丹後の地名 若狭版

若狭

神宮寺(じんぐうじ)
福井県小浜市神宮寺


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福井県小浜市神宮寺

福井県遠敷郡遠敷村神宮寺

神宮寺の概要




《神宮寺の概要》

神宮寺がある遠敷川左岸の集落。古代から神社仏閣の村とされ、現在も宮大工職が多いという。
神宮寺は、戦国期に見える地名で、文永2年11月の若狭国惣田数帳案に西郷に3反余の寺領があると見え、弘安8年9月2日の代官沙弥定意・日下朝忠連署打渡状にも「神宮寺下」、すなわち神宮寺々辺地に寺領があったことが知られる。弘治2年の明通寺鐘鋳勧進時入目下行日記には「十五文 神宮寺にて門前ニテ酒」とあることから、この頃にはすでに神宮寺の門前に集落が形成されつつあったことがうかがえる。
天正年間には、のちに豊臣秀吉の妾となった松の丸(当時は若狭守護武田元明の妻)がこの地に屋敷を構え、その際出産した平左衛門家の屋敷と山はその後永代免許になったという。地図には「松の丸段と産湯の井戸」という所が正明寺あたりにあるが、道狭そうで行けなかった。
近世の神宮寺村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。神宮寺は歴代領主の保護があつく中世末までは隆盛を極めたが、何度か大災に遭遇し江戸期に入ると次第に衰退した。明治になると神仏分離令によって寺領は没収され、檀家もなくなり、建物も薬師堂・開山堂・鐘楼堂・仁王門・円蔵坊・桜本堂を残すのみとなったという。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年遠敷村の大字となる。
近代の神宮寺は、明治22年~現在の大字名。はじめ遠敷村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北3町、戸数32、人口は男93・女78、学校1。


《神宮寺の人口・世帯数》 134・43


《神宮寺の主な社寺など》

天台宗霊応山神宮寺

若狭彦・姫神社の神宮寺としてよく知られた古い寺院である。本堂は旧国宝。
「しおり」には、(これは少し以前のもの)
*若狭神宮寺*奈良二月堂へお水送りの寺*  *福井県小浜市神宮寺町*
若狭神宮寺の由来
若狭は朝鮮語ワカソ(往き来)が訛って宛字した地名で、奈良も朝鮮語ナラ (都)が訛って宛字されている。この地方は若狭の中心で白鳳以前からひらけ、この谷は上陸した半島大陸の文化が大和(朝鮮語でナラともいう)へはこばれた最も近い道であった。それは対馬海流にのってきて着岸した若狭浦の古津から国府のある遠敷(おにふ=朝鮮語ウォンフー「遠くにやる」が訛った) や根来(ねごり=朝鮮語ネ、コーリ「汝の古里」が訛った)と京都や奈良が百キロほどの直線上にあることである。
この地方を拓き国造りした祖先が、遠敷明神(若狭彦命)で、その発祥地が根来の白石で、都へ近道の起点に良地をえらび、遠敷明神の直孫和朝臣赤磨公が八世紀初め山岳信仰で、紀元前銅鐸をもった先住のナガ族の王を金鈴に表わし地主の長尾明神として山上に祀り、その下に神願寺を創建され、翌年勅願寺となったその秋には、紀元一世紀頃唐服を一着て白馬に乗り影向し、すでに根来白石に祀られていた遠敷明神を神額寺に迎え神仏両道の道場にされた。これが若狭神願寺の起源で鎌倉時代初め若狭彦神社の別当寺となって神宮寺と改称したのである。
又、神願寺の開山赤磨(和氏)公は白石の長者の神童(幼児)を大和に伴い当寺の名僧、義淵僧正(大樹)に托され、後東大寺開山良弁僧正となられ、神願寺へ渡来した印度僧実忠和尚が良弁僧正を助けて東大寺を完成し、さらに二月堂を建て、お水取り行法を始められた。その若狭井の水源が白石の鵜之瀬であるから、白石神社で行ったのを伝え根来八幡宮では毎年三月二日、山八神事を行い同日夜、神宮寺から神人と寺僧で鵜之瀬へお水送り神事がある。


