丹後の地名 若狭版

若狭

竹波(たけなみ)
福井県三方郡美浜町竹波


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福井県三方郡美浜町竹波

福井県三方郡山東村竹波

竹波の概要




《竹波の概要》
敦賀半島の西部、西方岳南西麓、丹生の一つ手前の集落若狭湾に面する。「三方郡誌」には「タカナミ」とあり、氏神を高那弥神社と称するので、かつては「たかなみ」と呼ばれた。馬背川河口近くの山に十禅師社が祀られていたが、のち高那弥神社に合祀された。畑の中には新田義貞の末裔という馬背小太郎(小太王とも)を祀る墓がある。竹波の海岸からはかつて多量の宋銭が出土したことがあった。伝承によれば、ある時逆葉の笹が生え、大火により馬背が亡んだという。
東は馬背(まじょう)峠を境に越前敦賀郡と接する。馬背川は集落の南で若狭湾へ注ぐ。馬背峠から縄間への道筋に法源寺田とよぶ地名が残っている。ここにはかつて馬背村があったという。
『三方郡誌』
馬背村址。竹波に在り。馬背越の下。馬背川の岸なり。應仁以来山賊海賊天下に横行す。當時馬背は要害の地に非りしかは、弘治年間、村民竹波邑へ移住したり、其時村に山本右衛門尉と云ふ者あり。井崎城主熊谷直之の幕下にして、八十三石を知行せりと傳ふ。

中世の竹波は、鎌倉期から見える地名。竹浪浦・竹浪とも記される。文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案(京府東寺百合文書ユ)に馬背竹波6町1反320歩が見え、このときには馬背と竹波は一体のものとして捉えられており、元亨年間頃の朱注には「国領」と記される。また刀禰の存在を示す刀禰給も馬背竹波に1反あると記されている。延応元年(1239)の散位信房下文写には、馬背は山本十郎左衛門平重信、竹波浦は伊藤播磨守橘佐時の開発地であるとするが、この文書は疑わしいともいう。当地北方の丹生浦の山のうち12か所を竹波の者に売却した応永31年(1424)7月3日の注文があり、そのとき作成された絵図に竹波の在家や田の位置が記されている(丹生区有文書)。丹生浦とは山をめぐって文安6年(1449)にも争ったが、「馬背・竹浪」は敗れて山代を負担するよう守護武田氏から命じられている。永正7年(1510)10月に竹波百姓が丹生浦の通路を妨げたとあり、同17年には竹波・馬背は丹生浦と網場相論を起こしている。この時の網場争論は武田氏のもとでは決着がつかず、幕府奉行人のもとで三問三答を遂げたが、結局竹波・馬背側が敗れている(同前)。弘治2年(1556)6月の明通寺鐘鋳勧進に「竹波うら」は330文を奉加している。なお馬背は弘治年間(1555~58)に竹波へ移住したと伝える。
近世の竹波村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」では戸数51 ・ 人口232。山東組内で坂尻村に次ぐ小村である。当村では塩・白石を産出する。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年山東村の大字となる。
近代の竹波は、明治22年~現在の大字名。はじめ山東村、昭和29年からは美浜町の大字。明治24年の幅員は東西1町・南北3町、戸数52、人口は男145 ・ 女140、学校1、小船2。


《竹波の人口・世帯数》 165・78


《竹波の主な社寺など》

竹波製塩遺跡
馬背川製塩遺跡
共に奈良期の製塩遺跡

高那弥(たかなみ)神社(式内社)

若狭国神名帳に正五位竹波明神とあり、じけ谷に鎮座。山王御所大明神・御所大明神・石上大明神とも称した。のち明治41年日吉神社を合祀する。「若州管内社寺由緒記」には「御所大明神 馬背の小太郎殿と申人神に祝ひ申候由申伝候 由緒知れず 小太郎は王孫の由伝之歟、石塔公家衆より御建立と申伝候」とあり、もとは馬背村に祀られていたものか。「雲浜繿」には「十禅御所 山王御所大明神」とあり、伝承では十禅師も馬背村に祀られていた。境内には花崗岩の九重塔があり、これは寛文年間(1661~73)の大地震で倒壊したものを復元したと伝えられている。「若州管内社寺由緒記」にある石塔とすれば馬背の小太郎の供養のために建てられたものであろうという。境内の阿弥陀堂には、鎌倉中期と推定される阿弥陀如来座像が安置されている。

