丹後の地名 若狭版

若狭

木崎(きざき)
福井県小浜市木崎


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福井県小浜市木崎

福井県遠敷郡今富村木崎

木崎の概要




《木崎の概要》

国道27号と舞鶴若狭道が立体交差し、小浜インターへのアクセス道が新設されているあたりである。南川右岸の氾濫原に開けた地域。多田ヶ岳から北ヘのぴる丘陵を木崎山といい、古墳や山城がある。柵前(きさき)という意味であろうか、古い土地だから、中世の山城よりさらに古い古代の柵があった山か。
木崎は、鎌倉期から見える地名。建久6年12月4日の太政官符(吉川半七氏所蔵文書)に木前5里・同6里と見える。これによると、国富保内に「木前伍里」「同陸里」「積无里」の3か里が含まれていたことが知られる、他の億田里1~3里、河上里1~6里、志味里1~4里のいずれもが南から北へ数を増す形で並んでいたことから、「木前一里」は現在の木崎村あたりに比定されるという。建久7年6月日の若狭国源平両家祗候輩交名案に見える「木崎七郎大夫基定」は当地を本拠とした有力御家人であり、鎌倉期にもその勢力を保っていたが、応安4年5月の国一揆の際には守護方勢力に対抗する国人衆の中心人物の1人となり、大敗を喫して没落した。また当地田地の一部は妙楽寺が名主職を有する柄在家名内に含まれ、その作人として天正10年7月に「木崎太郎衛門尉」の名も見える。
近世の木崎村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「元禄郷帳」「天保郷帳」では和久里村枝郷と注記され、文化4年の記録や同13年の年貢免状では「和久里村之内木崎分」とあり、「旧高旧領」では和久里村の高のうちに含まれていて当村名は見えない。当村の田地はまとまっておらず和久里地内に入り込んで所在し散田的要素が極めて強いという。「雲浜鑑」によれば、家数15 ・ 人数77。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年今富村の大字となる。
木崎は、明治22年~現在の大字名。はじめ今富村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西1町・南北2町余、戸数15、人口は男34 ・ 女43。


《木崎の人口・世帯数》 164・61


《木崎の主な社寺など》

古墳など
国道27号を走っていると舞鶴若狭道の事前調査の発掘作業らしいブルー・シートが見えた、山城か古墳か何かありそうな場所だなと思っていた。方形墳2基・円墳2基があるという。その調査報告「木崎山城跡・木崎遺跡」

八幡神社・山ノ神神社





《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


木崎の主な歴史記録


『今富村誌』
木崎區
木崎區は和久里區に隣り戸数十五、人口六十四の小區なり。田畑山林を合して二十五町歩、舊時の草高二百十九石九升
八幡神社あり。元禄十六年の創建なり
 本區畑中に元和の頃近州より來り此の區に住みし人の墓あり。碑文中常珍の 文字あり如何なる人なりしか知るに由なし
郡縣誌に記する處の下中郡邑數七十三中に木崎村なし『和久里村〔南に小村木崎村あり〕』と書せり


木崎の伝説






木崎の小字一覧


木崎 茶塚田 笠屋前 荒 柳ノ下 川向 才向田 開 鴨田 辻ノ下 下風呂向 風呂向 平田 小橋本 鴨ケ渕 金川原 橋ノ本 生守口 経田 中経田 上経田 塚ノ間 上平田 踏通 上化知場 化知場 山ケ寄 森 茶屋前 山ノ下 江田 金堂 中辻堂 五反田 馬渕 島田 鎧田 的場 三栗 新井溝 藪田 四反田 鐘撞田 高田 木寄山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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