地名の由来まで書いてある。当否は別としても、渡来の歴史に正面から触れているのは立派と思う。その地のトップに位置するお寺や神社がこうした遠い過去に触れたような物は、丹後やましてや舞鶴にはない。観光パンフレットでも地元郷土誌でも触れている。それなりの果たすべき社会的責任や社会を導く教育者たるべき知識人の組織と自覚して書いておられるのであろう。そんなことはどうでもよい、ゼニをくれ、だけでは未来はなかろう。

神宮寺は県道35号と若狭西街道が交わる所、長尾山の山裾にあり、本尊薬師如来。近世までは若狭鎮守一二宮(若狭彦神社・若狭姫神社)の神宮寺であった。初めから神仏習合の神宮寺として建てられたものでなく、天文15年(1546)成立の神宮寺縁起は「当山旧記曰、若狭国遠敷郡霊応山根本神宮寺者、元正天皇為勅願、和銅七年甲寅、沙門滑元草創也」と記し、もとは神願(じんがん)寺と称したが、若狭彦・若狭姫二神が垂迹した際、当寺が「最初宮居寺」であったため、若狭彦姫神社の奥院と号され、のち神宮寺と改めたという。
しかし神願寺については「類聚国史」が天長6年(829)として記す次の縁起もある。
  若狭国比古神、以二和朝臣宅継一為二神主一、宅継辞云、
  拠二-検古記一、養老年中、疫癘屡発、病死者衆、水旱
  失レ時、年穀不レ稔、宅継曾祖赤麿、帰二心仏道一、練二
  身深山一、大神感レ之、化レ人語宣、此地是吾住処、我
  稟二神身一、苦悩甚深、思下帰二-依仏法一、以免中神道上、
  無レ果二斯願一致二災害一耳、汝能為レ吾修行者、赤麿即
  建二道場一造二仏像一、号曰二神願寺一、為二大神一修行、厥
  後年穀豊登、人元二夭死一云々、
という。
しかし神宮寺としてであっても早く、奈良時代から神宮寺建立が始まり、越前敦賀の気比神宮寺と並んで早期の例とされ、よく研究書などにも取り上げられる。
かつては25坊を数えたと伝え、杉本坊・不動坊・赤井坊など坊跡をうかがわせる小字が残る。建長元年(1249)8月日付藤原光範寺領寄進状に「神宮寺四至領」として「東限高岸 西限松尾鼻并鳥坂峰 南限太谷南尾 北限率都波岸」とあり、現在確認できるのは西限のみであるが、境域内では殺生が停止されている。正嘉2年(1258)に武成名地頭給田のうち3段が寄進され、文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写には「神宮寺 三反二百四十歩」とある。以後も地頭方の寄進や南朝方にくみした国人河崎信成の田地三町の寄進などがあり、康正3年(1457)6月日付神宮寺寺領目録案には田四町四反・畠二反、二名を記し、これら寺領は室町幕府によって安堵されている。
文和年中(1352-56)には税所代によって常満(じようまん)保供僧職の補任も行われているが、同保は鎌倉期以降は国祈祷料所として国衙の支配下にあり、供僧職は若狭一二宮神官牟久氏一族に多い。南北朝期以降に当寺住僧の補任がみられることは、この頃に若狭一二宮とのより深いかかわりを示すもので、これは室町期までみられる。永正5年(1508)12月27日付武田元信加判同氏に、「若州根本神宮寺、依為彦次郎((武田元信)殿御祈願寺、諸役事被免除畢、此通各令存知、弥勒行等任先規、無相違可被守護伽藍之旨、可申由候也」とあり、以後武田氏代々の祈願寺となった。
天文5年の法華の乱には、延暦寺の出陣要請に応じ、日蓮党追討に当寺衆徒らの働きがあった。永禄11年(1568)越前朝倉氏の侵攻で若狭国は朝倉氏支配下に置かれるが、当寺にも朝倉義景の禁制が発給されている。近世には灯明料として5石が寄進され、京極氏に代わった酒井氏も諸役を免除している。

本堂は天文22年(1553)、朝倉義景(「麒麟が来る」にも出てくる越前朝倉氏の最後の当主)の再建で重要文化財。石積基壇、桁行5間(14・34メートル)、梁間6間(16・6メートル)、単層入母屋造檜皮葺、四面回縁。唐様を取入れた和様建築で若狭地方における室町末期の代表的建造物とされる。


