丹後の地名 若狭版

若狭

佐田(さた)
福井県三方郡美浜町佐田


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福井県三方郡美浜町佐田

福井県三方郡山東村佐田

佐田の概要




《佐田の概要》
山東地区の中心地で昭和29年まで村役場があった。中央を金瀬川が北流する。金瀬川の下流、織田湾に面する海岸段丘上に立地。若越国境の関峠の登り口にあたる。
集落の中心には各種の商店が立ち並ぶ。かつて野寺と呼ばれた北部の字定野原の原野には、昭和45年関電美浜発電所の社員住宅が建設され、けやき台区と呼称されている。集落は上野・坊庄・西庄・下庄・金瀬川・今市があり、さらに街道と呼ばれる班組織が19班あって、什長を選出し区の運営に当たる。↓美浜東小学校が集落の中央にある。

佐田は公称で、地元では普通は織田(おつた)と呼ぶ。「若狭国志」に「佐田旧名織田」とあり、「若州管内社寺由緒記」の佐田村雲桂山帝釈寺の項に「昔織田八郎殿と申す(ママ)八幡宮に勧請申候由申伝候」と豪族の名がある。伝承では織田八郎は佐田八郎とも呼ばれ折田次郎の子とされている。織田神社の神官山東氏が敦賀より移住する以前は、織田八郎右衛門が当地を支配したとの伝承がある。織田神社の鎮座地の小字に織田所があり、佐田海岸を織田浜と呼ぶ。村開拓の発祥地は、織田神社周辺とも八柱神社付近とも伝えられ、特に八柱神社の周辺の丘陵には佐田古墳群と呼ばれる古墳後期の古墳が集中し、金環・埴輪などが出土している。
中世の佐田村は、戦国期に見える村。若狭国三方郡織田(おりた)荘山東郷のうち。天文12年(1543)7月9日に当地の土豪田辺又四郎が武田信豊から安堵された地のうちに2筆ほど「佐田村百姓中」売却地と記されている(田辺半太夫家文書)。今は伝わらないが園林寺蔵の天文19年の文書にも佐田村が記されていたと伴信友は述べている(神社私考)。また天正17年11月の刀狩の際に、当村は山麓のため猪が多いという理由で田辺半太夫は戸田茂右衛門尉より鎗10本を許されている(田辺半太夫家文書)。なお「国吉籠城記」は永禄6年(1563)に佐柿国吉城に籠城した武士のうちに佐田村の山東十郎・麻生紀伊守・田辺半太夫を挙げている。中山の付城・狩倉山の付城は当時の山城跡である。この合戦の際、豊臣秀吉は苦戦をし徳川家康の助力で九死に一生を得たので、黒浜(織田浜)で家康の手を握って礼を言ったという。また芳春寺の僧が朝倉方に内通したため、信長に織田河原で梟首されたと伝える。
近世の佐田村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」では戸数73・人口644。明治4年小浜県、以降敦賀県,滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治17年当村に連合戸長役場が置かれた。同22年山東村の大字となる。
近代の佐田は、明治22年~現在の大字名。はじめ山東村、昭和29年からは美浜町の大字。明治24年の幅員は東西11町余・南北12町余、戸数150、人口は男364 ・ 女333、学校1、小船1。


《佐田の人口・世帯数》 918・347


《佐田の主な社寺など》

下田遺跡
縄文後期の土器が出土する。 下田遺跡

今市遺跡

今市は旧国道27号と県道118(東美浜停車場線)の交差点に「今市」の標識がある。芳林庵の付近で海岸近くで砂地である。海岸防潮堤裏の断崖に遺物が露出していたそうで、縄文後期末の宮滝式併行・弥生後期・古墳後期・奈良時代・平安時代の土器が確認されているが未調査。古墳後期には土器製塩も行われ、浜禰ⅡB式土器が出土している。
『美浜町誌』
今市遺跡
遺跡は現在の国道二七号より海側に広がる海岸段丘上にあり、古くから遺物が表採されているが、表採地点があいまいなものが多く、遺跡の実態は不明である。かなり広範囲に広がっていると考えられ、縄文時代後期の良好な資料も確認されている。郷土史家の本間宗治郎氏が熱心に遺物の表採に勤められて、その資料が敦賀郷土博物館に寄贈されている。先に記した図2の弥生時代前期・中期の資料や、図18の1から23の内、今市浜とするものがそうである。図18の土器は弥生終末から古墳時代始めにかけてのものであり、近江や丹後といった地方の影響が見受けられる。



佐田古墳群


佐田4号墳に立てられていたのであろう、人物埴輪が歴史文化館に展示されている。
スゴイ物が出土した。継体の親藩豪族の古墳と思われる。佐田古墳群


織田神社(式内社論社)

