丹後の地名 若狭版

若狭

若狭国(わかさのくに)
福井県3方郡美浜町・3方上中郡若狭町
・小浜市・大飯郡おおい町
・大飯郡高浜町


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福井県3方郡美浜町・3方上中郡若狭町・小浜市・大飯郡おおい町・大飯郡高浜町

若狭国の概要




若狭国の概要


難しい説明なくとも若狭湾の「原発銀座」の地と言えば知らぬ者もない。原発銀座と呼ぶ場合は東に接する越前敦賀市に立地する物も含めて呼ぶが、それも合わせて15基、東端と西端は50キロしかなく、計算すれば、3キロ少々毎に原発がある。京阪神の人口密集地に近く、これだけ「豊かに」あるのは、全世界を探しても当地だけであろう。どれも超老朽原発で安全性と「死の灰」の問題、「想定外の」巨大地震津波などや、何十万とも予想さける避難民をどう収容するというのか、何の将来ビジョンも描けず無責任が脳天気にも小判をばらまいたり、もらったりする者がいたりして、次々に提訴されて停止せざるを得ないとか、10万年後まで残る膨大な死の灰、テロ対策の不備などなどなど解決不能な問題は山積、1日も早い全機の廃炉が求められる。
高浜4号機が1番新しい(1985)、もし仮に60年稼働できたとしても2045年には原発銀座は完全に終焉の時を迎えるが、それまでは神に見放されることなきようにと怯え祈ることしか手がないものだろうか。

若狭国は旧国名、若州(じゃくしゅう)とも呼ぶ。北陸道の西端の1国。現在の福井県の西半部。北は日本海若狭湾に面する。国名の由来については、朝鮮語で「来て行く」の意を持つ「ワカソ」によるとする説(若狭文化財散歩)、海を渡って来た男女(若狭彦・姫の2神)が年をとらず少年のようであったので「和加佐」と名付けられたとする説(若狭郡県志)など。また景行天皇の時に膳臣の先祖の磐鹿6鴈命が当国を代々領することとされ(高橋氏文)、履中天皇の時冬11月にもかかわらず美しい桜の花が天皇の盞に舞い落ちたことにより、膳臣余磯が稚桜部臣の名を与えられたという(日本書紀履中天皇3年11月辛未条)。伴信友は、国名はこの稚桜部の縮まったものとしている(若狭旧事考)。しかしたぶん真実は逆で、古くからワカサの名があり、それに付会して稚桜部の説話が生まれたのでなかろうか。文献史料が残らないため、確かな語源は不明であるが、古事記の応神前段のよく知られた気比大神のところに、「建内宿禰命、其の太子を率て、禊せむと爲て、淡海及若狭國を経歴し時、高志の前の角鹿に假宮を造りて坐さしめき。爾に其地に坐す伊奢沙和気大神の命、夜の夢に見えて云りたまひしく、「吾が名を御子の御名に易へまく欲し。」とのりたまひき。…」とあり、若狭國は、履中よりも古くからあったようである。
若狭は地勢より見れば、丹後の東続きのような位置にあり、山陰であろうか。しかし交通や文化よりすれば近江に近い、方言は丹後よりは近江に近いように思われる。それをどうして北陸道に属されたかは、当時の政治上の都合によるものであろうか。

若狭国の古代

木簡
木簡(藤原京跡、平城京跡など出土)資料には、次のようなものがある。(藤原宮・平城宮出土の若狭関係の木簡は34例知られる。)
「丁酉年若(狭か)国小丹生評 岡田里 三家人三成 御調塩2斗」
「 若佐国小丹生評 」
「若狭国遠敷郡 青郷 御贄貽貝1塥」
「若狭国遠敷郡 青郷 御贄海細螺1塥 小野里」
「若狭国遠敷郡 青郷 御贄鯛鮓1塥」
「若狭国遠敷郡 青里 御贄多比鮓壱塥 秦人」
「若狭国遠敷郡 青郷 秦人安古 御調塩3斗」
「若狭国遠敷郡 木津郷少海里 土師竈御調塩3斗 神亀5年9月15日」
「若狭国遠敷郡 木津郷 御贄貽貝鮓1塥 木津里」
「若狭国遠敷郡 車持郷 御贄細螺1塥」
「若狭国遠敷郡 野里 相臣山守 調塩3斗 天平18年9月」
「若狭国三方郡 御贄宇尓1斗」
木簡は遠敷郡青郷の物が多い。
書紀の天武天皇4年(675) 2月癸未に、
(4年)2月の乙亥の朔癸 未に、大倭・河内・攝津・山背・播磨・淡路・丹波・但馬・近江・若狭・伊勢・美濃・尾張等の國に勅して曰はく、「所部の百姓の能く歌ふ男女、及び侏儒・伎人を選びて貢上れ」とのたまふ。とあり、この頃までに呼称は定まっていた。だいたい若狭だが、若佐と書いた物もある。
「先代旧事本紀」には允恭天皇のとき膳臣の祖の佐白米命の子荒砺命が若狭国造に任じられたとし、「古事記」開化段には若狭の耳別氏は開化天皇の子の室毘古王の子孫だとする。