『美浜町誌』
高那弥神社
鎮座地…竹波一三-ー。現祭神…高那弥大神・大山咋命・倉稲魂命。例祭日…六月五日。旧社格…村社。氏子数:四十戸(平成五年)
 式内比定社。現祭神のうち大山咋命と倉稲魂命は、合祀祭神である。このため現祭神は、高那弥大神一座ということになるが、高那弥大神の詳細は不明というしかない。『若狭郡県志』にも竹波村の神社が何を祭神とするかを不明としている。「竹波大明神」「五所明神社」とも称されていたが、「若狭国志」には「山王社」とも呼ばれていることが分る。「神社私考」では、「此社じけ谷と云ふにありて、山王御所大明神とも御所大明神とも又石上大明神とも申す。祭神は詳ならず」とみえる。また同書は『若狭郡県志』に「五所」とあるのは「御所」の誤りであると注記する。青木紀元は、「五所」の方が古くこれが逆に「御所」となったという見解から「五筒所の神々を祭った時期があつたと考えられる」(「式内社調査報告」)と述べる。鎮座地は旧三方郡山東村竹波字古堂で、JR東美浜駅下車、福鉄バス竹波停留所に近い竹波集落背後の山の山裾にある。「竹波」は古くは「タカナミ」であろう。


『三方郡誌』
高那彌神社。式内。竹波に鎮坐す。國帳には正五位竹波明神とあり。此社は、じけ谷と云ふにありて、山王御所大明神とも、御所大明神とも、又は石上大明神とも稱したり、祭神は詳ならず、境内貳百九十八坪あり、日吉神社を合祀す。


舞鶴市天台に竹波神社(祭神・大山咋あるいは国押人神とする)がある。天台はのちの名で、元は五十里(いかり)村であった。丹生や水銀と関係がある社なのかも…
与謝野町石川に高浪古墳がある、これは石棚がある。


曹洞宗光明山法栄寺

曹洞宗法源寺と同宗栄林寺を合併したという。

『三方郡誌』
法源寺。曹洞宗。竹波に在り。釈迦來を安置す。越前永蔵寺〔敦賀郡〕末なり。境内百八十五坪、境外所有地四段七畝二十六歩あり。
『三方郡誌』
榮林寺。曹洞宗。竹波に在り。十一面観世音を安置す。越前永巌寺末なり、境内百四十二坪、境外所有地三段五畝あり。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


