丹後の地名 若狭版

若狭

相生(あいおい)
福井県小浜市相生


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福井県小浜市相生

福井県遠敷郡口名田村相生








相生の概要




《相生の概要》
中井の南、北流する南川の両岸に開けた地域。右岸の東相生と左岸の西相生からなり、西相生は南川の支流窪谷川に沿って山間部へ開けている。
相生村は、明治12~22年の村。桂木村・窪谷村が合併して成立した。はじめ滋賀県、明治14年からは福井県に所属。同22年口名田村の大字となる。
相生は、明治22年~現在の大字名。はじめ口名田村、昭和26年からは小浜市の大字。東相生・西相生の2行政区に分かれる。明治24年の幅員は東西20町余・南北10町、戸数124、人口は男295 ・ 女300、学校1、小船6。西相生は南川に架かる丸木橋が村への唯一の入口であったが、明治23年山腹に道路が開削され交通の便が開けた。

旧・桂木村は、今の東相生で、山裾からの扇状台地が河岸まで延び、かなり広い田地となっている。中世には名田庄に属し、建保3年(1215)頃には須恵野村の名として存在した。街道沿いに桂の巨木があったので桂木になったと伝えられる。村内は白屋・引尾・中野・鳥迫などの小名に分かれていた。「雲浜鑑」によれば家数65・人数345、寺院は曹洞宗興禅寺・天桂寺・泉涌寺、一向宗了源寺、神社は若宮三所大明神。明治4年窪谷村と合し相生村となった。
旧・窪谷村は、今の西相生で、南川に合流する窪谷川の両岸に集落がある。中世は名田庄に属し、建保3年頃には須恵野村の一名として存在した。「雲浜鑑」によれば家数78・人数421、寺院は曹洞宗隣慶院・香梅庵の2か寺、神社は西神宮。村内は保木条・東条・五明条・早条などの小村に分かれていた。明治4年桂木村と合併して相生村となった。


《相生の人口・世帯数》 384・138


《相生の主な社寺など》

桂の巨木と公孫樹の巨木

国道162号の「桂」バス停のすぐ山側に2本の立派な巨木がある。下側がイチョウ、奥側がカツラである。東相生は昔は桂木村といったが、この木に因むものと思われる。相生というのもあるいはこれらの樹によるものか。

『口名田郷土誌』
桂の公孫樹(いちよう)と桂の木 (東相生区)
 国道一六二号線桂バス停の上に二本の大木がある。一本は公孫樹で、もう一本は桂の木である。公孫樹は目通りの太さ四・〇メートル、樹高約二十五メートル。桂の木は目通りの太さ四・二メートル、樹高も公孫樹と同じであったが近年の台風で主幹が十二メートル付近で折れてしまった。江戸時代初期より桂木村と呼ばれてきたこの村の地名は「桂ノ木ノ古木アリ。コレニヨリテ、村ノ名ニ負フ」(伴信友「若狭国志注」)と言われるように、桂の木が地名の起りであろう。このことから推測して、桂の木の樹齢は五百年くらいと思われ、公孫樹もそれに近いであろう。
 「口名田村誌」はこの二本の大木について「公孫樹と桂木と相並び、天を突く。夏は蔚然として日を覆ひ、秋は黄葉して黄金を着けたるが如し。観るもの賞嘆せざるはなし」と記している。特に秋の黄葉はみごとで、通行する人の注目を引いている。



城ケ谷窯跡
平安期の須恵窯趾。古くは須恵野といったくらいだから、さがせばあちこちにあるのではなかろうか。
『口名田郷土誌』
城ケ谷遺跡
 同遺跡は相生第七十四号城ヶ谷二番地にある平安時代の須恵器窯跡で、一九六八年に同志社大学によって部分的に学術調査されたが、現在は元に埋め戻され保存されている。窯本体は、斜面に直角に堀込んで作られた所謂「穴窯」であり、天井部分が地上にあらわれる半地下式の構造であったといわれる。窯の全長は十メートル前後と想定され、窯幅は焼成室中央で七十五センチと想定されている。窯周辺で焼損じた土器のごみ捨て場なる「灰原」は検出されていないが、杯(茶碗)、杯蓋(茶碗のフタ)皿などの小型の須恵器が検出されており、操業年代は十世紀~十一世紀と想定されている。
 調査された窯跡は一基だけでいくつかの窯跡からなる須恵器窯跡群を形成する可能性は少なく、単独窯の操業が想定され、ある短い時期での操業である可能性が高いといわれている。
しかし、この調査の契機となった上窪六兵衛氏が表採された糸切り底の須恵器は、この調査では検出されておらず、近年の分布調査において同志社大学調査のものと同年代の須恵器と窯壁片を少し表採していることから、市教育委員会では今後の詳細な分布調査によって新たな窯跡が発見される可能性は十分あると想定している。
 小浜市で確認されている須恵器窯跡は窪谷の城ヶ谷窯跡と口旧縄大左近窯跡のみで、若狭における古代の須恵器生産を考える上で重要な遺跡と言える。また、古来「須恵野」と呼ばれた口名田地区において、他にも須恵器窯跡が存在する可能性はあるとみている。