広大な境内。この鳥居から200メートルばかり参道がある。

大きな神社である。織田神社は国常立尊、応神天皇・保食神・水波売神・大山祇命・大山咋命を合祀する。当社は二十八所宮とも呼ばれ、明治13年織田神社と改称。伝承では延暦18年(799)に宮代の弥美神社から神輿を盗みだしたとされ、5月11日の祭礼に行われるソッソ神事はその模様を再現したものという。同名の神社は北田にもあり、「若狭郡県志」「大日本史神祇志」「神社私考」は北田の織田神社を式内社に比定している。当社に伝わる慶応4年(1868)の先祖系図並由緒記控によれば「織田明神 景行天皇六年四月朔日北田村江御鎮座夫より当社江五月十一日御鎮座ニ相成」とあり、式内織田神社を名乗っている。佐田・太田・山上の各村には25人衆とか23人衆と呼ばれる宮座があって、獅子舞を太田、王の舞を佐田、ソッソを山上が奉納する。元文3年(1738)の鏡格家訓永用記によれば、北田も祭礼に参加しており、北田から幟があがらないと祭りが始まらないとされていたという。天保5年(1834)の織田神社祭礼神事御式礼によれば、御幣頭を新庄、王の舞を麻生、獅子舞を佐野が奉納している。境内社丹生明神はのち明治41年に春日神社に合祀されているが「三方郡誌」は式内仁布神社を紀伊国より勧請の丹生明神に比定しており、「神社私考」も当社を織田明神の前身と見ている。末社にはこのほか八幡・賀茂・松尾・平岡・稲荷・春日・愛宕・日本武・八坂・江島・大御孫・金毘羅・事代主がある。郡誌は式内社「仁布神社」でないかと疑う、もしそうなら、水波売神が丹生都比売神であろうか。
「若狭国志」は「在佐田村、社家説曰、景行天皇六年創建、祭国常立尊、延暦十八年配祀宮代二十八所神、一説、北田村称織田明神者、此其神社也、未詳孰是」と記す。旧郷社。祭礼は古くは4月2日に行われ、大御幣・王の舞・獅子舞・ソッソの行事を伝えている。佐田・太田・山上の3集落が交代で大御幣を奉納し、王の舞は佐田、獅子舞は太田、ソッソは山上の担当である。「若狭郡県志」には「四月二日祭日、神輿遊行、又有王ノ舞并獅子舞等之儀、六月十七日有神事能」と記す。現在も宮代の弥美神社と同じ神事を伝えているが、ソッソ神事が当社独特の芸能で、昔弥美神社から神輿を盗み出した時の様子を伝えるという。
『美浜町誌』
織田(おりた)神社
鎮座地…佐田九七-六。現祭神…国常立尊・大山低命・応神天皇・大山咋命・保食大神・水波売神。例祭日…五月十一日。旧社格…郷社。氏子数…二九八戸(平成五年)
 佐田は敦賀半島最南部の織田湾に注ぐ金瀬川の下流に位置し、地名を佐田と公称するものの『神社私考』では社号の「織田」を地名であるとしていることからみると、「佐田」共に「織田」は古くからの地名として存在して来たことが知られる。織田神社は、式内社にその社号がみえ、佐田の当社と、北田鎮座の織田神社があり、論社として二社が現存する。
 「織田」は神名式の諸本の訓に「オリタ」とあり、現在の社号も二社とも「オリタ」「オタ」と呼称されている。しかし、地名は「オツタ」と訓じている。『若州管内社寺由緒記』の「佐田村雲佳山帝釈寺」の項に「昔織田八郎殿と申を八幡宮に勧請申候由申伝候」とあり『草創神岳寺発光山芳春寺由来抜草説』には、「若狭国美賀多郡山東庄佐田邨酋長佐田八郎の城趾にて八郎は折田次郎の子なり。文明年間曹洞宗総持寺派に改宗したる頃は山東十郎兵衛の城砦とあり」と記されている。ここに云う「佐田八郎」は「折田次郎」の子であるということは、金田久璋(「日本の神々」北陸 白水社)のいうように「織田八郎」と「佐田八郎」が同一人物であると考えることもできる。
 神岳寺は、芳春寺の前身にあたるもとの真言宗の寺院であるが『草創神岳寺根源由来略記』には、当山第三世義州が、元慶元年(八七七)羽賀村鳳聚山より入院仁和元年(八八五)三月折田(織田)の南北に両社(織田神社)を建立して丹生賀茂明神を勧請して同年五月十一日始めて御幸あり、佐田と北田の織田両社がこの時勧請されたものだという。しかし『若狭国志』には景行天皇六年に創祀されたとして、延暦十八年(七九九)に耳村から弥美神社である二十八所大明神を勧請して織田二十八所大明神と称し奉ったと伝えられる。伴信友は『神社私考』に、織田神社の祭神織田明神は、当所開闢の荘主という記事を引いているのは注目されるべきであり、信友も織田大明神を、もともとは地主神・鎮守神であり、当地に古代蕃居した氏族の神々であることを暗示している。宮司家の山東家が所蔵する「鏡格家訓永用記」(元文三年)によると、五月十一日の神事が当社では最も重要なものであった。これは二十八所明神の祭礼日四月二日とは異なり、本来は織田明神であることが知られる。例祭日、大御幣・王の舞・獅子舞があり他にソッソの舞がある。


『三方郡誌』
織田神社。郷社、佐田に鎭座す。もと二十八所宮と稱せり。國常立尊を祀り、中古、宮代の二十八所神を配祀すと云ふ。二十八所神の事は禰美神社〔耳村〕の條に見ゆ。里人云ふ、式内織田神社は本社なりと、北田の民は云ふ、北田に鎮座するか式内なりと。若狭國志もまた兩説を載せて決定する所あらず。蓋し延享の頃よりの疑問なるべし。織田の二字は今、里民、里にも濱にもオッタと云ふ。越前丹生郡に亦織田明神あり、こはオタと云ふ。延喜式の古傍訓にはオリタと注し、こゝの里人の説に昔はオリタと云へと、孰か古訓なるか猶尋ねべきなり、明治八年十一月二十八日、郷社に列せらる。同十三年六月、官に請ふて織田神社と改稱す、現今、境内二千三百五十三坪あり。末社に日本武・春日・大御孫・金毘羅・丹生・八坂・事代主の七社あり、又太田の山祗神社・日吉神社・八幡神社・佐田の山神社・八柱神社・八幡神社を合祀す。
〔式内仁布神社、今所在詳ならず。按するに本社の縁起に、本社は最初紀伊國丹生明神を移し祭りたるよし見えたれば、本社は即ち仁布神社にはあらざるか。仁布神社は國帳には正五位仁部明神とあり。又今、祭神を國常立尊なりと稱すれども、紀伊丹生神を勧請したりしならば、丹布都比女神なるべし。〕


織田神社の裏山には別当護国寺があったが兵火により焼失したという。

八幡神社
八柱神社
今市神社


曹洞宗発光山芳春寺

今の県道118号線の脇にある。私が参詣した日は猿の皆様が大集団で迎えてくれた。
本尊は十一面観音菩薩。泰澄の草創と伝え、初め神岳寺と号し真言宗であったがのち曹洞宗に改宗(三方郡誌)。「若州管内社寺由緒記」は「禅宗発光山芳春寺、百七十二年以前永正元子甲年永平寺の道元和尚十五世観雲和尚建立也、佐柿城主粟屋越中守勝久の菩提所也、竹林境内諸事御赦免の御墨印、武田公より京極殿の有之、只今は寛永の比住持他所へ持参候由申伝候」と記す。末寺は「若狭郡県志」では佐田の宗寿院・芳泉庵・芳林庵、大田の清芳院・芳伝院、山上の満願寺・松雲庵、北田の東光寺・東禅寺、菅浜の長継寺・光明庵・長泉庵、丹生の泰清庵・竜渓院の14ヵ寺を数える。
裏山の芳春寺山には芳春寺山堡跡(中山の付城)があり、越前朝倉氏が若狭出兵で粟屋勝久の国吉城を攻めるため永禄7年(1564)築城したという。この時、当寺5世の湛元自徴、6世の円通一音は朝倉氏に通じたとして、越前攻めで若狭に来た織田信長により元亀元年(1570)4月25日折田(織田)河原で斬首されたという(芳春寺由緒書)。

