丹後の地名 若狭版

若狭

上根来(かみねごり)
福井県小浜市上根来


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福井県小浜市上根来

福井県遠敷郡遠敷村上根来

上根来の概要




《上根来の概要》
遠敷谷の南端の山間の集落で、根来坂を上り詰めた標高約300ほどの「山のテッペン」である。テッペンとまでは言えなくともテッペンに近い高い所にある。今は廃村で廃屋が道縁に残っている。

上根来は、戦国期に見える地名で、弘治2年(1556)6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状に「百文 かミねこり」と見える。
上根来村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。遠敷谷の最奥部に位置し耕地にめぐまれないため炭焼きや林業を主な生業とし葛なども産したという。江戸期には中ノ畑・上根来(団・段)の2集落より成っていたが、中ノ畑は独立村として取り扱われることが多かったようである。明治7年中ノ畑が正式に当村から分村した。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年遠敷村の大字となった。
上根来は、明治22年~現在の大字名。はじめ遠敷村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西3町・南北3町余、戸数33、人口は男95 ・ 女93。世帯数・人口は、大正9年32 ・ 160、 昭和10年27 ・134、同30年26・121。針畑越の峠道は明治期以降しだいにさびれ昭和40年代以後はほとんど通る人もなく荒れ果てたままになっていたが最近の歴史ブームと小浜市が林道整備計画を発表したため、再び脚光を浴びつつある。雪が多く交通が不便なことから高度経済成長の過程で過疎化が急速に進み昭和60年上根来小学校も廃校となった。昭和50年代初め第2次農業構造改善事業の一環として上根来肉用牛生産組合が組合員5名で発足し同53年牛が導入され、同55年には諸設備が完成した。同63年現在約460頭の肉用牛が畜舎内で飼育されていた。


《上根来の人口・世帯数》 0・0


《上根来の主な社寺など》

百合ケ岳
『郷土誌遠敷』
百里ケ岳
上根来より約一時間で百里ケ岳山頂につく。標高九一三メートルでここには一等三角点の標識がある。若狭では第二の高山で丹波地帯古生層に属し、黒色の粘板岩類で構成されている。
暖地性植物の北限とされているものも多く、また「オオコメツツジ」は南西限だといわれている。「ホンシャクナゲ」の自生地で、頭巾山と共に県指定天然記念物になっている。山の八合目から上は「ブナ」や「シデ」が多い。百里ケ岳から北にのびる稜線には木地山峠がある。南西に走る山峰に針畑峠がある。峠の下の谷を小入谷(おにゅうたに)とも言う。


広峰神社

『遠敷郡郷土誌』
廣峯神社 (上根来字向山)
○祭神 素盞鳴命
 上根来には、山神社はない。集落の全の行事は、廣峰神社で行われている。


『遠敷郡誌』
廣嶺神社 村社にして同村上根來字向山にあり、祭神は素盞嗚尊なり。

こんな案内板がある。
広峰神社の鳥居(昭和23年築造)
 「わしわ、18歳だったので、大ケヤキの伐採する男衆に入れてもらえず、“オノ”による伐採の物見役たった」と今年89歳になった川端栄太郎氏が語った。
 昭和23年1月、大雪の中、村中の老若男女が集まり、宗山にあった「大ケヤキ」を切り出し、「ソイヤーソイヤー」と天町まで運んできたようで、村中の女の人は紅白の“たすき掛け”をして引手の男の人を応援、多くの子供たちも大喜びで、村中挙げての事業だったようです。
 太平洋戦争中は引手の男の人がいなく、3年が経ち復員者が増え、やっと鳥居修理を行うことになったようで、当時18歳たった川端栄太郎氏は、家の男の代表として伐採作業に行ったものの、伐採作業は30歳前後の作業者がいて、周辺で見守るだけだったようです。
 天町(当時遠敷村で最も高地で最も大きな水田でした)で、岩本亀蔵氏による木挽を行い、現在の鳥居築造となったようです。



曹洞宗宗福寺

正確にはよくわからないが、たぶんこの建物。
『遠敷郡郷土志』
宗福寺(上根来)
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦矣尼佛
歴史
 創建、天和三年(一六八三)神通寺より祖峰師を戴いて、開祖となす。寛政四年(一七九三)四月落雷により全焼失する。後、十年を経て文化十五年(一八一三)再建される。寺歴変遷は不明。


『遠敷郡誌』
宗福寺 曹洞宗神通寺末にして本尊は右に同じく(釈迦如来)、同村上根末字向山に在り。


《交通》
針畑峠(根来坂)(鯖街道)
上根来集落の先に畜産団地跡がある、道は続いているが、この先は長く荒れていて(林道根来線)、県堺の遠敷峠(根来坂峠・846m)を越すと近江国針畑村に出る。車が1台登って行った、どこまで行ったのか帰ってこなかった。今は一般には使われてはいない道であるし、雪の季節は通行不能であろうが、過去に遡れば遡るほど、日本海と内陸をつなぐ最短路として大変に重要なメーンルートであったと推測される。
(厳密には今の林道と、昔の鯖街道は全く同じルートなのではない、だいたい近いし一部同じルートだが林道はだいたいは新しく作られた道である)

