丹後の地名 若狭版

若狭

山上(やまがみ)
福井県三方郡美浜町山上


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福井県三方郡美浜町山上

福井県三方郡山東村山上

山上の概要




《山上の概要》
坂尻の東側、南北に長い集落で、今は山ぎわに舞鶴若狭道の若狭美浜インターがある。中央を太田川が北流し、その流域に集落が水田に囲まれて立地する。織田湾に面した旧国道27号沿いの松原は、もともと防風林として植林されたものであるが、近年その景観により海水浴場としても利用されている。
西方の通称城山には国吉城があり、その東麓にあたる。永禄6年(1563)越前朝倉氏が侵入した際、城主粟屋越中守勝久のもとに近在の土豪が籠城し、古戦場となったところで、山の斜面から城攻めに用いられた石仏や刀剣が出土する。通称古屋と呼ばれる小地名は、合戦の際矢が雨のように降ったからとされている。
近世の山上村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」に、戸数72 ・ 人口327。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治22年山東村の大字となる。
近代の山上は、明治22年~現在の大字名。はじめ山東村、昭和29年からは美浜町の大字。明治24年の幅員は東西3町余・南北2町、戸数82、人口は男187 ・ 女190。
岳山は若狭珪石鉱山が珪石を発掘して以来珪石山と通称される。


《山上の人口・世帯数》 251・85


《山上の主な社寺など》

山上神社

山上神社は、主神に菅原道真を祀り、天神社ともいった。境内社として稲荷社・山ノ神社・八幡神社・金毘羅社・愛宕社がある。文化9年(1812)から伝わるとされる天神講は、東・東中・西中・西の4組の当人組織によつて営まれ、天神田・八幡田の神田を所有するそうである。
『美浜町誌』
山上神社
鎮座地…山上六九-七。現祭神…菅原道真・大物主命・保食神・大山祇命・応神天皇。例祭日…九月二五日。旧社格…無格杜。氏子数…八十戸(平成五年)。明治四二年二月五日、境内社の稲荷社、同字の山ノ神社・八幡神社、同境内社の金毘羅社を合祀した。例祭には氏子全戸が参加し、共同体意識を高めるという旧来よりの産土神への信仰を堅く保持している。


『三方郡誌』
天満社。山上に鎮座す。産土神なり。


郷社織田神社(佐田)の例祭には、「ソッソ神事」を奉仕する百姓分二十三人衆と呼ばれる宮座がある。伝承によれば、ソッソ神事は延暦18年(延暦799)に宮代の二十八所宮の神輿を盗みだした様子を再現したもので、3人の当番が大手をふって能舞堂を3回回り、正面で居ずまいをただして、うやうやしく扇を開き、順番に「ソー」「ソニー」「ソー」とおもしろおかしく大声でとなえる。佐柿との境界にある平坂はその故事にちなむ地名とされ、神輿を運んだ道筋には、祭礼の前日に御幣が立てられる。ようやく村内にたどりつき安心したというので、アンドの道と呼ばれる場所もあるそう。


曹洞宗医王山満願寺

「稚狭考」に「禅宗満願寺 同松雲寺」とあるが、松雲寺は廃寺となっている。満願寺はもとは真言宗、永禄年間(1558~70)に朝倉氏の兵火にあい焼失、寛永18年(1641)に再興して曹洞宗に改宗し、芳春寺末となったという。

『三方郡誌』
満願寺。曹洞宗。山上に在り。もとは眞言宗なりしなるべし。寛永十八年、再興して曹洞宗となす。永祿年間、朝倉氏の兵燹にかゝれり。今は芳春寺末なり。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


