丹後の地名 若狭版

若狭

笹田(ささだ)
福井県三方郡美浜町笹田


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福井県三方郡美浜町笹田

福井県三方郡北西郷村笹田

笹田の概要




《笹田の概要》
県道214号(日向郷市線)を行けば早瀬と日向の間にある。県営有料道路三方五湖レインボーラインの美浜町側の入口があるあたりである。久々子湖の西岸に位置する。地元では「さそだ」「さすだ」とも発音する。
中世の佐々田。南北朝期から見える地名。若狭国三方郡耳西郷日向浦のうち。観応3年(1352)6月21日の佐々田坊五郎右衛門尉の堺土網場去渡状に「佐々田坊」あるいは「扱手左々田中屋」と見える。この佐々田坊は同年7月2日に日向浦刀禰が兼ねることとされている「佐々田寺」と同じものではないかと思われる。文明元年(1469)以降の状況を示す耳西郷惣田数銭帳には日向浦に属す佐々田分として、惣中・堂分・御宮分などの田地2町5反120歩を記し、同じ頃の耳西郷堂社田地数帳には佐々田堂分7反240歩が見える。また宇波西宮田楽頭文の延徳2年(1490)に「さゝ田孫太郎大夫」が見えて以降「さゝた大夫」「さゝた中屋みやう」が頭役を勤めている。江戸期には一集落を成していたが、その所属については明確でない。「若狭国志」には「早瀬浦 属邑一」とあり、同書伴信友注には「〈日向浦〉 笹田」と記して、日向浦の属邑としている。「三方郡誌」には、「笹田はもと早瀬の小名なり」として、「若狭国志」と同じ立場をとっている。しかし「旧県史」には「明治七年に至り、一月区会所と正副戸長職務章程を定め、四月区画を更訂……当時猶各郡町村の分合改称せるもの多し……三方郡日向を割き笹田村……とせり」とあり、これらの記録の上から、どこの属邑であったかは即断できない。住民の証言では、かつて諸事を早瀬浦との連合で行っていたという。
近代の笹田村は、明治7~22年の村。早瀬浦あるいは日向浦から分村して成立。敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治22年西郷村の大字となる。
近代の笹田は、明治22年~現在の大字名。はじめ西郷村、明治31年北西郷村、昭和29年からは美浜町の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北2町余、戸数21、人口は男63・女60、小船4。

《笹田の人口・世帯数》 54・21


《笹田の主な社寺など》

風宮神社
地図にはあるが、どこに参道があるのか不明で、詣でることできなかった。3月16日の農神降りの日に祭をするという。「若州管内社寺由緒記」に「風宮 本尊は宇□童子 古来より氏神に御座候」。「稚狭考」にはこの風宮を「風神笹田」と記し、日向浦の属邑という。
『美浜町誌』
風宮(かぜのみや)神社
鎮座地…笹田四-八。現祭神…風大神。例祭日…三月十六日。旧…無格社。氏子数…十六戸(平成五年)。
社伝によると、伊勢神宮の別宮風宮を勧請したものという。明治四二年八月二七日、宇波西神社に境内社山神社・神明社と共に合祀したが、後に区民の願望により元に分祀再祀した。当社も祝部制度を堅持している(『福井県神社誌』)。伊勢神宮の風宮よりの勧請とされるが、旧境内社の山神社と共に、自然神を祭神として奉祀されて来たものであろう。


『三方郡誌』
風宮神社。笹田鎮座。明治四十二年四月二十七日、宇波西神社に合祀す。


曹洞宗阿弥陀寺
「若州管内社寺由緒記」に、「古来より有之由来不知」

曹洞宗笹田大悲山観音寺
天正年間開基。「若州管内社寺由緒記」に、本尊は加藤助五郎の守り千手観音で、金根の山付近の海中で発見されたという。
「日向観音」として、地図にはあるが、わからなかった。