竹波の主な歴史記録

『新わかさ探訪』
竹波と新田義貞 若狭のふれあい 第113号掲載(平成11年5月15日発行)
阿弥陀堂にまつられた 新田義貞の守り本尊?
 白砂青松の水晶浜で知られる美浜町竹波に、鎌倉・南北朝時代の武将新田義貞(1301~38)の守り本尊であったと言い伝えられている仏像があります。
 高那弥神社の境内に隣接する高台に、地元の法栄寺が管理する観音堂や阿弥陀堂、地蔵堂、石造りの九重の塔などがあり、ここの阿弥陀堂にまつられている阿弥陀如来坐像が、新田義貞にゆかりがあるとされる仏像です。桧の寄木造りで像高は89m、鎌倉中期ころの作とみられ、かつては彩色が施されていたようですが、現状は木の地肌が出ていて、手や脚の袈裟の部分などにかなり傷みがあります。この仏像は、戦国時代末期の永禄年問(1558~70)の戦乱で廃寺となった寺の本尊であったのを、信仰厚い村人たちがこの地に移し、守り継いできたと伝えられています。
 新田義貞は、元弘3年(1333)、鎌倉に攻め入って鎌倉幕府を滅ぼした武将。その後、清和源氏の嫡流、足利尊氏と対立します。『大平記』によると、1336年、義貞は後醍醐天皇の皇子恒良親王、尊良親王とともに敦賀に入り、金ヶ崎城を拠り所としたものの、足利軍に囲まれて食糧が尽き、馬や城の壁土まで食べるという5ヵ月間にわたる籠城の末に攻め落とされます。そのとき尊良親王は自害、恒良親王も蕪木浦(現南越前町甲楽城)に逃れたものの捕えられて京に送られます。落城より前、義貞は敵を背後から攻めるため、ひそがに城を抜け出ており、金ケ崎の戦い後、いっとき勢いを盛力返したものの、1338年、灯明寺畷(現福井市)で敵矢を受けて最期を遂げました。
 この新田義貞と竹波とを結びつける人物として、義貞の末裔という馬背小大郎(小大王とも)が、この地に足跡を残しています。『社寺由緒記』(江戸初期に編纂)には、小太郎について、由緒は知れないが王孫と伝えられ、石塔が公家衆によって建立されたと申し伝えられていると記されています。ちなみに新田義貞も、幼名を小太郎といいます。
 阿弥陀堂の横にある九重の塔が『社寺由緒記』にある石塔とみられ、馬背小太郎の供養のために建てられたようです。この石塔は、花こう岩で造られており、江戸初期の寛文年間の大地震で倒壊したのを復元しています。その足元には、かつて塔の最上層にあったとみられる相輪が割れたまま置かれています。
 竹波集落から1㎞ほど南を流れる馬背川沿いの一帯は、「馬背」と呼ばれており、平成2年に開通した敦賀半島横断道路は、ここから馬背峠を越えて敦賀市縄間へ通じています。その道路脇の畑の中に、馬背小太郎の墓といわれている古い石積みの五輪塔があります。この馬背越の道筋は、風の通り道になっていて風の強い日が多く、そのためか木陰に立つ石塔もかなり風化しています。
 竹波の法栄寺は、敦賀市金ヶ崎にある永厳寺(応永20年〔1413〕開基)の末寺であり、このことも竹波と新田義貞とを結びつけるものを感じさせます。義貞の守り本尊であったという仏像や、その末裔とされる馬背小太郎の石塔など、いずれも正確な来歴はわからず、多くを言い伝えに頼るのみですが、歴史の真実を秘めたまま、風光明媚な竹波の地に静かにたたずんでいます。




竹波の伝説

1月15日の朝、浜で「牛の毛やずり」が行われる。「どんど」の火で牛の毛を焼き病害虫を追い払う。

『越前若狭の伝説』
御所明神  (竹波)
 竹波(たかなみ)明神ともいう。馬背の小太郎殿という人を神に祭った。小太郎は末孫であるという。 (社寺由緒記)




竹波の小字一覧


竹波  壱ノ渡 ヲシガ平 江口 道前田 新畠 万苅 北山畑 南山ノ畑 二又田 原田 竃ノ口 浜田 古堂 下木+解木谷 中木+解木谷 上木+解木谷 瀬戸ノ奥 小谷 北所 下南所 南上所 高浜 馬飼端 苞谷 菖蒲ケ原 宮前 元宮 五段田 鳥ヶ谷 大木戸 竹内 彦作 手取田 左近山 中嶌 三月田 土田 今出山 社免 土岩 車坂 大橋 大橋川 下辻子堂 中辻子堂 上辻堂 柿ケ平 上神事坂 柿ノ脇 丸山 北法源 寺田 南法源寺田 千イガ屋敷 下焼山 上焼山 北揚谷 南揚谷 橇り船 東ワクノ谷 西ワクノ谷 小坂 滑ケ平 幕ノ松 坂頭 落合口 下源作田 上源作田 若狭谷 鞁石 二ノ瀬 廻り戸 中太郎谷 下太郎谷 上太郎谷 中道 小橋谷 血橋谷 池ノ谷 南宿松 北宿松 南婦妖? 北婦妖? 元宮谷々 沓見谷 中嶌 古道 落合 社免 烏ケ谷 包谷 蟹ケ谷 坂尻 瀬戸奥 池ノ山 山ノ畑 万苅 白木山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『美浜町誌』(各巻)
その他たくさん



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