丹後の地名 若狭版

若狭

小浜浅間(あさま)
福井県小浜市小浜浅間


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福井県小浜市小浜浅間

福井県遠敷郡小浜町浅間

小浜浅間の概要




《小浜浅間の概要》
旧丹後街道沿いの地区で、常高寺や滝水があるあたり。旧城下にあたる小浜24区の各町名はいずれも有名神社名から名付けたといわれ、浅間は静岡県浅間神社にちなんだものかという。
近代の浅間町は、明治7~22年の町名。小浜町のうち。明治7年区割改定により石垣町・滝町と今道町の一部が合併して成立。合併時の戸数80。明治19年の戸数68、人口283。同22年小浜町の大字となる。
近代の浅間は、明治22年~現在の大字名。小浜を冠称。はじめ小浜町、昭和26年からは小浜市の大字。毎年9月14・15日に行われる八幡神社祭礼放生会には山車を出す。

《小浜浅間の人口・世帯数》 151・55


《小浜浅間の主な社寺など》

天満神社(滝の天神)

常高寺の下側、浄土寺の境内にある。写真左の土手はJR小浜線の線路。
『遠敷郡誌』
天満神社 小濱町淺間字瀧にあり、瀧の天神とて町民の信仰篤し、社記によれば朝倉義景此像を越前に迎え一拜して後之れを故地に返送すと云ふ、郡縣誌に傳稱菅亟相自刻の像にして長さ一寸八分とあり、向若録に義景此像を越前より小濱淨土寺へ返納し給ひ、謝状を寄せたる事常高院禪尼此像を修補し、京極酒井代々の國守尊信あり、郷民の崇拝も又盛なる事慶長二年逸見助左衛門尉直世三十六歌仙の晝額を拝殿に奉納したる事等見ゆ。

『小浜町誌』
天神社
後瀬山西麓浄土寺中ニ在リ。菅丞相ノ像ヲ祠中ニ安シ之ヲ祀ル。其瀧漠ノ側ニ在ルヲ以テ、俗呼テ瀧ノ天神ト曰フ。像ノ長一寸八分菅公自ラ彫刻スル所ノ寿像ナリト云フ。又別ニ書像ヲ掛ク、曾テ國主京極宰相ノ室常高院禅尼其ノコウ装ヲ修補セリ。往昔越前國主朝倉義景使价ヲ馳セテ、霊像ヲ越前ニ迎へ、一拜ノ後之ヲ返納シ厚ク寺僧ニ謝スト。京極家及酒井家代々ノ國主之ヲ尊信シ、市民モ亦群至拜趨昔日ニ異ナラス。境内ニ金毘羅神社、稲荷神社ノ二社アリ。



鳥居は「滝の天神」。線路の下をくぐった先に名勝「滝の水」がある。

滝の水
「滝」はない、岩の間からしみ出るように湧いてくる水を筧に受けている。酒や茶の水、硯の水によいと伝える古来の名水。
これほどの天下の名水でも日本名水何選とかに選ばれていない。宣伝しないと、名水中の名水でも、東京あたりでは知られることなく埋もれてダメのようで、地元民がネット発信されるのが一番楽で効果的方法だと私は思う。このスズリの水にちなんでネットライターを多数養成したいものである。車の弁を改善されるのもよい。
『遠敷郡誌』
瀧の清水は一名龍瀧と名け後瀬山の西麓にあり、水質純良にして醸酒點茶の料に適す、傳へ云ふ天龍寺の僧策彦入唐に際して携帶せし食料の内此水を以て作りし酒のみ變味せざりきと。

『小浜町誌』
瀧ノ清水 一名龍瀑
後瀬山ノ西麓天神社ノ邊リニ在リ。旱魃霖雨ト雖モ増減セス。人其水源ヲ知ルモノナシ。水質清淡汲ミテ以テ醸酒ノ料、煎茶ノ資ニ供スルノミナラス、近傍数百家日常ノ飲料皆之ニ頼ル。往古洛西天龍寺ノ僧策彦唐ニ入リシ時、本邦ノ土産数品ヲ携ヘシニ、歳ヲ経テ味ノ変セサリシモノハ、只此清水ノ醸酒ノミナリキ。策彦深ク之ヲ称美シ、龍瀑醸酒之記ヲ作ルト云フ。是ヨリ其名更ニ高シ、京畿女児ノ鞠歌ニ、筆ハ三對硯ハ二對水ハ若狭ノ瀧ノ水云々ト歌フハ即チコレナリ。