焼き物の里(西相生)
 窪谷川の出口の南側山麓一帯には、平安時代の初めごろ焼かれたと思われる須恵器の破片がたくさん発見されています。先代上窪六兵衛さんの案内で現場へ行ってみると、竹藪のところどころに破片が散乱していました。昭和三十九年八月、県の窯業史編纂の調査で、城ヶ谷で登り窯跡を一カ所発見し、他にもあるかもしれないと探しましたが発見できませんでした。
 昭和四十三年の夏、同志社大学によって部分的に発掘調査が実施されましたが、一週間という限られた調査で、窯の一部を検出したにとどまり、そのあと埋めもどされて保存されました。
 須恵器は西暦五五○年ころ朝鮮半島から渡来したもので、新羅焼きとも呼ばれています。この地で須恵器が焼かれたので、桂、窪谷、五十谷、飛川をあわせて古くは須恵野と呼ばれました。須恵器は一般的に千四百度位の高温で焼かれた硬質の土器で、古墳の副葬品として多く発見されています。現在、口田縄の大光寺の近くの山麓にも須恵器の破片が出土するところがあり大左近遺跡と呼ばれています。
 窪谷周辺では、その後、この土を使って瓦が作られるようになりました。



若宮神社

古い須恵野村の総氏神であった。国道162号から見える。
『口名田郷土誌』
若宮神社
 祭神は応神天皇、神功皇后、毘賣大神。
 例祭は旧暦九月八日、現在は十月八日。
 境内社として蛭子社と天満宮を祀る。
 古くは旧飛川村、五十谷村、窪谷村、桂木村の産土神を祀った神社で、明治四年に郷社の社格を与えられたが、戦後、社格は廃止された。
 古い記録としては、若州管内社寺由緒記に「末野四ヶ村氏神 若宮三所大明神」とあり、延文三年(一三五八)の造営で、本願人は時の地頭野瀬殿、夜久殿、花田殿、千力殿であったと書かれている。
 また、現在残っている元文四年(一七三九)の棟札には、「若宮三所大明神は、延文三年八月二十八日、願主飛川、五十谷、窪谷、桂木四ケ村の地頭野瀬、夜久、花田、千力殿が造営したもので、社地が田の中にあるので田中大明神といわれている。中央には延命地蔵尊、左は八幡、右は春日を祀る」と書かれている。この棟札は興禅寺住職九世桂堂高月が書いたもので、当時は神仏習合でもあり、興禅寺が別当職をつとめていたのであろう。
 中央に祀られていたという延命地蔵尊は、明治初年の神仏分離令によって神社からとり除かれたと思われるが、その存在はわからない。
 しかし、口名田村誌(大正三年刊)や福井県神社誌(昭和三年刊)は創立の年を承久二年(一二二〇)城州(山城の国)男山石清水八幡宮を勧請したものとしている。
 このことから、明治以降石清水八幡宮の祭神である応神天皇と神功皇后や比売大神が当神社の祭神とされたのであろう。
 若宮神社には明治三十九年にかかれた古い絵図が残っている(上図参照)。それによると神殿は鞘堂に覆われ、その大きさは間口四間半、奥行二間となっていて、脇殿には風の神と産の神が祀られている。
 しかし、この社殿も古くなり、大正十五年には現在のものに建て替えられた。そのときの造営金寄付帳の「緒言」は、造営の趣旨を次のように述べている。
 掛け幕もかしこき我が若宮神社は、その遠き由来をたずぬるに、承久二年男山八幡宮を勧請し奉りて現在地に鎮座し、宮柱を太くし建てて諸人崇敬の心浅からざりし。しかるに年処を経るの久しく、風雨に蝕せられ、宮居は傾き見る影もなき姿にて、心ある人だれか涙なからんや。殊に目下の思想上移転造営の説随所に起こり、ややもすればとこしえに我が区を離れんとするの悲境に泣む。
 幸いに縦説横説ようやく現地に於いて造営の機に達せり。我ら宮元の氏子たる者、この千載一遇の時機に際して、同心協力して造営に当たるは、敬神至誠の発露にして、且つは一面当区の死活問題なり。仰ぎ願くば神恩に光被する氏子たるもの奮て浄財を喜捨して、意義ある造営を遂げ、とこしえに神恩の広大を仰がんことを謹みかしこみて祈る。        若宮神社氏子総代
 こうして四区の氏子より集められた浄財は約六千円、ほかに境内の底土や積立金など合わせて一万余円の資金によって、本殿、拝殿、手洗所、社務所の改築が行われた。その時の氏子総代は、辻与太夫(下中井)、吉岡小兵衛(上中井)、上窪力吉(西相生)、上仲義韶(東相生)であった。また、この年に鳥居も若州製糸株式会社等の寄付によって石造に建て替えられている。
 例祭の当日は、近在より多くの参拝者があり、大太鼓を奉納することもあって、賑やかであった。
 昭和五十三年、西相生区は区内の六所神社の氏子となり、現在は若宮神社に属していない。また、平成四年には社務所を改築。建設費は一、一八七万円で、その費用は東相生、上中井、下中井の三区で三年間の積立金により拠出し、不足分は篤志寄付によってまかなわれた。建設委員長 辻与太夫、副委員長 清水勲・藤田澄の各氏であった。