ワニ鈴が奉納されていた。格子戸の奥をのぞくと立派な仏像がビッシリ。

奥の院

本堂の裏に「奥院」がある。遠敷明神とも呼ばれているよう、どう行けばいいのか道が見当たらない。そこまで行く間が広く、ここにかつての神願寺の金堂や塔があったのではなかろうかと推測されている。
ここからは平城宮朝堂院型式の軒丸瓦が採取されていて、その時代からすでに中央国家や若狭国との深い関わりが推定されている。
元々は遠敷明神を祀る人々の寺であったのであろう。遠敷明神の直孫和朝臣赤磨公が開山とも伝わる。赤麿とは遠敷の意味を体現しているようなピッタリ名だが、和(やまと)朝臣とは何者か何とも遠敷と繋がらない氏族名のように思える。ひょっとすると僭称かもかもだが、大和国造系とみればこのあたりの海人族であろう。若狭彦神社の境内に蟻通神社がある、これが丹生神社であろう、その丹生氏の一族が遠敷氏だろうと推測すれば、和朝臣では木に竹をつぐようなハナシになって頭がクラクラするが、少し時代の違う話がごちゃ混ぜにまったしまったものか。

北門(仁王門)

北門にあたる仁王門も重要文化財で基壇石垣積み、単層切妻造。屋根は柿葺の八脚門。間口6・37メートル、奥行3・64メートル。棟の高さ5・5メ-トル。鎌倉末期の建造で、両端には胎内に至徳2年(1385)の墨書銘をもつ木造金剛力士像を安置する。
『郷土誌遠敷』
神宮寺仁王門と本堂の修理
神宮寺の仁王門は鎌倉時代の作であるが、昭和二十五年(一九五〇)頃にはひどく腐朽して、丸太棒で支えられ、倒壊を免れていた。そこで、文部省が工費二百万円で、昭和二十六年(一九五一)一月に解体し、修理を続けて八月には完成した。この時の修復では腐朽が予想以上にひどかったので、八、九割までスギ、ヒノキの新材を使い、古色を出すためにはスス、ニカワなどをまぜた古色処理がほどこされている。今後三百年位の保存は大丈夫と折り紙がっけられている。この仁王門は切妻造りの八脚門(建坪六坪)で、その豪壮さと優美さは鎌倉時代の代表作といわれている。

本堂は室町時代の入母屋造りの代表的な建築物であるが、この建物も回廊は朽ち落ち、欄干もほとんどなくなり、屋根はトタン板で覆うなどみじめな国宝(旧)であった。昭和二十六年(一九五一)七月より三ヵ年計画で修理を始めた。工費約千五百万円である。この修復で入母屋造りに復元された。その後、昭和五十九年(一九八四)には本堂屋根箱棟修理事業(百十四万円)、平成七年(一九九五)には本堂屋根保存修理事業(八四三〇万円)、平成八年には本堂屋根保存修理事業(約五百二十一万円)等の諸事業が行われ、現在の威容を誇っている。また平成九年には防災施設修理事業(三百万円)が行われている。



坊跡
北門から本堂へ直線で続く参道。道の両側は今は空地だが、ここにはいつくもの坊が建っていたのであろう。

1里四方もあったという広大な寺域は今は全体に荒れていて、カメラを向けるのもつらいのだが。。
参道脇に大膳院(若狭神宮寺本坊桜本坊大膳院)がある。↓

次に「大師堂」があるのだろうが、門が閉じられていて行けそうにはない。
境内図(案内板より)

木造男神像・同女神像(坐像)も重要文化財。今はコンクリートの収蔵庫に収められているが、奥院に安置されていたもので、男神は衣冠束帯、像高は49・1センチ、女神は小袿姿で像高50・9センチ。南北朝期の作。当寺では遠敷明神と伝えている。


閼伽井とお水送り神事
本堂の左側樹齢400年というスダジイの巨木があるが、その向かいの小屋である、「奈良東大寺二月堂へお水を送る(三月二日)水源の井戸」と案内にある。