臨済宗妙心寺派凌霄山常高寺

本尊釈迦如来。京極高次の妻常高院(浅井長政女)が寛永7年(1630)に栖雲寺を改めて創建、槐堂を招聘して開山とした。同年11月1日付京極忠高判物に「常高寺山境、東者滝上嶺限寺ヨリ見々渡申分、西者西林寺岸迄、如前々全可有寺務也」とある。常高院は同10年江戸で没し、同年10月当寺へ葬られたという。翌11年7月、子息忠高は賄料として近江国蒲生郡長田村(現滋賀県近江八幡市)のうち110石を宛行ったが、同15年には将軍家光によって長田村のうち300石が寄進され、以後江戸時代を通して常高寺領として存続した。知行地の管理は京極家によって行われていた。
江戸中期の狩野派の洞春美信作の床壁画・障壁画、常高院書状・絹本著色常高院肖像画は市指定文化財、裏山に建立された常高院墓(宝篋印塔)は市指定史跡。

旧丹後街道に面して下の門があり、そこから上の門まで参道があるが、途中をJRの線路が横切るため、今はこの古来の参道は閉鎖されている。

本堂、書院などは平成13年の再建。墓所は本堂の左に路があり、それを登って国道27号線を越えたところにある。後瀬山トンネルのすぐ近くだが、雪がありそうなので、次の機会にする。
『遠敷郡誌』
常高寺 臨済宗妙心寺派にして同所にあり、本尊は釋迦如来にして境内佛堂に三摩堂観音堂地臓堂あり、京極高次公夫人榮昌尼の志願により寛永七年建立成り。槐堂禪師入寺して開山となる、京極氏以来近江長田村に於て寺領三百石を賜り山内に清光院徳壽院等の末院あり、常高院の近侍女等落髪して尼となりて住せり、常高院の墓あり。

『小浜町誌』
常高寺
後瀬山西麓ニ在リ。國主京極宰相高次ノ夫人常高院、生前之ヲ建立シ、凌霄山ト号ス。臨濟禅宗ニシテ洛西妙心寺ノ末派ナリ。開山ヲ槐堂和尚ト曰フ。常高院ハ浅井備前守長政ノ女ニシテ藤子卜稱ス。
徳川秀忠ノ令室、并ニ豊臣秀吉ノ令室等皆姉妹ナリ。故ニ徳川幕府ヨリ近江國ニ於テ、寺領三百石ヲ附與セラル。山門高ク聳ヘテ海ニ面シ、前門ニ呑海関ノ扁額ヲ掲ク。境地廣濶ニシテ、前ニ青戸湾ヲ控へ、後ニ後瀬山ヲ負ヒ天然ノ林泉頗ル景致アリ。花木竹石其間ニ點綴シ、緑池鯉魚躍リ、苔庭氈滑カナリ。山腹ニ登レハ、眺望亦絶佳ニシテ、呑海ノ稱空シカラス。又書院ノ壁画ハ狩野美信ノ筆ニ成リ、其他古書画ノ名品若干ヲ蔵ス。



臨済宗妙心寺派玉花山東光寺

常高寺の惣門の内にある、栖雲寺の向かい。寺号からしてずいぶんと古い来歴ある寺と思われる。
『遠敷郡誌』
東光寺 臨済宗妙心寺末にして同所に在り、本尊は薬師如来にして下止薬師と稱す、境内佛堂に観音堂あり、木下勝俊の小濱代官愛敬四郎左衛門常高寺中に地政院を建て享保年中東光寺と改む、正保三年常高寺惠讃玉花院の跡に再建して玉花山と號す。

『小浜町誌』
東光寺
臨済宗常高寺末ニシテ其寺中ニ在リ。明徳應永年代玉花院アリ、然レトモ創建今詳カナラス。正保三年常高寺始祖、槐堂ノ法嗣恵讚之ヲ再建シ、玉花山地蔵院ト曰フ。後元文五年更ニ改号シテ玉花山東光寺ト号ス。



法華宗本門流本承寺(大黒寺)

「滝の水」の北にある。寺額には法華宗と書かれているが、元は日蓮宗だったよう。
『遠敷郡誌』
本承寺 日蓮宗八品派にして同所に在り、本尊は妙法蓮華經 釈迦多宝にして境内佛堂大國堂あり。