この峠は針畑越・根来坂ともいい、江戸期には若狭の鯖を京へ運ぶ商人たちでにぎわい、鯖街道とも称されている。織田信長や徳川家康らもこの峠を通ったと伝えられる。象も通ったかもと言われる。
『郷土誌遠敷』
日本で初めて小浜湊に上陸した象が通った可能性のある道である。-応永十五年(一四〇八)京都の「足利義満公」(実際は義茂公)への献上品(物)の中に象がいた。
上根来・広峰神社の十五世紀初めの作と思われる懸仏の中に貿易商“本阿”の名が願主になっているものがある。最短ルートで安全な道を選んだのではないかと考えられる。
小浜市が「(財)日本ナショナルトラスト」に委託して、平成四年(一九九二)「旧若狭街道」の調査を実施した。その報告書に「歴史的にもロマン溢れる全国的にも稀な古道である」との評価を加えている。



「若狭郡県志」に
  下中郡上根来村東南之山径也、高メ而屈曲銀難之坂路也、自二斯ノ村一至二坂頭一行程一里許リ則近江、若狭之境界也、超レ之則出二近江ノ国針畑村一、元亀元年織田信長公於越前敦賀ニテ与二朝倉氏一戦、東照大神君モ亦従二其行一其帰路大神君宿二小浜蓮興寺一而後自二根来村一経二針畑越一出二朽木谷一而入洛シ玉フト云フ
朝倉氏に追撃された徳川家康は針畑を越え、自ら太刀をとって戦ったと伝える。「信長公記」は元亀元年(1570)4月晦日のこととして信長が朽木越をして入洛し、同年5月6日には明智光秀・丹羽長秀が若狭国石山城主武藤友益の母を人質にして針畑を通って京都へ上ったと記す。
近世には若狭から京への最短距離として頻繁に利用された。塩をした鯖が京都へ着く頃には適当な味に仕上るので、若狭の一塩ものとして珍重されたという。急な坂道のため商人の荷物を運ぶ背持人もいた。昭和初年まで利用されていたという。
峠を越えると針畑川の源流出る。針畑川は滋賀県大津市梅ノ木で安曇川に入り、この峠道は朽木谷-花折峠-高野川の谷を経て、京に至る。
「輿地志略」に「小入谷村より若狭国灘左内段に出ずる路也。朽木市場より国界に至って四里、国界より若狭国小浜に至って五里也」とある。朽木村針畑地区の人は市場へ出るよりも小浜方面に出ることが多く、古くからこの道を利用した。「朽木村志」には「この峠道を小入谷を経て小浜方面へ、炭・杉皮・へぎ板などを運び、その帰りに塩・干魚・日用品などを仕入れて交易した。盆・正月・祭から婚礼・葬式の入り用もみなこの道を往来して若狭側から運びこまれた」とある。

『新わかさ探訪』
都への最短路根来坂  若狭のふれあい第32号掲載(昭和60年9月27日発行)
京は遠ても十八里…若狭のサバを運んだ峠道
小浜周辺では昔から「京は遠ても十八里」と言い、京都を身近に感じてきました。その盛んな行き来を物語るように、山々を縫って若狭と都とを結ぶ多くの道が通じています。そして、これらの道は一般に「鯖街道」と呼ばれています。
サバは庶民の味として需要も多く、とくに京都では昔から葵祭に欠かせないのでした。「サバの生き腐れ」と言われるほど、鮮度を保つのが難しい魚で、昔は、若狭で捕れたサバに、一塩して、夜通し歩き京都まで運ぶと、ほどよく塩がなじんで良い味になり珍重されたといいます。もちろん、鯖街道を通って運ばれだのは、サバだけではありません。奈良の藤原宮や平城宮の跡から発掘された木簡(今でいう荷札)によって、1千年以上も前から塩や米、魚介類などが若狭から送られていたことが分かっています。
現在、鯖街道と呼ばれている道は、いくつかあります。その中でメーンルートは、小浜から若狭町熊川を経て朽木谷に入り、滋賀県の途中越を経由する若狭街道(今の国道27→303→367号線に沿ったコース)ですが、京都への最短ルートとして、小浜から上根来を通って針畑(滋賀県高島市朽木小入谷)へ南下する「針畑越」があります。これが一番古い鯖街道といわれ、京まで十八里(約70㎞)という距離とも、ほぼ一致します。この道は、「根来坂」とか「根来越」とも呼ばれ、昭和46年以降、荒れた山道の刈り払いが小浜山の会によって進められ、かつての鯖街道がよみがえっています。この道を歩き、U字形に深く掘り込まれた尾根筋や、峠近くの山腹にある池の地蔵、その脇の古井戸などを見ると、このルートが間違いなく昔からの峠越えの道であることを確信させられます。そして、滋賀県境の根来坂峠(835m)では、ブナの巨木が四季折々の表情を見せて道ゆく人を出迎えてくれます。峠には、地蔵堂と「大乗妙典一石一字塔」と刻まれた石塔かおり、かつては茶屋もあったそうです。サバを運ぶ場合は、この道がメーンルートだったかもしれません。
元亀元年(1570)に織田信長が越前の朝倉を攻めたとき、近江浅井軍との挟み撃ちに遭って、大急ぎ退却する信長軍の殿を、羽柴(のちに豊臣)秀吉とともに務めた徳川家康は、この峠を越えて京都に戻っています。このほかにも、滋賀県や京都府との国境の尾根には、今は使われなくなったものを含めて、多数の峠道があったことが知られています。