若狭国は奈良期には遠敷・三方の2郡からなっていたが、天長2年(825)7月10日に遠敷郡を割いて大飯郡が建てられ、以後3郡となった。律令制下では中国とされ、国司のうち介は置かれなかった。若狭国司は、天平宝字5年(761)正月、高橋朝臣人足が若狭守に任命されたという記事が初見である(続日本紀)。
国府は「和名抄」に「国府在遠敷郡、行程上3日、下2日」とあり、遠敷郡にあったことが知られ、小浜市府中に比定される。
郷名は「和名抄」高山寺本では
  遠敷郡 遠敷 丹生 玉置 安賀 野里 志麻
  大飯郡 大飯 佐文 木津 阿遠
  三方郡 能登 弥美 三方
を記し、刊本では遠敷郡に余戸・神戸・丹生(重出か)・佐文・木津・阿桑の6郷、三方郡に余戸・駅家の2郷が加わるが、遠敷郡の佐文・木津・阿桑の3郷は大飯郡の同名郷との重複と見られる。藤原宮・平城宮出土の木簡には、遠敷郡で三家里、三方郡で竹田郷がみえる。
駅馬として「弥美、濃飯、各5疋」とある(「延喜式」兵部省)。弥美は三方郡美浜町郷市、濃飯(のい)は三方上中郡若狭町野木に比定される。さらに「玉置駅家」があったことを示す木簡が平城宮跡より出土している(「玉置駅家三家人黒万呂御調3斗 天平4年9月」平城宮木簡1)。
古代の交通路としては、若狭は西近江路を穴多(あのう)(滋賀県大津市)・和爾(わに)(志賀町)・3尾(みお)(安曇川町)・靹結(ともゆい)(マキノ町)と続く北陸道から越前松原駅(敦賀市)で分岐した道として位置付けられるが、「延喜式」(主税上)に「陸路 駄別稲十束5把、海路 自勝野津至大津船賃、 米石別1升、挾抄功4斗、水手3斗、但挾抄1人、水手4人漕米5十石」とあるように、正税などの租税は9里半越を通って勝野津(かつのつ)(大溝湊)(高島町)へと運ばれ、湖上を大津へと回漕されている。若狭国の正税稲と公廨稲はそれぞれ9万束とされ、その他の雑稲は6万1,000束であった。調には魚介類が多く、庸は米で納めることになっていた(延喜式)。なお「和名抄」東急本および元和古活字本、「掌中歴」は国の田数を3,077町とし、「拾芥杪」は3,139町とする。
「延喜式」神名帳には若狭国の神社として、若狭国全体で42座(大3座・小39座)、うち遠敷郡16座、大飯郡7座、三方郡19座である。大とされているのは若狭比古神社2座(若狭比売神社を含む)と宇波西神社である。このうち若狭比古神社は養老年間に、神身をうけて苦悩が深いので、仏法に帰依したいとの神託を発したとあり(類聚国史)、神仏習合伝承の早い例として注目されている。

「日本書紀」垂仁天皇3年の分注に「天日槍…近江より若狭国を経て、西但馬国に到」とあるのが、若狭国の初見である。国名については、同書履中天皇3年11月条に、磐余市磯(いわれのいちし)池での船遊びの際、天皇の盃に桜花が落ちた。時季でないのに咲いたこの花のありかを尋ねるよう命じられた物部長真胆連は、掖上室山で花をえて天皇に献じた。「天皇、其の希有しきことを歓びて、即ち宮の名としたまふ、故、磐余稚桜宮と謂す、其れ此の縁なり、是の日に、長真胆連の本姓を改めて、稚桜部造と曰ふ、又、膳臣余磯を号けて、稚桜部臣と曰ふ」とあり、この「稚桜部」からきたものといわれる。「高橋氏文」には「和加佐国 波 六雁命 爾 永久 子孫等 可 遠世 乃 国家 止 為 止 定 天 授賜 天支」とあり、また「国造本紀」は、若狭国造を「遠飛鳥朝御代、膳臣祖佐白米命児荒礪命定賜国」としている。天皇家の伴造氏として食膳をつかさどった膳氏は、志摩を中心に東国に勢力をもった。
若狭膳氏の本拠については、伴信友は「若狭旧事考」で若狭町瓜生(うりう)膳部(ぜんぶ)山があることに注目しており、またこの付近が若狭における前方後円墳の最も集中する地域でもあることから、この付近にあったものと推察される。
国名の表記は藤原宮出土の丁酉年(697)の木簡に「若?国小丹生評岡田里」あるいは「若佐国」とあるが、和銅6年(713)の平城宮出土の木簡には「若狭国遠敷郡」とある。「若?」あるいは「若佐」から「若狭」への用字の変化は、平城京出土の和銅5年10月の木簡に「若□国小丹生郡野里」とあることをも併せ考えれば、和銅5年から翌6年までの間と思われる、という。
六国史にみられる若狭関係の記事は、天武天皇4年2月に、大和・河内などとともに「能く歌ふ男女」が貢進されたこと(日本書紀)、養老3年10月、志摩・淡路とともに兵士がとどめられたこと(続日本紀)、延暦10年(791)9月、伊勢・尾張・近江・美濃・越前・紀伊とともに漢神を祀るために牛を殺すことを禁じたこと(同書)、同12年正月、平安京遷都にあたって越中とともに安嘉門を造ったこと(文徳実録)、承和9年(842)6月、「其体頗似鐘」た銅器(銅鐸か)を進貢したこと(同書)などがある。

