丹後の地名 若狭版

若狭

東勢(ひがしせい)
福井県小浜市東勢


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福井県小浜市東勢

福井県大飯郡加斗村東勢

東勢の概要




《東勢の概要》
加斗地区の東端に位置し、勢浜隧道を抜けると小浜市街に達する。南部は山地、北部海岸沿いを国道27号とJR小浜線、南部山麓を舞鶴若狭自動車道、小浜西道が東西に並走する。
当地東端の勢坂は、「若狭郡県志」に「東勢村与遠敷郡青井村之境界、有坂路称勢坂」とされる遠敷郡と大飯郡の境をなす丹後街道の峠である。
応仁元年(1467)2月7日付武田信賢安堵状に「若州勢井村事、預申左衛門大夫殿候之上者、重而一行雖不致候、承候了、如先々不相替可御知行候」とある。当村は康正2年(1456)頃、安芸・若狭両国守護武田信賢と吉川之経の契約により安芸国河戸村国衙分と交換され、応仁前後の一時期は吉川氏の支配地であった。
東勢井村は、戦国期に見える村名。若狭国大飯郡のうち。室町期の勢井村の東部分に形成された村。文明16年(1484)2月19日の五郎大夫田地売券に「売主せい」と書いた後で、「東」の字を補って「売主東せい」としているのが初見であり、同時に集落の形成時もこの頃であることを示している。当地で使用された桝は「小浜市桝・今富之桝・浜桝・政所殿桝」で、桝の種類が多いことは当村経済流通の多様性をうかがわせる。
村名としては、延徳3年(1491)11月2日の太郎五郎田地売券に「在所東勢井村石ふし也」とあるのが最初で、以後「勢井村」という表現は特別の場合を除いて用いられなくなり、東勢井村の称が一般化する。西勢井村は中世史料に見えない。
享禄3年(1530)11月1日には東勢井村の助大夫など14名が連名して1石1斗の地を「惣地下」として売却すると述べており東勢井村における惣の形成を知ることができる。ただし,天文4年(1535)2月20日の「勢井村新田」の売買を保証した文書に署名している8人は東勢井村を含む勢井全体の惣結合の代表と判断され、勢井全体の惣と東勢井村の惣が重層的に形成されていたものと思われる。
東勢村は、江戸期~明治22年の村。大飯郡のうち。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば、戸数40 ・ 人口280、寺院は本徳寺・真珠庵、神社は七面大明神・六所大明神、小字として上町・下町を記す。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年加斗村の大字となる。
東勢は、明治22年~現在の大字名。はじめ加斗村、昭和30年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西3町余・南北2町余、戸数36、人口は男94・女116、大船1・小船4。

元は勢井村が文明16年頃に東西に分かれてできたようである。そのセイの意味はソノベのソと同じように、ソのことであろうか。

《東勢の人口・世帯数》 227・42


《東勢の主な社寺など》

黒駒神社

西勢との境になる小さな川を挟んで、西勢の黒駒神社と向き合うような位置で100メートルほどしか離れていない。
『大飯郡誌』
同(村社) 黒駒神社 同同(祭神素盞嗚命) 東勢字宮本に在り 社地百二十八坪 氏子三十八戸 社殿〔〕拜殿〔〕鳥居一基
〔同書〕 黒駒大明神春日大明神聖御前祭禮二月九日〔雲浜鑑〕には六所大明神七面大明神と有.


山ノ井神社
『大飯郡誌』
同(村社)  山ノ井神社 祭神不詳 東勢字宮口に在り 社地四十七坪 氏子三十八戸 社殿〔〕


日蓮宗本徳寺

写真の右手山の奥に「七面社」がある、当寺の鎮守社と思われる。昔は信者多かったようである。
『大飯郡誌』
本徳寺 日蓮宗本圀寺派長源寺末 東勢字村中に在り 寺地四百六坪 檀徒百五人 堂宇〔〕日源堂〔〕庫裏〔〕鐘楼〔〕由緒〔明細帳〕永享四年九月四日日源聖人開闢(按に日源堂は二百年前最盛時代の一記念乎)
〔若狭郡縣志〕 山上祭七面明神而横甲斐國身延山山上の七面明神は往時大に世の信仰を集めしが如し。
〔稚狹考〕 大津笹井彌七元祿年中三方郡嵯峨山の地道を掘て中の潮水を日向浦に落し中の潮を新田にせんとす前後八年の間人夫をかけ貳千餘金を費やし其功ならず此時の笹井氏は山城宇治堀氏の男也一旦家道さかへて近国諸家に立入たり越前福井侯へも立入り其家士笹倉善右衛門算術に委しきにつき仰ぎ迎へて笹倉氏北方に來り山水の高低を考へられ考のごとく水は一旦吐きたれども湖中の殘水勢なければにや日向浦の海水に壓れて功業成らず…笹井氏は京にも肆をはり東山に別墅あり彼新田祈りの爲に東勢村七面山に三十六哥仙を納らる哥は縉紳家書は土佐家なり。
 享保年中までも…東勢の七面明神西勢の妙見菩薩繁昌なりしに享保元文の初より漸衰ふ。

