丹後の地名 若狭版

若狭

小浜香取(かとり)
福井県小浜市小浜香取


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福井県小浜市小浜香取

福井県遠敷郡小浜町香取

小浜香取の概要




《小浜香取の概要》

市街地の南西部で、小浜公園のあるあたりになる。北は小浜湾に面し、海岸沿いに県道加斗袖崎鹿島線が東西に走る。
旧城下にあたる小浜24区の各町名はいずれも有名神社名から名付けたといわれ、香取は千葉県香取神宮にちなんだものかという。
近代の香取町は、明治7~22年の町名。小浜町のうち。明治7年区割改定により常在小路・猟師町と柳町の一部が合併して成立。合併時の戸数97。明治19年の戸数85、人口385。同22年小浜町の大字となる。
近代の香取は、明治22年~現在の大字名。小浜を冠称。はじめ小浜町、昭和26年からは小浜市の大字。毎年9月14・15日に行われる八幡神社祭礼放生会の出し物は神輿。

《小浜香取の人口・世帯数》 87・36


《小浜香取の主な社寺など》

浄土宗天照山常然寺

『遠敷郡誌』
常然寺 淨土宗鎮西派智恩院来にして同所に在り、本尊は阿彌陀如来にして延文年中細川清氏代官頓宮大和守の開基にして元天臺宗西方寺と號し、開山を眞隆とす、後承應の頃憶譽但念中興し淨土宗と改むと云ふ。

『小浜町誌』
常然寺
小濱町香取区ニ在リ。天照山ト号ス。延文年中守護細川清氏ノ代官頓宮大和守之ヲ創建シテ西方寺ト号ス。天台宗タリ、二十五菩薩ワ佛殿ニ安ス。是レ頓宮大和守ノ寄附スル所ナリ。開山ヲ真隆和尚卜曰フ。歳ヲ經テ堂宇荒廃ス。承應年中、憶誉但念之ヲ中興シ、浄土宗ニ改メ、京師智恩院ニ属ス。



天台真盛宗海照山真福寺

『遠敷郡誌』
眞福寺 天臺宗眞盛派にして同町香取に在り、本尊は阿彌陀如来にして永峰三年小濱極樂寺第三世眞春の開基也。

『小浜町誌』
真福寺
小濱町香取区常然寺ノ前ニ在リ。海照山ト号ス。永禄三年極楽寺第三世真春和尚ノ開基ニシテ、天台律宗ナリ。極楽寺ノ末派ニ属ス。



三丁町

小路は「三丁まち」と呼ばれ、かつて遊郭街があった所。現在も格子戸の家並みが残る。ここから南へ3丁(≒300メートル)ばかりの小路になっており、この名があるという。小浜繁栄期の遺産。


こんな案内板も

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三丁町
~小浜第二小学校への通学路~
かつて茶屋街として華やいだ情緒ある三丁町は、「青井町」、「柳町」、「猟師町」の三町からなっています。
狹い路地をはさみ、紅殻格子や出格子の家が軒を連ね、今では静かな住宅街になっています。それでも夜になれば、三味の音が漏れそうな雰囲気が漂っています。
ドラマ中のヒロインの祖母、小梅は、三丁町の
元芸妓で三味線がとても上手です。
西津の和田家から小浜第二小学校への途中でこの通学路が登場します。




小浜公園

市街地の西端、青井山の麓にあり小浜湾に面する公園。昭和54年3月31日に都市公園として認められた。面積は山腹を除いて6,200㎡、公園内を青井川が流れ青井山との境をなす。川沿いには小浜市出身である幕末の尊皇攘夷派、梅田雲浜の碑がたつ。石段を登るとすぐに、同じく小浜市出身の明星派の女流歌人、山川登美子の歌碑がたち「幾ひろの波は帆を越す雲に笑み北国人とうたはれにけり」とある。さらに登ると展望台に着き、小浜市街をはじめとして内外海大島の両半島が見渡せる。
駐車場、さらに海が埋め立てられて広くなっている。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


小浜香取の主な歴史記録




『小浜市史』
三丁町の遊び茶屋
西、または西三丁町ともいわれた三丁町は、柳町・猟師町・寺町の三つの町の通称であり、藩から遊び茶屋が許可された町である。小浜における遊郭がいつ成立したか確かなことは分からないが、寛永十七年(一六四一)の小浜家職調には形城屋(傾城屋)一人がみえ、遅くともこの時期までに成立していたとみてよいであろう。
 柳町・猟師町・寺町の三つのうち、遊郭のある町として古くから名の見えるのは、柳町である。「拾椎雑話」には寛文五年(一六六五)五月、柳町の傾城かちと堤村の徳兵衛とが心中したことを載せている。また延宝七年(一六七九)三月、柳町より他の町に遊女を置かないように命じてくれるようにとの訴訟があり、藩はそれを認め、他町に遊女を置くことを禁止している(「拾椎雑話」)。その後、天和三年(一六八三)の小浜家職調にも、「稚狭考」が描く明和七年(一七七〇)ころの小浜の家職にも傾城屋や遊女はみられず、かなりのあいだ遊所は廃止されていたようである。
 西三丁町で、ふたたび遊郭が許可されたのは享和三年(一八〇三)のことである。許可に至る事情はよくはわからないが、清常家の記録には「小浜西三町まち、遊ひ茶屋御免有、三丁町ト言ハ柳町・猟師町・寺町也」とある。藩はこの遊所に対し、一軒に付き銀二〇〇匁、芸子一人につき銀六五匁ずつの運上銀を取り立てており、その額は銀一〇貫目あまりにのぼった。この額は、当時の町に課された夫代銀の総額に匹敵するもので、その負担の重さをうかがわせる。
 ところが、文政元年(一八一八)五月、庚申堂の前で家中の若衆と町のものとの大喧嘩があり、これを契機に翌年三月、藩は西三丁町での遊茶屋営業の停止を命じ、商売替えのための資金として一軒に銀三〇〇匁を与え、また他国から来ていた芸子には路用として金一両ずつが渡された。営業の停止は、茶屋の願いによって同年九月まで延期されるが、その後はまったく停止させられた(「清常孫兵衛文書」「古河嘉雄文書」)。
 茶屋が停止されて二三年後の天保十三年(一八四二)七月、藩は、西三丁が辺鄙の場所で渡世も致し兼ね難渋しているという西三丁の嘆願と、内々に男女の宿をすることは不筋の儀であるとの理由とをもって、西三丁に限って茶屋職の名目を許し、かつ他町でも茶屋職をしたいものは西三丁のものと対談のうえ、西三丁に移り住み営業するようにと命じた。
 しかし、この茶屋営業の再開には、当時厳重な倹約令が出されていたおりでもあり、「時躰ニ不似合之様」に思うものや、かれこれ風評するものが出たようで、藩では、その主意を詳しく申し遣わすから、もし合点の行かないものは奉行所へ申し出るようにと触れるとともに、若者たちが心得違いをしてみだりに遊郭へ行き、銀銭を費し身持放蕩をしないよう父兄からよくよく申し聞かせるようにと命じている(「団嘉次文書」)。

小浜香取の伝説






小浜香取の小字一覧




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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