『小浜町誌』
本承寺
後瀬山下浄土寺ノ北ニ在リ。文明十三年本承寺僧日義一宇ヲ闕脇町ニ建テ、立心坊ト号シテ退隠ノ處ト爲ス。寛永七年京極忠高、孝安寺ヲ建ツルニ方リ、立心坊ヲ茲ニ移シ、其跡ヲ孝安寺(今心光寺ノ地)ノ境内ト為ス。當時本承寺ハ後瀬山東麓闕脇町尻ニ在リ、嘉吉二年僧日?ノ開基ニシテ蘆原山ト号ス。後本寺ヲ立心坊ノ地ニ移シ、寺号ヲ本承寺ト改ム。日蓮宗ニシテ京師本能寺ノ末派ナリ。



時宗唯心山浄土寺

滝の天神の隣。本尊阿弥陀如来。草創は不明、嘉暦元年(1326)5月6日に沙弥道光が念仏料田五段大を安堵している。さらに建武4年(1337)8月7日付小槻秀氏・源久長連署渡状に「浄土寺念仏田二町五段三百十歩内、任本寄進之旨、半分為御寄進之間、所令渡進也」と寺領の増加を示す。天文年中(1532-55)には寄宿の信徒らの過失で焼失、そのため守護武田信豊はいっさいの寄宿を禁じ、「急度可令再興事肝要候」と再建への努力を促している。元亀年中(1570-73)朝倉義景が当寺鎮守に安置された菅原道真自作と伝える天神像を持帰ったところ、変異があったため当寺へ返還したという。年不詳五月四日付朝倉氏書状に「聖廟御作天神之儀、内々申越候之処、入魂之由欣悦之至候、則遂一礼返進候、仍十九布三端遣之候、音問之験斗候」とみえる。
『遠敷郡誌』
浄土寺 時宗遊行派にして境内佛堂に不動堂大師堂あり、本尊は阿彌陀如来にして境内佛堂に不動堂大師堂あり、弘安二年創立と慱ふ、往古大同年中眞言宗なりしが正應二年遊行寺となる、開山を覺阿彌と云ふ。

『小浜町誌』
浄土寺
後瀬山下常高寺ノ北ニ在リ。時宗ニシテー遍上大ノ流派ナリ。山號ヲ唯心ト稱ス。本ト妙楽寺内ニアリ、大同年中空海ノ創造スル所ナリ。其後寺ヲ後瀬山麓ニ移ス。今ノ妙興寺ノ地ナリ。正安年中工藤左工門入道果暁、斯國ノ代官ト為ル。其下帆足入道成願、自ラ浄土寺ヲ以テ定テ持怫堂ト為ス。堂宇荘厳ナリ。子五郎モ亦寺領若干田ヲ寄附シ、住僧衣食ノ資トナス。寺僧真言時宗タリ。寺域百歩ハカリ僧侶群ヲ成ス。其衰廃スルニ及匕寺ヲ今ノ地ニ移ス。文和年中真言時宗ヲ改メテ、一遍上人ノ流義ニ歸ス。開山ヲ覚阿彌ト曰フ、或ハ云フ開山弘願。弘安二年之ヲ創立シ、正應二年一遍上人廻國ノ際時宗ト為ルト。


浄土宗祇園山浄安寺

『遠敷郡誌』
淨安寺 淨土宗鎮西派にして同町浅間に在り、本尊は阿彌陀如来にして境内佛堂観音堂あり、天文五年開山曉譽悟眞創立す。

『小浜町誌』
浄安寺
小濱町浅間区常高寺ノ東北ニ在リ。祇園山ト号ス。天文五年僧暁誉ノ開基スル所ナリ。浄土宗ニシテ洛東智恩院ニ属ス。古へ濱浦町ニ表門アリテ海ニ面ス。寛文六年中本堂改築ノ際、今ノ如ク瀧ノ町ヲ表トナシテ門ヲ開ク。