『遠敷郡誌』
若宮神社 口名田村東相生字田中にあり、元若宮三所大明神と稱す、祭神は應神天皇・神功皇后・毘売大神にして、承久二年九月勸請すと傳ふ、元飛川・五十谷・窪谷・桂木各村の産土神なり、境内神社に蛭子宮・天満宮あり、共に祭神不詳。


六所神社

西相生の奥のほう、集落の中に鎮座。石段の上に見える屋根は観音堂、その奥に六所神社があるようだが、道狭くて車が駐められず、ここから写しただけである。
どちらも由緒深げで、何か知られていない深い歴史が秘められていそうである。
『口名田郷土誌』
六所神社
 「遠敷郡誌」によれば村社にして字宮ヶ谷にあり、祭神不詳、永禄五年(一五六二)建立という。境内に媛宮神社、西宮神社が合祀され、外に瘡神社があるも共に祭神不詳となっている。
 しかし、福井県神社誌(平成六年福井県神社庁発行)によれば、
祭  神  六所大神
例  祭  十月八日
境内地   一、五四七・七㎡  旧社格 村社
主要建物  本殿 木造 銅板葺 流造
      拝殿 木造 銅板 葺平屋造
境内神社  西宮神社 瘡神社 姫宮神社
氏  子  五三戸   宮司 木崎仙太郎
 社伝によれば永禄五年(一五六二年)に創立、明治初年の神社調べの節、神仏混淆であったが仏像仏具等一切を他に移し、村社(戦後は社格は廃止されている)に列し、相生区の産土神として崇められており、毎年十月八日が例祭となっていて、五穀豊穣と厄年の厄祓い、区民の健康・安全が祈願されている。
 昔は、春の四月二十三日に「かぶら祭」が、秋の十月二十八日に例祭がそれぞれ祈願されていたが、昭和三十四年度の区長会で生活改善の協議がなされ、両相生、両中井、滝谷の五区は十月八日に統一されて今日に至っている。
 若狭郡県誌によると、窪谷は桂の若宮三所明神の氏子として祭礼に参加していたことが記されている。
 明治二十九年十一月四日に調整された六所神社の平面位置図は上記写真のとおり。


『遠敷郡誌』
六所神社 村社にして同村西相生字宮ヶ谷にあり、祭神不詳、永禄五年建立と謂ふ、境内神社に媛宮神社西宮神社合祀社と瘡神社あり、共に祭紳不詳なり。.