『三方郡誌』
芳春寺。曹洞宗。佐田に在り。發光山と號す。草創は詳ならす。或云、元正天皇の時僧泰澄の草創なり、神岳寺と號し、のち芳春寺と改む。眞言宗なりき。中古頽廢したりしを、僧觀雲慈音、再興して曹洞宗とす。時に文明十四年なりと。〔芳傳院開山も慈音なり、而して天正十八年草創といふ、こゝと年代百年餘の差あり、不審なり〕 本尊は十一面觀世昔菩薩なり、越前慈眼寺来に屬す。末寺現今十二ヶ寺あり。近江昌泉寺の他は皆村内に在り。境内八百九十坪、境外所有地一町九段八畝二歩。山東村内に於ての巨刹たり。


曹洞宗芳寿山総光寺

古い集落の中は道が狭い。美浜東校の裏あたり。
『三方郡誌』
宗光寺。曹洞宗。同區にあり、もと芳永庵と號す慶長元年の創立にして、開山は芳春寺逸株茂なり。維新後永泉庵を併合して、今の名に改む、芳春寺末なり。

曹洞宗聖光山総寿院

『三方郡誌』
宗壽院。曹洞宗。同區に在り。慶長三年の創立にして、開山は芳春寺益峯胤明なり。今に芳春寺末なり。

曹洞宗芳林庵

『三方郡誌』
芳林庵。曹洞宗。同區今市に在り、正保元年の創立なり、芳春寺末なり。
隣に神社があるが、今市神社か。

高野山真言宗雲桂山帝釈寺

旧国道27号と原発の方へ延びる県道33号(佐田竹波敦賀線)の三叉路のところ。帝釈寺は高野山金剛峯寺末古義派。本尊は伝行基作の十一面観音。もと向山にあったが、朝倉が堡をつくる際に現在地に移転したという。「若州管内社寺由緒記」に、「雲桂山帝釈寺 観音堂八幡宮 九百五十八年以前人皇四十四代元正天皇の御宇養老三巳未年行基菩薩建立 昔織田八郎殿と申を(?)八幡宮勧請申候由申伝候」とある。

『三方郡誌』
帝釋寺。眞言宗古義派。佐田に在り。十一面観音を安置す。永禄年間朝倉の兵に燒かる。高野山金剛峯寺来なり。現今境内三百九十一坪、境外所有地九段四畝十三歩。

浄土真宗本願寺派光輪山願正寺

駐車場は町中にあるが、ここから歩いて行くよう。近くにはそれらしき建物はない。
鳥井弥右衛門正次開基と伝える。「寺院明細帳」に、「真宗本願寺派 京都本願寺末 由緒不詳」。
『三方郡誌』
願正寺。眞宗本願寺派。佐田に在り。


真宗大谷派龍華山正覚寺
「寺院明細帳」に「真宗大谷派 京都本願寺末 由緒不詳」。境内にチンポ地蔵と呼ばれる札場地蔵尊が祀られ、性病に効験があるという。
『三方郡誌』
正覚寺。眞宗大谷派。佐田に在り。國主酒井氏江戸參勸の際、常に本寺に休憇せられたり。當時使用したりし重寶什器数多ありしか、明治初年火災に遇ひ、概烏有となる。


芳春寺山堡址(中山の付城跡)

芳春寺の後山。太田側より、下の道路は国道27号バイパス。人の手が加わっていそうな何かありそうな稜線。今は猿ばかりだが、国吉城攻略のため、ここに朝倉勢の付城(つけじろ)があった。付城というのは、敵城の監視・敵城からの出撃の予防・敵攻撃の拠点・食料補給の妨害などを目的として、敵城の目前に築いた城である。詳しくは「必勝の付城作戦」を参照。各国の昔の陸軍なども敵の強固な要塞攻略に同じ作戦を用いている。
『三方郡誌』
芳春寺山堡址。佐田芳春寺の後山に在り。永禄七年朝倉氏の兵の築く所なり。
狩倉山堡址。永禄九年以後、朝倉氏の兵屡此に陣す。今所在傳ふる所なし。國志に云、佐田村に在り、郡縣志に云、太田村に在りと。太田の南の山一帯を駈鞍山と云ふ。されど國吉城籠城次第には、佐田村の狩倉山に附城を致して云々とあり。又朝倉氏の兵此に陣するや、之に對抗すべく國吉城より兵を岩手山に出したり。朝倉氏の陣、駈鞍山に在りとすれば、岩手山に兵を出すの理なし。今、佐田の北に城山と云ふ小丘あり。里人云、朝倉氏の城址なりと、今もその地を存し、又岩手山と相対せり。これ蓋し狩倉山堡址なるべし。或は當時、太田より此に至る連山一帯を、駈鞍山と云へるならん。
付城は1つだけ作っても効果は薄く、複数作ることでより効果を発揮する。複数の付城によって完璧に敵城を包囲することが可能になる。

