丹後の地名 若狭版

若狭

旧・国富村(くにとみむら)
福井県小浜市羽賀・奈胡・熊野・
次吉・栗田・高塚・太良庄・丸山


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福井県小浜市羽賀・奈胡・熊野・次吉・栗田・高塚・太良庄・丸山

福井県遠敷郡国富村

旧・国富村の概要




《旧・国富村の概要》
旧・国富村は、北川下流右岸に位置する、明治22年~昭和26年の遠敷郡の自治体。羽賀・奈胡・熊野・次吉・栗田・高塚・太良庄の7か村と上竹原(かみだわら)が村の一部が合併して成立。旧村名を継承した7大字に当村地域となった上竹原から起立した大字丸山を加え8大字を編成。役場を高塚に設置。昭和26年小浜市の一部となり、当村の8大字は同市の大字に継承された。

中世の国富荘(くにとみのしょう)で、平安末期~戦国期に見える荘園であった。永万元年(1165)2月24日に国司平経盛が「国富保」のうち185石を太政官御祈願米・造八省米・法華会料米・太政官御厨家納絹代として便補した国司庁宣が初見。こののち官務家小槻隆職は吉原安富の仮名で当地の荒地を開発し私領としていたが、寿永2年(1183)宣旨・国司庁宣によって諸役を免除された。建久5年(1194)11月の宣旨により周辺農民の入作や松林寺田・細工名田と称して行われる違乱を止めるため四至を定めることが認められ翌6年12月4日の太政官符によって四至榜示や34町1反350歩の田数が確定され、北の山を越えた犬熊野浦を含めて立荘された。この時の榜示は、東は宮川・多羅(太良)・国富保それぞれの山の三辻峰、西は西津山と国富保の堺峰、南は神女崎(現在の湯ノ山)と次吉崎に2本、北は阿那尾山(阿納山)・阿納尻山・国富保の三辻峰に打たれた。これにより荘域は犬熊のほか羽賀・次吉・熊野・奈胡の地を含んでいたことがわかる。鎌倉初頭の荘の下司は若狭国最大の在庁官人で最有力御家人でもあった稲庭時定であったが、彼が同7年8月改易されたのちは若狭忠季が地頭に任じられた。この地頭の横暴に耐えかねた荘民たちは幕府に訴え、承元元年(1207)12月幕府の裁許状が下された。それによると、地頭佃、地頭定使月別入物、鮎河人夫、農繁期の農民使役、藍役、地頭代官の飼馬飼料、農民の麻や苧の刈取、木津越人夫、関東夫馬功米、女房と2人の代官への雑役、逃亡農民跡の在家や田畠の処置の11か条について、地頭は新儀非法を停止されている。しかし地頭代の有盛はこの裁決を無視した支配を続行、承元3年2月29日荘の公文・百姓を捕らえて起請文を書かせたとされており、荘民たちは再び地頭の過重な課役や過料の収取・紙漉恒利の逃亡など5か条を追加して幕府に訴え、建保4年(1216)11月ほぼ全面勝訴の将軍家政所下文を得ている。しかしこの後承久3年(1221)閠10月には地頭代時永が宣旨や六波羅下知状に背いて濫妨を行っており、地頭方が引き下がったわけではない。地頭は安貞2年(1228)頃伊賀氏に代わり、さらに鎌倉末期には北条氏得宗家へと代わっている。本家・領家について見ると、小槻氏が領家として太政官御願米以下を納入することになっており若狭国惣田数帳案に加えられた元亨年間頃の朱注でも「官御祈願領」とされている。しかし、当荘すべてを小槻氏が支配したのではなく、建治4年(1278)2月3日には勝林寺上人(京都大原勝林院の上人か)が荘を中分して支配しており、永仁6年(1298)4月22日小槻統良が当荘知行を安堵された伏見天皇綸旨にも勝林寺管領分に妨げをしないことが条件とされている。すでに建治4年には荘の負担分として日吉社二宮・同十禅師上分のほか小槻氏建立の法光明院供米があり、当荘は小槻氏の家領化しつつあった。鎌倉後期になると太政官祈願米は文永9年に没した後嵯峨院の墓所である嵯峨亀山殿浄金剛院に宛てられており、嘉元4年(1307)6月には昭慶門院(亀山天皇皇女憙子)領目録中の浄金剛院領として100貫の年貢を納入する荘園として見える。なお浄金剛院には上皇の遺骨を納める法花堂が建立されたので観応3年(1352)8月21日の足利義詮御判御教書案では「法花堂領若狭国々富庄」とも称されている。後醍醐天皇は鎌倉幕府滅亡後の元弘3年(1333)5月29日に北条高時跡の当荘地頭職を小槻匡遠に与えた。しかしこの地頭職は暦応2年(1339)から京都東山太子堂速成就院(現在の白毫寺)が知行し、小槻氏へ御封米を納入することになっていた。速成就院は室町期の「康正二年造内裏段銭并国役引付」でも国富荘段銭の納入者となっている。遅くとも永徳元年(1381)までには守護一色氏による半済が行われており、幕府は半済停止の命令を発している。応永16年(1409)8月5日に小槻氏は守護代の三方常忻を「領家職半済所務」に任じており、半済所務を請負った三方氏は、同32年には速成就院所務の地頭方御封米10石をも領家職半済に混じて押領した。永享9年(1437)10月13日に将軍義教は領家職半済を停止したが、現地支配にあたっていた松山三郎左衛門入道などはこの停止命令を無視して荘民を責め女や童子を召し取り、荘民の家を検封し、通路を止め、荘民の資財雑具を押取った。同12年以後武田氏が守護となっても半済は続けられたが、小槻大宮長興は宝徳元年(1449)10月頃幕府奉行人飯尾之種に半済分代官職を契約したこともあった。またこの頃は同じ小槻氏より分かれた壬生氏と大宮氏との間で当荘の支配権をめぐる争いもみられる。寛正6年(1465)と文正元年(1466)にも半済停止が幕府より命じられているが結局効果はなく、文明元年(1469)からは守護方の違乱が続いた。壬生氏は40石を収納していたがそれも十分には納入されなくなり、幕府のたびたびの命令にもかかわらず「壬生千恒記」永正16年(1519)5月12日条に当荘が見えたのちは壬生氏の支配を離れたと考えられる。戦国期には荘内に羽賀村をはじめとする村落が形成されていた。なお鎌倉期から戦国期まで荘内に土地を有していた松林寺は、小浜天満神社(雲月宮)の神宮寺の松林寺を指すものという。