《交通》
レインボーラインの美浜町側入口がある。


《産業》


《姓氏・人物》


笹田の主な歴史記録




笹田の伝説

『越前若狭の伝説』
笹田観音 (笹田)
 応永のころ(一四〇〇ごろ)大和国(奈良県)きしという所から加藤助五郎という者が日向(ひるが)浦に来て、ここに住みついた。天正年中(一五八〇ごろ)その子孫の加藤五郎左衛門という者が、小舟を浮かべて漁をしていると、海上に霊光がおびただしく輝き渡っている。ふしぎに思い海底を見ると、金根(かね)の山という山の根に岩尾があり、その中から光明を発している。舟をさし寄せて見れば、海底に仏像(千手観音)がおられる。
 やがて漁船が多く集って論議した。五郎左衛門は、これは霊仏であろうと、水にとび入り、かつぎ上げて、古い薬師堂に移し置いた。すると在所在所から貴賤の人が参けいした。
 その後仏に彩色するとき、仏師がおぐしを離してみると、内に下がりふじの紋かあった。加藤が申すに、「これはわが家の定(じょう)紋である。この仏はわが先祖が大和国にあった時の守り仏で、子孫繁盛の大悲の方便であろう。」とありかたかった。  (社寺由緒・記)


 三向の海辺に観音洞と称する所がある。高さ四・五メートル、奥行は約的二十メートル、幅は二メートルある。小舟を二そうほどいれることができる。かって浦の領主がこのほら穴の中で観音像を得たから観音洞と名づける。像は後に笹田の阿弥陀寺に祭った。 (三方郡誌)


むかし平家の家来に加藤助五郎という人があった。平家没落のとき、家伝来の等身大の千手観音を背負って逃げたが、このような大きな仏像を背負っていては思うようにならないので、その像を大和国のキシという所から流した。流すとき仏像に「自分の落ち着く所でふたたびお会いできますように。」と申した。観音には下がりふじの紋がついていた。
 助五郎は、日向(ひるが)の地に逃げて来て永住した。その後日向港の出口の金根(かね)山のふもとの大きな岩屋に夜な夜な光を放つものがある。漁師は恐れて漁に出るのを見合せた。そのうち村の人が相談して、大勢で見に行くと、大きな仏像か横たわっていた。驚いて起そうとするが、重くてなかなか上がらない。そのとき助五郎の子孫で五郎左衛門という者か進み出て、「わたしの背においでください。」といって背を向けると、ふしぎに軽く上げることかできた。仏像に下がりふじの紋がついていたので、かって助五郎と別れた千手観音であることかわがった。今は笹田に祭ってある。
 (福井県の伝説)

 仏像が光っていたのは観音うら(洞)と称する所である。漁師たちが替るがわる水にもぐったが、だれも上げることかできなかった。加藤五郎左衛門かもぐると、軽々と持ち上げることができた。観音像のおなかの所に下がりふじの紋かあった。
 五郎左衛門は、仏像を舟に乗せて家に運び、お祭りした。しかし自分の家ではもったいないので、近くの笹田の薬師堂に移した。日向の井上長左衛門は、この五郎左衛門の子孫で、延宝三年に書かれた笹田観音縁起が今なお同家にある。 (永江秀雄)


延宝三年の縁起とは、上記の社寺由緒記のものである。(杉原丈夫)





笹田の小字一覧


笹田  北中江 南中江 笹原 宮腰 沢坂 西村中 村中 仁屋加 西堂奥 東堂奥 松ケ崎 卆塔婆 舟戸 小山腰 墓前 比和首 糖塚 庄毛谷 魚見田 権現谷 四人道 毛矢田 近道田 苗代田 持田 桑木谷 下桑木 北広畑 南広畑 小鶴鼻 屋次田 大鶴鼻 北百町田 南百町田 清天田 清天谷 堂ノ奥 沢山 嵯峨山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『美浜町誌』(各巻)
その他たくさん



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