佐柿の資料館でもらった資料↑「中山の付城跡」とあるのが当城のようである。狩倉と駈倉は同一の城の表記のユレか。国吉城を包囲できていない、逆包囲されている、これでは負ける。
『美浜町誌』(図も)
朝倉氏の陣城跡
中山の付城跡
越前朝倉勢が、佐柿国吉城を攻めるにあたって町内に築いた陣城(じんじろ)(攻め手側が攻撃する城に対面して築く城造りの陣所で、敵を監視して長期戦に備える場合に築かれた。付城、対(つい)の城、向城(むかいしろ)ともいう)のうち最大規模を誇るのが、太田の芳春寺山に築かれた中山の付城である。
 朝倉勢は、城攻めの当初は主な拠点として太田村芳春寺に本陣を構えていたが、永禄七年(一五六四)九月上旬に攻めた際に、激しい抵抗により撤退し、その後、本格的拠点として芳春寺西側の東西に聳える吹道(ふきどう)山、芳春寺山、万願寺山の三つの峰のうち、中央の芳春寺山(標高一四五メートル)に付城を構えた。『若州三潟郡佐柿国吉籠城記』などの諸本(以下『籠城記』等)には、「…太田村芳春寺に陣取り、其後芳春寺山に向ひ、城を構へ居て…」と伝える。この地は、山東郷一帯と佐柿国吉城・岩出山砦への展望に優れ、対の城として絶好の立地であった。
 以後、朝倉勢は中山の付城を拠点に山東郷で狼藉を繰り返し、憤懣やる方ない粟屋勢は、永禄八年(一五六五)九月二七日夜半、三方から中山の付城に火を点けて夜襲を仕掛けた。朝倉勢は大いに狼狽して逃げ惑い、一部は太田河原に踏み止まるも粟屋勢の勢いに押されて大敗し、ついには越前に逃げ帰った。粟屋勢は付城に備蓄された兵糧を持ち帰り、その際に粟屋勝久が朝倉の大将が記した句の短冊を見つけ、その教養に感心したと、『籠城記』等に記されている。
 『籠城記』等には、以降に中山の付城に関しての記載はなく、翌永禄九年(一五六六)八月下句、朝倉勢は新たに若越国境に近い駈倉山に付城を築いて侵入を図っている。つまり、中山の付城は築城後一年ほどで廃城になったとみられる。しかし、『朝倉始末記』によると、天正元年(一五七三)四月、当主朝倉義景自らが出陣して敦賀に着陣し、軍勢を若狭国に向けた。朝倉勢は山東郷で狼藉を働き、「佐柿の城の北、中山と云ふ所に城を構え…」との記述があり、およそ八年後に再興されたことがわかる。その数年前には、若狭国主武田義統を一乗谷に連れ帰り若狭国を実質支配下に置くも、粟屋勝久をはじめ従わない地侍衆が多く、彼らは悉く織田信長に味方していて、完全併呑には程遠い状況であった。朝倉勢は、度々織田勢と相対していたなかで、同年八月、織田勢と対峙する近江国浅井氏の援軍として小谷城に出陣した。しかし、織田勢の急進的な攻撃に総崩れとなり、朝倉勢は越前に逃げ帰る。これを織田勢が追撃し、ついに朝倉氏を亡ぼした。粟屋勢をはじめとする若狭衆も織田勢に味方して一乗谷に攻め込み、多くの分捕り品を持って凱旋した。その後、『信長公記』によれば、「(天正元年八月)若狭栗屋越中守所差向い候付城共拾力所退散…」とあり、朝倉氏滅亡後に中山の付城などが破却された記録が残されている。
 現在、芳春寺山に登ると、当時の遺構が完全に近い形で現存している。築城時期と廃城時期が明確な城館跡として非常に貴重であり、当時の朝倉氏の築城技術を良く伝えている。芳春寺山頂上部を主郭として、その周囲を土塁で完全に囲み、曲輪(土塁や石垣で囲まれた区画、斜面を削平した平地など。郭、丸ともいう)の東西に土塁を喰い違いにした虎口(こぐち)(城の出入口)を設けている。また、北東隅にも虎口を設け、その外に複雑に入り組む段々地状の曲輪群が形成され、南側にも長大な土塁を持つ曲輪や削平地群がある。芳春寺から登る尾根や、吹道山、万願寺山に続く尾根筋は、所々堀切(尾根筋の連絡を遮断するため、尾根を掘って切り離した障害)で分断されている。
 ただし、注意しなければならないのは、現状の遺構は、築城当初の痕跡ではなく、天正元年の最終段階の遺構であるということである。現状遺構そのままが粟屋勢に夜襲をかけられた時の痕跡とは考えられず、再興時にかなり手を入れた可能性が高い。平成二十年(二〇〇八)現在、発掘調査等は実施していないが、使用期間が明確な陣城遺構として、今後の調査が待たれるところである。


狩倉山付城

帝釈寺から、白い建物が関電の社宅。その東というから、赤い崖のある山(岡)かと思われる。道路は旧国道27号、旧丹後街道。
写真の位置は佐田古墳群がある所でもある、ガソリンスタンドがあるあたりには佐田一号墳があった。
『美浜町誌』
狩倉山(駈倉山)の付城跡
 『籠城記』等によれば、永禄九年(一五六六)八月下旬、前年に粟屋勢の夜襲に敗れ、中山の付城を放棄した朝倉勢が佐田村に攻め寄せ、「…駈倉山に城郭を構へ、篭居て田畠を荒し、山東山西の堂社仏閣を焼き払ひ…」との記述がある。
 美浜町北田と佐田の間を東西に通過する国道二七号線から、丹生方面に向かう交差点の北側に、関西電力の社宅が並ぶが、その東側に隣接する標高六十メートル程度の丘陵には、二重の空堀と土累をもつ城跡が所在する。これまでは、この城跡こそ朝倉勢が築いた付城の一つ、「狩倉山の付城」であると認識されてきた。やや円形を呈する主郭は、周囲を上塁と空堀で囲まれ、東西に虎口を持つが、郭内は平坦ではなく、丘陵の凸地形そのままである。また、その周囲を空堀と帯曲輪の外周が巡るが、南面を除く三方のみで、丹後街道に面する南面は主郭の堀に結んで一重のみである。東西に派生する尾根上にも堀切や曲輪の痕跡が確認されるものの不明確な部分が多い。全体的に応急的に造られた城、未完の城という印象を受ける。
 しかし近年、中内雅憲氏は、佐田の織田神社の東南束方向に位置する駈倉山の頂上部に城郭遺構があり、中山の付城の主郭と類似する構造などから、これこそが『籠城記』に記される朝倉勢が築いた「駈倉山の付城」と指摘している(『敦賀市立博物館紀要第十三号』平成十年』。
 越前朝倉勢が、より越前の領国に近い佐田を拠点にした背景には、突出した中山に付城を築いて夜襲を受けた失敗と、粟屋勢への警戒にほかならない。地理的にはどららも付城として十分機能しており、どちらが「籠城記」等にある付城かは明確にはできない。しかしながら、朝介勢は「駈倉山」を拠点に狼藉行為を繰り返したと『籠城記』等に記されており、また、その翌年にも駈倉山の付城を拠点に狼藉を働いていることから、長い対陣に対応できる完成された城館であったと思われ、また、夜襲の教訓から、はたしてわざわざ標高が低い狩倉山を本陣としたのか、疑問が残る。
 あるいは、両方とも付城として正しく、狩倉山の築城の途上で不要になった可能性も考えられる。または、狩倉山の付城は朝倉勢が築いたものではなく、丹後街道際にあって、目前の関峠を越えれば越前国という立地上、後年、若狭から越前に出陣する軍勢による陣所、つまり、元亀元年(一五七〇)の朝倉攻めにかかる織田勢によるものであろうか。他方、天正十一年(一五八三)の柴田勢への備えとして、丹羽長秀勢による可能性も指摘しておきたい。両戦とも主戦場は遠方かつ短期に決着がついたため、末完に終わつたとみることもできよう。


『三方郡誌』
狩倉山堡址。永禄九年以後、朝倉氏の兵屡此に陣す。今所在傳ふる所なし。國志に云、佐田村に在り、郡縣志に云、太田村に在りと。太田の南の山一帯を駈鞍山と云ふ。されど國吉城籠城次第には、佐田村の狩倉山に附城を致して云々とあり。又朝倉氏の兵此に陣するや、之に對抗すべく國吉城より兵を岩手山に出したり。朝倉氏の陣、駈鞍山に在りとすれば、岩手山に兵を出すの理なし。今、佐田の北に城山と云ふ小丘あり。里人云、朝倉氏の城址なりと、今もその址を存し、又岩手山と相対せり。これ蓋し狩倉山堡址なるべし。或は當時、太田より此に至る連山一帯を、駈鞍山と云へるならん。

