丹後の地名 若狭版

若狭

飯盛(はんせい)
福井県小浜市飯盛


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


福井県小浜市飯盛

福井県大飯郡加斗村飯盛








飯盛の概要




《飯盛の概要》
加斗の東に位置する。北部の荒木、中央部の黒駒、南部の法海の3集落からなる。南方の飯盛山から流れる飯盛川が法海の中央、黒駒・荒木の西を北流する。荒木の南部を国道27号、JR小浜線、舞鶴若狭自動車道、南部の山裾を若狭西街道が東西にほぼ並行して走る。
地名の由来は、中世加斗荘が半済となり、その半済方に属したことによるものであろうという。
飯盛は、戦国期に見える地名で、若狭国大飯郡のうち。享禄4年8月6日の長田寺縁起写に平安期長田寺々地の四至の北限として「飯盛山」「飯盛峰」とある。この四至は坂上田村麻呂より賜わったものとするなど検討を要するが戦国期に地名として成立していたものであろうという。中世には加斗荘に属していたが、この加斗荘が康安2年(1362)5月に半済を受けて本所方と半済方に分けられた。
飯盛村は、江戸期~明治22年の村。大飯郡のうち。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば、戸数94・人口522、寺院は飯盛寺とその塔頭として上ノ坊・本坊・池ノ坊・宝寿寺・清林庵、神社は黒駒大明神・山王宮・乗海明神、小字として荒木・今徳・黒駒・岩熊・法海・伏本・久保を記す。現在は荒木・今徳・黒駒・岩熊・法海に人家があるが、伏本・久保は水田の小字として痕跡をとどめている。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年加斗村の大字となる。
飯盛は、明治22年~現在の大字名。はじめ加斗村、昭和30年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西4町余・南北17町余、戸数100、人口は男287 ・ 女298、学校1、小船12。


《飯盛の人口・世帯数》 439・138


《飯盛の主な社寺など》

台場縄文遺跡
荒木の通称台場の小字高岸にある縄文後期の集落跡。小浜湾に面する崖上の現海水面より数メートルの比高にあり、昭和44年発掘調査された。住居跡などは発見されていないが、遺跡の範囲は南北約40メートル、東西約80メートルで、縄文土器片・磨製石斧・石錘・石鏃などの石器が出土したという。
『小浜市史』
台場遺跡
荒木区の西方、江戸時代末期、「台場」があったとされる海岸側の畑地に遺跡はある。現在も波浪の浸食を受け遺跡は削られている。本遺跡は、法海在住の若狭考古学研究会初代会長であつた城谷義視が昭和四十三年(一九六八)に偶然土器片や磨製石斧を発見し、翌年夏に城谷を中心に若狭考古学研究会会員で発掘調査がなされ、市内で初めて本格的に発掘調査された縄文遺跡である。調査は、保存を前提にした学術調査で、数本のトレンチ(調査溝)を設定するという方法の発掘で、短期間の調査で特別な遺構などの検出はなかった。
 出土遺物の、トロ箱大のコンテナー約十箱の土器片と石鏃、石錘、磨製石斧などの石器類である。土器は縄文時代中期末の土器と主体を占めるのは後期初頭の西日本の中津式併行のものである。なお、土器の中で興味深いのは縄文時代晩期に属すると思われる土器(図11)の存在である。晩期の土器は市内では本遺跡だけである。
 なお、この他に市内で、これまでに判明した縄文遺跡も紹介しておきたい。昭和四十九年、内外海半島の堅海区の土器製塩遺跡調査の際、縄文土器の細片が採集されている。時期については明らかではない。昭和五十年夏、古津区の山麓の畑地から縄文時代中期後半に属する土器片と磨製石斧、石錘などの石器類が発見されている。昭和五十二年秋、多田団地の東方の土採り場付近より縄文時代前期に属すると考えられる石匙を一点採集した。



黒駒(くるま)神社

飯盛の黒駒集落に鎮座の黒駒神社の一の鳥居、社殿はまだだいぶ先にある。黒駒はクロコマではなく、クルマと読む。旧加斗村のあちこちに勧請され祀られている黒駒社の本社である、さらに西には車持という集落もある。奥ヘ続く道は参道で街道で、このまま裏山を越えると五十谷で、名田庄の方へ繋がる。参道の左には小川が流れている。
『大飯郡誌』
(九艘川) 村社黒駒神社の御神體は遙の海上より飯盛山の海岸小川の下に小舟九艘に一體づつ分乗して着きたまひしなりと言ひ傳へり。
九艘川というらしい、丹後にも同じ九艘や久僧の地名があるが、クソとはクシフルのことであろう。何ともすごい伝説である、当社は弥生初期にさかのぼる社であろうか。天日槍の第一波がよりついた土地ではなかろうか。鳥居の注連縄の所に見える393メートル峰がクシフル峰ではなかろうか。
黒駒神社の本来の神体は、この山↓でなかろうか。