3月2日に下根来を流れる根来川の鵜瀬の淵(当地より2㎞ぱかり上流)で、当寺住僧による奈良東大寺二月堂への送水神事が行われる。これは、鵜瀬の淵が二月堂の下にある若狭井の水に通ずるという伝えに基づくもので、「若州管内社寺由緒記」によれば、延宝3年(1675)以前から行われているという。奈良へ送られる水(閼伽水・御香水)は、この井の水である。この水を松明行列を組んで、鵜瀬の淵まで運んでいき、そこへ投じられる「お水送り」と呼ばれる、観光イベントになり報道などでよく知られている春の訪れを告げる行事である。
鵜瀬で注がれた御香水は10日かかって奈良へ着き、3月12日に東大寺二月堂で「お水取り」の行事が行われるそうである。

『遠敷郷土誌』
霊王山 根本神宮寺(若狭神宮寺) (神宮寺)
宗派 天台宗
本尊 薬師如来
歴史
 若狭神宮寺は、正式には「若狭国・霊王山・根本神宮寺にと号し、その開山は遠敷明神直系の子孫和朝臣赤麻呂公・僧名滑元と伝え、開創年は和銅七年(七一四)で元正天皇勅願寺と神宮寺文書に記されている。
 又当所は類従国史や元亨釈書には「神願寺」と書見しえ、養老年間(七一七~七二三)の草創を伝える、その開創には数年の差異があるが、境内に出土する古代瓦は概ねその当時の存在を裏付け、なかでも軒丸瓦(平城京第二朝堂院六二二五形式)はその造営に中央政朝が関与している事を立証するものだと云う。
 しかし謎が多い、それは若狭国最初の精舎と伝え、諸国「国分寺」建立の詔(七四一)以前に存在した官寺と伺え、しかも一處に若狭国比古神と同居する神仏混淆の寺院である点にあろう、それは若狭で唯一国史に書見しえ、なぜかその縁起迄が政朝内部の条文に採り上げられ残る、地方寺院としては異例な部分にも伺える。
 さらにかつては七堂伽藍二五坊社、境内のみで四万坪、寺域は一里四方が結界され、若狭地方の寺社の要、一州の根本寺と称され、当所が若狭国比古神-二座一社であると伝承する点にもあり、その歴史的な経緯は混沌としている。
 伝えでは平安末に始まる末法的世相、その乱世期の無法と呼ぶ嵐は免れず、特に平重衡による南都の炎上(一一八〇)その法難は当所まで及び大きく荒廃・衰微したと言うが、以後鎌倉幕府の顛倒寺領興行令で再び「四至領」が安堵(一二四九)され、現在の若狭姫・若狭彦神社を下社・上社と呼び神宮寺を奥の院と呼称する形が始まったと聞く。
 当所はその別当寺故に根本神宮寺と号し、鎌倉幕府の七大寺七人社に格付けされ、鎌倉~南北朝の厳しい時勢下興行、それらの復興後の様相が「当山伽藍古絵図」で残る、だが惜しくも、現在は多くのものが退転しその壮大な景観は望めない。
 ただ伽藍古図に描かれた通称仁王門(北門)が国重文で同位置に現存し、本堂までの長い北参道を上がる両側には坊舎跡がのどかな水田と化し名残り、中央境内に至ると室町期に再興された本堂(国重文)が、御神体山と崇める地主「那伽王」山を借景とし雄大な姿で同所に確認しえる。
 又「若狭国比古神-二座一社」と呼ばれ来た神殿跡に、明治の神仏分離の難を免れた男女神像(国重文-若狭彦姫)が収蔵庫に祭祀されており、平成十六年(二〇〇四)市文化遺産推進室(市教)によりその斜め後方に古代塔跡も発掘され、伝承もあながち否定もできない。
 長い歴史の盛衰は常ながら、脅威的なのは約千三百年近くの歴史を経ても依然とこの地に残る事であり、東大寺良弁僧正の由来や二月堂を開かれた実忠和尚が当寺に居られ、当所の若狭国比古神が遠敷明神であり、遠敷は元来「小丹生」であると伝え、奈良との深い関わりを踏襲し、毎年三月二日の「お水送り」行事は千数百本の松明が動く荘厳なものであり現代は県内外に広く知られている。
 だが特筆すべきは、檀家や氏子も持たない狭い谷間の此寺に、肩書きも関係なく陰乍ら幇助・布施する人々が集い当行事が厳修されている事であろう。
 又明治の神仏分離令で悉く消えた全国の神宮寺の中、唯一若狭の遠敷の地に残存し、我国古来よりの神仏混淆その亡失された精神文化が息づいている事である。