観音堂は、元々は牛王山勝願寺といい、その遺仏の馬頭観音を祀っている。
『口名田郷土誌』
勝願寺
若州管内社寺由緒記によれば、観音堂寺号は勝願寺というが開基本願人は不詳と記されている。現在の観音堂は江戸時代の中期に再建されたものであるが、その当時書かれた木札に、
 (表) 南閻浮列若狭之国遠敷郡名田庄窪谷村之観音堂者垣武天皇御代地頭
     高橋太善大夫御建立各牛王山勝願寺ト本尊馬頭観音慈覚大師之作也
     奉当前安穏武運長久祈者也
     于時大同三丙子歳(八〇八)九月八日遠敷郡窪谷村 秦、安部、小松、藤原
 (裏) 奉観音堂再建
     享保十四巳酉年閏九月二十八日改記願土
     隣慶院天室 庄屋 久兵衛 組頭 五郎兵衛  惣村中
 以上年代については定かでないが、六所神社境内にあって今から約四百年前に信長の焼き討ちに合い、寺は焼失したが観音様のご本尊は持出して残ったものである。

『口名田郷土誌』
馬頭観世音について
 馬頭観世音が我国の人々に知られる様になったのは奈良時代の半ばで、平安時代に入っても一般信仰の対象とはならなかった。
 飢えた馬が他念なく草を食べるように、六道に輪廻するあらゆる生物の苦しみや煩悩を食い尽くす性格が言い表されている。平安半ば過ぎて急速に数を増やしている。天台六観音信仰が広まるとほぼ重なって一般にも広まっていった。六観音のうち馬頭観世音は畜生道の守護に配され、鎌倉時代から室町時代へとその数を増やし、六観音信仰の中で、代表的な観音の一尊である独尊の信仰となって畜生道抜苦の菩薩として、馬そのものと結びついて東日本に厚く分布の傾向をみる。しかし、若狭地方の馬頭観音はそれとは別の意味をもっているようである。
 若狭地方は全国の馬頭観音の三分一を保有し、松尾寺を入れて十二体あり、それ等が三面八臂の座像であり馬居寺を除けばその大半が鎌倉時代から江戸時代に造られている。
 馬頭観世音菩薩の御詠歌   ありがたや  導きたまい  観世音
                      清きふじょうの  人はきらわず
 当区では西国三十三札所の御詠歌の前に必ず奉詠することになっている。また、西国三十三札所の二十九番松尾寺への信仰が今も深く、個人の年忌が当たる年は必ずお参りしている。
 古老からは松尾寺と中山寺、窪谷の観音様は一つの木から造られていると聞いている。
 現在の六所神社境内に牛王山勝願寺が在って、今から約四〇〇年前に信長の焼き討ちに合い、寺は消失しその時御本尊の観音様だけを持ち出して残ったと思われる。
 本堂は当時萱葺で再建されたが、昭和八年に瓦葺きに葺替えられ現在にいたる。そして、現在の光背と台座は本堂再建と同時代の江戸中期に造られたものらしい。
 ご本尊は桧の寄せ木造りで、頭に白馬を乗せた座像で高さ五十センチ余り、別に台座と光背があり、全高さ一メートル二十七センチ余りとなる。
 長い年月を経て虫喰い色褪せて、また、接着が外れたたりしていたため、昭和五十九年に修復委員会(委員長岡正実)を設置して修復にあたった。
 昭和五十九年十一月十日に観音堂で約一年間のお別れ式を行い、若狭歴史民族資料館で燻蒸消毒し、同年十二月九日に京佛師荒木敬運氏の工房へ入り、翌年五月下旬に修復が完了する。六月二日に資料館にお帰りになり、若狭の秘仏展(約二ヶ月間)に参画の後、八月十七日にお帰りになって、九月八日に修復記念の特別開帳法要を盛大に行った。
 これを契機に防犯設備や大災保険を掛けるが、平成九年八月十日に観音様が盗難に遭う。平成十年四月に対策委員会を設置して検討に入る。同年十月二十九日資料館の芝田氏より観音様の所在判明との連絡を受け、小浜警察署で検討の結果、翌三十日に確認のため署員二名・芝田氏・岡氏・荒木敬運氏らが京都に向かい、窪谷の観音様と確認した。持ち主との話合いの結果、同氏の理解もあって所有権を放棄され、当日小浜市へお帰りになり当分の間、小浜警察署で保管していただいていた。
 対策委員会で検討の結果、安置設備が出来るまで若狭歴史民族資料館で、一時保管をしていただいた。
 対策委員会や総会等で安全な保管法について協議を重ねた結果、最終的にお厨子収納部を中心に木材を使って堅固な構造にし、更に、完全な防犯体制を採ることを決定した。
 平成十一年四月の予算総会でお厨子収納部の補強工事費約五十万円、防犯機器取付費約三十万円、毎月約一万五千円の維持費が承認された。補強工事は七月下旬に着工し八月中旬完成(業者は若狭建設工業㈱)、防犯工事は八月二十三日着工し下旬に完成した(業者は㈱アイビックス)。警備保障は㈱アイビックスと契約して観音様にお帰りいただく準備は完了した。
 九月五目、上窪道雄区長以下二名が資料館へ観音様を迎えに行き、改装されたお厨子に奉安し、飯盛寺杉本住職らによって開眼法要が営まれた。観音様が二年ぶりに無事にお帰りになって、区民は喜ぶと同時に今まで以上に信仰を深めることを誓った一日であった。当日は梅花流御詠歌や六斉念仏も奉納され、盛大なご祈祷法要を行うことができた。(資料提供・岡正実氏)