御贄と塩  藤原宮・平城宮出土の若狭関係の木簡は34例知られるが、このうち御贄に関する3例のほかは、すべて調としての塩に関係する。若狭は志摩・紀伊・淡路とともに天皇に御贄を貢進する国に指定されているが(延喜式)、木簡に現れる御贄は、いずれも遠敷郡青郷(高浜町)からのもので、多比(鯛)の鮓、伊和志(鰯)の腊、胎(貽)貝であり、魚介類であった。御贄と関係して、若狭には宮内省大膳職に所属する漁民江人の1部がいたようである(天平勝宝8年5月22日付「勅」東大寺要録)。
調としての塩は、遠敷郡では小丹生・玉置・野・三家・佐文・木津・青の7郷(里)、三方郡では能登・弥美・竹田・余戸の4郷(里)から納められ、地域的には1国全体にわたる。さらにこのなかには、遠敷郡の玉置・野(若狭町)、三方郡の能登(若狭町)・弥美(美浜町)など直接製塩にかかわりのない地が含まれることが注意される。また近年調査で、若狭全域で51ヵ所、うち大飯郡18ヵ所、遠敷郡(小浜市域28ヵ所、三方郡15ヵ所の製塩遺跡が確認されている。このうち8世紀の製塩遺跡を特徴づける船岡式土器を含む遺跡が43ヵ所あり、若狭の製塩が奈良時代に際立っていることが知られる。若狭が奈良時代、塩を輸する国として、きわめて重要であったことを示唆している。

税は調として、絹・薄鰒・烏賊・熱海鼠・雑腊・鰒甘鮨・胎貝保夜交鮨・甲瀛・凝菜・塩が、中男作物として、紙・蜀椒子・海藻・鯛楚割・雑鮨・雑腊があげられ、庸は米を納めた(「延喜式」主計上)。正税は「延喜式」(主税上)に「若狭国正税、公解各9万束、国分寺料1万束、京法華寺料1万束、文殊会料1千束、修理池溝料1万束、救急料3万束」とあり、佐渡国を除けば北陸道諸国では最も少ない。このほか、年料舂米として大炊寮200石、年料租舂米として800石、年料別貢雑物として零羊角10具・紙麻100斤・蘇8壺(同書民部下)、年料雑薬として人参・黄菊花・茯苓など24種(同書典薬寮)、例貢御贄として毛都久・於期・穉海藻・生鮭(同書宮内省)、内膳司への旬料・節料・年料として雑魚・生鮭・山?・毛都久・穉海藻・於己(同書内膳司)などさまざまの賦課を負った。諸国器杖は横刀20口・弓16張・征箭16具・胡?16具(同書兵部省)と、北陸道諸国にあってその数は少ない。

天平19年2月に大安寺領として遠敷郡島山100町が見えるが(大安寺伽藍縁起并流記資財帳・寧遺)、これは初期荘園。「続日本後紀」承和14年5月丙戌条によれば、若狭国百姓膳臣立岡が窮民に代わって塩5石・庸米152石・准稲4,608京を納めたので、正7位上を授けられており、古くから勢力を有した膳臣氏が新たに人々を支配下に収めつつあったことが知られる。こうした在地の動向に対応して、京の権門も働きかけを強め、10世紀前半には遠敷郡志積浦が陽成上皇の所領であったと見える(廬山寺文書)。奈良期から若狭国で封戸を得ていた東大寺は、平安期の康和5年まで御封米117石余の結解状を伝えるが(東南院文書)、荘園とすることはできなかった。大治元年2月には、中世に京寺領太良荘となる平隆清の私領が現れ(京寺百合文書ぬ・,永暦2年4月には遠敷郡名田村における左衛門尉盛信の私領60町も知られる(徳禅寺文書)。そのほか平安京期までに成立した荘園としては、大飯郡立石荘本荘・新荘(9条家文書),遠敷郡賀茂荘(鳥居大路文書)、同郡西津荘(神護寺文書)があり、その他大飯郡加斗荘、3方郡織田荘、同郡佐古荘も11世紀には形成されていたと考えられる(京寺百合文書ユ)。平安京期の応保元年10月19日に平経盛が若狭国守に任じられて以降(公卿補任)、経光・敦盛・師盛・経俊と平氏が国守となった。しかし源平争乱のなかで、若狭国衙の税所であった稲庭時定を指導者とする武士たちは源氏に味方している。