《交通》


《産業》
織田大根は特産、漬物に最適とされ珍重されたという。

《姓氏・人物》
田辺半太夫家は藩主参勤交代の途次休憩所となり、小堀遠州作と伝える枯山水の庭園と門が残っているそう。
『三方郡誌』
田邊半太夫。佐田に居る、武田氏若狭守護時代の地侍なり。その系清和源氏に出て守護武田信親の次男田邊又四郎宗景その祖なりと云ふ。〔然らば宗景は文明以後の人なり、文明十年の政所銘引付に田邊四郎衛門尉禎次あり、蓋し田邊氏はもとより山東郷の土豪なり、その武田氏の支流なりと云ふは故あることなるべし〕永禄門鑑、屡々朝倉氏の兵三方郡を侵略するや、田邊入道宗徳〔此時はまた入道せず〕國吉城主粟屋勝久の軍に從ひて國吉城に據りて之を拒く。國吉城籠城次第は即ち宗徳の記なり。京極氏國主の時、國境に居るを以てその所領の諸役を除き、酒井氏亦京極氏の例に因りて之を除く。酒井氏時代には世々庄屋を勤めたり。

佐田の主な歴史記録

『美浜町誌』
下田遺跡 -弥生時代への胎動-
 下田遺跡は敦賀半島西側の付け根にあたる美浜町佐田区に所在する。海岸段丘から低台地にかけて立地し、縄文から中世の遺跡として『美浜町遺跡地図』(平成十三年)に登載されている。縄文時代の資料は海岸線に近い段丘上で、標高三メートル内外の遺物包含層から、昭和四十年代に若狭考古学研究会により採集された。かつて縄文資料出土地点は隣接する今市遺跡の中に含められていたが、平成十二(二〇〇〇)年度以降は下田遺跡に包括されている。現在、縄文時代資料は福井県立若狭歴史民俗資料館が保管する。
 採集資料は縄文時代後期末の土器片約七十点に過ぎない。しかし若狭湾岸での同時期資料は、旧三方町の三遺跡でそれぞれ数点、おおい町大島の浜禰遺跡で一点と極めてわずかであるから、若狭地方の縄文土器を語る上で下田遺跡資料は重要である。無文胴部の細片を除き、拓本と断面実測で資料化し、図14・図15に示した。また、器形を知るための参考資料として福井県鯖江市四方谷岩伏遺跡の同時期資料を呈示した(図16)。これらの図を用いて、下田遺跡出土の縄文土器を六類に大別して概観する。
 文様のある深鉢(1~15)「凹線文」と呼ばれる太い沈線で装飾される深鉢(1~7)と、より細い沈線を用いる深鉢(8~15)とがある。近畿地方では前者を宮滝式、後者を滋賀里I式と呼び、前者が古く、後者が新しい。両型式は連続し、近畿地方の縄文時代後期の終末時期をなす。実年代はおおよそ三五○○年前ごろである。凹線文は巻貝を引いて施文される。また巻貝を押し付け、扇形に川転させて施文する扇状圧痕文という文様(1、2)も併用される。器形は四方谷岩伏資料(図16)の1~4に該当し、口縁が波状のものや水平のもの、くの字に折れ曲がるものや単純に直立するものなど多様である。下田資料は小片であるため識別できないが、図16‐5~7のような鉢形も存在するかもしれない。
 注口土器(16) 「注口土器」と呼ばれる土瓶形の土器の破片。器形は図16‐8に近い。注口土器は近畿地方では縄文時代後期前葉に出現し、その後は安定した器種構成要素となるが、この下田遺跡のころには出現頻度が低下し、晩期には衰微していく器種である。
 無文の深鉢(17~21) 文様を持たない深鉢が併用される。口縁部が屈曲するものと直口の二種がある。
 浅鉢(22~24) くの字に折れ曲がって直立する口縁をもつ浅鉢(22・23)と椀形の浅鉢(24)とがある。前者は粗雑な成形ながら、器面はよく磨かれている。後者は内面に三条の沈線を施す。
 縄文施文土器(25) 縄文が施文された土器片。近畿地方では宮滝式の前型式である元住吉山Ⅱ式から「縄文」という文様要素が消失し、土器を装飾するという行為自体が衰退していく。一方、越前以北では「縄文」が存続することから、北陸からの搬入品もしくはその影響下に作られたものと思われる。また、次に記す条痕文土器と同様に、より古い時期の所産という可能性もある。
 条痕文土器(26) 二枚貝条痕調整や器厚、胎土に微量の繊維を混入した形跡などから、縄文時代早期末の条痕文土器とみなした。その実年代は約七〇〇〇年前である。現在知りうる限り、美浜町内最古の縄文人の足跡である。
 下田遺跡の後期末の土器を、先学の精緻な型式学的編年研究に照らし合わせると、それは宮滝式後半期から滋賀里I式に入るあたりに該当する。宮滝式はその先行型式である元住吉山Ⅱ式とともに「凹線文土器様式」として把握される。この土器様式の拡がりを示したのが図17の分布図である。静岡県西部から中・四国地方の西端まで、きわめて広い分布圏を形成している。人や物資の移動・交換が如何に広域に行われていたか、情報ネットワークが如何に広域に成立していたかを分布図は端的に物語っている。
 この情報ネットワークが次代を用意することになる。ある研究者は宮滝式後半期を有文深鉢が粗製化を始める時期と位置付け、縄文土器生産史上最大の合理化と評価する。日常生活を営む上で最も重要で、最も普遍的な存在である煮沸容器の深鉢が、一万年の長きに亘って保持してきた装飾性を喪失していく過程に、伝統的縄文文化の変質を見ることになる。この傾向は伊勢湾沿岸から敦賀湾を結んだ線以西の縄文時代晩期に受け継がれ、一層明確に進行していく。そして結果として、この範囲が弥生時代前期の農業社会が確立する地域となる。千年後には若狭地方にも水稲農耕を生業基盤とする「弥生のムラ」が出現する。
 下田遺跡の縄文土器は、若狭地方の縄文社会が西日本と広域に連動し、弥生時代に向かって胎動し始めたことを示唆するものである。