《馬頭観世音様のご祈祷法要について》
 かっては毎年九月十一日(二百二十日)に行われていたが、現在では九月十一日に近い前の日曜日に行われている。
 ご本尊は秘仏で本開帳は三十三年に一度であり、中開帳は十七年目に行われる。それ以外は開帳されない。台風期における区内安全と五穀豊穣を願い、厄年の人は厄除けを祈願し、区民の信仰は非常に厚い。
 特に開帳時には、区挙げて多彩なイベントを計画し盛大に行われる。記憶に残るイベントとして、昭和二十三年には品川白煉瓦㈱の責任者安積治郎氏の三味線と演出により青年団を中心に素人歌舞伎が奉納された。
 また、昭和六十年には観音様の大修復特別開帳法要を始め、平成六年中開帳にはイベントの一つとして大峰山蔵王堂の大僧正を招き、大護摩法要も営まれた。法要は別当職を依頼している飯盛寺住職が行い、大般若経六百巻が転読される。今は交通の利便も良く何の苦労もないが、かっては本堂裏の山(通称萱尾=がやお)越えで飯盛寺住職を迎えに行き、大般若経六百巻を三人が分けて背負って帰ったと云われている。そして、その道を前もって、村人夫で通り易すくするなどの先人たちの苦労がうかがえる。(岡正実氏提供の資料)



曹洞宗瑞龍山興禅寺

国道162号ぶちの若宮神社を見下ろす位置にある。あるいは若宮神社の神宮寺だったものか、その後五十谷城主寺井氏の菩提寺となったという。
『口名田郷土誌』
興禅寺   山名は瑞龍山  曹洞宗
 興禅寺の古い記録はやはり若州管内社寺由緒記である。それによると、次のように書かれている。
     瑞龍山 興禅寺
  一 文和四壬辰年の建立。その寺は瑞龍寺と申し候。棟札に年号・寺号だけ申し伝へ候。
    百三十年後の明応五内辰年、当所の城主寺井日向守の代に瑞龍山と改め興禅寺と申し候。住持は明室和久と申し候。寺井代々の牌所にて候。以後百八十五年、以上三百二十五年か。
        延宝三年九月廿二日    興禅寺 白巌叟
 この文書は、延宝三年(一六七五)興禅寺五世白巌和尚が藩からの調査のときに提出したもので、資料としてはもっとも信頼できるものといえる。
 それによると、建立された年は文和四年(一三五五)で、最初は瑞龍寺といわれていた。ところが、百三十年後の明応五年(一四九六)に、当時の五十谷城主寺井日向守が寺井家の菩提寺とし、明室和尚を招き、山号を瑞龍、寺号を興禅寺と改めたというのである。
 その後の興禅寺の経過を知る文書としては、「興禅寺上梁文」(年号不詳)がある。この文書は享保二十年(一七三五)に大洪水があり、その時、興禅寺の裏山がくずれ、諸堂が壊れ、それが再興されたときのもので、その文書には、おおよそ次のように書かれている。
「桂木村瑞龍山興禅寺は、宝徳年中の創建で、初めは今の寺の北にあった。五十谷城主寺井氏が中野の地に寺を建て、明室和尚に請うて開山とし、瑞龍山興禅寺とした。ところが、その後の水害によって壊れたので、五世白巌和尚が今の地に寺を移し、いくばくもなく寂滅した。その後、六世天瑞和尚が庫裏、僧堂、鐘楼、総門などを建て、本尊並びに諸仏像を造って、寺を完成した。この頃には末寺は二十六ヶ寺におよんだ。七世心山和尚も傾いた堂宇を改築した。ところが、享保二十年の夏に大洪水がおこり、寺の裏山が崩れ、諸堂はことごとく倒壊した。そこで、現住が十方の檀越の力を集めてこの寺を再建した。」
 これによって、建立後の興禅寺の経過をほぼ知ることができる。
 末寺二十六ヶ寺を示すと、次の通りである。
  桂木村泉涌寺 同天桂寺 窪谷村隣慶院 同香梅庵 和多田村禅応寺 同徳雲寺 同玉峰寺 下田村長田寺 田村宝淋寺 同福壽寺 同胎蔵庵 同正光寺 同喜蔵庵 小屋村地蔵院 深谷村法泉寺 三重村宝積寺 久坂村広林庵 同宝泉庵 下村知足寺 同宝境寺 中村永昌寺 西谷村興福寺 井上村曹源寺 坂本村禅勝寺 同常莫寺 同圓明寺
 興禅寺はその後も増築や改築が加えられたと思われるが、現在残っている棟札によってその記録を拾うと、山門は寛政十一年、開山堂は明治十八年、鐘楼は大正三年にそれぞれ再建されている。
 昭和五十九年には、庫裏と本堂を焼失するという悲運にあったが、檀家の熱意により、昭和六十一年四月にはそれも再建され、現在に至っている。


