丹後の地名 若狭版

若狭

丸山(まるやま)
福井県小浜市丸山


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福井県小浜市丸山

福井県遠敷郡国富村丸山

丸山の概要




《丸山の概要》
北川下流の右岸、江古川という支流の北側に位置する集落、このあたりは江古川、北川、多田川、南川と4本もの川が並行して流れている。どちらを見ても堤防と川ばかりである。
丸山は、明治22年~現在の大字名。はじめ国富村、昭和26年からは小浜市の大字。もとは江戸期の上竹原(かみだわら)村の一部。国富平野最西部に位置する。地名は背後にそびえる丸山にちなむ。「酒井忠勝在国日記」の寛永19年(1642)9月14日条にも「丸山辺り御出」と見えている。当地に集落が成立しなかったのは、背後の山から小浜城が一望され留山となったためという説もある。昭和48年一部が城内1~2丁目となった。


《丸山の人口・世帯数》 70・24


《丸山の主な社寺など》

北川と霞堤

若狭ナンバーワンの大河・北川。太良庄あたりから下流側を写す。
小浜藩資料では丹後川という。三方郡三方町境の滋賀県今津町の三十三間山の東面に発し、上中町を貫流して、小浜市街の北で小浜湾に注ぐ。嶺南第一の大川で、延長30km。流域面積437km2。川名は小浜城の北を流れるからとか、南川に対するとかいうが、詳細は不明。滋賀県内を南流する上流は天増(てんぞう)川とよび、西に転じて上中町大杉で県下に入って北川となる。同町熊川で河内(こうち)川を合わせ、同町関付近から平野に出て、同町井ノ口付近で鳥羽川、さらに同町下野木境で野木川、同市高塚付近で遠敷川を合わせる。県内の流路は熊川断層に沿って直線状で、中流以下には沈降性の谷に狭長な沖積平野が展開、古来若狭国の中心であった。特に右岸から入る支流、鳥羽川・野木川流域には埋積性の河谷平野が広い。また,下流は南川と複合デルタを作るが、小浜城下建設の時、河川改修が加えられた。谷筋は九里半街道・丹後街道の通る重要な交通路で、JR小浜線、国道27号・303号に引き継がれる。熊川以下の河道勾配が1万分の4以下と緩いため、舟運の利用がはかられ、川普請によって寛永8年熊川まで舟運が可能となった。その後西回り海運の発達による輸送物資の減少もあって、正徳年間下流の神谷(上中町)までとなり、享保14年と同20年の2度に及ぶ洪水が河道を一変させ、川舟の遡航が不能となったという。

洪水は避けられそうにもない河川だが、上中の上吉田(国道27号と国道303号の分岐点付近)から当地丸山までの間に10箇所の霞堤(かすみてい)があるそうである。霞堤とは信玄堤(しんげんつつみ)のことだが、若狭武田氏は甲斐武田氏の一派だから、その時代に同じような堤が作られたものであろうか。北川は全国の1級河川の中でもとりわけ多く残っているという。
霞堤は、連続する高さの堤防をあえて途切れさせ、堤防を低くした部分があり、河川の水位が上がった時にその低い部分から近隣の水田などに、あえて水を逃がす仕組みで、水の勢いを弱め、堤の決壊を防ぐなど減災効果があるとされる。水田などに一時貯まっていた水は河川の水位が下がると自然に元の川に戻る。そうした開口部があるため水が引くのも早く、決壊時などに比べ農産物被害は軽減されるという。生き物も河川と流域を行き来しやすく、生態系を守る役割も期待できるという。
ゼッタイ決壊しない頑丈な堤防を作る、土地のかさ上げとかいったハード策だけではない、由良川あたりでも見習いたいソフトを使ったカシコイやり方だが、遊水池となることを運命づけられている水田の方からは文句がでるかも知れない、何らかの補償が必要か。それでも河川全体の治水対策コストを低く抑えることができるかも知れない。
国富側には霞堤らしき物は見当たらない、しかし北川に流れ込む当地の支流の水門を開けば、多少はそのような機能を持つかも知れない。
北川に松永川が流れ込む合流点にも古い霞堤があるといい、写真の位置に来てみたが、対岸にもあるという霞堤は、大きな川のことで、ここからは見えなかった。