若狭国の中世

鎌倉時代
鎌倉幕府の勢力が若狭に及ぶのは木曾義仲滅亡の後である。当国における最大の領主であり在庁官人の系譜をひく稲庭権守時定は、建久7年(1196)源頼朝の勘気を被って所領を取上げられた。時定の跡は、頼朝の乳母の子といわれる、若狭(津々見)忠季に与えられ、忠季は若狭の最初の守護に補せられるとともに、遠敷郡・3方郡の惣地頭にも補せられた(若狭国守護職次第)。建仁3年(1203)忠季は比企能員の変に連座して1時所領を奪われるが、元久元年(1204)には還補。忠季は承久の乱に宇治川合戦で討死したが、承久3年(1221)忠季の跡は子忠時に安堵された。忠時は寛喜元年(1229)在京中に陰陽頭を殺害したため得替された。忠時得替の時期には安貞2年(1228)説がある。
忠時得替のあと守護となったのは北条時氏で、その跡を子の経時が襲い、寛喜3年(1231)までその地位にあった。経時以降の若狭の守護職は、北条氏の惣領家の所領すなわち得宗領として相伝された。以降の若狭の守護は、寛喜3年から正元元年(1259)まで重時、正元元年8郎、文応元年(1260)から文永8年(1271)まで時茂、文永8年から弘安7年(1284)まで時宗、弘安8年から正安元年(1299)まで貞時、正安元年から嘉元3年(1305)まで宗方、嘉元3年から延慶2年(1309)まで宣時、延慶2年から応長元年(1311)まで貞時、応長元年から元弘3年(133)まで高時であった。
建久7年(1196)6月日付の若狭国御家人注進案(東寺百合文書)には「源平両家祇候輩」とあるが、この段階における若狭国の鎌倉幕府御家人の交名である。ここには33人の御家人を記している。大飯郡を本拠としたと思われる青兼長・青兼綱・青盛時・佐分時家・木津則高・薗部久綱・和田実員ら7名は、いずれも大飯郡内の地名を冠している。遠敷郡には、遠敷・三方両郡にわたって荘園・公領25ヵ所を所持し在庁官人の1人でもあった稲庭時定を筆頭に、島時兼・和久里時継・木崎基定・稲庭時通・国富則家・小崎時盛、太良保を領した丹生雲厳・大泉家正・宮河頼定・宮河氏後家・虫生頼基・包枝頼時・井口家清・椙貞通・瓜生清正・安賀永厳・安賀時景・鳥羽定範ら19名が、3方郡には、倉見範清・山西頼宗・山西雅宗・小蔵滋・山東家経・岩屋信家・永富頼広ら7名がいる。多くは遠敷郡・3方郡の地名を冠している。遠敷郡の御家人は19名と過半を占め、このうち在庁官人であった者は稲庭時定・和久里時継・木崎基定・稲庭時通・安賀時景の5名を数え、国衙との結付きの強さをうかがわせる。しかし、彼らの所持した諸職は保・名の下司・公文・名主職であって、地頭職に補任された者はいない。
承久の乱後、若狭の御家人の多くは守護・地頭の押領などによって没落し、建長2年(1250)には14名にまで減少した(建長2年6月日付「若狭国御家人等訴状」同文書)。

若狭国惣田数帳
東寺百合文書に文永2年(1265)11月日付の若狭国惣田数帳写(大田文)が残る。この惣田数帳は、青郷・佐分郷など67ヵ所の国衙領を実検し、応輸田・不輸田を算出し、所当米を確保することを目的として作成されたものであるが、応輸田・不輸田だけでなく、荘園領をも書上げており、鎌倉中期の若狭の所領構造をよく示している。
惣田数帳に記された田数は、3千217町6段余、そのうち荘園領が1千36町余、国衙領が1千181町1段余(うち応輸田643町5段余・不輸田537町6段余)である。荘園領は、本庄として賀茂・賀斗(小浜市)、立石(高浜町)・織田(美浜町)・佐古(若狭町)の各庄と山西郷・山東郷(美浜町)の計129町1段余、新荘として立石・和田(高浜町)、苽生・鳥羽・安賀・吉田・3宅(若狭町)、名田(おおい町名田庄村および小浜市)、前河(川)・倉見・向笠(若狭町)の計474町7段余、便補保として国富・恒枝(小浜市)、永富(3方郡)、藤井・田井(若狭町)、今重(不詳)の6保・153町4段余、このほか山門(延暦寺)沙汰136町2段、園城寺(近江3井寺)沙汰83町3段、京都神護寺領西津庄(小浜市)17町9段、得宗領田井浦(若狭町)、津々見保(若狭町)41町4段などがあった。
惣田数帳には、元亨(1321~24)頃の所領関係が朱筆で注記されており、鎌倉最末期の所領の様子がわかる。この期の守護領は、国衙領・荘園領を合わせると50ヵ所・720町に及び、総田数の32パーセントを占める。守護領の分布は、遠敷郡41ヵ所、大飯郡4ヵ所、3方郡4ヵ所、不明1ヵ所で、国衙および守護所のあった遠敷郡に集中している。