『遠敷郡誌』
興禪寺 曹洞宗諦應寺末にして本尊は釋迦如来なり口名田村相生字西行に在り、寶徳年中創建し天台宗瑞龍寺と號す、明應五年四名の城主五十谷村の寺井日向守其下屋敷の地に寺を移し、諦應寺四世存察を開山として今の寺に改む。


浄土真宗本願寺派桂谷山了源寺

桂の巨木の向かい側にある。
『口名田郷土誌』
了源寺  山名は桂谷山  浄土真宗本願寺派
 了源寺の記録も若州管内社寺由緒記の記事が一番古い。それによると、「了源寺 一向宗 妙光寺来 永正八辛未年常玄と申す坊主の建立なり 了源寺 玄哲」とある。
 永正八年は一五一一年で、室町末期にあたる。
 浄土真宗寺院の多くは、その村に開かれた道場(どうじょう)に始まることが多い。了源寺も「桂木村検地帳」では「道場」と書かれているが、やがて寺号を持つようになり、妙光寺の来寺となっている。
 「御預門徒帰檀書」と名付けられた了源寺文書によると、安永九年(一七八〇)に檀家のうちより八軒の門徒が、住職に帰依できないということで離檀を申し立てるということが起こった。役所では両者からその言い分を聞いたらしい。その結果、八軒の門徒は本山の直門徒に召しあげられ、妙光寺へお預けになった。その八軒は小右衛門・清兵衛・吉左衛門・九郎右衛門・孫右衛門・助右衛門・仁右衛門・善左エ門であった。その後、住職も替わり、時が移って文化十四年(一八一七)七月三日、大風の夜に了源寺の隣家から出火があり、寺をはじめ檀家もことごとく類焼した。そのため残りの門徒も、すべて妙光寺にお預けとなった。その後、門徒の数が少ないため再建は思うようにいかなかったが、天保二年(一八三二)ようやく本堂が完成したので、すべての門徒に帰檀するよう、了源寺からの申し出があり、妙光寺もこれを了承した。こうして了源寺の門徒はもとにおさまったが、離檀中に分家した家は、そのまま妙光寺に残ることになり、現在に至っている。


