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旧・鶴ヶ岡村(つるがおか)
京都府南丹市美山町鶴ヶ岡


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京都府南丹市美山町鶴ヶ岡

京都府北桑田郡美山町鶴ヶ岡

京都府北桑田郡鶴ヶ岡村




旧・鶴ヶ岡村の概要




《旧・鶴ヶ岡村の概要》

鶴ヶ岡村は、明治22年~昭和30年の北桑田郡の自治体。由良川支流・棚野川の流域で、町の最北部になり、山々に囲まれた地。鶴ヶ岡・高野・豊郷・盛郷・福居の旧5か村が合併して成立した。旧村名を継承した5大字を編成。昭和30年美山町の一部となる。村制時の5大字は美山町の大字に継承された。

鶴ヶ岡は、明治22年~現在の大字名。はじめ鶴ヶ岡、昭和30年からは美山町の大字、平成18年からは南丹市の大字。

棚野村
中世の村で、棚野川流域にあったとされている、だいたい旧・鶴ヶ岡村の範囲かと思われる、鶴ヶ岡は明治9年の新地名だから、以前は棚野と呼ばれていたようである。鎌倉期~戦国期に見える。丹波国桑田郡のうち。鎌倉末期の徳治2年10月7日、弓削荘下村に宛てた公文僧覚円の山論裁許の沙汰状が初見。同文書に弓削荘下村・知井村・棚野村が見える。至徳4年閏5月21日付の天竜寺領土貢注文案には、「一 同(弓削荘)下村 寺納米佰陸拾玖斛伍斗捌舛三合く加延并棚野分定〉」とある。知伊村とともに当地も弓削荘に属して飛地のごとき体を成したものであろうとされる。下って、年未詳7月13日付で川勝兵衛大夫給人らの軍勢を催促した羽柴長秀書出にも知伊村や弓削荘上・下村などとともに「棚野村」が見えるという。