中世の若狭の諸浦を理解するためには3つの側面が注意される。
1つは古代以来の塩業で、文暦2年(1235)6月14日付宮河保内黒崎山預浦注進状案(秦文書)に「1所ヲ 伽礼引山 汲部浦則時預 山手塩3斗」と書上げるごとく、年貢の中心は山手塩であった。塩業は近世中期以降、瀬戸内海塩の進出まで盛んであった。
2は漁業で、古代以来、若狭の調や中男作物に多くの海産物がみられるように、漁業へのかかわりは古い。しかし、網による漁業が発展するのは鎌倉中期からである。若狭における網は、文永10年(1273)8月1日付の某下文(秦文書)に「はまちあミの事」とあるのが初見である。その後、飛魚網・鰒網など魚名を冠した網や、大網・立網などの形状を示した網が相次いで現れ、近世までの諸網の原形がこの頃に形成されたことが知られる。ことに立網のなかには「千余人之位を入てしたて候網」(嘉元2年4月日付「多烏浦刀禰・百姓等言上状写」同文書)があり、相当大規模の網であったことがうかがえる。
3は商業活動である。文永9年2月に多烏浦(小浜市)の徳勝丸に与えられた過書船旗(同文書)には「国々津泊関々不可有其煩之状如件」と記され、また、鎌倉末期の史料と思われる文書で「志積浦廻船人等」が「只偏以廻船之業、継身命而、令勤仕御公事者也」(「3方寺内志積浦廻船人等申状案」安倍家文書)と述べているように、当時の浦の住人にとって廻船業は生業の1部であった。浦々における廻船業は、近世初頭まで盛んであったようで、慶長7年(1602)6月16日の若狭1国の船改めによれば「あきないふね、はかせ」を多くの浦に見いだすことができる(「若狭国浦々漁師船等取調帳」桑村家文書)。

南北朝・室町時代
元弘3年5月、鎌倉幕府の滅亡に伴い、若狭国に権勢を振るった得宗の勢力も姿を消す。それに代わって、国衙に山門徒の多門房が代官として入り、同年8月3日新守護布志井3郎左衛門尉の代官が、同10日には新国司洞院公賢の目代が相次いで入部。多門房との間で合戦が始まり、前地頭若狭忠兼も動きをみせる。
建武3年(1336)建武政権が崩壊したあと、足利尊氏によって同年7月足利時家が小浜に入部。これに対して、公家方の軍大将左衛門少将が、国司代若狭又太郎を率いて越前方面から進入し、一時小浜を奪取するが、時家は9月に小浜を回復する。時家のあと同3年12月に佐々木道誉、暦応元年(1338)5月桃井忠常、同9月大高重成、同2年2月斯波高経、康永元年(1342)大高重成、貞和4年(1348)山名時氏と、守護が短期間に次々と交代した。
貞和5年高師直と足利直義の対立に端を発した観応の擾乱により、直義方に付いた山名時氏は若狭に没落した。それに対し、尊氏は大飯郡本郷(おおい町)に本拠をもつ本郷貞泰に時氏の追討を命じた(本郷文書)。観応2年(1351)10月大高重成が3度守護に補任され、代官大崎8郎左衛門入道が下向。この大崎に対し、若狭の国人1揆が直義方に立ち大崎を追放、その後斯波直持・斯波氏経が若狭に入るが、文和2年(1353)、山名時氏が南朝によって守護に還補された。しかし、本郷貞泰の率いる大飯郡の国人に敗れた。翌3年には細川清氏が守護となる。康安元年(1361)細川清氏は佐々木道誉と対立し、将軍足利義詮に謀反の疑いをかけられ若狭へ下るが、新守護石橋和義に攻められ和泉堺へと落ちた。貞治2年(1363)、斯波道朝(高経)が守護となるが、同5年京を落去、そのあと一色範光が新守護となった。
応安4年(1371)若狭の国人たちは守護方と合戦に及び、5月26日遠敷郡野木山(若狭町)で大敗し、鎌倉以来若狭に根をはった国人の多くはこの戦いで姿を消した。この後一色氏の支配が軌道にのる。明徳2年(1391)範光の跡を受けて守護となった一色詮範は、将軍義満・義持を小浜へ迎え、また小浜八幡宮に鳥居を建てるなどして、支配を確固たるものとしていった。