『遠敷郡誌』
了源寺 真宗本願寺派にして本尊は阿彌陀佛なり、同村相生字境谷口に在り、觀應元年創立し元天台宗なり。


曹洞宗醫王山隣慶院

山号といい、薬師が本尊といい、古い来歴ある寺院と思われるが、そうした由緒は残っていないようである。
『口名田郷土誌』
隣慶院
所在地 小浜市相生四九号尾茶家六番地
 若州管内社寺由緒記によれば、隣慶院は弘治元年(一五五五)長益が建立となっている。一方、遠敷郡誌によれば本尊は薬師如来で相生村の字中村にあり、弘治三年天台宗開創、寛永九年興禅寺門鉄改宗すとある。
 興禅寺文書によると「興禅寺の末寺で醫王山隣慶院と号しご本尊は薬師如来を祀っている。開創は弘治三年(一五五七)で天台宗にて、道観という半俗之同心者住居し候處、寛永九年中之歳(一六二四)、興禅寺三世門鉄和尚。改めて禅宗と成し、始めて清僧を置き、隣慶院と号す。」と残されている。
 古老からの言い伝えによると弘治二年(一五五六)に住人長益によって建立されたが詳細は不詳、寛永九年新屋家次(隣慶院過去帳で当寺開基とあり、明暦二年歿とある)により再興され、興禅寺三世門鉄大和尚(隣慶院過去帳では二世萬里鉄大和尚が当院開基と記載されている。慶安四年歿)が開山され、天台宗を曹洞宗に改めたといわれている。
 興禅寺の末寺二六ケ寺のうち、当院だけが準法地寺のため、住職は葬式の導師がつとめられないことから、法地寺への格上げが檀家の悲願であった。歴代の総代等が努力をしながら、その機会に恵まれなかった。しかし、木崎浩哉興禅寺住職の深いご理解とご尽力によって、平成四年八月二十七日付けを以って念願の法地寺となり、檀家一同従来にもまして護寺正法興隆に務めている今日である。
 隣慶院の年中行事は左のとおり
 元日       年賀祈祷法要 一月十五日 小正月年賀会(女性が参加)
 三月第二日曜日  涅槃会    四月下旬  檀信徒総会
 八月十三日    棚経     八月十五日 施餓鬼法要
 九月二十八日   吉祥講(道元禅師の命日法要)
十月第二日曜日  無縁塔供養(区との共催)
十二月第二日曜日 静座会法要



香梅庵
『口名田郷土誌』
香梅庵
所在地 若狭国遠敷郡相生村四七号寺ノ本七番に在った。
 若州管内社寺由緒記によれば永禄五年(一五六二)知元が建立したとなっている。
 興禅寺文書によると、
『永禄五年成年より真言宗万蔵主と唱え、半俗の同心者住居、慶安卯四年(一六五一)八月桂木村興禅寺第三世門鉄改めて禅宗と為し、始めて清僧を置く。
  一 境内   拾参坪  但し 御年貢地
  一 檀家   拾参軒
右は無住に付き本寺兼務に罷りあり候也。」
と残されている。
 しかし、創立以来、三一八年余続いた香梅庵だが檀家数が十六軒と少なく、護寺に困難を極めていたことから、本寺興禅寺との合寺願書を香梅庵総代二名、興禅寺総代二名、興禅寺住職らの連名で、明治十三年二月五日付で滋賀県指令篭手田安定に提出し、同年三月二十二日付で認可された。合寺前の檀家は、現在興禅寺の檀家となっている。



《交通》


《産業》
江戸期に始まった瓦製造業は明治期以降さらに盛んとなり、大正2年の製造業者20軒・窯数33で、製品は川船を利用して小浜に運ばれ,越前や北海道までその販路を拡張したという。

《姓氏・人物》


相生の主な歴史記録


『遠敷郡誌』
東相生 丹波街通に沿ひ中名田村に接す、南川の沿岸粘土層に富めるを以て瓦を産出し、舟に依って小濱へ送る。
西相生 窪谷川の流域を包み、飯盛山等の高き山々を境として大飯郡及中名田村に接す、此區より上中井區に通ずる道路は南川に沿へる難路なりしが明治二十三年上窪石之助氏等今の村道を開鑿せしと云ふ。