『遠敷郡誌』
神宮寺 天台宗延暦寺末にして本尊は薬師如來なり、同村神宮寺字杉本坊に在り、和銅七年滑元の開基にして本尊は其自作なりと傳ふ、元神願寺と稱し根本道場とす、寺傳に曰く靈龜元年の秋彦火々出見尊の垂跡若狭彦尊白馬に乘じ白雲に居して當地音無川の上流白石に影向し給ふ、亦養老五年の春、豊玉姫命の應化若狭姫命同石上に出現し給ふ、滑元此の二神の本地垂跡の靈體を勤宿し奉り天降の瑞鈴を以て大明神と號し卜神として國家豊饒を祈請す、其後多太嶽の東瀧仙(今の龍前)の麓に社壇を移し營む、今の上下宮神社なり、夫れ若狭彦尊の本地は東方薬師如来なり、若狹姫命は本地千手觀音なり、所謂上下宮大明神は當國擁護の鎮守神願寺は二神最初の宮居寺なるを以て奥の院本地と號す、後尊圓親王染筆額書によりて神願寺を改めて根本神宮寺と號す云云。
 將軍頼經藤原光範をして四至を定めしめ寺地を寄進し諸堂を修し當國の祈願所となす、文永二年惣田數帳に神宮寺あり、西郷に於て三反餘を領す。文和三年細川清氏再興し、天文二十二年朝倉義景再興す、爾来羽賀寺明通寺と共に勢力あり、特に上下宮に於て修せらるゝる。之れによりて代々の國主の保護篤く盛時に在りては七堂具備し二十五宇の坊舍ありしと傳ふれども、敷度の火災に罹り中世以降振はず、明治維新に及び神佛判然の爲め上下宮を分離し寺領は上地となり檀徒無く振はず今僅かに薬師堂開山堂鐘樓堂仁王門圓蔵坊櫻本坊のみを存す、寺寶蓮唐草蒔絵經箱一合明治三十四年八月國寶となる。



曹洞宗朝日山正明寺

『遠敷郷土誌』
朝日山 正明寺(神宮寺)
宗派 曹洞宗
本尊 阿弥陀如来
 歴史
 由緒によれば、当寺は遠敷村市場に神通寺(本寺)七世、玉峰素白大和尚の隠居寺の阿弥陀堂を移設、正明寺とするとある。神通寺七世は寛文年間(一六六一~)であり、この頃に正明寺が現在地に建てられたのであろう。戦時中失火で消失、後に小浜公園近くの庚申堂を買い取り移設する。昭和五十八年(一九八三)増築して寺院としての姿を整え、平成四年(一九九二)庫裏の改築を行い現在に至る。
 この地区は名のとおり神仏習合の名残りがあり、神宮寺もあるが、同寺は武士の祈願所であり、一般の人々の菩提寺ではなかったため、人々は自分達の菩提寺として建立したのであろう。


『遠敷郡誌』
正明寺 曹洞宗神通寺末にして本尊は薬師如来なり同村龍前字庵ノ下に在り、元眞言宗なりしも久しく中絶す、承應年間檀徒再興を計り神通寺第七世宗智を開山とし、萬治二年今の宗に改めて再建す、境内佛堂に地蔵堂あり。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》
松の丸
『郷土誌遠敷』
松の丸と産湯井跡
永禄十年(一五六七)武田元明か家督を継いだが、元明にはすでに国主としての実質を持ち得ない存在になっていた。この若狭守護職として最後の当主(八代目)元明のもとへ北近江の守護京極高吉の姫君「竜子」が嫁いで来た。わずか十五歳であったという。
この方が後に「松の丸」さまと呼ばれる人で、京極高次公の姉に当たる。美しく聡明な方であったそうであるが、その美しさゆえに、幾度か悲しい運命にさらされる。
竜子が若狭に嫁いで間もなく、越前の朝倉義景が若狭を攻めてきた。その頃の武田家は守護職として八代続いたが、既に勢いをなくしており、戦いに敗れる。永禄十一年(一五六八)八月、元明夫妻が越前へ連れ去られるという事件が起こる。ここに武田氏の支配は終わった。
その後、織田勢によって朝倉が滅ぼされ「元明・竜子」夫妻が明智光秀の手引きによって天正元年(一五七三)小浜へ帰ってくる。そして神宮寺の桜本坊に身を寄せた。この時にお竜の方は身ごもっており、寺内でのお産は穢れるとの恐れから坊を離れてお産をすることになった。そこで当区の河野家が「産屋」としての役目を受けることになり、その役を果たすため産湯のための井戸を新しく掘って、お竜の方を迎えたと言う。当時のままの井戸が河野家の宅地内に残っている。この池を守るためか同じ区内の神田家に池守の役を示す品が残っているそうである。