戦国時代
永享12年(1440)1色義貫は将軍義教の疑いを受け、武田信栄に攻められ大和に滅ぶ。その功により信栄は若狭の守護となる。このあと、信賢・国信・信親・元信・元光・信豊・義統・元明と9代・120余年にわたって武田氏による若狭の支配が続く。文安3年(1446)徳政を要求する土1揆が、享徳元年(1452)には土1揆と合体した一色氏の牢人一揆が相次いで起こり、守護武田氏をおびやかした。応仁の乱にあたって武田氏は東軍に属し奮戦、その後も将軍義尚・義稙に従って近江佐々木攻めなどに参陣し戦功を挙げている。
一色時代の守護所は西津にあったが、武田氏は守護所を小浜に移し、青井山(小浜市)に城を築くとともに、麓(常高寺の寺域辺り)に館を建てた。この城は元信まで4代の居城となる。大永2年(1522)元光は城を後瀬山に移し、山下にあった日蓮宗長源寺を移し、その跡に館を設けた。
戦国期における武田氏諸将の配置は、一族の武田元度を宮川庄新保山に、武田氏の老臣内藤筑前守を西津天ヶ城(ともに小浜市)に、武藤上野介を石山(おおい町)に、逸見駿河守を高浜(高浜町)に、粟屋越中守を佐柿国吉山(美浜町)に置いた。そのほか遠敷郡では瓜生(若狭町)に松宮玄蕃、加茂(小浜市)に白井民部少輔、鳥羽谷麻生野(若狭町)に香川右衛門太夫、名田庄窪田(おおい町名田庄村)に3宅修理、小浜青井山に栖神庄司之助、宮川本保山(小浜市)に山本鹿之助、鳥羽谷持田山に新田式部、同山内に粟屋式部、熊川山(以上若狭町)に沼田勘解由、竹原丸山に内藤兵部、太良庄山に山県民部、根来明通寺山に多井良太郎、遠敷山に内藤下総、府中筑山に小嶋紀伊、名田庄田縄山に大塩長門、湯岡山(以上小浜市)に井上下総、名田庄坂本山(おおい町名田庄村)に渋谷遠江、大飯郡では岡津山に武藤彦右衛門、本郷)山(おおい町)に本郷治部少輔、和田山(高浜町)に粟屋右衛門太夫、佐分利川上山(おおい町)に1色5郎守邦、3方郡では、能登野に畑田加賀守、井崎に熊谷大膳、藤井に山県下野、岩屋に長井右近、相田山に山中左衛門太夫、気山山(若狭町)に熊川伝左衛門が配置された(若狭守護代記)。
若狭における戦国期の徳政は、文安3年(1446)を最初とする(東寺百合文書)。次いで享禄4年(1531)の徳政は、「羽賀寺年中行事」に「享禄4暦辛卯3郡百姓等依有愁訴徳政畢」とあり、また天文6年(1537)4月19日付の熊谷亀寿田地売券(西福寺文書)に「享禄年中之徳政之御法」とみえる。天文20年11月7日に発せられた「定国中徳政之事」(大音家文書、拾椎雑話)は、徳政令の本文が残る唯一のもので、徳政の内容を具体的に知ることができる。
永禄11年(1568)11月、越前朝倉氏は粟屋勝久のこもる佐柿国吉城を避けて直ちに小浜を攻め、武田元明を拉致して越前へと退いた。ここに武田氏による若狭支配は終わる。

若狭国の近世

織豊時代 元亀元年(1570)4月、織田信長は越前朝倉攻めのために京をたち若狭へ入る。逸見・内藤・香川・熊谷・山県・白井・畑田・寺田などの武田氏の旧臣は信長に属し、旧領を安堵され、若狭の支配は丹羽長秀があたった。しかし、浅井長政の謀反による信長の退却によって、若狭は1時朝倉氏の勢力下に入る。天正元年(1573)信長による浅井・朝倉攻めの後、若狭は丹羽長秀に与えられ、長秀は若狭半国を領した。残る半国は武田氏の旧臣たちが領し、彼らは「若狭衆」として長秀の指揮下に人った(信長公記)。若狭の中心である小浜は、天正元年より同13年まで長秀の領するところとなり、13年から15年まで子の長重が領した。同15年7月、長重の加賀松任への転封の跡に、豊臣氏5奉行の1人浅野長吉(長政)が若狭国を与えられ入国した。文禄2年(1593)11月、浅野氏が甲斐へ転じたあと、木下勝俊が6万2千石で若狭小浜城に入った。
大飯郡の中心で、天正9年まで逸見昌経の所領であった高浜は、昌経が無嗣であったため領知の一部が溝口秀勝に与えられた。その後同11年堀尾吉晴が城主となり、1万数千石を領した。さらに同13年6月、山内一豊が高浜を中心に1万9千800石を領することになるが、同年中に近江へ転じた。浅野長政治下にあっては、浅野久三郎が高浜に入り、文禄2年には木下俊房(利房)が2万石で高浜城主となった。三方郡の拠点である佐柿には、信長に所領安堵された粟屋勝久が天正10年まで居城するが、その後木村重茲・堀尾吉晴と領主の交代があったのち、同15年に浅野長政の領地の一部となった。