附我國に於ける法華談林の創設は庵の谷に於て慶長二年寂如法師によりて成され一時の盛を極めしが如し。
 〔稚狭考〕 東勢村本徳寺の側に庵の谷あり京本國寺日禎僧正此所に屏居してありけるに寂如法師といふありて始て談林を開く正善院日要講師夢門日詔も徳寺に在て台學を講ず佛行院日善も講筵に侍す(矢田部長徳寺を建らる)夢門は武蔵國池上本門寺十三代水相觀を得たる人にて若耶の夢門とて名ある憎なり
日要日善は長源寺の七世十一世なり山城の松崎談林は京郡七談林の始にて根本談林と號に東勢村より松崎へうつりしなれば根本の根本は東勢村なり移されし年いまだしらず下総の飯高常陸の水戸談林など松崎よ今は後の事なり松崎に七月燈籠を戴せて踊るを題目踊といひて題目を唱へ踊る事なり其哥の中に起きて潮汲め又帆かけて通るの語あり皆東勢村にてありし事の松崎にうつりしなり近き頃まで其哥其踊を覚えし老人勢村にありき…談林の始は慶長二年なり。
 日雄は若州小濱内藤氏の子にて母は長井氏…勢井談林に学び…良圓院(寛永年中本國寺院に見ゆ今不知)を開く京本法寺開山日親上人本國に来りて東勢村真珠庵を建らるゝよし親上人行状に有これにつぎて寛文年中本法寺長源寺とあらそひ出来て終に本の如く長源寺の未寺となり今に本徳寺の側に庵の谷の名のみ殘れり釋迦堂は真珠庵の佛を納めし所といひ傳へり其爭論の書寺庫に有り何れにも親上人開基無疑。


真珠庵
『大飯郡誌』
真珠庵(日蓮宗)の名〔正徳三年國中寺號〕 〔文化四年雲濱鑑〕に見ゆ(東勢)


《交通》
勢坂
丹後街道の難所。今は勢浜トンネルがあるが、昔は山を越えた。今もその道はある。西から行けばトンネルの手前200メートルくらいに右手へ入る道がそれで、クネクネ行くと斎場などがあって、青井へ出ることができる。


《産業》


《姓氏・人物》


東勢の主な歴史記録


『大飯郡誌』
(勢坂) 文和三年足利尊氏は細川清氏を守護職に任ず清氏は頓宮藤康(頓宮四郎左衛門後大和守と号す)を代官となし之を治めしむ尊氏の子義詮将軍となるに及んで清氏を讒する者あり義詮之を信じ斯波氏頼仁木義住に命じて清氏を小濱城に攻せしむ氏頼は北陸の兵三千餘騎を率ゐて北方より義住は山陰の兵二千餘騎を率ゐて西方よりし小濱城を夾欒せんとす是に於て清氏は藤康をして小濱城を守らしめ自ら七百餘騎を率ゐて越前國敦賀郡に赴く仁本義住軍を率ゐて逆谷(佐分利村川上に在り)を出てゝ勢坂に到れば清氏の兵は藤康の變心に依り力を失ひ四散す清氏勝算なきを知り弟左馬助と吉野に走りて南朝に降れり(清氏南朝に帰順して大将たるの論旨を拜受し貞治元年七月二十四日讃岐・國白峰の麓に於て徒弟細川頼之と戰ひ頼之が臣伊賀掃部助高光の爲めに殺さると云ふ

東勢の伝説


『越前若狭の伝説』
山の井明神         (東 勢)
 東勢の七石山にあり、甲斐国身延山の堂を模したという。この土地の人は日蓮宗を尊ぶならわしかあった。もとこのへんの井戸水が濁って使用出来ないほどであったが、この神社に祈れば美しい水がわきいで、社か衰える時はまた水が濁ったという。     (若狭の伝説)





東勢の小字一覧


東勢 古浜 峠谷 土取 板ノ下 橋ノ元 勢坂 坂尻 坂ノ谷 大畠 小畠 一ノ谷 二ノ谷 中ノ谷 奥二ノ谷 大田 三十三町 日焼 下高岸 高岸 漆迫 雁坂 元作 酸漿谷 鍛治谷 生姜谷 生姜脇 奥生姜谷 下鳥帽子 中鳥帽子 上鳥帽子 菖蒲谷 赤兀 松ケ崎 六反田 高橋 清水 広畠 向畑 鳥山 寒風 小豆谷 割谷 鬼谷 子持谷 稲葉 保志ノ木 大道上 木戸口 石伏 村中 左近谷 宮本 森本 宮口 神田 宮脇 宮後 堂下 椎之木谷 岩中 川向 富奥
宮谷 丸山 大内 榎谷 荒迫 細谷 平林 下名口 上名口 大岩谷 砥石谷 上花 船迫 中野花 下野花 窪田 上野花 地岳谷 鳥越 樋ノ谷 奥鳥起 小山 峠谷 坂谷 一ノ谷 二ノ谷 三十三町 雁坂 元作 生姜谷 広畑 寒風 宮谷 荒迫 滝ノ谷 細谷 間谷 足谷 地岳谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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