鯖街道(高浜街道)(西の鯖街道)(周山街道)
周囲を山々に囲まれた谷にある静かな村だが、若狭の海と都(京都・奈良)を結ぶ重要な街道が通る。当地は鉄道も道路もないなどと言われる、将来は高速鉄道が通るし、遠い過去は、当地を通る道がなければ、日本がなかったかも知れないような重要な道があった。
京都府のHPより多少省略した図↓ (元の図)
オレンジ色が旧美山町の範囲になる。
西の鯖街道図
鯖街道と呼ばれる道は幾筋もある。官道ではなく古文献や古記録に見られることはない、だいたい近世の通称である。シルクロードほどにないとしても、何となく歴史ロマン漂う呼び名なので、観光目的などで近頃よく取り上げられ喧伝されている(平成22年、府内で4番目、近畿で19番目の日本風景街道として登録された)。夢に掻き立てられて訪れる人もあることだろう。
それならどれがその路だと問われると、確たる文献上の証拠にするものはない、アスファルト舗装された二車線道しか知らない現代人にはまるで迷路になる、これは道か、と判断迷うことになる。
直線距離なら50㎞くらいの、ローマと長安を結ぶ、ここでは若狭の海と京の都をつなぐ、南北方向の道が5本あり、互いに横道で東西にも繋がっている。鯖街道は一本の街道というより、若狭・京都間の流通ネットのような状態の周辺の村人が通る生活用の山道である。シルクロードが本当は何本もあるようなことである。
鶴ヶ岡を通るのは、その一番西の街道で、通称高浜街道、若狭街道、周山街道と呼ばれてきた道で、今でいえばだいたいは国道162号線がアバウトなその道筋である。
高浜町笠原→福谷峠→石山峠→堀越峠→静原→島→宮脇→板橋→海老坂峠(あるいは→原→神楽坂峠→)佐々江→下弓削で国道162号に合流、周山に出る。そんなことで周山街道とも呼ばれる。162号線は京都市内の五条堀川まであって、その途中おのおのの得意先に魚を届ける。
もう一つ東の鯖街道は知井坂を越えるもので、小浜街道と呼ばれている。小浜→知井坂→北→平屋→国道162号(あるいは宮脇へ出て西の鯖街道と一緒になる。
出荷先とか量とかにもよるので、必ずしもこのルートとか限らないが、メーンとなるのはこうした道筋であった。
熊川宿のような大きな宿場はこの街道にはない、中世には小浜~京都間の街道には7、8箇所の関所があったという。仮に街道筋に大きな商人や商店があったとしても、それらは城下町に移されてしまう、こうした藩政にもよるが、北前船の西回り航路の開発などにもより近世になると当街道は衰頽する。竹の皮の包んだ握飯、竹筒の水筒持参だから、あるいは必要なかったのかも。今はというか、ごく最近はトンネルが出来て、道も整備され拡幅されて、スイスイで快適だが、ほんの少し前までは車が通れるような道ではなかった。一歩踏み外せば崖下へ転落死、一人で通ると狼に襲われた。東の鯖街道と比べると、西の鯖街道は険しく悪路で交通量は多くなかったのであろうか。
知見峠には至徳2年(1385)の年号を刻した石標があり、板橋の海老坂には経塚や吉野形式の巨大な宝篋印塔がみられる。
野田泉光院の記録にも見られるが、海老坂には若狭の八百比丘尼が建てたという地蔵が祀られているそうで、若狭の人々の群れが参ったという記録も見られる。
(「稚狭考」には「四月七日、松尾観音に参り、七月廿三日四日丹波の海老坂の地蔵菩薩に参る。府下の男女群行する事、古来よりあり。海老坂へゆく事は、昔の如くはあらで少なし。」と書かれている。「府下」とは、ここでは小浜城下のことである。若狭の人が「群行」して海老坂地蔵に参詣した。必ず野々村の道を通る。明和の頃には少なくなったらしいけれども、野々村人にとって、旅は縁の遠い話ではなかった。  『美山町誌』)
こうした記録はたいていは江戸も後期になってからのことで、より古い時代のことは書には何も残っていないが、こうした信仰というか、その形を借りた行楽旅行者もけっこうあったことが知られる。今なら海外パックの旅行みたいなものか、いつの時代にもあったもののようである。
その地蔵には当村寄贈の鰐口が残るという。当地の木材はこの峠を越して京都方面へ流していたのである。

西の鯖街道
若狭高浜町の笠原、福谷坂峠の登口にある「もう一つの鯖街道」像。ダンプが走っているのは県道16号線で、遠いいにしえの鯖街道、ここはその出発点である。「高浜町浄化ランド」という今は使っていないような建物がある、その敷地内にある。等身大より少し大きめの銅像であるが、緑錆の緑を背景の樹木の緑が隠してしまうのでたいてい見逃してしまう。古い街道は、この像のすぐ先に残されている、幅1間ほどの道である。
西の鯖街道
塩鯖を運んだ担夫は負荷、まだ夜半に若狭湾岸を出発したので夜出稼ぎと呼ばれた。彼らは40㎏ほどの荷を背に、約60㎞の山道を夜通し歩き、翌日の午後京に着いたという。帰りもほぼ同じ山道を夜通し歩いた。
塩鯖100匹ばかりを二つの竹籠に入れて背負い山道を歩いた。
全国的にはボッカ(歩荷)と呼んでいたようで、塩などを背負った、ボッカ路とか言う。
鯖街道を歩いた担夫たちもそう呼んでいたのかわからない。負荷と書かれているが、それをどう呼んでいたのかわからない。
塩と違って鯖はナマモノ、スピード勝負。遅いと腐り、無価値になる。鯖は一塩のもので、予定通りなら、京へ着く頃には良くなれて食べ頃になったという。丹波の山村の祭に欠かせぬ鯖寿司は、昔はこのようにして運ばれたものであったという。今は商店を見かけない、どこで鯖を購入するのであろう?
西の鯖街道
鯖街道を歩く負荷の姿は昭和の初めまでみられたが、その後はすっかりすたれ、今はもう見ることはない。昔々子どもの頃にその姿を見たという記憶のある人はもう百才くらいか。
鯖街道も忘れられて、峠の多くは廃道となっている。ムリして行けば行けないこともなかろうが、もう間もなくそれもできなくなり、元の山に帰るだろう。
鯖街道というから、鯖しか頭に浮かばないかも知れないが、より古くは若狭の先は海外と続いていた。この道もローマへ通じている。大陸の先進情報や文物、文化や人々もこの古代道を通って大和方面へと伝えられた。シルクロードの無数の延長線、支線、枝線の一つである。もし耶馬台国が大和なら、魏の使者もこの道を歩いかも知れない。
この像は近世のシルクロード衰頽時代の像であろうか。高速鉄道(北陸新幹線)の路線予定地になり、太古のロードが復活する予定になっている。

