丹後の地名 若狭版

若狭

美浜町(みはまちょう)
福井県三方郡美浜町


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福井県三方郡美浜町

美浜町の概要




《美浜町の概要》
美浜町は、昭和29年~現在の三方郡の自治体。敦賀半島西部から三国山・雲谷山の山麓にかけ、若狭湾に面する。若狭の東端に位置する。北西郷村・南西郷村・耳村・山東村が合併して成立。合併各村の大字を継承した31大字を編成。町名は、合併各村がいずれも若狭湾に面して美しい浜があることから名付けられた。若狭湾沿岸は国定公園で、北西部には国名勝三方五湖のうち久々子湖と日向湖がある。町域のおよそ80%が山林。敦賀半島の関西電力美浜原子力発電所は、昭和45年(1970)より営業運転を行っており、耳川の上流新庄地区の嶺南変電所で変電・開閉作業がなされている。

2015年に、1号機と2号機は廃炉。写真で一番奥にある3号機は加圧水型軽水炉(PWR) 、82.6万kW 、1976年12月1日の運転開始で、すでに45年を経た超老朽炉。2004年5人死亡の事故を起こしている。安全安心な原発で、不幸にもいきなり5名もの死亡事故が発生した、とは考えられず、事故は過去にすでに多くあったが、世間には隠されているものと推測するのがスシであろう。
「ハインリッヒの法則」という経験則が知られている。1対29対300の法則である。死亡事故などの重大事故1件に対しては29の軽微な事故があり、300の事故までには至らなかったヒヤリハットがあるというのである。工場などの安全管理上の経験則だから、ドンピシャの数値ではないが、5人の死亡には145件の軽微な事故が発生しており、事故までには至らなかったがヒヤリとしたことが1500件もあったはずなのである。これらは切り離せないセットなのである。これは法則で、人間の都合で動かすことのできない宇宙の定理である。いやウチに限ってそんなことは無い、軽微な事故もヒヤリハットもありませんだした、などのネゴトは言えない、必ず発生しているはずのものである。死亡事故だけが単独で発生するものではない。これを隠していてはマコトの安全安心などはあろうはずもない。町工場ではない、扱っているものがものである、一つ大事故が発生すれば世界が終わる、いくら安全に気を配っても、配り過ぎることはない。

美浜町の沿革
〔古代〕
古代遺跡
浄道寺遺跡(丹生)は、若狭で最も東に存在する縄文遺跡で、土器片・磨製石斧・石錘などが発見されている。今市遺跡(佐田)は、縄文・弥生・古墳・奈良・平安の各時代の遺物が出土し、また製塩土器も出土している。大日遺跡(新庄)は耳川上流の遺跡で、磨製石斧が発見されている。久々子湖畔の台地には、竜沢寺遺跡(金山)があり、縄文時代から平安期までの遺跡が発見されている。
獅子塚古墳(郷市)は、明治30年開墾工事の際、石室から土器や金属器が発見された。前方後円墳で、長さ32m、後円部の直径17m、高さ5m、葺石や埴輪があった。副葬品の獣形脚付き長頚坩・角形陶器・管玉など。当墳は、式内社弥美神社(宮代)の祭神で開化天皇の孫、若狭耳別命の祖室毘古王の墓であるという伝説がある。

耳別氏と弥美郷
「古事記」は、開化天皇の子の室毘古王は若狭の耳別の祖となったという伝承を載せているが、この耳別氏は当町内の耳川領域を本拠とした氏族と考えられ、平城宮跡出土木簡に「三方郡弥美郷中村里〈別君大人〉」とある別君は耳別氏と関連する氏族と考えられる。耳の地名は藤原宮跡出土木簡に「耳五十戸」「三方評耳里」とあって、大宝年間(701~04)以前にさかのぼることが確認される。同木簡および平城宮跡出土木簡では「美々里」「耳郷」とも書かれているが、やがて「弥美郷」に定まる。
町北端の丹生浦は、延喜19年(919)11月21日に渤海使の船が沖に現れた浦として知られている。

弥美神社と王の舞
式内社弥美神社は耳明神とも称し、室毘古王を祀る。中世では28神を祀ることから二十八所社と称された神社がこの弥美神社を継承したと考えられる。大宝2年(702)の創建と伝え、社の別当の幡山園林寺は、弘仁元年(810)の創建と伝えられる古文書を有し、往古は盛大であったが、今は木造雨王童子像1体が安置されている。永享11年(1439)には10坊あったが、このうち成就坊は明治まで存在していたという。弥美神社の祭礼は毎年、5月8日午後5時から行われる。神事の「王の舞」は、舞手1人、太鼓1人、笛6人の構成で演じられ、舞手は天鉾の面をつけ、鳳の冠を頭に頂き、真っ赤な着物に赤前だれ、はだしで、腰に刀と扇を差し、手にした鉾を振り膝を曲げ、身をそらして舞う。

〔中世〕
織田荘と耳西郷
平安期11世紀末までに町域内東部に延暦寺領織田(おりた)荘が成立し、やがて西に延びて椿峠を境として区分される山東(さんとう)郷・山西(さんせい)郷をも含む荘園に成長していった。耳川以西の平野部および浦は耳西(みみさい)郷と称される国衙領であったが、鎌倉後期弘安年間(1278~88)に春日社に寄進されて荘園化した。
建久7年(1196)6月の若狭国御家人交名案に見える山西庄司頼宗・同木工允雅宗・小倉武者所滋・山東庄司家経は町域内を本貫とする武士。
若狭の他の地域の国御家人の多くがその後地頭の圧迫を受けて御家人役を勤仕できなくなっていったのに対し、織田荘の小倉氏や山東庄司氏は荘園領主の延暦寺と結びついて御家人役を勤仕しなかったといい、当地と延暦寺の強い結びつきが考えられる。しかしこれらの国御家人も応安4年(1371)の若狭国人一揆の敗北とともに姿を見せなくなり、戦国期まで存続しているのは山東氏だけであった。
戦国期において、山西郷の人々は上記二十八所社に神事を勤めた、耳西郷の人々は三方町の宇波西神社に神事を勤め、祭礼日(3月8日、現在は4月8日)の田楽の費用を交替で負担した頭文が文明17年より伝わっている。