昔はこんな道だったよう、幅は1メートルにも満たない土道で、山の斜面を斜めに急坂で登って行く、クマが行き来していそうなクマ用の道に見える。

県堺の「おにゅう峠」。今はバンバンの道になっている。800メートルの高いところにある峠で、鋪装はされていて、景観抜群だが、路巾が狭くしかも急カーブだらけ。注意して走って下さい。写真で道路の舗装の色が変わる線が県堺、手前は滋賀県、先は福井県、滋賀県側もいい道になっているとか…



《産業》
畜産団地
畜舎が残っているが家畜はいなく、木材が入っている。

《姓氏・人物》


上根来の主な歴史記録




上根来の伝説


『越前若狭の伝説』
根来の不動さん       (上根来)
 紀州(和歌山県)のねごろ(根来)から不動明王がこの地に来られ、最初は上根来と中の畑の間から北東にはいるねごり谷へ見えた。しかしそこが気に入らないため、上根来の坂尻(さかじり)の奥にある通称ひらだにに来て鎮坐された。この不動さんは今も石のほこらにおまつりされているが、ここには不動の森とか不動の滝もあり、昔から干ばつのときには、この不動さんに雨ごいのお祈りかされた。

みょうあん水          (上根来)
 上根来から滋賀県朽木(くつき)村の針畑へ越える峠道は、昔はこの地方の最も重要な交通路の一つであった。その頂上近くの路傍に今も一体の地蔵尊がまつられ、その前に池と呼ばれる井戸がある。これはある時、みょうあん和尚という偉い坊さんが来て、旅人たちのために掘られたものである。そのとき、みょうあん和尚は井戸にふたをして、水がじゅうぶんにたまるまでふたを取ってはならぬと言われた。しかし、だれか(一説に上根来の和尚)が早く中を見たさにふたを取ったため、その時の水位までしか水かたまらぬ井戸となってしまった。その後、ここにつるべを降ろして水をくみ、旅人や荷持ちの人々かのどをうるおすことかできた。今でも、この井戸をみょうあん水(すい)と呼んで大事にしている。このみょうあん和尚とは、国富のどこかの住僧であったらしいという。    (永江秀雄)

安倍晴明の池           (上根来)
 上根来坂尻の旧家である前田安左衛門家の屋敷内にある池は、むかし安倍晴明が来て掘られたもので、これを大事にしていたら火災は起こらぬといわれた。その言葉に従って坂尻には昔から火事がない。                 (永江秀雄)

平家の落武者       (上根来)
 上根来の坂尻地籍は古くは平家の落武者が住んでいた所といわれる。明治の末年に坂尻の南東の山麓に新田を開発するため畑を掘ったところ、地下一・五メートルぐらいの所に石かこいをして中で火をたいた跡が幾箇所も並んで出たし、大きな墓石も現われ、三〇センチ余りの刀も発掘された。          (永江秀雄)

もちつき場        (上根来)
 むかしここは若狭から近江を経て京都へ行く主要道路(京街道ともいわれた。)が通っており、上根来は宿場のような所であった。以前その道が通っていた峠のふもとに、今ももちつき場と呼ばれる場所がある。ここにはむかし旅する人々にもち(餅)をついて売る店があったが、そこにおたねという美しい娘かいたので、「おたね見たさに釣谷(つりだに)見れば、おたね隠しの霧がこむ」という歌がはやったという。なお釣谷とはもちつき場のある山あいの名称である。                 (永江秀雄)

ぼんが屋敷           (上根来)
 滋賀県との境の山の上にぼんが屋敷またはぼんの屋敷と呼ばれる寺院跡があり、くず(葛)の根掘りをしたときなどに土器の破片が出たこともある。ここには天台宗の寺院かあったが、織田信長に攻め滅ぼされたものらしいという。また釣谷(つりだに)と呼ばれる別の山あいにもぼんが屋敷という平地があり、これも寺跡といわれている。なお上根来の坂尻(さかじり)にはじょうど寺という寺院があったが、今はその跡だけとなっている。    (永江秀雄)





上根来の小字一覧


上根来 根来谷 円波 大端 大将軍 団越 下条 向山 埜下馬 村中 須下区 藤結 久保 榎 宮ノ越 松原 境谷 上ノ比良 洞畠 下窪 度江茅 羽下頭 古地苅 下谷 上谷 森ノ前 細橋 滝脇 据ノ下 水欠 地王堂 甚定畑 木戸 坂止里 水汲 岩小谷 架予ノ木谷 牛路 拠ノ上 大谷 菱成滝 釣谷 吉祥谷 古地苅谷 大向

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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