顕本法華宗常在山本行寺

『遠敷郡誌』
本行寺 日蓮宗妙満寺派にして同所に在り、本尊は妙法蓮華經寶塔 釈迦多宝にして。

『小浜町誌』
本行寺
小濱浅間区ニ在リ。常在山ト號ス。日蓮宗妙満寺末ナリ。元和四年七月竹原村ニ於テ草創、後寛永五年此ニ移ル。創立當時ハ之ヲ常楽寺ト稱ス。開祖常楽院日経ノ宗派禁制セラルヽヲ以テ、第二代日顕ヲ開基トシ、常楽寺ヲ改メテ本行寺ト曰フ、實ニ慶長十一年ナリ。



高野山真言宗法輪寺
本行寺の南に法輪寺が書かれた地図があるが、今はないようである。寺院らしき建物が見当たらない。むかしこのあたりに火事がありまして、それでなくなったのではないかとの近所の人の話であった。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》
常高院
人の駅 常高院
1568年(永禄11)近江小谷城主浅井長政とお市の方の次女である初は、京極高次の夫人。姉は秀吉の側室の淀殿、妹は2代将軍となる徳川秀忠の妻お江。1587年(天正15)の頃、大津宰相京極高次に嫁し、関ヶ原の戦いには夫高次と共に徳川方に味方して戦い、その功績を認められて小浜藩主となりました。1609年(慶長14)夫高次の死去とともに出家し栄昌尼と名乗り、大阪の冬の陣では徳川家の使者として淀殿を説得し和平を成立させましたが、夏の陣では反対に豊臣家から依頼されて、家康に豊臣家との和議を申し出ましたが成りませんでした。
1630年(寛永7)槐堂和尚を招いて開山とし、ここに常高寺を建立して、1633
年(寛永10)8月27日に亡くなりました。



『新わかさ探訪』(写真も)
再建された常高寺  若狭のふれあい第45号掲載(昭和62年7月30日発行)
淀君の妹 常高院が小浜に開いた禅寺
 豊臣秀吉の側室で、美人として誉れ高い淀君(幼名茶々)には二人の妹がいます。すぐ下の妹は小浜城主京極高次の妻お初の方。もう一人は徳川二代将軍秀忠の正室で三代将軍家光の母江与です。3姉妹は、近江小谷城主浅井長政とお市の方(織田信長の妹)との間に生まれ、母お市の方が越前北ノ庄城主柴田勝家と再婚、その落城のとき、ひそかに秀吉に引き渡されて命を長らえ、数奇な運命をたどりました。
 お初の方は、慶長14年(1609)に夫高次が亡くなったあと、剃髪して常高院栄昌尼となり、秀吉亡きあと、姉淀君と妹江与が豊臣、徳川に分かれて敵対するなか、大坂冬の陣(1614)では大坂城中の淀君とその子豊臣秀頼、城を攻め囲む徳川家康・秀忠との間で和睦に奔走。和議実現に尽くしたものの、翌年徳川方は和議条約を破って大坂城の内堀を埋め、夏の陣で秀頼・淀君らは白刃--そうした戦国の世の非情さに、常高院もまた翻弄されました。
 晩年、江戸に暮らした常高院は、寛永7年(1630)、夫高次の菩提を弔い、父母長政・お市の方らを供養するため、小浜の後瀬山麓に京極家の菩提寺として常高寺の建立を発願、京都の臨済宗妙心寺から小浜出身の槐堂周虎禅師を開山として迎えました。しかし、普請半ばの寛永10年、常高院は江戸で66歳の生涯を閉じ、遺骸は木曽路を越えて小浜に運ばれ、常高寺の高台(国道27号線の南側)にある墓所に葬られました。
 常高院の死後も、同寺は幕府や小浜藩主酒井家の保護を受け、七堂伽藍を構えるなど隆盛を誇りましたが、明治維新で寺領が没収され、戦後の農地改革では所領の田畑を失って財政基盤を喪失。大正12年には本堂を全焼、昭和39年にも山門が半焼する災難に遭いました。さらに境内を小浜線と国道27号線が横断し、平成2年までの30数年間、住職のいないまま半ば放置されたため、外観は荒れ寺そのものでしだ。
 しかし、常高寺は禅道場として、幕末・明治期には越渓守謙や釈宗演など多くの名僧を輩出。寺宝にも、数寄屋風の書院や障壁画、常高院の肖像画など、文化的価値の高いものが多数あります。
 昭和62年、取材で初めて書院の内部を拝見したとき、荒れた外観からは思いもよらない、端正で気品に満ちたその美しさに感動しました。ともに15畳の広さを持つ主室と次の間は、畳が敷かれた入側(縁側)を介して後瀬山を借景とする庭に面し、床の間の壁面や違い棚の天袋・地袋には、狩野派の名手洞春美信による山水の水墨画や彩色の人物・花鳥図が描かれています。
 平成になって、歴史ある修行の地を再建したいという全国の臨済宗妙心寺派の禅僧と檀徒のみなさんの願い、戦国の歴史を伝える常高寺を貴重な観光資源として生かしたいという地元の人たちの支援によって、平成2年から再建に着手。山門・書院等の修復を経て、平成13年秋には本堂を再建、落慶法要を行いました。