神宮寺の主な歴史記録


ワニ鈴

神宮寺のワニ鈴のワニとは、ワニ氏と何か関係があると思うのだが、鈴に付いていた由緒書には、
若狭国神宮寺は約千三百年前(西暦七一四年)に開創され、当初「鈴應山 神願寺」
と呼称されていました。
その由来に当寺ご開祖はご神体山に紫雲たなびき鈴音が鳴り始め七日経ても止まぬ奇端を不思議に天神に祈ると「金鈴」が天降っで来たと伝えます。それを当地の地主神(那伽王)と祀り、古来より除魔と守護のご神体とされてきました。
その金鈴を模した御守りがこの「ワニ鈴」でございます。
泥中にあって高貴な芳香を漂わせ華麗に開花する蓮華、その開花させうる正体の如く、鈴の妙音は中の玉と外側の善きバランスがあってこそ鳴り始めます。
鈴の中にある玉はほとけ心(仏性、神性)その外側は物質我欲で淘汰し合う、「至りたくとも至らぬ囚われの、心とお想い下さい。
この除魔鈴は鳴り成らせぬ魔を祓い人々に「心の鈴」を鳴らすご縁を授けると伝えます。ぜひそのご縁に恵まれます様御祈り申し上げます。       合掌 拝

豊玉姫、玉依姫のタマと同じタマの意味のように思われる、タマはボールのことでなく、タマシイのタマでライフの意味のようで、これはワニ氏的な南方的なイメージかと思われる。浦島太郎の玉手箱のタマも同じ意味だろう。玉手箱の意味は、玉のように綺麗な手箱でなく、本当の意味は玉(ライフ)の入った手箱のことであろう。手箱の中のタマが煙となって消えると、その持ち主は一気に活力を失い老い皺だらけて枯れ果て此の世を去ることになる。大事なタマの鈴だからぜひ買い求められては(500円だったか)。。
タマの延長が卵生説話であろうか。天皇さんの高御座もこの延長かと思われる。


『小浜市史』
神願寺と神宮寺
若狭神宮寺は遠敷谷から上根来を通り針畑越えをして京師にいたる街道筋の神宮寺区に所在し、現在も天文二十二年(一五五三)朝倉義景が再建した本堂(重文)を残す天台宗の古刹である。
天文十五年成立の同寺縁起によれば、元正天皇の勅願によって和銅七年(七一四)沙門滑元が草創したと伝え、もと神願寺と称したが、若狭彦・姫二神垂跡のとき宮居寺だったので両社の奥の院と号し、のち神宮寺に改めたと伝える。寺号については『類聚国史』天長六年(八二九)三月十六日の項に、若狭比古神の神主和宅継の曽祖赤麿が仏道に帰心し、養老年中(七一七~二三)に道場を建て仏像をつくり神願寺を称したと記す。なお「若州根本神宮寺」となったのは南北朝期の尊圓法親王によるものと推察されよう(「神宮寺文書」)。したがってここでは神願寺として述べるが、同寺縁起にいう八世紀初頭の成立過程は泰澄伝説などにみられる古代山岳宗教と同様の形態を示している。もっとも、八世紀初頭における当寺が確たる伽藍配置を持っていたかどうかは明らかでない。しかし、出土瓦をみる限り少なくとも八世紀中頃から後半には、本瓦葺の建造物を伴う寺院が存在し、これを神願寺として成立させていたことは確かである。また、瓦の性格から国家が何らかの形で関与した寺院との推定も成り立つ。
国衙系の瓦
当寺出土の軒丸瓦(図34)は、基本的には複弁八葉蓮華文で内傾に連続する鋸歯文を持つ。内区は二重圈となり、中房蓮子は一+八で構成されている。軒平瓦(写真61)は一重孤圈となる。太興寺廃寺で述べたように、この軒丸瓦は平城宮第二次朝堂院跡から出土したものと同系類である(図35、『平城宮発掘調査報告Ⅶ』より転載)。上総・駿河・美作などの国分寺や、美作国府などに使用されており、官的な要素が強く感じられる。北陸には今のところ見当らず、近隣では平城宮とは異なるが類系の瓦として丹波・和久寺(福知山市)が知られている。
元正天皇勅願という伝承は持つものの、官に使用の瓦が国分寺以外の神願寺に何故利用されたのであろうか。神願寺だからと言ってしまえばそれまでだが、この頃仏教信仰と神祇信仰を融合調和させる神仏習合が盛んであり、これを促進させたのが天平神護元年(七六五)太政大臣禅師となった道境であった。その翌年には伊勢神宮寺に丈六の仏像をつくらせるなどの介入をしており、この頃若狭神願寺ともかかおりを持ったとの見方もできる。道境政権下における若狭への影響もかなりあったことが指摘されており(第六節参照)、あるいは御食国若狭を道境が掌握したかったのかも知れない。もっとも、若狭神願寺については、殆んどわかっておらず、広大な寺域を総合調査することによってやがて実態を明らかにすることができるであろう。
 しかし、いずれにしても瓦の発見によって官的要素の強い寺院であり、神願寺として全国的にもっとも早い造立であることが明らかにされたといえる。