クシフルマがクルマとなったものか、マはマル(山)のことでなかろうか、クシフル山。クは大で美称、シフルはソフルで新羅か、偉大な新羅山ということか。
今も当初のままの位置にあるのなら、当社はあの山を神体とするのではなかろうか。

社殿はいつの時代かに、山の頂上からここに移されたのであろうか。
クルマはたくさんあって来馬、栗馬、久留麻、車、群馬とかいろいろ書く、車寅次郎氏の故地は意外と当地あたりなのかも知れないのだが、クルマとは何のことだか意味不明とされる。本当にわからなかったのか、「ちょっと来い」と言われないように、うすうす感づいてはいたが、わからないこととしたのか。
天孫降臨の神話が思い起こされる。天照大神の孫(瓊瓊杵尊)が三種の神器を持って天降ったという日向の高千穂峰、その峰をクルマとも呼ぶのではなかろうか。
別に天皇さんのご先祖だけに限定されたハナシではなかった、同じ加耶新羅系の渡来系氏族が共有した神話であり地名らしく、天から降ってくるとは限らず、舟でやってくるというのもあったのであろう、それが本来のハナシと思われれ、各地にあったらしいことがわかる。

当社の祭神は素盞嗚尊。旧村社。山王社(祭神大山咋命)・法海(のりかい)神社(祭神倉稲魂命)を合祀。享禄5年(1532)の神名帳写に「正五位 黒駄(ママ)(クルマ)明神」とある。弥生期からあったと思われるが、史料上はずっと下って正応4年(1291)3月に前神主の後家が黒駒宮神主職に補任されていることが知られる(大音文書)。「若州管内社寺由緒記」は黒駒社は元徳2年(1330)9月9日に甲斐国一宮が影向したものであるとするが、それ以前から社のあったことが確認される。神子(みこ)浦(御賀尾浦、三方郡三方町の常神半島)を本貫とする大音氏一門が当社の神主職に補任されており、以降も跡職が一門に引継がれる。この後も黒駒社あるいは黒駒法海宮の神主職・田畠の補任状が伝わっており、それによると元弘3年(1333)5月16日に「加斗庄黒駒宮神主上野房恵尊」が足利尊氏方として軍忠のあったこと、貞和5年(1349)2月18日と文和5年(1356)正月22日に左衛門三郎盛久が「黒駒法海宮神主職」を宛行われていること、黒駒社の神主職・名田は西津弥十郎相伝の地であったが、貞治4年(1365)3月6日加斗源六宗忠に代官職が預けられたことが知られる。また至徳3年(1386)2月22日に黒駒社神主職は円満院寄進であるとして芝田に宛行われるが、この円満院は園城寺門跡寺で、加斗荘の領主であった。

『大飯郡誌』
正五位黒駒(クルマ)明神
〔飯盛寺文書〕 明應九年寄進状 加斗庄 黒駒宮籠所僧食米…
〔若狭郡縣志〕 在飯盛村之内黒駒〔若狭國志〕在飯盛之黒駒祭神不詳。
〔若狭考〕 黒駒大明神くるまともくろこまともいひ来れり西勢柬勢飯盛本所長井尾内何れの村にも九月九日此神を祭る何れの神にや知らず。
〔神社私考〕 里人の説にひかしこの飯盛に八社八寺とてありける中の社なり…黒駒神は正徳二年九月九日甲斐國一宮神を故ありて祭れるなり其社地の森を黒駒の森と云ふ其後延徳年中圓滿院ノ宮より社領二十二石六斗の地を寄附の状あり秀吉公威権の時に及びて其地を亡ひ神主も〔樹村掃部介が子内匠に至て〕絶たり。
さて黒駒ノ神を黒駒柴立宮といへりさるは帳に伊勢…久留真神社…志波加支神社…二神を移し祭れるにもやあらむ…甲斐の一宮神を祭ると云へるは謬説なるべし。
参考〔飯盛寺文書〕(延徳十年十月二十八日)寄進状-圓滿宮加斗兩村八寺八社之内御寄進分 一、壹町貳段小九十歩分米拾七石四斗一五段御寄進分米五石貳斗。
(按に黒駒をクルマと訓むはクロウマの約なるべし)。