熊川断層と大飯原発
←図は関電さんのサイトより

北川はほぼ直線だが、これは熊川断層に沿って流れているためである。熊川断層は花折断層や三方断層と直交する共軛関係にあるのであろう。歴史文献にもよく見られるようによく動く活断層である。
日本である以上はどうしようもないことであるが、大問題はその断層上に大飯原発があることである。
関電さんとしてはそのヤシゴマカシの本質をよく示して、熊川断層は短く見て、さらに海底断層(FO-A、FO-B)とは繋がらないものだとしていた。断層は原発の付近になると不思議にも消えるのである。原発付近になるとこの断層だけではなくよく消えてなくなり、、また津波も原発付近では防潮堤の高さを越えないようにピタっと低くなるのである。金と国家権力のムリムリのムチャクチャがまかり通り、正当な理屈はへっこんだようである。こうしたドクソどもだけが強いクソ社会では断層や津波だけでなく社会正義も理性も消えてしまい、自由も民主主義も知性も失われ、まっとうな社会ではなくなる。不正がまかり通っても弱い人間はだまっているかも知れないが、自然は人間よりもはるかに強く、だまってはいることはなく、天罰となって現れ、その犠牲は多数の弱い人間が何万年にもわたって負うことになる。
この三つの断層が連動すれば長さ60㎞を越えて、マグニチュードは7・8になるという、M8(巨大地震)に近くM7級(大地震)の十箇分にも相当し、約1分間揺れ続けるという。国や関電さんやその他のソンタクどもが何を不正を言おうとも、同じ直下型の阪神淡路大震災(M7・3)以上の大地震になると見て置かねばなるまい。
もしそういうことになれば大飯原発は安全なのか。もちろん耐えられないのであろう。上の関電さんの図がそれを語っている、もし大飯原発付近に断層がなく、もし今彼らでも認めている三つの断層が短いもので、それぞれが単独で動いた地震なら耐えられるが、全部つながっていたり、連動したりすれば耐えられません、という意味である。7・8でも耐えられるのなら、三つの断層を全部つなげて、それでもダイジョウビといった図を書くであろう、それができないということは、裏返しの証明で、関電さん自身が地震に耐えられないと認めていると見なければなるまい。津波もそういったことで、将来想定される大地震、大津波には原発は耐えられない。原発は一刻も早く廃棄するより道は残されていない。それとも安全よりも小判や50万円のスーツ仕立券をとるか。


