丹後の地名 若狭版

若狭

旧・松永村(まつながむら)
福井県小浜市池河内・門前・三分一
・平野・上野・四分一・太興寺・東市場


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福井県小浜市池河内・門前・三分一・平野・上野・四分一・太興寺・東市場

福井県遠敷郡松永村

旧・松永村の概要




《旧・松永村の概要》

旧・松永村は、明治22年~昭和26年の遠敷郡の自治体。松永谷の池河内・門前・三分一・平野・上野・四分一・太興寺・東市場の8か村が合併して成立。旧村名を継承した8大字を編成した。役場ははじめ太興寺に設置され、明治36年上野に移転した。昭和26年小浜市の一部となり、当村の8大字は同市の大字に継承された。


松永保は平安ー南北朝期の国衙領。散在性が強いので保域は定めがたいが、およそ現小浜市の中央東部、遠敷川・松永川流域一帯すなわち江戸時代の遠敷・国分・金屋・竜前・東市場・太興寺・平野・四分一・上野・三分一・門前の諸村域に比定される。鎌倉ー室町期を通じ皇室を本所とする松永庄もあったが、両者の領域的関係性は明確でない。
松永保は大治元年(1126)3月日付若狭国恒枝名田坪付帳案に「松永保内恒枝名田」とみえる。この恒枝(つねえだ)名田はのち分離して太良保となる。
文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写は応輸田として「松永保四十七町七反七十歩 東郷四十二町廿歩 川三丁五反百廿歩、不六丁二百六十歩 西郷五丁六反五十歩 川二反百廿歩、不二反二百歩 三方郷壱反」をあげ、「除廿三町一反五十歩」の内訳として川成三町七反余・不作六町三反余・棡寺八反・佃二町・地頭給五町・公文給二町一反・散仕給二反などを記す。定田は二四町六反余。これによれば松永保が東・西・三方の3郷に分布しており、約1対1の割合の定田と除田で構成され、保内には佃や地頭・公文らの給田があった。また同年3月日付の若狭中手西郷内検帳案によれば西郷内の松永保田は、億田里二里三二坪・三三坪、同三里四坪、河上里一里二坪、同五里二五坪、志味里一里八坪・二四坪、同二里一二坪・一四坪・三〇坪、同三里一坪・二坪・七坪・八坪・一一坪・一二坪・三二坪、同四里八坪に所在した。
前記惣田数帳の松永保には「領家東寺」、その末尾に「地頭多伊良太郎入道跡、同小太郎伝領」の朱注が付されている。朱注は鎌倉末期の状況を示すとされるが、松永保の領家職を東寺が保有した点は、他の東寺関係文書には出ない。
「多伊良太郎入道」は、建治2年(1276)10月7日付沙弥れんかう屋敷并田地譲状の「さミれんかう」に「多伊郎太郎入道」の押紙が貼付されていて、同時期の人物であることがわかる。なお南北朝初期には惟宗隆能が松永保の地頭であった。室町時代には幕府御料所で天文5年(1536)には守護被官粟屋元行が代官、元行没後の同10年には守護武田元光の子信高が入部、松永保・宮川保を支配した。

松永庄は、領有関係は不明ながら建長4年(1252)12月1日付阿闍梨勝賢明通寺院主職譲状にみえ、正安4年(1302)の室町院領目録に「新御領」として「若狭国松永庄季景」とある。永享12年(1440)8月28日付伏見殿御領目録にも「一、若狭松永庄一円百余貫 半済、定直奉行、半済浄喜奉行」と記される。これによれば鎌倉ー室町期を通じて皇室を本所としたことは確かであろう。伏見宮家は直仁法親王(花園天皇皇子)から室町院領の一である松永庄を伝領し、「看聞御記」に関連記事が散見する。





旧・松永村の主な歴史記録


『遠敷郡誌』
松永村
地形北西より東西に延び、北は北川を隔てて野木村國富村に對し、東北一帯は低山脈を以て三宅村及熊川村に境し、南は重疊せる山脈にして滋賀縣高島郡に接し、西は遠敷村と山を以て境す、近江との国境より發せる松永川は村内の中央を北西に流れ、東市場より遠敷村に入り遠敷川と合す、丹後街道は北川と平行して平野・太與寺を過ぎ、東市場に於て池河内より松永川に沿ひ門前四分一を経由し来るし郡道と合し赤坂を経て遠敷に入る、生業は農業を主とし山地は林業製炭盛なり。
東市場 村の西北にして遠敷村に接す、丹後街道に沿ひ郡道松永道は茲に起る字八幡田札の辻は應永十四年十月十四日始めて開かれたる市場の跡なりと云ふ。
太興寺 丹後街道に沿ひ東市場の東にあり、村内及山麓に古刹太興寺の址と稱する地點あり、今日枝神社の手洗場とせる石は其寺院の礎石なりと云ふ、字松塚字鷺の塚等に五箇の古墳散在す。内四個は小にして陪塚の状をなす。
平野 丹後街道に沿ひ太興寺の東に連り南に伊曾畑山ありて三分一區四分一區の境界をなす、和銅年間此の地に神幡天降りて天徳の峯(小字宮の上通稱幡山に掛りしを以て幤の村と稱せしが後平野と改めたりと傳ふ、眞言宗吉祥寺と稱する古刹の趾及其本尊十一面観世音あり、観音堂と云ふ。
上野 松永谷にありて南に山を負ひ北に面す、區の西方に小字中野あり、現今の遠敷村忠野の住民は元此地にありしと云ふ、面山隠棲永福庵の址あり、高さ二尺七寸餘の石碑に永福般若藏杉田甫仙助建安置赤稱檀七、観音竝十六尊寶暦三年菊月開闢山記の刻文あり、北方山下に中野氏城址と稱する所あり、茶臼山の麓に紅梅谷あり、多伊良氏の家老内藤左近の屋敷址鎮守址あり。
四分一 松永川に沿ひ上野の東にあり、民家は昔三分一と共に今の上野地籍紅梅谷に散谷せしが、後此地に移るといふ、區の北端法華経一字一石を埋めたる所あり、之れを大日堂と俗稱す。
三分一 伊曾畑山の南麓に位し四分一の東南にあり、太伊良氏家老内藤左近の末裔と稱する家あり。
門前 松永川の左岸茶臼山の東北麓にあり、郡道松永道は四分一より此區を經て池河内に入る、昔明通寺に二十五坊あり、一坊毎に一戸宛從屬せしが天正年間多伊良氏茶臼山に滅ぶと共に寺坊兵火に罹り、明通寺は金藏坊のみ残存し各戸は獨立して生業を營ひに至れりと云ふ、明通寺山中比丘尼屋敷あり、文武天皇の頃一比丘尼此所に隠棲し其後を知らずといふ、茶臼山上に城址あり、多伊良太郎惟宗能綱の據る所といふ。
池河内 松永川の上流に位し郡道の終點なり、耕地僅少なりと雖山林甚だ廣く、約一千町歩と稱す、舊藩時代に於ては松永庄全村の総山なりしが、地租改正の當時當區有となる、渓谷に沿ひて滋賀縣高島郡に通ずる道あり、其途中三番瀧あり、三段連績し最大なるものは高さ五十尺幅十一尺ありと云ふ、區有の古文書あり、文治三年とあれども原本にあらず、筆寫の年代詳ならず。







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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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