旧・国富村の主な歴史記録


『遠敷郡誌』
國富村
北は内外海村、西は西津村、東は宮川村に各山嶺を以て境し、南は野木・松永・遠敷・今富の各村と北川に沿ひて境す、地勢北に高く太良庄は光岩を以て高塚と境し、別に三面山に圍まれて一劃をなし、高塚以下の七字は又一劃をなす、生業は農業を主とす。
國富庄、栗田保及太良庄の所在地なる事は別説の如し、古墳の分布甚だ多きを以て見れば、上代既に附近に住民の存せしなるべし、莊園の時代に及びては史料の徼すべきもの甚だ多く、何れも根本領主開發領主等ありて、権門勢家の保護を受け近世に到る迄土着の名家は跡を絶たず、其勢力を維持し來り一門數家族は常に村の上流に位せるものあり、地理的變遷は北川流域の變動甚だ多く、治水の不完仝なりし時代に於ては、洪水毎に泥土氾濫し耕地を損し水路は常に變動したり、北川よりせる灌漑水は古川に集り丸山の麓より北川と平行して海に注ぐ、水準稍もすれば北川より低し、天ヶ城山・宮河山・丸山は何れも著名なり。
羽賀 天ヶ城山の東麓にあり、國富庄の西北端に當る文珠原・大門の區劃あり、羽賀坂は此區より西津に通じ丸山の北なる鳥越坂も西津に通ず、羽賀寺に秋田實季の墓あり。
奈胡は羽賀の東にあり、北に山を負ひ南に面す、近世慈眼庵・光月寺等の小坊ありしと云ふ。内藤筑前守の家臣上原氏墓あり。
熊野 國富庄の東北端にあり、此區より犬熊浦に通ずる坂路あり、奥熊野・口熊野の二部落に分る。
次吉 熊野と栗田との間にあり、東に山を負ふ、一言神社の後山より發掘せりと云ふ古墳時代の土器二個奈胡小學校にあり。
栗田 古墳あり、石槨の露出せるもの二三其の石材の取去られしもの二三あり。
高塚 北川堤防に臨む。
太良庄 太良・鳴瀧・定國、日吉谷の四區分あり、内太良は約二十戸特に離れて存す、太良に向山薬師堂あり、其元は月御堂・内御堂・向山の三薬師ありしと云ふ、一ノ宮丹生神社附近より昔遠敷へ往来せりと云ふ路跡あり、古墳は太良谷・流れ谷泰雲等に石槨の露出を見る、流れ谷に於て發掘せし土器・刀剣・及碧玉の管玉三個等を太良庄小學校に藏す、御所墓と稱し一劃をなし四五尺の五輪塔と存す、賀羅岳城址は山縣政秀の居なりと傳ふ。
丸山 丸山の麓に民家ありて北川に接す、丸山は内藤兵庫の城址ありと傳へられ後瀬山と封立し今富・小濱の地を俯瞰する要害の地點なり、京極高次小濱城を築くに當り、従来の民有地たりしを城に近きを以て用地と定め人民の立入る事を禁じたり、酒井氏の時代に於ても殿山と稱して用地とす。.






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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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