主な街道
 道は人が歩く道、人と牛馬が通る道、やがては人と物とを大量に運ぶ自動車や列車の通る道と変わってきた。それだけにそこには隠されたドラマがあり。改良のための涙ぐましい努力の歴史がある。ここでは主要街道のルー卜を簡単に記しておく。
 小浜街道
  京都は今の千本鞍馬口辺りを起点に鷹ケ峰-京見峠-杉坂-真弓-縁坂峠-大森―茶呑峠-辻-狭間峠-下弓削-深見峠-安掛-中-知見(八原)-知井坂-堂本-小浜のルートである。
 この街道は蓮如や日像などの高僧がここを通って、往く道筋で巡錫しながら教線拡大をはかっていったことも事実として他の編でも紹介されているところである。

 高浜街道(若狭街道)
  京都-(小浜街道)-辻―周山-五本松-漆谷峠-日吉佐々江-原坂(神楽坂・海老坂)原(板橋)宮脇-和泉-靜原-川合-林-大及(廃村)-棚野坂-(堀越峠・横尾峠)名田庄―高浜のルート。
 泉光院野田成亮翁が、老後の思い出として藩公の許しを得て、日本九峰修業と称して全国を跋渉した記録「日本九峰修業日記」の文化十一年(一八一四)十月に次のような記述がある。
   二十日 曇天。大谷村出立、辰の刻。エビ村托鉢。今日も昼食御馳走あり、海老坂五合目計りに地蔵堂あり、
  此地蔵年齢八百歳の八百比丘と云ふ人の建立と云ふ。一句
    雪の苦も助け玉へや南無地蔵
   峠を越し野々村の内板橋と云ふに着く、日も西山に落ちたる故宮の脇助右衛門と云ふに宿す

 これは旧暦十月二十日の記事で、この十月二十日は新暦の十二月二日にあたる。十日ほど前の黒田村の所で、初雪と書かれているので、一句にもあるように雪道であったと思われる(辰の刻とは今の午前八時ごろ)。
 また「天の橋立紀行」を残している室町時代末期の連歌師の第一人者であった里村紹巴も上林から洞峠を越え、海老坂か神楽坂を通って京都へ帰っている。
 このように当時の有名人が知井坂や洞峠、海老坂、神楽坂を越えて日本海側と太平洋側を縦断していた。
 美山を縦断したこの二つの街道は主に若狭の海産物を京の都へ運び、都の文化を若狭の地へ持ち帰る生活文化の交流ルートに他ならない。いわゆる「鯖街道」である。今日「鯖街道」と呼ばれる主流は敦賀街道と呼ばれる小浜上中-熊川-水坂峠-梅ノ木-花折峠―途中越-大原-静原-上賀茂のルートになっている。ここには熊川宿のような宿場町の面影を残すところをみると通行頻度の高さは窺い知れるが、小浜や高浜から生活物資なかでも魚介類を運ぶには最短路でなければならない。
したがってどのルートも「鯖街道」と呼ぼれてしかるべきだと考えられる。
 しかし美山を通るこれらの古道は重要路であったにもかかわらず、極めて急峻で難儀を極めたことは否めない。旅人の安全を守るため、棚野坂には六地蔵が、海老坂には応安七年(一三七四)建立という二・四㍍もの宝篋印塔が、そして四ッ谷側には玉岩地蔵が祀られたりしている。また番人小屋(棚野坂)やお助け小屋(知井坂ほか)の記録も残っていることからこのことが察せられる。これらの沿道にあたる河合(川合)・泉(和泉)宮脇・板橋などには旅人宿も少なくなかったという。
  『美山町誌』).


