丹後の地名 若狭版

若狭

栗田(くりた)
福井県小浜市栗田


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福井県小浜市栗田

福井県遠敷郡国富村栗田

栗田の概要




《栗田の概要》

北川下流右岸、国富平野の東側に位置し、集落の東側は山林、西側は水田が開けている。
中世の栗田保の地。鎌倉期に見える保名。文永2年(1265)3月日の若狭国中手西郷内検田地取帳案に「栗田保」と見え、中手西郷内億田2里・3里内に合計2町3反120歩の田地が確認される。また栗田寺2反180歩・栗田新宮2反も見える。この取帳案の条里を復原した研究成果によれば、当保の耕地は栗田の南の高塚あたりにあった。同年11月の若狭国惣田数帳案には栗田保は志万郷と西郷に分かれて13町2反30歩の地を持ち、このうち若狭上下宮田2町200歩・別当田6町2反10歩・栗田寺1反180歩などが除田となり、定田は9,反350歩であった。元亨年間頃の朱注によれば、当保は国領で地頭職は若狭忠季・忠清と伝えられており、また上下宮田の一部を御家人和久利又太郎が、別当田を国衙税所が支配していた。戦国期には天文16年(1547)の羽賀寺寄進札に「栗田道泉」とあり、弘治2年(1566)6月22日に牟久国久が沼田藤千代に売却した1反は「栗田ノ前角田」にあると見える。村名としては弘治2年6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状に「八十文 くり田村」と見え、当地の曽尾神社の慶長2年(1597)9月27日の棟札にも「栗田村老若」とある。
近世の栗田村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば、家数27・人数138、小名として上町・下町がある。
当村の百姓格付は10石以上が長百姓、10~7石が脇百姓、以下は小百姓と3段階になっており、それに準じて村入用銀や藩御用の材木・杭・野柴人足などの課役を勤めた。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年国富村の大字となる。
近代の栗田は、明治22年~現在の大字名。はじめ国富村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西1町・南北1町、戸数28、人口は男60・女69。


《栗田の人口・世帯数》 63・23


《栗田の主な社寺など》

古墳群
集落北側山裾に水無谷(みずなしだに)古墳群(円墳13基)・扇谷(おうぎだに)古墳群(円墳32基)、南側には栗田古墳群(5基)が点在し、国富平野でもっとも多く分布する。


曽尾神社(式内社)

曾尾神社は、そびじんじゃと読む。慶林寺の左から少し山道を登った谷間に鎮座。祭神恵美須、旧村社。「延喜式」神名帳の「曾尾(ソヒノ)神社」に比定される。通称西之神といい、別当羽賀寺の「羽賀寺年中行事」に「同所(栗田保)西之神者、本地蛭児皇子、為恵比須三郎殿、又号澳夷(ヲキノエビス)、右同前暦数不之、古日記在之」とある。慶長2年(1597)9月27日の棟札に恵比須殿宝倉が前年の大雪で破壊転倒し、氏子らにより再建されたとある。現在の社殿は江戸末期のもの。もと山の中腹にあったと伝える。拝殿の右側下に三角形の磐座があり、原始信仰をしのばせる。