神宮寺の伝説


『越前若狭の伝説』
神宮寺 (一)           (神宮寺)
 養老年間(七二〇ごろ)若狭の国に疫病がはやり、毎年干ばつが続いた。時に若狭比吉(ひえ)神の神主に私赤という者があった。仏教に帰依し山林に住んでいた。比吉大神は人に化して来て、私赤に告げた。「この地はわたしの所有地である。わたしは鬼神に生れ、苦報か多い。仏法に帰依して苦界を脱したいと思うが、方法がない。そのためしばしば災害を起している。お前がわたしのためにこの地に寺院を建て、仏像を安置するならば、災いがなくなり、年豊かに民安らかになろう。」私赤は寺院を建て、神願寺(神宮寺の前名)と称した。その後災害はなくなった。   (元亨釈書)


 「本朝神社考」には私赤の名は、赤心とある。(杉原丈夫)

神宮寺 (二)           (神宮寺)
 霊応山根本神宮寺は元正天皇の勅願寺である。和銅年中(七一四ごろ)山の上に雲が起り、雲の中に鈴の音があった。滑元という僧が鈴の音に感じて、この地で修業した。七か日を経て当山の長瓦岩の上に鈴と幡(はた)が降りた。その鈴は今も宝物として寺にある。この鈴は神霊である。
 若狭上の宮および下の宮が垂迹(すいじやく)の後、滑元は薬師観音および千手観音の二像を安置して、本地堂を建立した。上下二神は当国の鎮守であり、神宮寺は二神の本地で、国家霊場の根本である。故に神願寺をもって根本神宮寺と号する。   (社寺由緒記)

 和銅七年(七一四)滑元の開基で、本尊の薬師如来は、滑元の自作である。もと神願寺と称した。霊亀元年(七一五)に若狭彦神が、養老五年(七ニー)に若狭姫神が、それぞれ音無(おとなし)川の上流白石に出現した。滑元はこの二神を祭り、天から降りて来た鈴を大明神とした。その後神社を現在の竜前の地に移し、神願寺は奥の院本地と号した。        (遠敷郡誌)


松の丸殿           (神宮寺)
 武田元明(もとあき)は、明智光秀に味方したため、豊臣秀吉の家来丹羽長秀によって、江州海津の法道院に呼び寄せられ、詰め腹を切らされた。元明の妻も捕えられて、京都へ連れて行かれたが、秀吉のお気に入りとなり、松の丸殿といわれた。
 元明にはふたりの男子とひとりの女子かあったが、三人とも行くえ不明になった。娘は神宮寺の奥山家にとついだとも、根来(ねごり)のダンで病死したとも、ダンの名家武兵衛という人の妻になったともいう。
 松の丸殿が神宮寺で子を産んだとき、寺の中ではけがれがあるというので、この村の百姓平左衛門の家でお産をした。このことから秀吉は平方衛門の屋敷と山を永代免許とした。     (若狭守護代年数並旧記)




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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