『美浜町誌』(図も)
佐田古墳群(帝釈寺一・四号墳)
帝釈寺四号墳の調査

古墳が所在する佐田区は、若狭国のもっとも東部に位置する地区で、国道二七号を南東に進むと越前国との国境である関峠にいたる。国道二七号と半島先端部へ向かう道路がちょうど分岐する、敦賀半島の西側つけ根部の交通の要衝に所在する古墳群である。かつて十数基存在したといわれるが、現状では古墳を目視で確認することは難しい状況にある。近年の美浜町教育委員会の分布調査においては、八基が確認されている。
 現在の帝釈寺の前面の位置に、かつて天井石がはずされた状況で南方向に開口する横穴式石室が一基存在したものの、平成元年(一九八九)九月ごろのゲートボール場用地造成工事によって石室の実測図さえ取られないままに壊されてしまった。玄室に使用されていた石材は、表面がっるつるした白っぽい黄褐色の花崗岩で、縦積みを基調とした横穴式石室であった。帝釈寺の南側の墓の基壇に五十センチメートル×一〇〇センチメートルほどの見覚えのある花崗岩が用材として二十数個使われており、角をL字形に整形したものも含まれている。さらに、帝釈寺の裏側にも、やや小ぶりの花崗岩が三十個余雑然と積まれているのが目についた。これらの花崗岩は、壊された横穴式石室の用材であった可能性が強い。
 さて、この地域から埴輪が出土することは地元では周知されていたようで、出土した埴輪が旧帝釈寺の床下に集められていたり、国道二七号沿いに建つ地蔵の覆い屋根に家形埴輪の一部が接着されていたりしていた。昭和五二年(一九七七)には、若狭考古学研究会によって部分的に試掘調査が実施されたが、竹藪の中であったためトレンチ(試掘溝)を小規模にせざるを得なかったことや、遺物を包含する層位が深いことから遺跡の性格の究明にはいたらなかった。平成四年(一九九二)十一月、美浜町教育委員会・県立若狭歴史民俗資料館によって、帝釈寺ならびに老人会館の建設工事に伴う遺跡存否の確認調査が実施された。その結果四基の古墳が確認され、いずれも円墳と報告されているが、一号墳と四号墳については、墳形・規模ともに未確定部分があることが指摘されている。台地上の南側に位置する径二十メートル前後の四号墳に、東から西に向かってトレンチ(試掘溝)を三本設定して調査が進められた。一~二のトレンチから、古墳の周溝と柱穴の検出があり、出土遺物として埴輪の出土がある。特に、三トレンチで検出された周溝の埋土からは、多量の円筒埴輪片と若狭で初めて確認された二点の人物埴輪頭部、三個体分の須恵器が出土している。
 埴輪という名称には、「粘土(埴)で作ったものを(古墳に)めぐらしたもの」という意味がある。古墳から出土する埴輪は、人物埴輪や器財(道具を模した)埴輪などの形象埴輪に比べると円筒埴輪が圧倒的に多く使用されている。円筒埴輪の大きさは、時期や古墳の規模によってさまざまであるが、高さ六十センチメートル前後の同種のものが列島全土の首長級の古墳に普遍的に大量に据えられている。この埴輪の起源をめぐっては、『日本書紀』垂仁天皇三二年の条に、墓の周りに召し使いたちを生き埋めにする殉死をやめさせて、かわりに埴輪を立てるようになったという説話が載せられている。しかしながら、この話からは殉死に代わって人物や動物などの形象埴輪が作られるようになったという説明はできても、さらに遡及した時期に出現している円筒埴輪・朝顔形埴輪、家形埴輪、器財埴輪などの起源についての説明はできない。殉死に代わって埴輪を作るよう進言した野見宿禰を土師連として厚遇したという話から、埴輪製作を担当した氏族である土師氏の功績を讃えたものという解釈がなされているのである。以下、これまで古川登・中司照世氏によって報告されている資料を中心に記述し、新たに埴輪資料を提示する。
人物埴輪・円筒埴輪・木製樹物の出土からわかること
 人物埴輪(1)は、頭部のみの出土であるが、ほぼ完存する。現存高十九・九センチメートル、頭頂部最大幅十三.一センチメートル。土師質焼成で、赤褐色を呈している。胎土には、砂粒を多く含んでいる。鼻にあたる部位は、別な粘土を接着しているが、両目と口は杏仁形に切り抜いて整形している。眉毛の痕跡はない。目の上に描かれた弧状の線刻については、二重まぶたの可能性が指摘されているが類例のない表現である。両耳は、渦巻き状の凹線で表現している。頭部前面には半円形の板状粘土を接合し、背曲は粘土紐を半円形に積み上げて形成している。
 (2)も頭部のみの出土である。上半部を欠失するが、頸部や右肩部の一部が遺存する。現存高十六・六センチメートル、最大幅十二・四センチメートル。土師質で砂粒を含み、赤褐色で焼成は普通である。顔面は、鼻梁が存在する。口の形状は、「へ」字状である。右肩は、斜め上に立ち上がって欠損していることから、右手をあげていた可能性が指摘されている。出土位置や形状・色調から、人物埴輪(2)の美豆良(みずら)の部分ではないかとされる形象埴輪の小断片(3)がみつかっている。美豆良は、髪を左右に分けて結んだ古墳時代の男性の髪型であることから、人物埴輪(2)も男子像であることがわかる。
 円筒埴輪は、土師質と須恵質があるが、後者が占める割合はわずかである。いずれも二次調整を欠き、内外面をタテハケないしナナメハケ調整する。口縁部内面をヨコハケないしナナメハケ調整するが、一部の口縁部内面にはヨコハケ調整を施している。さらに、内面は縦の指ナデ調整を加えている。これらが、本古墳から出土する円筒埴輪の一般的な調整のようである。透かし孔の形は、円形で、タガは低いM字形をなす。(7)の外面には、タタキ痕が残る。(17)は、やや楕円ぎみの形態をとる。
 一・四号墳は、埴輪資料の豊富さが特徴的である。円筒埴輪は、いずれも口縁部外面に粘土帯を貼って肥厚させた形態であり、人物埴輪の出土は若狭で初めて確認されたものである。さらに、本製樹物(たてもの)(いわゆる木製埴輪)の痕跡が検出されている。これらは、いずれも埴輪研究の今日的なテーマに通じるものであり、順に記述する。
 円筒埴輪の口縁部につけられた突帯の意味は、少なくとも本墳では単に装飾的な効果をもったものにすぎないと思われるが、若狭所在のほかの古墳から出土をみないことから、他地域から導入された調整技法と考えてよい。この種の埴輪は、畿内中枢部の古墳だけでなくて畿内周辺部の古墳から時折出土す。この特徴をもつ埴輪は、古市古墳群(大阪府羽曳野市)が発信源であり、六世紀前葉の峯ヶ束古墳にいたっても出土例がある。北摂(大阪府北部)の新池埴輪窯跡(高槻市)で焼成されており、新免古墳群第三号墳(豊中市)や、淀川をはさんで対岸に位置する梶古墳群二号墳(守口市)から出土している。この種の円筒埴輪が樹立された古墳からは、形象埴輪が豊富に出土する共通性がある。本墳の埴輪の編年的位置は、後期前半に類例があって丁寧な縦ハケ目調整がなされていること、人物埴輪が出土していること、古式な須恵器壺(8)が出土していることなどを勘案して、六世紀前半(MT15型式)に比定するのがもっとも蓋然性が高いと考えられる。
 隣県の滋賀県下で、口縁部外面に突帯をめぐらせた埴輪が出土した古墳として、長浜古墳群(長浜市)の越前塚埴輪棺、神塚古墳、上寺地遺跡(試掘)G-13土坑の三基、息長古墳群(米原市)の山津照神社古墳がある。長浜古墳群の三基は、五世紀前葉(TK73型式)に、山津照神社古墳は六世紀中葉(TK10型式)にそれぞれ比定されている。前者の埴輪の評価について細川修平氏は、埴輪生産の中核地域から「古市型・貼り付け突帯口縁・B種ヨコハケ・窖窯焼成技術」という該期の最新の諸要素がセットでいち早く導入され、一定期間継続的に稼働した生産工房が存在することを推定している。後者についても、近畿中枢部に本拠を据えた製作集団によるものであるとする高橋克壽氏の見解があり、いずれも近畿中枢部との直接的な交流が想定されている。この指摘は、当該期の近畿中枢部に特徴的な形象埴輪である石見型埴輪が、山津照神社古墳や同地に所在する塚の越古墳からも出土していることで補強される。
 これらのことから、口縁部外面に突帶をめぐらした円筒埴輪が出土した場合、中期に遡及するものについては古市古墳群から、後期前半のものについては北摂地域との何らかの関わりがあって導入された蓋然性が高まる。
 人物埴輪や動物埴輪の製作は、五世紀後半に出現して関東では前方後円墳の終焉期まで続く。西日本では帝釈寺四号墳か次世代までの時期であり、降っても六間紀中葉(TK10型式)である。人物埴輪に二点の出土があるが、一点は頭部の髪形表現から力士形埴輪と推定されている。埴輪を正面からみると、団扇を頭部に差し込んだような造形であり、「横一文字髷」、「扁平髷」などとよばれる。若松良一氏は、これを頭髪表現ではなく、正倉院に伝わる「布作面(ふさくめん)」のような仮面を着装している姿を表現しているとする。ここでは、この表現の頭部をもつ埴輪を力士形埴輪として話を進めるが、この種の埴輪と判別可能なものに限っても出土例の七十%がこの扁平髷の形態をもつ。
 同種の埴輪の完存品をみると、ふんどしを締めて両手を前に相撲をとるしぐさをするものや、片手をあげて四股を踏む姿のものがある。力士形埴輪は、福島県から宮崎県の広範囲に分布しているが、なかでも、関東地方、東海・近畿地方、九州から集中して出土している。また、朝鮮半島北部の高句麗に残る四~五世紀の壁画古墳のなかに、相撲をとる場面や葬送に関する情景表現が描かれており、安岳三号墳、舞踊塚古墳・角抵塚古墳の三例がよく知られている。相撲は、中国から朝鮮半島を経由して列島に伝えられ、現代につながっている。力士像を示した同時代資料には、力士形埴輪だけでなく装飾付須恵器があり、これらの資料を合わせると全国で三八遺跡から出土している。
 埴輪群像が復原されている古墳として、保渡田八幡塚古墳(群馬県高崎市)と今城塚古墳(大阪府高槻市)が周知されており、埴輪祭祀場の配置と埴輪群像の意味が考察されている。特に後者の古墳では、殯宮儀礼の配列をビジュアルに当てはめた図が公表されており、力士形埴輪が出土した四区は、宮門外の殯庭にあたる。そこには、力士形埴輪を先頭にして、鷹飼いなどの職能集団と武人が宮門の外に配置され、森田克行氏によって「力士には地鎮を、武人・鷹飼などは警護を意味する」と性格づけがなされている。山内紀嗣氏のように、「角力の埴輪等の人物埴輪は、前代に農耕儀礼として実演されていたものが、必要としなくなった後のルジメント(痕跡)」とする見解もある。
 もとより、真の継体大王陵である今城塚古墳と帝釈寺四号墳とを同等にはあつかえないが、おそらく殯宮中枢部の儀礼空間を示す形象埴輪群を簡略化した形で、帝釈寺四号墳にも形象埴輪の幾つかが採用されていたであろうと想定できる。その一端を示すものとして、帝釈寺一号墳出土埴輪のなかに馬形埴輪(24)・家形埴輪(18・19)などの形象埴輪がある。
 木製樹物が立てられていたことについても、周溝の内縁・外縁に柱穴が存在していることから推測されている。古墳の周溝(濠)から木製樹物が出土することは、今里車塚占墳(京都府長岡京市)・四条古墳(奈良県橿原市)の周濠調査などが契機となって、今では全国各地で事例が増えてきている。上ノ塚古墳(若狭町、旧上中町)では、周濠内の墳丘裾から多角形状に整形された針葉樹の木柱が立った状態で検出された。笠形木製品の柱部と推測されるが、周辺部からは槍形木製品や板材なども出土している。同じく日笠松塚古墳では、周溝の中央に四メートル間隔でスギ材の柱が埋め込まれているのが検出されていて、柱の上部に笠形や鳥形がのっていたことが推測される。山上に立地する城山古墳からも、壤丘への出入り口かと推測されるくびれ部埴輪列の隙間の端部において、柱穴が検出されている。
 このように、古墳の外観はこれまでのイメージを一新するものとなっている。墳丘上に埴輪がめぐるだけでなく、古墳の周溝(濠)や墳丘の一部に木柱が立てられ、その上に器財の一群をのせた風景を想定することが可能となっているのである。本墳ではすでに朽ちてしまっているのであろうが、上ノ塚古墳の周濠からみつかった部材は、葬儀に使用したあと廃棄されたものの一部えてきた。それではこの古墳の埴輪焼成技術は、どの地域から導入された可能性があるのだろうか。獅子塚古墳と大差ない時期であるのに、二者の埴輪には法量・形態上の共通性は認められない。時期的には、複数の系統が併存するような多元的な状況が想定される段階ではあるものの、本古墳出土の埴輪を概観する限りそのようには思えない。憶測の域を出るものではないという条件付きながら、本古墳から口縁部外面に突帯をめぐらせている円筒埴輪と、普遍的な形式を保持した力士形埴輪が共伴していることに注目すると、両種の埴輪が盛行している今城塚古墳・昼神車塚古墳・新池埴輪窯跡などが所在する北摂地域から直接導入された可能性が強い。北摂地域とつながる契機となったものは、六世紀初頭~前半という時期、真の継体陵である今城塚古墳が所在する地域であることを勘案すると、継体王朝期の豪族間交渉の一端を表出していることはまちがいないように思われる。獅子塚古墳被葬者との性格の違いにも関心がもたれる。


佐田の伝説

関峠の頂上にある波よけ地蔵は、昔大津波をここでくいとめたという伝説がある。

『越前若狭の伝説』

波よけ地蔵  (佐田)
 若越国境の関峠に石の地蔵尊があり、これを波よけ地蔵という。むかし大津波があったとき、打ち寄せた津波はここで止まったという。(永江秀雄)

のた平  (佐田)
 佐田の東南にある乗鞍(のりくら)岳(六五〇メートル)の中腹には、のたくぼ・のた平(だいら)という所がある。のたとは波のことである。そこには津波で逃げた人々が使用した粉ひき用の石うすかあるという。  (永江秀雄)


吉岡又右衛門家には、「河童のわび証文」の伝説が残っている。
『越前若狭の伝説』
かっぱの証文  (佐田)
 佐田の吉岡又右衛門家にかっぱの証文がある。享保年間(一七一六ころ)当主の数代前のじいさんが夕方飼い牛を海べに連れて行き、水浴をさせようとした。しかるに、いつも喜んで海へはいる牛が、その日に限っていくら引っばっても海へはいらない。やむを得ず波打ちぎわで牛の体を洗っていると、牛はしきりに後足をはねて、何かをける様子である。
 じいさんは日ごろ読誦する般若心経を誦し始めると、牛の後方に五六才ぐらいの下げ髮の子どもが、牛の後足を引いて海へ入れようとするのが、うすうす見える。心経を正めると子どもの姿は見えぬ。また心経を誦し始めると、子どもが見える。
 じいさんはす早く牛の後方に回って子どもを捕え、たづなにて縛り上げ、問い詰めると、「わたしはこの織田浜に住むかっぱであるが、祇幽(ぎおん)祭り中に人畜のしりを祇園様に供えねばならない。だがまだ一つもしりを得ることかできない。それでこのように牛を海中へ引き入れて、しりを取ろうとするのである。」と白状した。
 じいさんはこれを聞いて、怒ってかっぱを打ち殺そうとした。かっぱは謝罪して、「今後はこの織田浜では人畜に害を加えないから、命だけ助けてくれ。」と歎願した。それでは証文を書けというと、「ここには筆もすずりもないから、明朝までにお宅にとどける。」と頼むので、必ず実行するように約束させて、放してやった。
 翌朝起きてみると、門口に一枚の証文と鮮魚数尾が置いてあった。翌日もその翌日もそれから毎日門口の柱につるしてあるしかの角のかぎに鮮魚がかけてあった。数日後には六〇センチもあるぷりが二尾かけてあった。そこでじいさんは欲心を配し、鉄製の大きなかぎをつるしておいた。するとその後は魚をかけて置くことをやめた。
 証文は水にうつせば、判読できるという。その証文を見せてほしいと、現在の当主にいったところ、それは伝説だとの回答であった。   (江戸喜久治)

立石谷  (佐田)
 越前と若狭の国境に関峠という所かある。むかしその境界線の争いが起り、越前の関の人々が境界の大石をひそかに若狭の佐田寄りへ移した。佐田の山東(さんとう)十郎という人か大いに怒り、その大石を一人で運んで元の場所へ立てたという。そこには今も石が立っており、そこを立石(たていし)谷といっている。(永江秀雄)

行基普薩  (佐田)
 むかし行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が来られて三体の仏像をこの付近に安置された。一は北田にある北田寺の薬師如来。二は佐田の帝釈(たいしゃく)寺の観音(かんのん)菩薩。三は不動明王で佐田の釈蔵寺におまつりされていたというが、このお寺のことは今はわからない。なおそのころ菅原道真公も佐田の近くの丹生に来られたという。   (永江秀雄)

佐柿の戦い  (佐田)
 佐柿の国吉(くによし)城主である粟屋(あわや)越中守は、越前の朝倉勢を迎えて大いに戦った。このとき秀吉も朝倉勢に対してたいへん苦戦したが、徳川家康に助けられて、九死に一生を得た。秀吉は佐田と坂尻(さかじり)の間の黒浜で、家康の手を握り、「あなたのおかげで助がった。」とお礼をいった。
 なおこの戦いのとき、佐田の芳春寺の僧ふたりが朝倉へ内通したため、信長に佐田の織田川原(おったがわら)でその日のうちに首を切られた。   (永江秀雄)

田辺半太夫  (佐田)
 佐田の豪士田辺半太夫の家には、上段の間といって、信長・秀吉・家康が休憩したという座敷が今もある。武具なども相当に持っている。   (永江秀雄)





佐田の小字一覧


佐田  立石谷 立石谷口 鐘附田 畑ケ谷 滝ケ谷 尻ノ谷 花柄 清水ケ谷 柱ケ谷口 柱ケ谷 白三谷 柿本谷 奧下古谷 下古谷口 下古谷 平ケ谷 榎峠 葉瀬ノ本 口無谷 坂ノ谷 萩野谷 寺谷 中ノ平 水晶田 水晶上 一ノ小谷口 一ノ小谷 二ノ小谷 五井ケ谷 横縄手 姥ケ谷 姥ケ谷口 雨降坂 雨谷 廻谷 北条塚 コモ木谷 松本 上野 向井 嶋田 行定 定野原 下野原 下行定 清水釜 下ノ庄 西庄 下田 浜畑 大丈浜 今市川下 金瀬川 川向 下川向 今市 道 今市道下 今市 出合畑 山崎 毛ノ鼻 毛ノ鼻口 奥山崎 治露川 市町畑 上庄 中ノ庄 硲 稲場 大谷口 大谷 田辺谷 上ノ山 由利ケ谷口 由利ケ谷 坊庄 中ノ辻 相ノ木 奥相ノ木 池ノ谷口 下馬場 中馬場 竹友 堂ノ前 坊ケ谷口 東田尾 南谷 赤田 樋口 坂丸 坂丸谷 奥谷 織田所 上竹友 佐田上 南造 中ノ窪 大門下 大門前 寺ノ前 寺屋敷 寺ノ上 浄堂前 押川道 琵琶首 時房 清広 薬師谷 薬師谷口 片谷 奥鞠山 小早稲谷口 大早稲谷口 大早稲谷 奥大早稲谷 稲口 押川庄 上押川庄 丈ケ谷 岸水 冬瓜谷 押川谷口 今谷 押川谷 城山 五井ケ谷 滝ケ谷 沓見谷 関山 西関山 萩野谷 坊ケ谷 堅谷 小早稲谷 杉谷 大早稲谷 岸水 押川谷 池ノ脇

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『美浜町誌』(各巻)
その他たくさん



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