。菅原神社の神宮寺であったという。
『北桑田郡誌』に、
「温泉山光照寺 靜原地内瀧田井附近にあり、臨濟禪宗相國寺末なり。寺傳にいふ。本寺は元龜元年川勝豊前守光照この地今宮城に住し、常に心を佛乘に歸向し、相國寺より周鐵清尊を迎へて入道納戒し、遂に一寺を創立して周鐵を開山とせるもの即ち本寺なりと。現本堂は元文年中の再建にかヽる。堂内に川勝光照の木像を安置す。刀法粗朴なれども全體の相好よく調和し、面目躍如たるものあり。坐像高一尺八寸あり。傳記につきては、後節人物の項を參照すべし。」とある。
『美山町誌』に、
「木造川勝光照像 一躯
  美山町字静原小字猪谷尻六
  光照寺
祖師又はそれに準ずる人の像は、彫刻より画像の方が多いが、町内での彫刻像は泉龍寺の道起夫妻像と本像との二例しかない。禅宗関係の高僧の像が中世以降多く作られているが、これもその風潮の中で作られたものであろう。安土桃山時代に生きた人物の同時代の作品ということで注目されている。また作風も全体の調和がとれた優れたものであるとの折紙付きである。像高は五三センチメートル。」


真言宗泉湧寺派小倉山観楽寺

観楽寺(かんらくじ)は、九鬼坂の南方台地にある。小倉山と号し、真言宗泉涌寺派、本尊は如意輪観世音菩薩。
寺伝によると延暦年間(782-806)の創建といい、本尊如意輪観音に桓武天皇の病気平癒を祈願したところ3日で回復。以後天皇の勅願所として観楽寺の寺号を受け、堂塔伽藍を整備したという。貞治4年(1365)、応永2年(1395)、延宝7年(1679)の3度火災に遭い衰退したが、京都の観楽寺(所在地不明)の大夢が諸国に勧進して天和2年(1682)11月再建。明治7年桓武天皇の位牌を納めたが、同18年1月火災で全焼。翌年7月空山(そらやま)(小倉山)より移り、現在地に本堂・庫裏を再建、わずかに残った仁王門も移築した。仁王門は草葺・単層・六脚門、仁王は木造立像で高さは右六尺五寸、左五尺五寸五分、鎌倉時代の作と思われる、という。
当地一帯の数少ない古代寺院で、菅原頼房(菅原道真の弟、または叔父と伝えられる)が道真の太宰府へ赴任ののち、当地に隠栖し、慶能法師と称し、同寺を潜居所としたという伝説もあり、大野に慶能塚がある。また知美寺(のち本像寺と改称)も貞観16年(874)の創建と伝えられる古刹で、ともに真言宗寺院である。

『北桑田郡誌』に、
「觀樂寺
宮島村大字靜原にありて眞言宗泉涌寺末なり。寺傳によれば本寺は延暦年中の創建にかゝる。桓武天皇御不豫の時本寺の如意輪観世音に御平癒の御所願ありしに、三日にして御本復あらせられしかば、天皇の勅願所となり、觀樂寺の號を賜はり、堂塔伽藍具備せしが、其後貞治四年應永二年延寶七年の三たびまで火災に罹りしかば漸次退轉したしを、京都北野觀樂寺第十六世の僧大夢諸方に勧進して天和二年十一月再建し稍舊観に復したり。明治七年桓武天皇の尊牌を本山泉俑寺に納む。然るに明治十八年一月二十八日また火災に罹りしかば、翌十九年七月地を更あて現境内とし、小やかなる堂宇を建て、纔に残りし仁王門を移築したるもの即ち今の本寺なり。
當島村役場の東北方約三町の臺地の上に在りて西面す。仁王門は草葺單屠六脚の門にして、仁王木造立像は高さ右は六尺五分左は五尺九寸五分あり。一時雨露に濕ひし事ありと見えて甚だしく朽損したるも、尚新作當年の悌を存し、刀法遒健にして躍動の力あり。鎌倉時代を下らざる頃の作ならんか。本寺の舊址につき「嶋校下之史蹟」を著はせる大東五一郎氏の實地踏査記事をここに借り來りて、當年の盛大を偲ぶよすがとせん。曰く
  「堂塔伽藍の大層立派であった事は、明治十八年まで堂塔のあった空山 小倉山のことか の觀樂寺址を尋ねると、なる程さすがにと首肯かれる。今小倉橋の橋詰に堂屋敷といふ所がある。以前は地蔵尊を祀った堂があった。そこから幅一間餘の道を傳って山腹を歩み、谿の間靜かな清い道を上ること八町、仁王門の址がある。このあたり眞に幽邃閑寂、さヽやかな不動瀧は京都清水音羽の瀧の様な音と峰の松籟とが和して、そゞろ山気の身に道るを覺える。寺路八町の両側には老松の並樹が空を掩うて雪が降っても道には敷かなかった。それを泉山の御用材として奉納したといふ。今其の伐株が残って居る。仁王立像二基高さ五尺六寸精巧な彫刻であるが、何人の作か詳かでない。本堂を遠く離れて居た爲祝融氏の見舞ふことヽならなかった。それが現在の位置に移されてあるのだ。この仁王門下に全文字浮出しの立派な下馬札があった。だから牛馬を牽く農民は傍の道を通って山へ行った。その細道も現存して居る。仁王門址から行くこと一町、路が二つに岐れる。この辺には堂宇のあつたらしい址が三っばかりある。行くこと一町程で本堂跡に逹する。本堂址は別圓の様で 原本には精巧なる見取り図ほ添ふ 空山を背に本堂は西面し庫裡は南面して建てられてあったのが、残礎によって察せられる。山を切り崩して寺地とした爲、石垣は三段に積まれて居る。今本堂址にはその名残を留ある爲に小さな祠が建てられてある。」と
終りに左の文書一通を載せて本寺の記事を閉ぢん。
        請 書
 一桓武天皇御尊牌             一 臺
   右は今般依二御沙汰一當寺へ奉納に相成候條正に受取候也
                  泉湧寺住職
                    藤原 陽道
   明治九年八月廿七日            
   桑田郡第二十三區中村
   觀樂寺代理   山崎源吾殿」とある。