指定村社 黒駒神社 祭神素盞嗚尊外一神(合祀) 飯盛
字奥難に在り  社地五百十八坪 氏子百三戸 社殿〔〕舞臺〔〕 社務所〔〕拜所〔〕廊下〔〕手水舎〔〕鳥居二基 由緒〔明細帳〕元徳二庚午年九月九日の創建なり。(後醍醐天皇の御宇紀元千九百九十八年)
 (大正四年一月十六日指定) (按に〔若狭國神名帳〕正五位馬駒明神ならむ)
〔寛永四年國中高附] 黒駒大明神二月九日能仕候但只今は荒木村と二つにして通る二本に相成申候。
〔飯盛寺文書〕明応九年十月二十一日公驗状-加斗庄黒駒宮籠所僧食米事并半濟方公私諾寄進云々伯耆入道 同月十八日附越中守の(半濟か本所とあり)もあり全郡誌沿革章参照
明治四十四年十一月二十七日次の社を合併せり。
 無格社法海神社 祭神倉稻魂命 飯盛字稲荷
(〔明細帳〕 由緒に元祿十五年四月一日創建とあれど慥に可疑 〔若狭國神名帳〕に正五位法海明神を載せ法海の名は早くよりあり 〔文化四年雲濱鑑にも社名見ゆ〕


法海神社が合祀されている。飯盛寺に行く道中にある法海集落にあった社と思われる。法海は「のりかい」と読まれているが、伴信友先生も言う通り、それはなかろう。
因幡国法美(ほうみ)郡があるように、当地もホウミでいいのではなかろうか。法美郡は因幡国府の置かれた郡で伊福部氏の根拠地であった。
『大飯郡誌』
正五位法海明神
〔若狭郡縣志〕 在飯盛村之内法海未知爲何神也。
〔神社私考〕 里人の説…飯盛八社八寺…中の社なり…黒駒法海の神相對へていと謾りなるをさなき説もきこゆれどとるにたらず…ノリカイとよむ事は此國帳の舊訓にもあれど…古言のさまにはホヽミなどよむべし…
参考〔飯盛寺文書〕応永三十年 寺地目録 法海清貞名


大音氏
神官を務めた大音(おおと)氏とは、『三方町史』に、
大音家所蔵の「伊香系図」によると、大音家の祖は近江の伊香郡伊香具村大字大音の伊香大社神主安助の四男安宗で、若狭三方郡に移住し、御賀尾(神子)浦と常神浦の領主となって開発した。嘉応二年(一一七〇)十二月三日、国使、郡司が見え、両浦の領主として認められた。姓を伊香から加茂、そして現在の大音に改称した。このように大音家は開発領主でありながら分家は三戸しかない。これらのことは口碑伝承でなく、大音文書の史料によるとして神子「郷土誌」にも紹介されている。
 この大音家には、大音氏が神子に転住して以来、八百年余のことに関する文書が非常に多く残され所蔵されており、福井県有形文化財として四百四十四点が、昭和四十二年に指定された。

太田亮の『…大辞典』は、
大音 オホオト オホト オトウ
近江國伊香郡大音邑より起る。此の地に伊香具神社(名神大)あり。神主を大音氏と云ふ。大社神宮寺鐘銘に「江州伊香郡大音大明神宮寺鐘の銘云々、檀那大音同名中、」と見ゆ。中臣姓と稱す、イカゴ條を見よ。

伊香氏の分家で、余呉湖に舞い降りた天羽衣の裔とされる。丹後は鉄の山に降りるが、近江は銅の山だったものか、いずれにしても金属氏族の伝承のよう。393メートル峰は野尻銅山の東続きの山で5㎞ほどしか離れていない。中臣氏と言っているが、物部氏でなかろうかと太田亮は言う。
今の滋賀県伊香郡木之本町に大音(おおと)という大字がある。近江国伊香郡大社(おおと)郷であるが、しかし元々は若狭が本貫なのではなかろうか。カゴは銅だろうから、天日槍系の古い一派か。オホオトとはどこか継体(男大迹王)が彷彿されられそう。


稲荷神社
『大飯郡誌』
無格社 日枝社 祭神大山咋命 飯盛村菴ノ谷に在り 社地〔〕二百十一坪 氏子百三戸 社殿〔〕鳥居一基 由緒〔明細帳〕寳治二戊申年二月九日創建。