美山町というくらいで、広大な山は美しい、美山杉や薪炭などの生産流通があったのだろうが、手元には取り上げるような資料がない。
その深い山林には木地師と呼ばれた木工集団がいた。自分の嬶のことを「山の神」と呼ぶのは、彼らから始まったというが、それはともかくも、今はもう見られない山の民がこの山々にいた。


旧・鶴ヶ岡村の主な歴史記録

鶴ヶ岡村
一、概説
本村の起源につきては何等文献の證すべきものなく、遺蹟遺物の據るべきものなきを以て、いつの頃より住民を見出だしたるかを斷じ難しといへども、山陰出雲地方より由良川の流に沿ひて泝り、大野村宮島村を經てこの地に戸口の棲息を見るに至りしことは、理の當に然るべき所にして異論を挾むの餘地なきを信すれども。傳説は弓削知井と同一のものを有し平屋宮島に存する輕皇子又は慶能法師に關する口碑を有せず棚野田として野々村郷とは古くより獨立せしものゝ如し。かくて奈良朝時代以前に本村の地に狩猟農耕の民を養ひしは言ふまでもなく、平安朝時代の初期に至りては知井村と斉しく弓削郷の一部として禁裏御料地となり。中ごろ或は野々村頼房の所領に屬せしなるべく、鎌倉時代の末期頃より京都建仁寺の荘園となり、室町時代の中葉には一旦管領家細川勝元政元父子に隷屬し、やがて土豪川勝光照の押領する所となりて下剋上の形勢は全く熟し、その子孫永く之を繼承し、川勝秀氏 -彦次郎主水正- の如きは釆地すべて一萬石に達し、慶長五年の関原戦役には1大名として東軍に参加せし由同戦史にも見えたり。ついで川勝氏も江戸の旗本となりて此地を去りて後江戸時代を通じては園部藩小出氏篠山藩青山氏及び旗本の士武田氏め三者に管轄せられ、以て明治維新に及びしなり。明治四年廢藩置縣に際し久美濱縣に屬し、翌五年京都府に移管せられて桑田郡第二十三區に指定せられ、内牧長左衛門區長として治績を擧げたり。明治八年の頃村の廢合行はれし時、本村の地を五ヶ村と定められ、郷名の選択に苦心せしが、恰も舟津東北の山角より雌雄一對の丹頂鶴飛翔して法明寺背後の山腹を掠め、東南して諏訪明神の森に入りしかば、人々之を見て喜ぶこと限なく、これ本村繁榮の瑞祥なりとて直に鶴ヶ岡の名を案じ得たりといふ。明治十七年五ヶ村を合併して一村となせし際にもこの郷名を襲用して村名とし以て今日に至る。その明治二十二年に村制を實施し村長を選みて自治の團體となりしことは他の諸村に異ならす。今は高野、鶴ヶ岡、豊郷、盛郷、福居の五大字に區劃せらる。