太閤検地 天正15年若狭を与えられた長政は、領内に農政の基本となる7ヶ条の法令を出した。そのうち次の2ヶ条はとくに注目されている。
 一おとな百姓として下作申付候て作あひを取候儀無用ニ候、今まて作仕候百姓直納可仕事
 一地下のおとな百姓又はしやうくわんなとに1時もひらの百姓つかはれましき事
右の原則に立って長政は、翌16年若狭1国の総検地を行った。検地は、1歩を6尺3寸4方、300歩を1段とし、さらに田畑の石盛を上中下それぞれを3段階に分け9等級とし、田は上々田1石8斗から下々田1石まで、畑は上々畑1石から下々畑2斗まで1斗刻みとした。この検地の結果、若狭の総石高は8万5千余石となった。同16年の検地後も1部で検地がなされたが、京極・酒井の両時代を通じて総検地は実施されず、この検地は近世を通じての基準高として幕末まで続いた。
京極氏と酒井氏  慶長5年、関ヶ原の戦後、木下勝俊・木下俊房は所領を奪われ、その跡に近江大津城主であった京極高次が8万5千石で小浜に入った。翌6年、高次は近江高島郡内に7千石を加増された。この年、高次は後瀬山の城を廃し、雲浜の地に水城を築き、城下小浜の町割を行った。寛永元年(1624)京極忠高は越前敦賀郡2万1千500石を加増されたが、同11年閏7月、出雲松江24万石に転封された。京極氏の所領をそのまま受継ぐ形で、老中酒井忠勝が11万3千500石で入部した。同13年には、在府料として下野国安蘇・都賀両郡のうちに1万石を加増された。酒井氏は忠勝ののち、忠直・忠隆・忠囿・忠音・忠存・忠用・忠与・忠貫・忠進・忠順・忠義・忠氏・忠禄(忠義再封)と14代、238年にわたって若狭を領した。
寛文元年(1661)に下野国安蘇郡の領知が安房国平郡内に移された。同8年6月、忠直の甥忠国に敦賀郡5千480石余と安房国平郡4千517石余、計1万石を分知し、さらに天和2年(1682)9月、忠直の遺志によって、敦賀・高島両郡の地1万石を忠稠に、新田3千石を忠堤に分知し、小浜藩領は10万3千500石となった。忠堤に分知された3千石は、実際の新田高ではなく、敦賀郡内の3千石をもって代え、本高の減少を敦賀郡市ノ野新田と3方郡の新田村および若狭の1部への新高割付とによって捻出した。元禄11年(1698)11月、下野都賀郡の領知を越前国南条・今立両郡の内に移された。享保12年(1727)66月には、忠音が大坂城代となったため、南条・今立両郡の領知は摂津国有馬郡内に移されるが、同14年旧領に復した。安政5年(1858)6月京都所司代となった忠義は、役料2万石を与えられ、幕府の公武融和政策のなかで和宮の降嫁に奔走した功により、文久2年(1862)役料2万石のうち1万石を加増された。しかし、同年6月所司代を免じられ、先の加増1万石は減封された。

石高と郡 若狭国の石高は、「若狭守護代記」に天文22年(1553)の高として8万5千310石をあげているが疑わしい。「若狭郡県志」が記す天正16年の高8万5千90石は、おそらく浅野長政の検地結果によるものであろう。この数字は、慶長3年検地目録(大日本租税志)にあげる8万5千石とも、正保郷帳の高8万5千99石ともほぼ一致する。酒井忠勝は、寛永12年2月18日の国許年寄に宛てた書下(「空印様御書下」所収)で「知行所当暮之取反別ニ取を付可申候間、検地之儀申遣し候ヘハ、国中地面つまり候ゆへ、いにしへより百姓共検地を望候間、検地仕候者、地面へり可申候由、今得其意候」と述べているように、いったん一国総検を策するが、結局実行には至らなかった。若狭国の石高は、元禄13年の郷帳では8万8千281石、天保5年(1834)の郷帳では9万1千18石と推移するが、元禄期までの3千石余の増石は、寛文2年の地震とその後の新田開発による新田1千238石余と、忠垠への分知の際に各村に加えられた高とによるものであり、若狭における石高は、近世初頭以降大きい変化はなかった。
若狭の郡は、正式には中世・近世を通じて、遠敷・三方・大飯の3郡であるが、戦国期の文書(年未詳10月10日付「国中惣百姓触状」大音家文書)に「にしかた、中郡、北方郡」の私称がみられる。「にしかた」は大飯郡、「中郡」は遠敷郡、「北方郡」は三方郡である。中郡の私称は、大永4年(1524)8月26日付の武田元光加判光経奉下知状(神宮寺文書)に「若州中郡鳥羽庄内買得之田地事」とあるのを初見とする。近世に入ると中郡は2分され、上中郡・下中郡と称された。これらの史料上の初見は明確にしえないが、酒井忠勝が入国した寛永11年以降、若狭は4郡として支配されており、その時には分割されていたことは確実である。
元禄13年の郷帳によれば、若狭の惣高は8万8千281石余・255ヵ村からなる。三方郡59ヵ村・2万5千280石余、上中郡39ヵ村・2万1千302石余、下中郡83ヵ村・2万1千728石余、大飯郡74ヵ村・1万9千970石余である。1千石を超える村はわずか10ヵ村にすぎず、300石未満の村が137ヵ村と過半を占め、うち60ヵ村が100石以下であり、小村の多いのが目立つ。