小浜浅間の主な歴史記録





『新わかさ探訪』
後瀬山麓の滝の水  若狭ふれあい第119号掲載(平成12年4月28日発行)
町家の暮らしを支え 小浜の銘酒を育てた水
 小浜市浅間区は、かつて「滝之町」と呼ばれました。家屋が密集するその町並みの背後、後瀬山の山裾に「滝の水」と呼ばれる湧き水があり、これが「滝之町」の名前の由来です。滝の水は、近くの町家の飲料水や酒造りなどに用いられました。
 旧丹後街道(上の通り)に面して「瀧天満宮」と書かれた額のかかる鳥居があり、その参道を進むと右手に瀧天満宮、直進してJR小浜線のガードをくぐると、左手に「滝の水」があります。
 江戸初期に書かれた『若狭郡県志』に、滝の水について記されています。 「小浜に清酒を造る家が50戸あった。この酒屋は、みなこの滝の清水で酒を造った。滝の清水は、清くて味がよいので、この水を用いて造った酒は、どこの国の酒よりもうまかった。天文8年(1539)京都天竜寺の策彦(さくげん)という坊さんが、明(中国)へ渡るとき、日本からのみやげ品を数種類、携えて行った。その中に若狭の酒があった。長旅ののち明へ渡って、その酒を飲んでみると、少しも味が変わっていないのに驚き、策彦は、これをたたえて、『酒の記』という書物を書いた」
 策彦は、戦国時代の禅僧で、丹波の生まれ。漢詩文に優れ、日明外交使節として活躍しました。大内義隆や武田信玄から厚遇を受け、織田信長が帰依したことで知られる人物です。
 このように高く評価された滝の水も、酒造りに用いられたのは昭和初期までのようです。滝の水の近くにお住まいの東野時夫さん(74歳)は、子供のころ(昭和10年前後)、蔵人たちが天秤棒を担いだり、荷車やリヤカーに木桶を乗せて、滝の水と酒造蔵との間を盛んに行き来していたのを記憶されています。
 小浜の造り酒屋に生まれ育った河村平右衛門さん(89歳)は、「子供のころ(大正年間)、蔵人たちと瀧天満宮にまいり、瀧の天神さんからお水を頂戴することに感謝し、よい酒ができるようにと祈願しました。みながあつい信仰心をもって酒造りをしました」と当時を振り返って話されます。
 滝の水の脇には、玉垣寄附酒屋仲間」、そして「河村平右工門」をはじめ8人の名前が刻まれた石柱があります。そして玉垣の「大正六年三月」という文字から、当時8軒の酒造家が、この滝の水を利用していたことがうかがえます。
 河村さんによると、滝の水の水質は、カルシウムやマグネシウムを多く含む硬水で、もっぱら酒母(しゅぼ)(?(酉+元)もととも呼ばれ、酒を仕込むときのタネになるもの)をこしらえるのに用いたそうです。しかし、昭和に入ると、酒屋が酒造蔵に近いところに水源を確保するなどして、次第に滝の水は利用されなくなったようです。
 一方、この地区に上水道が敷かれた昭和40年ころまで、近辺の町家の人たちは飲料水や炊事などの生活用水として、滝の水を利用しました。このあたりは井戸水に鉄分や塩分が混じり、洗濯物が黄ばむため、井戸のある家でも、最後のすすぎは滝の水を利用したそうです。たらいを持参して洗い物をする女性たちで、滝の水の周りはたいそうにぎやかだったとか。
 そして現在、私たちが滝の水の撮影をしていたときも、徒歩や自転車で次々と人が訪れ、ペットボトルやポリタンクに水を汲んでいきました。この水でお茶やコーヒーをいれると、ひと味違っておいしいそうです。



小浜浅間の伝説






小浜浅間の小字一覧




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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