二、境域地勢
郡の西北隅に位し、東は知井平屋両村に、南は宮島村に、西南の一隅に於て大野村に、西は船井郡上和知村及び何鹿郡奥上林村に、北は若狭國遠敷郡に接し、概ね不正圓形に近し。
南方棚野川流域を以て宮島村に連續せる部分は地勢稍平坦なるも、他の三面は山嶽峯巒を以て界し傾斜亦急なり。東方知井村との境には八百米突内外の諸山峙立し、西方大野上和知両村に跨りて八九八八米突の高山屹立し漸く北して洞岳(九〇〇米)天狗岳(一〇〇〇米)に至れば、ますます高峻を加へ、西北隅の頭巾山(一一八二米)に至りて最高地點とす。この山頂に登臨すれば丹後若狭二州の海岸を瞰下し得べく、青葉権現の祠四方を睥睨せるの感あり。隨って西方奥上林村に往かんには洞峠を踰ゆるを要し、北方遠敷郡に向ふにも高浜街道による外二三の里道いづれも坂路を越えざる可らざるの不便あり。
棚野川は源を本村の東北隅の山地に發し盛郷を濯ぎて山森川 -福居より来れる- を併せ、鶴ヶ岡に至りて豊郷より來れる西川 -源を洞岳に発す- を容れて南流し、附近の水田を養ひつヽ宮島村に奔る。河床稍高きが故に灌漑の便あれども筏を通ずること僅に二里餘に過ぎず、一見中流性の感あり。洞岳の中腹には瀑布多く存す。就中尤なるを明神ヶ瀧と稱す。高さ二十尺を過ぎ幅十尺に餘り、瀧壷の直径六十尺に近く、奇石怪岩の間を奔下し、夏時尚爽冷を感ぜしむ。

三、舊幕時代の所属
   『北桑田郡誌』).


木地師・木地屋・轆轤師
(木地師
 木地師は江戸時代の幕藩体制の中では次第にその存立が難しくなる流れの中にあったが、その中で中世的な「職」の擬制を模した仕組みが作り上げられる。木地師の祖は惟喬親王といおれている。惟喬親王は文徳天皇の第一皇子として承和千一年(八四一)に生まれ、人望厚かったか生母の家格が低かったがゆえに皇位は第四皇子惟仁親王(清和天皇)に譲り三〇歳にして比叡山麓の小野に幽居して五四歳で死去した。したかって親王は小野宮といわれ、その後惟喬親王の邸宅を領有した摂政太政大臣夫藤原実頼(九〇〇~九七〇)を祖とする家は小野宮家と呼ばれることになるが、その小野の位置は知られていない。惟喬親王の墓所は京都市左京区大原・吉野・鈴鹿・小野郷大森・江州永源寺など各地にあるが、江川永源寺町は親王が隠棲されて轆轤の技を発明・伝授されたために筒井千軒または小椋千軒という木地師・轆轤師の町が出来、親王が亡くなられた後、その蛭谷に親王を祀る筒井八幡神社が建てられ、君ヶ畑には大皇神社が建てられる。そこに戦国の終わり頃にそれぞれ筒井公文所・高松御所という別々の役所が設けられ、「氏子駈け」という諸国の木地師の土地を巡回しての集金行脚が始められる。
 これは諸国の山中に散在する藩政の対象から漏れた木地師を、惟喬親王の子孫で、それぞれの宮社の氏子であるという存在証明を与えることによって、孤立する木地師に公認的な地位を与え、その見返りに献金を促す仕組みだった。これに本当はどの程度、公的な効果が生じたのかは分からないが、藩政は自領地内のことは厳しく把握して監督する義務があったが、一歩自領を外れたら他藩のこととして他藩に踏み込んでまでの統御はやらないし、またやれなかった。園部藩が知井村は篠山藩と入り混じりで木地師を追い払うことが出来ないと言うのは、篠山藩の方針がどうあろうとも、木地師が篠山藩の領地に入ってしまったら、もう園部藩としては手の出しようがないということでもあった。木地師はそういう国境線の山を仕事場にする限り、木地師はそのような形で身の安全を守ることは出来たから、法的な実効性はなくとも、心の拠り所としてだけでもそれなりに氏子になっておく価値はあったのだろう。