『国富郷土誌』
曽尾神社
栗田集落の東部山麓、栗田三〇号宮側二〇番地に鎮座する、旧指定村社で素盞嗚尊を祀る。『延喜式』神明帳に記されている古い社で、「神階記」によれば“従三位曽味大明神”とある。『福井県神社誌』には「延喜五年字八合嶺に鎮座されていたが、応永年中に現在の山麓に鎮座、境内一九九坪 氏子一二七戸 例祭四月二十三日」とある。
古くから栗田、高塚両区が氏子であったと考えられ、本殿の棟木に「栗田庄屋宮川某 高塚庄屋出口某 大工丸山岩崎某」と記されていると伝えている。
昭和前期まで四月二十三日と十月二十八日に祭礼が行われ、両区の総代、氏子が参列していた。また皇紀二六〇〇年を記念して“浦安の舞”が行われていたが、戦後は、氏子は栗田区のみの二四戸に減少し、公式参拝や“浦安の舞”なども中断された。
本殿は約六・五坪、もと檜皮葺であったが、破損が甚だしくなったため、境内の老杉を資金源として売却し、昭和二十四年銅板葺にした。境内社には本殿の左に、蛭子神を祀る約一・五坪の蛭子神社(恵比須神社)がある。昭和二十五年ごろまでは、海の神様として西津小松原の漁師たちが鯛をお供えし、海の安全と豊漁をお祈りしていたことは、上中町末野の恵比須神社とともに有名であった。近年になり、屋根の破損がひどくなり、平成二年銅板で葺替を行った。
またその左隣りに、大己貴命(大国主神)を祀る瘡神(そう(おさがみ))がある。当社も近年破損が著しくなったため、平成元年四月、約〇・六坪の社殿を新築した。なおこの社の裏側より左に、山の参道を少し上った奥に、鎮火守護神を祀る小社、秋葉神社がある。
また、本殿の前には四坪の拝殿があり、その前の石垣下に、巨大な三角形をした盤座石がある。「ウシイワサン」と呼ばれ、古代の信仰の巨石と伝えられている。
参道は、栗田集落の南入口より入り右側慶林寺と左側公会堂の間の道路を通り数段の階段をあがる。高さ約四・五メートルの木の鳥居をくぐり、参道を約六〇メートル登ると長い石のきざはしに達する。この階段を上りきると境内となる。境内の周辺には樹齢不明の巨大なタモ・シイの老木があり、さらにそれに藤の大木がからみ、うっ蒼として神々しいが、春はその藤の花が咲きみだれ、遠方からの眺めは実に壮観なものである。
社務所はなく、参道入口にある公会堂を兼用している。昭和前期までは基本財産として田地が相当あったが、農地解放により、現在は境内地のみとなった。
現在の例祭は、四月二十三日と十月二十八日の二回行われる。年間の一般経費は、氏子平等割六割と残り四割を資産割とし、毎月積立して負担している。また特別経費の必要な場合は氏子を四段階に分けて負担する。氏子総代は三名、三年の任期となっている。
宮司は、古くは藤原姓であったが、のち長谷川姓となった。しかし、昭和中期に長谷川玉策が没せられてから後継者がなく、現在は他の神官の兼務により神事が行われている。


『遠敷郡誌』
曾尾神社 指定村社にして同村栗田字宮側にあり、祭神は素盞鳴尊にして傳云、延喜五年字八合嶺に鎮坐、應永年中右山麓に暹す、國帳に從三位曾尾明明神あり、神名帳考證に神狭日命、舊事紀云、天忍日命、亦云、神狭日命、越前國神傍神社とあり、境内二社あり、一は蛭子神社にして祭神は蛭兒命なり、傳云、膓永年中攝州一ノ宮より勸請すと、年二回の蛭子祭は古来西津字新小松原の漁師鯛魚を供する慣例ありしと云ふ、一は瘡神社にして大巳貴命を祀る。.

ソビはソブルのことだろうか。クリはクフルで大きな村の意と思われる。古墳時代からの渡来氏族の開いた当村の鎮守社かと思われる。


曹洞宗長泰山慶林寺


本尊聖観音。「若狭郡県志」は「水引観音堂」と記し、「元ト号長泰山慶林寺」とある。大同元年(806)の創建と伝えるが、変遷は不明。中世栗田保の中心地にあり、文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写に「栗田寺 壱反百八十歩栗田保」とみえる栗田寺との関係が考えられる。境内には若狭地方最古の正応2年(1289)の銘をもつ宝篋印塔の残缺が残る。

『国富郷土誌』
慶林寺
栗田集落の南端山裾の、栗田第二九号曽尾脇一番地に所在する。本尊に聖観世音菩薩をまつる曹洞宗の寺院で、奈胡龍雲寺の末寺となっている。以前は龍雲寺とともに、天台宗であったが、後曹洞宗となったといわれている。「若狭郡県志」には「水引観音堂」と記し、元長泰山慶林寺と号したとある。大同元年(八〇六)の創建と伝えるが、変遷は不明である。文永二年(一二六五)若狭国惣田数帳写に「栗田寺壱反百八十歩栗田保」とあり、中世栗田保の中心にあった栗田寺との関係が考えられる。
 元堂田須崎付近に七堂伽藍があったといわれる寺跡があり、廃寺となった年代は不明であるが、現存する記録によれば、「長泰山観世音堂、再建羽賀寺別当」とあり、羽賀寺との関係があったことは確かで、現在も曹洞宗としては珍しく、三三年ごとに開帳が行われている。記録によれば、昭和元年、昭和三十三年に引続き平成三年に御開帳が行われた。
本尊聖観世音菩薩は「水曳観世音菩薩」あるいは「子安観音」といわれ、聖徳太子の一刀三礼の名作と伝えられている。その縁起書によれば「三三代推古天皇の御代(五九三年ごろ)聖徳太子が若狭の国を巡礼の途中、栗田に霊木があることを聞かれて、この地を霊地として堂舎を建立し、聖観音をこの地に安置し、また仏工を送られ多くの仏像を作られて安置せられ、さらに推古天皇より、長泰山大同寺と寺号を賜った」という。その後、歴代長い年月とともに、堂舎はことごとく破損したため、小堂を建てて本尊を安置し、三百余年の歳月が経過した。この間尊像の存在を知る者もなく、悲しい有様であった。年が過ぎ第八一代安徳天皇の御代、元暦年中(一一八四年ごろ)突然大災害が起こり、地裂け岩が崩れ、暴風雨が起こり、大出水により村人苦しみ、この世の終わりかと思われた。ところがその時一人の老僧がいずこからともなく現れ、そこ両手をもって濁流、泥水をかき流された。不思議やこの泥水は海に流れそそぎ、村人はようやく水難をのがれることができたというのである。その時の手足は泥にまみれ、いたわしい姿で現れた老僧こそ観音その人で、村人はこの観音にお救いいただいたことを知り、歓喜して仏の守りに感謝し、御恩の万分の一に報いるべく、さらに堂舎を建立し「水曳観音」と言い伝え、信仰を深めるようになったという。
 その後、堂舎は永禄六年(一五六三)八月下旬、朝倉義景の臣下の兵火に遭い焼失した。しかし聖観世音は何人かに救われ、堂山山中に隠され、またほかの仏像は残兵により、今の赤池の泥中に投ぜられた。現在その池を堂田といっている。その後聖観世音は、堂山山中より発見され、茅屋を造り安置された。慶長五年(一六〇〇)京極忠高公、若狭に入国の際、これを改築して寺号を「慶林寺」と改名された。
 不思議なことに、落城と時を同じくして、赤池(堂田)の中より、光を発するものがあり、人々は不思議にも霊告により仏像が泥中にあることを知り、掘り出された。掘り出された尊像は、再び脇士として、安置したという。
 その後、元文年中(一七三六年ごろ)丹後の国与佐郡菅野村(現在地は不明)の一女子が難産でもがき苦しんだ時、夢のお告げで、栗田慶林寺水曳観音を信じ祈りをこめたところ、不思議なことに意外に安く出産、以来この観世音菩薩を信じて出家、妙参尼と号し諸国を巡り、当地においても出口伊左宅を宿として、一紙半銭を諸家にすすめ、その信仰厚きにより、施財ぞくぞく集まったという。これによって御厨子を造営し、尊像をお祀りしたという。現在の厨子と尊像はこれであり、この観音様を「子安観音」ともいっている。また妙参尼の遺品として「オイズル」「脚絆」「観世音厨子高塚村奉加寄付帳」などは今も高塚の出口伊左家の家宝として伝え残されている。
 現在の慶林寺は、昭和十七年寺格昇等法地となっている。本堂はもと茅葺屋根であったが、戦中戦後、屋根葺材料も少なく、補修も行届かず雨漏りも著しくなったため、昭和二十四年西津福谷の真宗念正寺を買い受け改築(四十五坪)した。また庫裏は昭和五十八年新築、建坪一二坪二階建延二四坪となっている。また一・五坪の鐘撞堂がある。
 境内の無縁塔に、若狭最古正応二年(一二八九)の銘文のある宝篋印塔四基が残っている。
 現在の檀中は栗田・上竹原・西津の合計三一戸で、総代は三人、任期は四年となっている。年間の経費は、平等割六割と資産割四割として負担する他、特別経費は四段階割により負担している。
 年間の主な行事は、八月九日の施食会と八月十八日の観音祭である。


『遠敷郡誌』
慶林寺 曹洞宗龍雲寺末本尊観世音にして同村栗田字曾尾脇にあり、本尊は聖徳太子御作にして元小字堂田に七堂伽藍ありしも、中世荒廃に歸せしが龍雲寺第二世を開山として今の寺を開けりと傳ふ。
 今存する同寺の記録寛文十一年八月のものに長泰山觀音堂再建羽賀寺別當所故寶衆院法印任官當保檀那、本願慶林寺春朔今湖相山とあり、栗田保と関係ある寺なるべし。



山城跡
次吉との境には中世末期の山城跡がある。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


栗田の主な歴史記録


『国富郷土誌』
栗田
一 栗田の歴史
北川の下流右岸に、高塚区と次吉区と隣接して境界を分ける扇谷を背にして、国富平野を望む位置に栗田の集落が所在している。
集落を囲む山麓には、多数の古墳が散在しており、この地域を支配した族長の墳墓と考えられ、古代から多くの人たちが住み生活をしていたことが知れる。
鎌倉時代の中葉、文永二年(一二六五)の「若狭国惣田数帳写」に栗田保の名があり、国富荘とは別に現在の栗田が独立した国衙領であったと考えられる。
栗田保は、一三町二反三〇歩の田地を持っていたことが、若狭惣田数帳案に記録されており、地頭職は、若狭忠季・忠清と伝えられている。
また、若狭惣田数帳案のなかに、栗田寺一反一八〇歩と記録されていて慶林寺が栗田寺と呼ばれていた時代があったのか、あるいは栗田寺が別に所在したのかは明らかではない。
室町時代の弘治二年(一五五六)の明通寺文書には「くり田村」が記録され、
若狭守護職の勢力が強まりその支配下に置かれるようになったと考えられる。
村の格付けは、一○石以上が長百姓・一〇石~七石が脇百姓・それ以下は小百姓と区分された。小浜藩の課役の負担をめぐって、長百姓と脇百姓・小百姓が争うなどの訴訟が起きている。高塚村・次吉村との出作田でも紛争が絶えなかったようである。
慶林寺は、大同元年(八〇六)の創建と伝える由緒があり、小字堂田に七堂伽藍を誇る大寺があったと言われ、中世に荒廃した奈胡村の龍雲寺二世を開山として現
在地に建立された。開山堂には、土中から出土した仏像が数点まつられていて、かつての慶林寺の繁栄が偲ばれる。慶林寺境内の無縁塔に若狭地方で最古といわれる正応二年(一二八九)七〇二年前の銘のある宝篋印塔の残欠が残っている。完形品ではないが、塔身以を欠失しているのが残念なことである。
「延喜式」に載る曽尾神社は、延喜五年(九六五)一〇八四年前、八合嶺に鎮座のところ応永年中約六〇〇年ほど前に、現在の山ろくに移された。歴史が古く村人の信仰を集めている。境内には蛭子神社(恵比寿神社)・瘡神社の二社がある。
全戸が慶林寺の檀家で、曽尾神社の氏子でもある。特に栗田区民として忘れることのできないのは、文久元年(一八六一)師走、集落上半分が大火災により焼失し、重要な財産が数多くなくなったことは残念なことである。
明治二十四年の戸数は二八戸、人口は一二九人で(「角川地名」)、平成四年四月現在の世帯数は、二四戸で人口は一二六人である。



栗田の伝説





栗田の小字一覧


栗田  下西ケ窪 中西ケ窪 松原 出口 下川原 下土井ノ元 中土井ノ元 上西ケ窪 浮穴 木橋 小窪 上土井ノ元 午新田 上川原 政広 九門木 細田 大堅田 美田 野手ノ下 大池 中深田 下深田 和田下 扇畑 上深田 西村下 東村下 曹尾脇 宮側 北側 村上 和田谷 扇谷 北村 東村上 宮谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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