北川(丸山)河床遺跡
丸山の一番上流側の川洲にある弥生前期の遺跡。
『小浜市史』
丸山河床遺跡の発見
昭和六十二年(一九八七)十一月、北川右岸の河川改修工事現場で、若狭考古学研究会会長の上野晃は、土器の包含に気がつき若狭の考古学上大きな発見を成し遂げた。故城谷の教え子でもあり、恩師の遺志を継ぐべく郷土の考古学研究に情熱を燃やし続けていた成果が実を結んだ。弥生時代前期の土器片が川床深くまとまって出土していることを確認した。甕形のみならず壺形土器片も、今度はセットで確認出来た。
 市内では、阿納塩浜遺跡に次いで二例目の弥生時代前期の遺跡の発見である。建設省による河川改修工事であり、関係者で協議の結果、とりあえず遺物の採集を実施することにし、市教育委員会の手で確認調査が、同年十一月下旬に行なわれた。
 遺跡は、南東に高塚の集落を臨む北川右岸にあり、小浜湾に注ぐ北川河口から約一・二キロ上流で、地籍は丸山に属し、その立地が極めて特異であることが注目に値する。北川の洲の部分から地下数メートル、海抜マイナス一メートルに遺物包含層が有り、低湿地遺跡の様相を示す。つまり北川の川底深く、常識では到底発見できないような所からとんでもない物が発見されたのである。それにもまして、これまでの海岸部の遺跡と違って、より内陸部の沖積平野部の遺跡の発見であった。
 次ぎに出土遺物について述べていきたい。これまで報行書も刊行されず、全くの未発表資料であるため、可能な限り図示することにつとめた。かなり器形の復原可能な土器破片をふくむ土器約千二百点、木器二点、ヒョウタン果皮一個体分か採集された。
 土器については、器形別に区分すると、壺形(図13-1~26)・甕形(図13-27、28)・鉢形(図13-39、40)・壺形(図13-41)土器などがある。これまで若狭地方で明らかでなかった壺形土器について特に注目に値するのは、貝殻施文による羽状文土器(図13-26)、あるいは口縁部頸部に点列文のある土器(図13-4)などの存在である。
特に貝殻文のその系統は、西に求められ、丹後地方の竹野郡松ケ崎遺跡、竹野遺跡をはじめ、丹後地方の弥生時代前期の遺跡で確認されている(京都府埋蔵文化財センター『京都府弥生土器集成』)。貝殻文は更に西の鳥取・島根・山口の山陰地方から福岡県の九州北東部に拡がる日本海独特の文様である。また、前述の点列文のある土器の手法も日本海側の特色ある文様である。例えば、松江市西川津遺跡などその顕著な遺跡である(島根県教育委員会『西川津遺跡発掘調査報告書』)。
 その他、木製として、黒色漆塗りの高坏脚部(図13-43)が逸品である。材はケヤキである。カシノキ製の木製品は当初縦斧の頭部としていたが、あるいは平鍬の舟状突起部分か欠落した物の可能性が強いとのご指摘を頂いた(岡本勇氏による)。
 これら丸山河床遺跡の弥生時代前期の土器は、いわゆる遠賀川式土器の系統であり、時期的には弥生時代前期の中段階から新段階と考えられる。これまで阿納塩浜をはじめ弥生時代前期の遺跡で想定してきた、日本海を舞台とした西からの前期弥生文化が明確な形で若狭地方に根付いたことを物語っている。三方町田名遺跡においても、内陸部から弥生時代前期の甕形土器の破片が検出されている(三方町教育委員会『田名遺跡』)。九州北部に稲作が伝播して程なく、若狭地方にも稲作が伝えられ、この丸山の弥生人は米作りに精を出した小浜市開拓の先人であった。


北川(丸山)河床遺跡出土品 1括

若狭歴史博物館に出土土器が展示されている。熊川断層は左ズレ断層、南側は隆起、北側はたぶん沈下しているのではなかろうか。断層は北川より南、だいたい今の国道27号線のあたりで、2000年で1メートル以上沈下したのかも知れない、熊川断層はここにもありそうで、ヒズミをため込んでいるようである。


山神神社
車を留めておけないほどの狭い道しかなく姿は見えるが近くまではいけなかった。
『国富郷土誌』
山神神社
丸山の中央部にあたる、小高い山裾、四二号一一番地に鎮座する。本殿には大山祗命、素盞嗚尊を祀る。当社の神社明細書には創建不詳として、天明七年(一七八七)造営、寛政七年(一七九五)改築、文化十五年(一八一八)屋根葺替と記されているのみであるが、現存の棟札には「宝暦弐年別当雲月宮松林寺法印忍□令供養 元文弐年初メテ此宮勧請 宝暦弐年修覆 其時ノ大工岩崎甚兵エ」とある。伝承によれば、昔雲浜福谷に住んでいた堀口某家に祀っていた神を、凶事があったということで、現丸山に持ってきた。土地の人がその神を祀ったといわれており、本殿にはその神とともに、竹原の広峯神社の天神様が祀られているというが、また松林寺の牛頭天王(牛にまたがっておられる)が祀られているともいわれ、棟札の記録などから考え信ぴょう性が高い。社殿の上には“天皇宮”の額がかかげられ、前回の修覆のときまでは、じゃ口か、わに口のいずれかがつるされていた。と伝え聞いているが、現在は鈴にかわっているという。
脇社には火産霊神を祀る秋葉神社がある。境内地は約五〇坪で、一反余の宮所有の山林が続いている。本殿は約二坪で上屋建流造で、古くは桧皮葺であったが、昭和三十年上屋を建て替えた際銅板葺とした。なお棟木の紋も金ぬりとした。また約一坪の銅板葺の脇社と、昭和前期に建築された木造約一二坪の社務所がある。
祭礼は三月二十五日、俗にかぶら祭といわれる春祭が行われる。また祇園祭は七月十七日の本祭にはじまり、二十四日の後祭まで一週間の祭礼が行われる。この祭礼前の七月十一日には“庭草”といい、各戸より一名が出動して境内の清掃を行う。神官は竹原広峯神社宮司が兼務しているが、これら春祭、祇園祭とも神官による神事は行われないが、これとは別に春の麦初穂祭(五月休)と秋の米初穂祭(秋休み)の二回は、神官による神事が行われている。祭礼は午後二時より始まるが、今まではその時間が近づくと、子どもたちが太鼓をたたきながら“まいらんせ まいらんせ”と氏子の参詣を呼びかけた。しかし子どもの数の減少により、有線放送を使用するようになった。氏子は春秋共白米二升をお供えし、神事が終わると直会にはいる。
現在丸山区全二七戸が氏子で、総会で選出された三人の宮世話人(任期三年)が管理運営を行っている。年間の諸経費は、区の一般会計より支出するが、賽銭収入などは宮会計として宮世話人が管理している。