野々村助左衛門
 蛭谷・君ヶ畑が木地師の本山的な意匠を整えていくためには、権威を証明するものが求められ、作られてくる。筒井公文所神主大岩氏の編んだ「愛智太山草」の中に、そういう類のお墨付きのひとつ、永禄五年(一五六二)の綸旨(天皇の発給文書)がある。
  四符加輿丁、左近府猪熊座の内、丹波野々村郷の内、杓子師・轆轤引右同人也。
  杓子引物売買の事。洛中洛外諸国商売、諸関・渡・臨時の役、
  堅く彼の西村助左衛門尉吉久男子々々孫々免除せらるるの上は、公役を全うして相勤むべきの由。
  天気候所なり。仍て言上件の如し。
   永禄五年壬戌五月一日         右大弁 在判
  進上広橋大納言殿
 この解説に、正親町院の御宇に当村大岩氏の者、丹波野々村郷西村に在居して右衛門次郎と言いしが、後に介(助)左衛門と名を改めける。上包みにも「進上広橋大納言殿、右大弁淳光」とあり、四符加輿丁は行幸の御車につく役にて四人あり、その一人の左近府なり。この綸旨、今は京都の轆轤師仲間の者、所持す。と書かれている。
 綸旨の内容は丹波野々村郷の西村助左衛門尉は杓子師・轆轤引きの棟梁的な人であるらしい。その職種は四符加輿丁の内の左近府猪熊座に属するらしいが、それは公役として認められている仕事のようで、したがって助左衛門とその男子は子々孫々に至るまで京の内外、諸国どこでも関銭や渡し船の代銭などは免除されるので、いよいよ公役に励むようにとの天皇の仰せである、というようなことになるだろう。
 この綸旨が本物かどうか、それはここでは問題にしない。しかし、本物であろうとなかろうと、こういう話に野々村が登楊した。野々村にいた杓子師・轆轤引きの棟梁らしき人、助左衛門が綸旨を受けたということは、今は蛭谷にある木地師の本山的なものが、その時はわれわれの野々村にあったということにもなるわけである。野々村は木地師の本場たったとも言えるかも知れない。
 この助左衛門のことを解説に丹波野々村郷西村に在居、と書いてある。綸旨の文面では西村助左衛門尉吉久と、西村を姓のごとくに書いてあるだけで、地名とするのは「愛智太山草」の作者の独断だが、近世以前は村の名前の下に個人の名前を続けるのが通例だから、それはそれで良いだろう。しかし、野々村郷西村がどこにあったのかはわからない。杉本壽はやや理解しがたい書き方で平屋村野添の西村正一家文書の存在を示され、そこで何かを発見されたような記述をされているが(「木地師支配制度の研究」15頁)、文書の内容の紹介や関連する記述がなく、何を意図されたのかがわからない。
 野々村は中世までの地域名で、現在の平屋・宮島・大野地区と鶴ヶ岡地区の棚村以南を含んだが、近世以降になると慶安元年の知見村水帳の表紙に「野々村之内知見村」と書かれている例があるなど、広く現美山町域がすべて外部の目からは野々村として認識されていたような気配がある。したがって「野々村郷西村」が(この綸旨が偽物であるなら近世になって作られた可能性が高いから)正確に旧野々村地区内に限定されると解釈する必要はないだろう。いづれにせよ、助左衛門の居住した地域がどこにあたるかはわからない。