相生の伝説、民俗など


六斎念仏
『口名田郷土誌』
《六斉念仏》
 窪谷馬頭観世音菩薩を祀る観音堂の寄進札の年号によると宝永三年(一七〇六)当時から継承されたものと思われる。
 この六斉念仏は松永門前の姓はわからぬが『だんご善』という人によって伝えられたと云われている。
 一時衰退したが明治後期から大正初期にかけて当区橋本長太夫氏によって復活し、現存する演者はその人の教えを受けた者が多い。
 昭和に入り支那事変・太平洋戰争中ににも休むことなく年中行事として続けられ、橋本氏亡き後、林ヶ谷岩治郎氏が熱心にこれを継承して今日に至っていたが、少子化の影響で男の子供が少なく、足らない分を女の子供が参加して、今日まで続いている。
 演ずる六斉は、【一(ひと)六斉】【二(ふた)六斉」【三(み)六斉」の三種類があり、一六斉は小学生、二六斉は中学生、三六斉は青年団と三部に分かれて一組三人ずつで演ずる。演ずる時間は十五~二十分で途中に横笛(神楽笛)が入るが、現在笛を吹く者が少なく、常の六斉では笛抜きで演じている。
 年中行事として、一月一六日の仏法始めの日から十月十四日の鉦納めまでの毎月十四日の夜、月々の当番の家を回り、仏前に阿弥陀様をお祀りして、六斉念仏を奉納している。旧盆の八月十三日夜は、御霊を迎える行事として、夕方七時頃から十二時頃まで二十五戸の家庭へ、六斉念仏を奉納してまわるが、当番の家では宿元として奉納後、酒食のもてなしをして、夜明けまで歓談することになっている。
 八月十四日は菩提寺(隣慶院)で、十七日には十七夜といって観音堂でそれぞれ奉納する。また、二百二十日(九月十一日に近い日)には馬頭観世音菩薩のご祈祷法要が行われ、法要終了後、六斉を奉納しており、延べ十三回に亘って奉納している。
 六斉念仏の由来は、昔、悪い鬼どもが勢力を欲しいままにして、世間に悪をまき散らした事から、何とかして鬼神どもを慰めようと、平安中期、天慶年間、京の町の辻々を念仏を唱えて歩き、庶民と共にこの念仏によりて救われる事を説いた空也上人から始まったといわれている。
 この悪鬼どもは、六斉日即ち毎月、八、十四、十五、二十三、二十九、二十の六日は四天王がこの世を視察する斉日で、この日に人命を奪うというので、鉦、太鼓を叩き声高く念仏を唱えつつ踊りくるったことから六斉念仏の名がつけられたという(以上窪谷六斉念仏保存会の資料より)。


松上げ
『口名田郷土誌』
《松上げについて》
 由来ははっきりしないが地蔵盆と同じ日の八月二十三日に行われる行事で、区民の無病息災、火の用心を祈願するものと思われる。当区の松上げは他所と違って昔より子供達(小学生・中学生)による松上げであり、奧窪谷の六斉念仏と並んで口窪谷の子供たちにとっては大きな行事である。
 松上げの場所は、古老の話では大正十年頃は今の集落センター上の河原であったといわれている。昭和になって紙谷正男宅下の南川左岸河原(通称すさし河原)へ移った。その南川河原での松上げは長く続いたが、昭和五十二年頃の南川河川改修で護岸整備された為、昭和五十三年頃から今の南川右岸、相生橋の上流でするようになった。
 古老の話では、昔のジン(柱木のこと)は箱になった柱でその中に芯木が入っていたということである。しかし、その後、普通の木柱となったが、長期間の使用で先端が焼け細って新しいジンに取り替える時に、鋼管の柱(長さ=約十メートル)に新調したものである。時期は平成二年の松上げの時である。
 準備は、お盆すぎから子供らが集落センターで行灯の絵描きに始まり、各戸への寄付金集め、『モジ』を造るための藁集め、松明の材料である「松のじん」(伐採後何十年も経過した松の根っこ)採り等をする。当日は大人二、二人が朝から出役して『モジ』造りをする。
 当日は、夜七時半頃窪谷薬師堂に集って行灯に灯つける。そこから松上げまでの道中に飾ってある行灯にも灯をつけながら現場へ行く。八時頃から松明を上げにかかるが、十メートル程の高さがあるため、松明をモジの中に放り込める子供は大体中学生である。今日まで松明の上がる時間は遅いときで九時を過ぎたことはあったが、上がらなかったことは一度もない。
 昔は子供が大勢おり、低学年の子供は火焚き当番で、小学高学年と中学生が松明あげをするというようになっていた。しかし、今では子供の数も減ってきたため、『壮年会の行事』としてはという声が聞かれた時もあったが、子供の楽しみを奪うことは出来ないということになり、子供たちは寄付金集めと行灯の絵を描く位で、後は大人たちが火焚き当番を始め殆ど準備をしている現状である。
 この松上げは、今日では子供たちの行事だけでなく、親類縁者等を招いて暑い夏の夜を楽しんで貰う大きなイベントとなっている。





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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