山上の主な歴史記録

『新わかさ探訪』
若狭珪石鉱山 「若狭のふれあい 第130号掲載」(平成14年2月10日発行) 
東洋有数の耐火煉瓦原料鉱山
 日本近代化の支えに美浜町の御岳山(おたけさん標高548m)では、昭和期の約60年間にわたって『青白珪石』の採掘が行われました。珪石は耐火煉瓦の原料として、主に製鋼用平炉の築造に用いられ、露天掘りの炉材用珪石鉱山は、美浜が国内唯一であり、青白珪石の採掘量は当時東洋一と言われました。今も山肌に採石した崖跡が残っています。
 平炉は、銑鉄・屑鉄などから鋼を製造する反射型の炉で、明治以降、1960年代まで鋼製造の主役でした。わが国の近代化は、官営八幡製鉄所(明治34年に北九州で操業開始)を主導として鉄鋼が国内生産されるようになったことで、造船、車両、諸機械の製造業が育ち、急速に世界的な水準へと進展しました。美浜の珪石鉱山は、それを側面から支えてきたといえます。
 御岳山の珪石採掘は、大正15年(昭和元年)、故加賀由信二氏(明治32年生まれ、兵庫県氷上郡柏原町出身)によって始められました。そのころ同氏の出身地丹波には大小多数の珪石鉱山がありましたが、いずれも『赤白珪石』で、地中にトンネルを掘る坑内採掘でした。大正末期、有望な珪石鉱床を求めて同氏が各地を踏査するうち、美浜で大規模な鉱帯を発見し、採石を開始。昭和10年には三井鉱山(現在の三井金属鉱業)と加賀山氏とで「若狭珪石組合」を設立、共同経営を始めました。(後に「若狭珪石株式会社」に組織変更)
 加賀山氏の親戚で、長年にわたり同鉱山に関わってこられた岡野茂雄さん(敦賀市在住)にお話を伺いました。
 「当初、耐火煉瓦には赤白珪石が使われていましたが、美浜からメーカーへ青白珪石を持ち込んだのをきっかけに、こちらのほうが、より良質の耐火煉瓦ができることがわかりました。若狭珪石鉱山は、国家基幹産業を支える事業として戦前、戦中、戦後復興期とも積雪間を除いて操業を続けました。最盛期には約150人が従事して、年間約2万5千トンを産出しています。
 当初は馬車で、山上地区を通って今市浜へ運び、船で耐火煉瓦製造メーカーのある北九州へ海上輸送。浜での積み込みには、艀の扱いに慣れている美浜町菅浜の人たちが当たりました。昭和13年には、現在の東美浜駅付近に小浜線と並行して引込線(若狭珪石の専用線)を敷設、鉄道輸送に切り替え、その後、販路も大阪、兵庫、岡山などへと拡大しました。
 当時、東美浜駅はなく、国鉄に引込線と併せて駅の設置を願い出たところ、逆に地元から『若い者が敦賀に遊びに出て、まじめに働かなくなる』と反対の声があがり、駅は実現しませんでした(同駅開業は昭和36年)。引込線ができる前には、小浜線に貨車を止めて積み込んだこともあります。山腹の採掘場から引込線のところまでは約1・5㎞の索道(ロープウェー)を設けて珪石を下ろし、最高で貨車15両を連ね、手作業で積み込みました」
 この引込線は、昭和55年に廃止され、以後トラック輸送に。そして、操業開始から62年目の昭和62年に閉山。30年代以降、製鋼メーカーが平炉から、より優れた性能を持つ『転炉』へと転換を図り、珪石の需要が減少したことなどがその理由です。閉山時には、採掘跡に各種苗木を植栽、ヘリコプターで植物の種子を散布して、原状回復が図られました。鉱山跡は自然に還りつつあります。御岳山に残る崖跡は、そこに近代日本の発展を支えた珪石鉱山が存在したことを今日に伝えています。


半導体基板のシリコンウエーハの原料で、今では無くてはならない鉱石。将来また復活するかも…

山上の伝説






山上の小字一覧


山上  六反畑 屋敷上 中道 塩浜 平張 平張浜 砂山 山崎 奥山崎 奥毛ノ鼻 湯ケ谷 中毛ノ鼻 堂良山 口毛ノ鼻 出口 河原 塩入 川尻 八反田 大塩入 岩ケ嵜 岩出道 泥田 広手 西蟹原 中河原 小流 婦希(ケ) 深町 脇深町 中野山 窪落 深町道 向山 東庄 合ノ木 堀野 堀ノ下 西堀 宿り道 坂ノ尻 蠑蜂谷 腰越 西山 灰田 土り立 西ケ市 西川 西庄 中西 二又 須摩堰 夏焼 向大道 中東 坊庄 清林 由光 古屋 正り橋 音井根 藤ノ木 峯広 長田 雷ノ尾 平坂 堂ケ谷 桃ノ木谷 見ノ腰 城山 舟ケ谷 早苅 萩ケ谷 炭釜 堀田 東田尾 岩無山 樋ノ口 山ノ神 秋葉山 ムクロジ谷 地獄谷 牛岩 柴原 上ノ谷 野松口 中小谷 野松 座敷岩 狼谷 長尾 奥毛ノ鼻 毛ノ鼻 深町 古屋 赤谷 野松 狼谷 葦谷 黒壁 上ノ谷 グミノ木 田ノ尾 城山 西山 岩手

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『美浜町誌』(各巻)
その他たくさん



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