本来の仁王門ではないのだろうか、金網の中で仁王像は写しようがない。
『美山町誌』に、
府の指定
歓楽寺の仁王像
木造金剛力士立像二躯
 美山町字静原小字孤段三〇ノー
 歓楽寺
 昭和五十八年四月十五日指定
 附
 紙本墨書円波有木他願文 四通(平成十年追加)
仁王像は昭和五十八年の指定だが、願文は仁王像解体修理時に体内から発見され、平成十年に追加指定されたため。 鎌倉時代の作といわれる等身大の仁王像で、阿形が一七六・〇センチメートル、吽形が一七九・五センチメートルあり、この種のもりとしては小品であるが製作の秀れた一例としての評価は高い、忿怒の眼鼻立ちも筋肉描写も、また数繁くたたまれた衣褶も深く、切れ味よく刻まれ、よどみがない、強く腰を捻り裳裾をなびかせた運動感も、整った体駆の均衡と共に鎌倉彫刻の秀れた面をよく表わしている。
製作は一三世紀半ばをあまり下らぬものといわれ、阿吽いずれも頭、躰を通じて正中線と両側で矧合せた四材が根幹をなし、これに両手や張り出した腰、踏み出した足等を矧付けている。雨露にさらされ虫食、腐食が進み損傷かはげしいので平成五年度から四か年計画で国や府などの援助を受けて修理を行い、併せて保存・拝観の両面に配慮した山門の改修もなされた。修理の過程で判明したいくつかの点をあげると、江戸時代にも修理をしている。創建当時は朱色をした像であったと思われるが、今はその片鱗が僅かに凹みに見られるに過ぎない。
阿吽いずれも右足ホゾ内側に墨書名があった。阿形には「嘉元四年歓楽寺仁王彩色」云々と最後の仕上げが終わった段階の墨書と思われる。吽形にも「野々邑彩色惣檀中」の文字がみられる。
また吽形像の左裾矧ぎ目の間から複数の願文が発見された。願文はいずれも一部を欠失しているが鎌倉時代後期の文書四紙四通分が確認され、その内容は病気平癒を祈願したもののようである、これらが平成十年に追加して指定された。
 これだけで像の製作に関わるすべてを知ることはできないが、鎌倉時代の作であることはまちがいない。ちなみに嘉元四年とは一三〇六で鎌倉中期にあたる。初めのころの住職は代々「慶」を採用していたことや(開基は慶円となっている)広く庄内に勧進して建立したのではないかということなど推測できた(『文化財保護』No.16京都府教育委員会刊)。」とある。


中村城
国道162号を挟んで觀樂寺の反対側の山の頂↓にある。島城の北1㎞ばかりの山頂にある。ずいぶんと高い山である。

『美山町誌』に、(地図も)
「中村城(美山町静原)

市場から東に棚野川を渡ると、標高二九〇㍍の小山がある。旧観楽寺の仁王門跡から右に登ると、中村城に続く尾根の鞍部に到る。遺構は主郭(I)を中心に三方向に翼を広げた様相の縄張りで、北の尾根続き側には。畝状空堀群が付設されている。登城道が取り付く虎口状の曲輪(Ⅱ)は、長さ二五㍍・幅八㍍程の窪地となり、両側は土塁を伴っている。。虎口(出入口)としては不自然な遺構であり、これからの調査を要する。南へ六五㍍程の傾斜を伴った曲輪(Ⅲ)を登ると主郭の虎口に達する。虎口の両サイドには低土塁を付設し、左折すると主郭(I)に到る。曲輪内部には、東西に幅二㍍・長さ一五㍍程の空堀で主郭への侵入を規制し、虎ロスペースを確保している。
主郭部は、南北五〇㍍・東西一五㍍の規模で二段の曲輪で構成されている。西の市場方面へ突出した尾根の、南北一〇㍍・東西一五㍍の曲輪から北へ迂回して降る通路かあり、先端には削平のあまい曲輪に至り、斜面には竪堀が付設されている。主郭部の虎口状態から推察して、永禄年間から天正初期の縄張りが考えられ、元亀元年に川勝光照が光照寺を建立した時期と同調すると考える。」という。

中村城


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》
川勝豊前守光照
『北桑田郡誌』に、
「川勝豊前守、在城今宮、大谷佐々江知井野々村棚野若州之内納田終上林之内三分一、以上七ヶ所領知、入道而光照院殿照山道珀大居士、始號大膳大夫秦朝臣光照。」という。「とある。
今宮というのは一つ上流の高野今宮で、今宮城がある。川勝氏は棚野川下流域の今宮城、中村城、島城を拠点とした。北の堀越峠を越すと若狭の納田終、 西の洞峠を越すと綾部市上林の光明寺の麓へ出る。
『綾部市史』は、
「織田方は口丹波と奥郡天田・何鹿の地方に前進基地を設ける必要があったものとみえ、本格的な丹波攻略の前、元亀三年(一五七二)にまず上林地方に侵入を始めたもようである。
上林地方には南北朝時代より上林氏がいたが、信長方の軍(高田豊後守であろう)の侵略は防ぎようもなく、上林氏方の拠点である君尾山光明寺は攻め落とされてしまった。このとき、桑田郡の野々村庄を本拠として同郡・若狭・何鹿郡上林地方等七か所を領有していた今宮城主川勝豊前守光照が、鶴ヶ岡・洞峠を越えて急いで来援に駆けつけたが、光秀軍に敗れて今宮城へ退き自刃したとの伝承がある(北桑田郡誌)。若狭は元亀元年、信長の部将丹波長秀によって征服され、守護武田氏の領土の半分は取り上げられて長秀に与えられていたから、上林谷侵入は若狭から入ったものであろう。」としている。

静原の主な歴史記録


虫送り
『北桑田郡誌』に、
「大字靜原及び附近二三部落にては毎年夏土用三郎の日に、部落民各々松明を黙じ、隊列をつくりて所謂蟲送りをなす。靜原にては天満神社に集合し、ここを出發點として水田との間を行進し、「蟲送るぞ」と呼びつ丶火の消ゆるまでこの亊を行ふなり。」とある。

市場跡の夷岩
市場については『北桑田郡誌』に
「市場 靜原の棚野川西の地をもと市場と呼べり。これ往時若狭國高濱方面より輸入せる魚類を此の地にて取引きしたるに由る。その市場址に高さ三尺五寸圍六尺三寸の巨石ありて夷岩(えびすいは)と稱し、之に注連縄を繞らす。当時は御松が手印今の巡査部長派出所以北の地に百餘戸の人家市街状をなして櫛比せりといふ。」とある。

このあたりだろうか、岩は見当たらないが、棚野川を背にしたゑびすの石像がある。市場村発祥の地にしては、今は意外と閑散としている。「蛭子」という地名の所。後の山は島の城山。



静原の伝説






静原の小字一覧


静原(シズハラ)
猪之谷尻(イノダニジリ) 宮ノ本(ミヤノモト) 木戸口(キドグチ) 宮ノ前(ミヤノマエ) 沢田(サワダ) 石橋(イシバシ) 檜野(ヒノキノ) 垣内(カキウチ) 檜ノ浦(ヒノキノウラ) 中田(ナカタ) 森ケ下(モリガシタ) 堀越口(ホリコシグチ) 段ノ浦(ダンノウラ) 坂尻(サカジリ) 九鬼ケ坂(クキガサカ) 和田谷口(ワダヤグチ) 溝ノ上(ミドノウエ) 大迫尻(オオサコジリ) 野々畑(ノノバタ) 夷岩(ビスイワ) 狐ケ段(キツネガダン)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『北桑田郡誌』
『美山町誌』各巻
その他たくさん



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