茶磨山城(ちゃまやまじょう)跡
 天ヶ城(てんがじょう)山の南枝峰先端に突出する通称丸山(まるやま)(約133メートル)の山頂にある。南北100メートル、東西30メートルあり、120メートル北上して北郭がある。主郭の南郭は3つの郭を構成し、中心郭は将棋駒の形をとり東・西・北三方を土塁で囲む。北郭は長さ100メートルで、幅6メートルの空堀がある。城主は天ヶ城主内藤氏の一族、内藤兵庫と伝える。兵庫はのち京極高次に仕え奉行人となった。城は天正12年(1584)丹羽長秀によって破却されたという。
『国富郷土誌』(図も)
茶磨山(ちゃまやま)城址(丸山城址) 小浜市丸山
丸山を「西津郷に在り四面を望む 頂上の形は円く故に其の名あり…」と若狭郡県志は伝えている。丸山集落の裏山、海抜一三五㍍の山頂に茶磨山城址がある。山麓は江古川と北川がとりまいており、河川改修の以前は北川が西津へ蛇行していて、天然の堀を形成し難攻不落の城砦であったといえる。「若狭郡県志」はさらに「下中郡西津郷丸山朶峯茶磨山に城址あり 内藤兵庫の拠る城と伝う」と記録している。
 内藤兵庫は天ケ城主内藤氏の一族で大きな勢力を持っていた部将と考えられるが、資料や文献はない。茶磨山城は天ヶ城とは峯が続く重要な拠点であり、天ヶ城の防衛前線の支城として、一族で最も信頼される内藤兵庫を配置したのであろう。
 若狭守護職武田信豊の領国支配が弱体となるにつれて、その補佐役である守護代内藤氏の軍事力は強化され、若狭支配に乗り出す。茶磨山城は後瀬山城を望み、
小浜・今富方面を俯瞰する位置にあり、内藤一族の全盛期の弘治年中(一五五五~五七)に築かれたと推定されている。
 『若狭の中世城館』の調査では、「南北に一〇〇㍍・最大幅三〇㍍の城砦で北側稜線を一二〇メートル離れた所にも一郭を形成し、南北二郭からなり総延長は三〇〇㍍におよぶ…(後略)」と記録されている。
 主城である天ヶ城の前線拠点としては規模も大きく、城主であった内藤兵庫の勢力の大きさがうかがわれる。




《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


丸山の主な歴史記録


『国富郷土誌』
丸山
丸山の歴史
丸山は国富平野の西部にあって、背後には風光明美な通称「丸山」(標高一三三メートル)がそびえ、前方には江古川と北川の一級河川が流れており、小浜市街地に最も近く隣接している集落である。もとは、上竹原村の一部であったが、明治二十二年の町村制の実施により、上竹原村の中央を流れる北川を境にして、東側を国富村丸山とし、西側を雲浜村上竹原に分離した。しかし、丸山の地名が村民になじまないので、新竹原などと呼んでいた。
丸山の語源について、平安の初期に坂上田村麿が蝦夷東征に行くにあたり、この山の上に石長比売をまつったので麿山と呼んでいたのが、現在の丸山となったと伝えられている。
丸山河床遺跡は、昭和六十二年、北川の改修工事で発見された弥生時代の遺跡である。この遺跡から弥生時代前期の土器が約千点と縦斧の柄(カシ製)・黒漆塗高坏(ケヤキ製)・ヒョウタン果皮などが見つかった。場所は丸山五二号字出口で、現在の北川の河床で、海抜マイナスー㍍以下のシルト質泥炭層に遺跡があった。この遺跡は、この辺りに住んだ人々が、湿地に、生活した廃物を捨てたものであろうか。調査にあたった小浜市教育委員会では、弥生時代の集落があって、田圃が広がっていたのではないかと推測している。この国富で、若狭地方で最初の稲作りが始まったことを丸山河床遺跡が明らかにしてくれた。出土した弥生土器は、壷・甕・鉢・蓋など高坏を除くすべての器種があり、弥生前期でも古い時期に作られたもので、丸山河床遺跡の発見は、若狭地方の弥生時代に新しい歴史を塗り替える発見となった。
国富村に編入された当時は、戸数がわずか二八戸の小さな集落であったが、役場、駐在所、農協等がおかれ国富地区の玄関口としての要所となった。
茶磨山城跡は、天ヶ城山の南枝峰先端に突出する通称丸山(約一三三㍍)の山頂にあり、南北一〇〇㍍、東西三〇㍍、一二〇㍍北上して北郭がある。主郭の南郭は三つの郭を構成し、中心郭は将棋駒の形をとり、東・西・北三方を土塁で囲み北郭は長さ一〇〇㍍で幅六㍍の空堀がある。城主は天ヶ城主内藤氏の一族、内藤兵庫といわれている。兵庫はのち京極高次に仕え奉行人となった。城は天正十二年(一五八四)丹羽長秀によって破却された。
また丸山は小浜藩の狩場として、城主が裏山ふもとへよく訪れていたと伝えられている。城代家老であった三浦帯刀の墓地も裏山にあり現在その子孫によりまつられている。
明治末期ごろ、前の北川の清流で三月下旬ごろ、イサザ漁が盛んに行われていたようである(現在は南川で盛ん)。この地は北川下流にあたるため、以前頻繁に水害を受けた。以後北川改修などにより堤防の護岸、水域の変更改良が行われてきたが、昭和二十八年の一三号台風では各戸とも家の天井まで浸水するという甚大な被害を被った。
大正末期より昭和初期にかけての北川改修工事により丸山地係であった田畑(大工島・喜入島等)が全部消滅し昔の面影が著しく変貌した。当時、現在農協裏の山土を馬や、珍しい蒸気機関車でトロッコを牽引して運搬した工事風景が今も浮かんでくる。
小学校の児童は、昭和八年までは、雲浜小学校に通学していたが、昭和九年に国富小学校へ編入された。編入当時は、学校内での児童間の服装、言語、遊び方等についても、丸山の児童がいくらか、異色的(雲浜時代の町風)な存在であった。
戦前、戦時中の影響か、裏山山頂と北川河川敷きを利用し、それぞれ城を造り二班に分かれて、敵、味方の攻防戦をして遊んだのも、地理的条件より他の区にない変わった遊び方であったと思う。
以前、上竹原の広峰神社の氏子になっていたので、七月十七日の祇園祭には、区内の若者がミコシ架ぎに行ったが、戦後からこの行事に参加していないのがさびしい。
近年、小浜市も都市計画等あらゆる計画のもとに開発が進み、特に水取地区が宅地化し変貌が著しく、昔の面影が全く見られなくなった。以前は現在の県立大学用地の鳥越山を越えて水取地区の水田に、多数の鴨が飛来しカスミ網で捕獲した。時代の波にのり昔の自然が移り変わっていくものの、美しい田園の国富平野と、市内に突き出た風光明美な丸山を小浜市西部の公園展望台から眺めた時、雄大な景勝で、西津方面において迎える朝日、満月の昇りの瞬間等、まだまだ古里の昔の自然がいつまでも残っているのが心強い。平成四年三月現在の世帯数は、三二戸で、人口一一五人である。


丸山の伝説





丸山の小字一覧


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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