浦の争論
丹生浦は丹生地区有文書の応永31年(1424)の絵図に、「雪の白浜」と記される美しい浜であった。戦国期、永正17年(1520)以降、網場をめぐって竹波・馬背と丹生浦の争いがあり、また日向浦・早瀬浦も戦国期には常神半島東側の網場である赤石や境土(さかいど)、あるいは天正年間(1573~92)末年に廃絶した浦である「くるみ浦」の支配権をめぐって争っている。

国吉城と粟屋勝久
国吉城(佐柿)は美浜町主要部を一望できる絶好の位置にあり、山東・山西両郷の本拠地として最適の場所であり、越前からの進攻を防御するためにも欠くことのできない山城であった。この城を、若狭守護武田義統・元明父子の四老の1人、粟屋越中守勝久が若狭防御のため修復再興し、永禄6年(1563)から越前朝倉氏の軍勢を相手に数年にわたって籠城戦を行った。その後、元亀元年(1570)4月23日、織田信長が朝倉氏攻撃のために国吉城に入城し、越前の敦賀郡天筒山攻めに際しては、粟屋勝久ら若狭勢は奮戦している。また天正元年8月、粟屋ら若狭勢は、信長の朝倉追撃において越前一乗谷へ一番乗りしたと伝えられている。粟屋勝久は織田信長、さらに豊富秀吉に仕え、同13年2月18日、病で没し、彼が創建した徳賞寺(佐柿)に葬られた。天正11年豊富秀吉の家臣木村定光が国吉城主の時に、佐柿に城下町が作られたという。

〔近世〕
江戸期の村々
江戸期の当町域は小浜藩領であった。「元禄郷帳」に見える当町域の村々は、松原・大薮・金山・新金山・郷市・興道寺・細工・河原市・中寺・新庄・佐野・寄戸・伊佐谷・安江・宮代・麻生・佐柿・木野・和田・坂尻・山上・大田・佐田・北田・菅浜・竹波の36か村、日向・早瀬・丹生の3か浦を数える。「旧高旧領」では細工村は南市村、伊佐谷村は五十谷村として見え、大田村は太田村と記されている。
慶長5年(1600)小浜に入封した京極高次は、支城制を採用し、国吉城に重臣多賀越中守を配置して国境を置いた。国吉城はやがて廃され、寛永11年(1634)入封した酒井忠勝は、三方郡に郡奉行を置くとともに、特に佐柿には陣屋を備えて奉行を置き、関所を設けて女性の出入を厳重に取り締まった。

丹生・竹波の網場争論
丹生地区有文書によると、中世以来丹生と竹波との網場争論が繰り返されていた。寛永18年丹生浦がイカ網を立てた場所について、竹波は村内と主張した。これに対して丹生は、竹波は海上をもたず、海上は丹生と直接に菅浜と接すると主張し、さらに丹生は秀吉の朝鮮出兵の際に水夫役を負担して、小浜の城普請に石船役をあてられたが、竹波はまったく負担していないといって、これを海上所有、不所有の根拠としている。寛政2年(1790)の争論に丹生は浦で、竹波は村であるとし、海成役についても述べている。

〔近現代〕
行政区画の変遷
当町域は明治4年小浜県、敦賀県、同9年滋賀県を経て、同14年福井県に所属した。この間、明治7年頃日向浦から笹田村が分村し、同11年新金山村が大薮村と金山村に分離、大薮村は気山村の一部を編入した。同22年市町村制施行により、日向浦・早瀬浦と笹田・久々子・松原・大薮・金山・郷市の6か村および気山村の一部が合併して西郷村、興道寺・南市・河原市・中寺・新庄・佐野・寄戸・五十谷・安江・宮代・麻生・佐柿・木野・和田の14か村が合併して耳村、坂尻・山上・太田・佐田・北田・菅浜・竹波の7か村および丹生浦が合併して山東村となった。同31年西郷村のうち日向・笹田・早瀬は北西郷村、西郷村のうち久々子・松原・大薮・気山・金山・郷市は南西郷村となった。昭和29年北西郷村・南西郷村・耳村・山東村が合併し、町制施行して美浜町が成立した。

美浜原発
町の中央を走るJR小浜線は、大正11年に敦賀~新舞鶴間が全線開通。鉄道と並んで道路も、同42年国道27号の全線が改良された。翌43年完成の梅丈岳を結ぶ延長11㎞の県営有料道路レインボーラインからは、四季にわたって興味の尽きない展望が楽しめる。久々子・水晶浜海水浴場には県内外から観光客が訪れる観光の町となっている。一方、昭和42年関西電力が丹生地区に出力34万kwの原子力発電所を着工して以来、原発の町としても有名である。

史跡・文化財
国名勝に三方五湖、国選択無形民俗文化財に日向の綱引き行事(日向)、県無形民俗文化財に王の舞(麻生)、精霊船送り(菅浜)。


美浜町の主な歴史記録






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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『美浜町誌』(各巻)
その他たくさん



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