高野山真言宗深山飯盛寺




今は文明16年再興の本堂(本坊)と江戸末期再建の仁王門のみが残る。
麓の法海集落から飯盛山の頂上めがけて山道を登るとその山腹にある。本尊薬師如来というから真言宗よりも古い寺院ではなかろうか。
案内板があるが、ハゲて読めない。
草創は不詳とされる。「若州管内社寺由緒記」は「往昔は当村の内田徳山椿林寺と申寺に有之、其時代人王四十四代元正天皇御宇霊亀養老の年号也、(中略)其後人王九十代後光厳院之御宇文和年中に開山覚能法師蒙勅言御門より七堂伽藍御建立有之」と記す。
盛時には北坊・玉蔵坊・岡本坊・本坊・感善坊・実蔵坊・金蔵坊・仏蔵坊・尾崎坊・池坊・勝儀坊・宝蔵坊の12坊を数え、坊領として飯盛村内に七九石六斗余、このほか清貞名(法海に所在)年貢として23石余を有した(年月日不詳「飯盛寺寺領目録」飯盛寺文書)。しかし文明16年(1484)3月に焼け、天台宗円満院門跡の発願で本堂・仁王門が再建された。この時高野山金剛峯寺南院より絹本著色弘法大師御影(鎌倉末期)が送られている。
室町末期には塔頭上之坊の別当職は泊浦の薬師堂、堅海村の観音堂にまで及び、飯盛寺が広範囲な勢力を保持していたことがうかがえる。
江戸時代の様子は「若州管内社寺由緒記」に「慶長年中に大閤公時代に寺領落申候、其後断絶而鎮守二王門柱立之体也、右十二坊の内七坊は及二大破一残五坊于今有之、池之坊上の坊本坊は首頭也、残る二坊行全坊岡本坊は座方也、雖然寺内御免許の支証于今有之、昔の子細依之正保二年乙酉前の忠勝公御再興被遊棟札有之」と記す。

『大飯郡誌』
飯盛寺 真言宗高野派金剛峯寺末 飯盛字法海に在り 寺地二百九十二坪 境外所有地五町三反八畝十二歩 檀徒二十戸 本尊聖觀音 堂宇〔〕門〔〕土蔵〔〕納屋〔〕
〔明細帳〕 天正天皇御宇養老の頃當村の内今徳に田徳山椿林寺と稱し密刹あり其後文和の頃僧覺能更に現山を開き七堂并に十二坊舎を建設し印ち椿林寺遺物の薬師如来を請して本堂に安置す現々佛眼院(明治三十九年伊予へ移転)と共有の本尊なり覺能終身住持せる故覺能院と稱し来れり当時官施有て美を盡せり後官施斷え漸く衰微文明十六尓に至て祝融の災に罹る于時圓滿院に品法親王再建爾来園主武田貢帰依國中密刹の最上たりしが羽柴氏のため齋田沒入せられ堂坊廢頽現今は僅に一二の堂坊を遺すのみ。
〔村誌〕 開基は弘法大師なり…現住仁田宥鎮復興を計れり寺寳は弘法大師影像真如親王御筆不動尊像宇多天皇御筆涅槃像狩野了之筆等なり覚能法師の常に身を離さゞりし愛染明王の木像亦古作として尊重すべし祭日は舊三月二十日二十一日彼岸の中日に行ふ。
〔若狭郡縣志〕 三十三所観音十六番千手觀音加斗飯盛寺准山城國清水寺。
〔寺社什物帳〕 真言宗一飯盛寺山號飯盛山草創之時代不知 右什物一大師御影一幅
〔若狭郡縣志〕 堂中安藥師像有三ヶ之坊舍寺僧真言宗也正保二年酒井忠勝公依有所願之事修補堂宇
〔稚狭考〕 飯盛寺堂に家光公御所願の書あり額に寫してかけたり…享祿中の繪馬あり。
〔所藏文書〕 の僣考す可き物不尠其内全郡沿革條へ寫載せしもの如左。…


不動の滝

山門前の道を少し奥へ入ると「不動の滝」がある。足場わるく何とも写しにくい。
名勝 飯盛寺滝(不動の滝)
この滝は飯盛川をさかのぼりてきわまる所飯盛山々系支脈の峡谷を扼してそびえ立つ大岩壁上より谷間の清流を集めて落下するものでその瀑丈は十六米に及び当地方随一の名勝なり。
岩磐上には不動明王の尊像が奉祈され古来より滝行場として霊験あらたかにして近郊道俗の崇敬あつき霊域である。  深山飯盛寺