氏子駈け帳
 その木地師の本山の一方、筒井公文所が諸国の国境線周辺の山地に点在する氏子の家々を集金行脚した記録簿である「氏子駈け帳」が多量に残され、翻刻されている。この駈け帳の知井・硼野にあたる部分の人々の数を集計したものが上の表である。これはあくまでたまたま残った帳簿の上だけの数字で、木地師の全貌がすべて把握されているということではないが、木地師の分布を知る上でこれ以上の史料はない。
 正保四年(一六四四)の櫃倉一三戸は家族人数は五四人もいた。結藤七戸には四八人、洞山(きれ谷)四戸には一四人、田歌二戸には一三人いたらしい。そのあとの年度からは家族の数が書いていないから比較は出来ないが、なかなかの人数である。山の中にも木を切り鑿をふるう音だけではない、子供達や女房達の世俗の音もそれに負けずに行き交った。この櫃倉は若狭の人の占有地的なことがあったらしく、知井の人の手の届かぬ状態だった当時の数字である。今も続いている若狭塗りの木地はこの谷から送り出されたもののようである。小浜の町民学者津田一助が明和四年(一七六七)に著した「稚狭考」には「木履・飯ヒは丹波・近江より来るを此地にて削り改め、或はぬりて諸国に出す。木履は近年殊に甚だし、尾張・桑名・江戸又松前へも出るる」と書いている。
 後述する岩江戸村権左衛門は、現美山町域を畳一枚ほどの大きさに描いた絵図も残しているが、その芦生村の北方に若州分と書いた空白地帯を記している。国境線の北側は若州なのだから、線を一本省略して何も書かなくても済むようなものだが、線からこちらは丹州であり、知井山であることを確認しているからこのような表記が可能だったのだろう。

 中山
 寛文五年に三三戸と一般の村に変わらぬ戸数を数える中山はいわゆる「おろし山」の中心地である。「おろし山」は「卸し山」で、近江国針畑郷周辺に木地師の親方的な存在があったらしく、知井九ヶ村は芦生奥の九ヶ村山(昔は「ちまた山」と呼んだ)の内、知井の集落から遠い芦生大谷から北部の山を一括してその親方に年切りで地上権を売り渡す形を取り、いつもその親方の支配下の江州木地師がそれぞれに分割された土地を得て仕事をするという仕組みだったようである。限りある森林の中で三三戸もの規模で生業が続けられるわけがないから、時期的にはそれほど長期ではなかっただろうか、この時期に谷川周辺の湿地が水田に整備され、川幅も広げられる工事が進められたらしく、以後谷川をせき止めて材木を下流から上流に逆流させて運ぶようなことも行われたようで、今も「さか(逆)川」などという名前か残っている。やがて森林を切り尽くしてほとんどの人々は各地に分散したらしいが、それまでの慣行から九ヶ村との年切り売りの契約の更新が途絶えたあとも、知井の人はほとんど入らず、近江の人が適宜利用する形で続いたようであるが、享和二年(一八〇二)に中山の神社周辺の立木を九ヶ村の者が若狭小浜の者に売り払い、針畑郷五ヶ村から抗議を受けることになり、野条村(八木町)文右衛門・畑中村(日吉町)佐助・朽木下市場の木屋助右衛門があっかい人に入って調停の結果、九ヶ村はその材木を小浜から買い戻し、針畑郷はその代銀の半額を九ヶ村に支払い、その材木を引き取ることとし、中山は今後、従前どおりに針畑郷が請け山銀を支払・だ卜で利用を続けることに合意した、ということがあった(「連印一札」【勝山隆家文書】)。
 そのような形で芦生奥(大谷から北)には江川人が入り続け、中山ではほぼ継続的に人が住み、田畑も使用され続けていたのだろうと思われる。中山社は知井の人々からは「うつし(移し)の宮」と呼ばれ、針畑の人は「うつぎ(卯木)の宮」と呼んでいると、この享和二年の合意書に書かれている。ウツギの花の開くのは田植時期と重なるから、田植の祭礼に使われたりすることか多いが、白い小花が数多く咲く姿が白いお米の豊穣に実るさまを連想させるから、人々が珍重したためではないかと言われたりする。今は田植が早くなって、すでに田植も終わっている頃だが、六月の山間を行くと、谷の奥までウッギの白花で埋まっているのを目にすることかできるだろう。山人も里人に劣らずウツギの花を愛でたのかも知れない。知井の人々は、山人の稼ぎ場の移動に伴って時々移動するお宮だから「移しの宮」と思いこんだ。

 木地師の興亡
 筒井公文所の神官が山々を廻って木地師の人々から募銀する名目には、はつを(初穂)・氏子狩・リ・かんとう(冠頭)などがある。「はつを」はお供え、「氏子狩り」は家族の人数に応じた社費とでもいうようなものか。「かんとう」は大人成りの儀式乃謝礼だろう。昔はちょんまげの時代だから、元服の儀式では前髪に剃刀を入れて額を広くした上で冠を被った。冠を占い言葉で烏帽千と言ったから、元服の祝いを烏帽子着祝いと言った。巡回する神官が子供の額に剃刀をあてるまねごとをやって、晴れて木地師の子供達も大人の仲間入りをしたのだろう。
 寛文五年(一六六五)の氏子狩りは知井の山のものしか残っててないようだが、そこで集めた募銀の総額は五一六・九匁にのぼる。これは先に見た知井の古検山役銀七三九匁にも遜色ない額である。
 それが寛文十年では戸数は増えているのに奉加総額は二八三・八匁へと急減している。やがて山検地が行わかる延宝年間である。村人の山地への関心が高まって各地で山論が繰り広げられるにしたがい、それまで自由に奥山を利用していた木地師が次第に追いつめられはじめ、稼ぎが萎縮してきたのだろう。
 次の延宝七年(一六七九)になるとほとんど木地師は姿を消してしまう。国境の外に出て行ってしまったのだろうか。
 その後再びひと頃の半数近くに復活する。若狭人の住む櫃倉谷は享保五年(一七二〇)一二戸の家を数えるが享保十二年には一戸も記録さわていない。先年亡くなられた芦生の井栗登氏のお宅は、もと櫃倉谷のソソロにあった。享保の飢饉の時にソソロの村人は皆死に絶えた。ただ一人生き残っていたのを芦生の村人に助け出され。その後ソソロの家を解体して現在地に再建したということである。享保の飢饉と一般に言われているのは享保十七年(一七三二)西日本一帯で餓死者一万二〇〇〇人、斃牛馬一万四〇〇〇頭といわれるイナゴ飢饉であるが、江戸時代通しての村の死者を数えることができる江和村では享保九年(一七二四)の五・六月だけで一〇人の人が亡くなっている。伝染性の病死のようであるが、医療というものがほとんどない時代のことである。享保の飢饉と言われる時でなくとも、山中でひっそりと暮らしていた人々が一斉に亡くなるようなこともあっただろうし、享保の飢饉以前に、人はいたけれども募金に応える力が失われていたほどに、既に村人は疲弊していたのかも知れない。井栗氏の話と、戸数確認表の数字は、矛盾なく理解することかできるだろう。井栗登氏に案内されてソソロを歩いた時に享保六年の銘が入った自然石の墓標を一個見た。職人か文字を掘ったに違いないしっかりした銘だったから、その頃まではまだ櫃倉の村は健在だったのだろう。ソソロから移転した家は、昭和四十二年に調査されて、報告書が残っているので様子をうかがうことか出来る。そこに示されている復元予想平面図を見る限りでは、一般の農家の復元図と大差ない規模と作りのように見える。素材の木がなくなると移動するという生活でも、炭焼きのように周辺の木を皆伐して焼いていくのとは違って、一本の木を利用し尽くすにもかなりの時間がかかるわけだから、一世代、二世代が定住し続けられるようなことも少なくなかっただろうし、彼らの住まいをことさら粗末な形に想像する必要はないのかも知れない。櫃倉谷や中山など定住性の高かった土地の人々は、この近辺の村々の住居と、何ら見分けのつかない住居に住んでいただろうと考えた方が良いようである。
   『美山町誌』).




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『北桑田郡誌』
『美山町誌』各巻
その他たくさん



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