支配と貢租 藩主のもとに城代・年寄・用人が置かれ、藩中枢部を構成していた。町方の支配は、小浜および敦賀に2名ずつの町奉行が置かれるとともに、和田・熊川・佐柿に奉行が置かれた。在方は、各郡1名の郡奉行と2名の代官によって支配された。
酒井氏は入国とともに家臣の知行形態を地方知行から俸禄制へと移行させ、行政裁判権・年貢収納権を藩庁の手に集中させた。小浜藩の徴租法は検見取を基本とし、中期以降、土免制を検見取に並行させている。年貢免定は藩庁で作成され、領内全村にいっせいに出された。年貢収納は各郡2名の代官によって行われ、年貢皆済目録は小物成の請取とともに代官から出されたが、中期以降は年貢通が皆済目録に代わっている。収納された年貢米は各郡の蔵に収められ、家臣への物成米として支出されるほかは大半が大津に送られ換金された。
在方における諸役銀は、浦方では船の櫂役銀・上ケ鯖銀があるが、そのほかの諸役・諸懸は小物成銀に統1されていった。城下町小浜では上り荷に課せられた沓代銀・室役銀・白土運上・茶仲銀・桶屋運上米、鍛冶・大工・木挽の国役などが、敦賀では夫米・鱈代・肴役・睦月役・鳥役・紙役・油役・室役・馬借役・鉄役・茶仲銀・駄別銀など種々の負担があった。なかでも沓代・駄別銀・茶仲銀などは商品流通への課税であり、またその額も多く、藩財政にとって重要なものであった。

産業・物産 中世以降発展をとげた若狭の漁業は近世に入っても盛んで、とくに若狭鯖・鼻折小鯛・若狭鰈は著名である。このほか多くの海の幸が上方へと送られていった。近世小浜の第1の産業は桐油の生産であった。
若狭筆は、「兼見卿記」天正12年正月16日条に「若州衆筆一段上手也」とあるように、中世後期には都でも著名なものとなっており、寛永17年の「小浜町家職分ケ」(拾椎雑話)には筆屋20人を記す。「毛吹草」も筆をあげるとともに「諸国へ多商」と注記している。筆とともに硯石の特産として宮川石があった。現在この地方の特産品である若狭塗・めのう細工は、それぞれ西津村・遠敷村を中心に近世中期から発展したものである。

一揆と打毀 寛永19年に起こった「おり米騒動」は、大津高値をもって城下町人に貸付の名目で売付けられた「おり米」の値段引下げを要求したもので、結果「おり米」値段の大津中値への引下げに成功したが、箔屋三郎左衛門以下3名が棟梁として捕らえられ、湯岡の刑場で磔刑に処せられた。
松木長操を主導者とする一揆は惣百姓一揆の典型として著名であるが、その実態に不明な点が多い。この一揆は領民の総代として上中郡新道村の庄屋松木長操らが、大豆年貢の引下げを要求して起こしたもので、承応元年(1652)長操は強訴の罪で磔刑に処せられた。
天明3年(1783)年貢銀納願に端を発した一揆は、根来谷・松永・遠敷谷の村々を中心に起こり、名田庄谷の村々が加わったもので、拝借米を要求して城下小浜の町家を打毀した。天保4年米価引下げを要求する名田庄谷の百姓を中心とする一揆が、城下へ入って数軒の米屋を打毀し、これに池河内村・根来村の百姓、小松原村の漁師、佐分利の百姓が加わり、一揆勢は1千とも2千ともいわれた。この一揆の結果藩は蔵米1千俵を放出し、米値段を下げ、世話方の町人20名を決めて施粥を行うとともに米の津留を実施した。

幕末 日本沿岸に出没し始めた外国船に対する沿岸警固の幕命を受け、小浜藩も沿岸警備体制を整え、領内諸所に台場を築造し、大砲を配備した。安政5年6月京都所司代に再任された酒井忠義は、尊王攘夷論を唱えたもと小浜藩士梅田雲浜を、安政大獄の第1の犠牲者として京都で捕縛し、公武融和政策を推進するが、文久2年所司代を罷免され、次いで蟄居を命じられた。
元治元年(1864)在京した徳川慶喜に訴えようと、中山道を通り北美濃から敦賀に入った水戸浪士の一隊に対し、幕府は加賀藩をはじめ十数藩に討伐を命じ、小浜藩もこれに加わった。同年12月浪士隊は降り翌年350人余が敦賀で斬罪された。
慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦では小浜藩は旧幕軍に属し、薩摩・土佐の軍隊と戦って敗れ、敗走途中、山陰道鎮撫総督に降った。この報に接した前藩主忠義は岩倉具視を通じて朝廷に陳謝した。この陳謝は聴許され、藩主忠氏は関東鎮撫軍の北陸道鎮撫使先鋒として従軍、さらに同年6月には仁和寺宮の下に奥羽地方へと従軍した。忠氏隠居のあとを前藩主忠義が忠禄と改名し藩主となり、明治2年(1869)版籍を奉還し、小浜藩知事となった。





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
その他たくさん



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