臨済宗妙心寺派清林寺

『大飯郡誌』
清林庵 同(臨済宗)  同字(飯盛)中嶋に存り 寺地三百九十二坪 境外所有地二町四反一畝十二歩 檀徒二十八戸 本尊地藏菩薩  堂宇〔〕門〔〕納屋〔〕由緒〔明細帳〕應永二十六亥年二月十日清應創建中絶元祿三庚午年常高寺四世萬里法嗣自策再建〔延宝三年調〕当村法海古谷五郎権守本願にて開基


臨済宗妙心寺派宝樹寺

『大飯郡誌』
寶樹寺 同(臨済宗)  飯盛宇口小毛谷に在り 寺地二百三十二坪 境外所有地四反七畝二十八歩 檀徒十九戸 本尊釋迦如来 堂宇〔〕納屋〔〕 由緒〔明細帳〕応永十甲申年三月十五日清光創建中絶後貞享四卯年十月常高寺三世南雄法嗣慈薰再建。


佛眼院
『大飯郡誌』
佛眼院 飯盛字深山に在り(真言古義派金剛峯寺末寺地三百五十二坪境外所有地四町五反四畝十四歩檀徒二十戸本尊聖観音堂宇〔〕由緒飯盛寺と同じく其脇佛を護摩堂に安置同寺と運命を共にし來りしが三十八年五月十五日愛媛縣南宇和郡城邊村へ移転せり。


法海では毎年1月6日、無病息災と豊作を祈り蛇に見立てたしめ縄を区の入口につるし魔除けとする六日講が伝わるという。

丹後の方では「道切り」というが、ヘンなモンが村へ入ってこないようにとのマジナイである。飯盛寺へはまっすぐ行ってもいけるが、この手前を右ヘ行く。

《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


飯盛の主な歴史記録



飯盛の伝説


『大飯郡誌』
(九艘川) 村社黒駒神社の御神體は遙の海上より飯盛山の海岸小川の下に小舟九艘に一體づつ分乗して着きたまひしなりと言ひ傳へり。




飯盛の小字一覧


飯盛 鳶ケ坂 西鳶ケ坂 広野 東広野 越首 久手 久手山 古浜 加斗坂 古坂 坂 平礁 西平礁 上り松 茶屋 蒲谷 上野 西上野 下降 塩汲場 東浜田 舟場 浜田 松ケ窪 庄畑 浜宮 富慶 久保 馬労町 中田 倉ノ口 中島 下代 荒木 祝谷 下荒木 三歳 上田野良 朱谷 口中谷 間谷 下間谷 魚谷 田野良 椎下 瓦屋敷 馬立 奥鍜治 鍜治ノ森 竹里 道野部 森ノ上 久保ノ上 中ノ森 川添 鳥越 久喜 本所越 瑞岸 瑞岸山 西ノ宮 居屋森 分地 鍜治屋 鍜治屋下 由里下 大柱 大町田 西兼田 東兼田 今徳 毛谷 南毛谷 亀田 山神 大日 菴ノ谷 笹谷 小山 岩倉 奥ノ尾 宮ノ谷 奥難 川戸 小毛谷 口小毛谷 車口 奥ノ切 樋ノ口 石田 神田 西伏本 川ノ上 伏本谷 奥伏本 伏本ノ森 松ノ下 度々 杉ノ木谷 下坂 西下坂 山田 古勘定 中時分 山崎 札場 口稈ケ谷 岩熊 山ケ谷 高畑 間奥 長谷 中ノ谷 奥ノ谷 奥生姜 口生姜谷 野手 大坪 荒廉口 牛飼 新水 西山口 西山 扇畑 笹山 勘名 下所 町 中町 上難 稲荷 三ツ石 地野 佐古田 上坂 法佐古 桂谷 寺尾 奥三ツ石 庄治屋谷 団 向山 深山 飯盛寺 桜谷 切戸 炭竃 北下坂 杉屋谷 梅狭戸 荒神岳 飯盛寺 谷 平岩 大平 ツマ谷 庄司山 滝谷 蔭谷 下山 桐之谷 堂ノ上 地村谷 宮ノ奥 シブ谷 田古勢 車谷 竹山 大日山 今徳谷 墓ノ上 蚊屋谷 岩井谷 上山 古坂山 久手浦 広野山

関連情報





資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順


若狭
    市町村別
 
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
三方上中郡若狭町
三方郡美浜町



丹後・丹波
 市町村別
 
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市








【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2020 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved