丹後の地名 若狭版

若狭

旧・宮川村(みやがわむら)
福井県小浜市新保・加茂
・竹長・本保・大谷


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福井県小浜市新保・加茂・竹長・本保・大谷

福井県遠敷郡宮川村

旧・宮川村の概要




《旧・宮川村の概要》
小浜市の一番西にあり、本保川流域に位置する。旧・宮川村は、明治22年~昭和30年の遠敷郡の自治体名。新保・加茂・竹長・本保・大谷の5か村が合併して成立した。旧村名を継承した5大字を編成。役場を竹長に設置。昭和30年小浜市の一部となり、旧村の5大字は同市の大字に継承された。
中世の宮河荘・宮川保の地。宮川荘は、平安末期~戦国期の荘園であった。寛治4年(1090)に成立した賀茂別雷社領賀茂荘の出作田が国衙領宮川保内にあり、荘園領主の賀茂別雷社側はこの出作田をも含めて宮河荘と称したが、国衙側は出作田分をも荘と称することを認めず、賀茂荘と称した。従って宮川保内出作田分を除けば、宮河荘と賀茂荘は同じ荘園を指している。宮河荘の初見は寿永3年(1184)2月7日の後白河院庁牒で、この牒は宮河荘と矢代浦の供祭年貢を、去年は平氏が、今年は官兵が押妨しているのを止めるよう源頼朝に命じている。頼朝はこれを受けて,同年4月24日に武士の狼藉を禁じている。嘉禄元年(1225)6月16日の官宣旨には当荘預所職の伝領について記され、それによれば鳥羽院時代に院祗候の上総という女性が預所職を与えられ、その後上総の母から後白河院祗候の美濃へ、さらに後鳥羽院祗候の讃岐、さらに久子へと伝えられ、代々官仕の者が知行している。これに対して支配権を強化しようとして弘長2年(1262)賀茂別雷社社家が争いを起こしたが、後嵯峨上皇は当荘は官仕の知行地であるとして社家の抵抗を押さえている。他方現地では貞永2年(1233)3月から文暦2年(1235)7月にかけて荘内の大谷村と矢代浦を押領する者が現われた。貞永2年(天福元年1233)には山僧筑前房宗俊が大谷村・矢代浦に「日吉神宝」を立てて、両所の住人を日吉神人化することによって両所を割き取ろうとした。賀茂別雷社は宗慶阿闍梨と結んで宗俊を退けたが天福2年になるとこの宗俊が宮川保・同新保の地頭と結んで両所を押妨したため、六波羅探題で裁判が行われた。さらに嘉禎3年(1237)の国検の時、国衙は大谷村と散在神田を没収しようとした。この時国衙は久安年間に賀茂社の「無道」を禁じた例があるとして、出作田設定の時期は12世紀中頃かと判断される。この争いは寛元元年(1243)5月7日若狭国司が散在神田に対する国衙の押妨を止めるよう命じて一段落した。しかし国衙側は出作田を含めた地としての宮河荘を認めたわけではなく国衙の作成した文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案には宮河荘は見えず、賀茂荘35町と宮川保・同新保内の「賀茂出作田」6町5反140歩が記されている。また在地でも守護を別とすれば、宮河荘という呼び方は建長5年(1253)に太良荘の末武名を争った宮川(辻)乗蓮が「もと宮川庄百姓」とされている例があるぐらいで、南北朝期以降現地の人々が宮河荘を称することは見られない。従って鎌倉末期から戦国期にかけて「宮河庄」と書かれる史料はほとんど荘園領主内部での相論に関連するものである。延慶3年(1310)12月29日の伏見上皇院宣は預所職を賀茂正禰宜に安堵しており、社家による預所職知行が認められるようになった。こののち賀茂別雷社片岡禰宜家が支配したが応永16年(1409)には本家職を片岡禰宜が、領家・公文職を前神主資久が知行するという契約が成立した。資久が一円知行化を図ったため争いとなったが結局片岡禰宜森家が本家職を保持した。天文12年(1543)12月22日幕府祈願寺賀茂社影堂造営のため孝阿が当荘を競望したことから争いとなった、この時も影堂完成の後天文17年8月8日幕府奉行人連署奉書によって森賀久に返付けられている。この孝阿との争いの時から当荘は「賀茂庄森知行分」「宮川内賀茂庄」「賀茂庄本家分」とも称されるようになったことであり、この時期になると宮川保内の出作田が押領されてしまい、実態としては賀茂荘しかなかったので、こうした表現がなされたものと考えられる。永禄年間(1558~70)になると、宮河荘は賀茂別雷社側からも呼称として用いられることなく、賀茂荘と称されている。
中世の宮川保。鎌倉期~戦国期に見える保。宮河保とも書く。賀茂別雷社領宮河荘とは別の所領。文治4年(1188)9月3日遠敷郡松永・宮川両保の地頭宮内大輔重頼が国衙の命令に背いているとの院宣を受けた源頼朝が地頭重頼に国衙役を勤めるよう命じた下文に見えるのが初見。「平家物語」巻4には禁中で怪鳥ヌエを射落とした源三位頼政は「若狭東宮河」を知行したとあり、宮川保と宮河荘との間で帰属が争われた大谷村には頼政の館跡と伝えられる区画がある。頼政の宮河知行については不明であるが、頼政の娘で二条天皇に仕え「沖の石」を詠んだ有名な和歌を残した二条院讃岐は、文治4年の宮川保地頭藤原重頼の妻となっていることから、あるいは頼政と宮川保は関係があったかもしれない。この二条院讃岐は俗説では頼政の死後は遊女になったとするが、文暦2年(1235)に多烏浦や汲部浦が預った黒崎山は「讃岐尼御前御領宮河保内黒崎山」と記されていることから、重頼のあと保の地頭になっていたものと推定されている。彼女が地頭であった天福2年(1234)~文暦2年(1235)には当保に南接する賀茂別雷社領宮河荘との間で大谷村と矢代浦をめぐる争いがあった。賀茂別雷社は仁安3年(1168)矢代浦を所領とし。また宮川保内の大谷村などに散在する神田を有しており、本来の荘園である賀茂荘と合わせてこれを宮河荘と称していた。大谷村と矢代浦について貞永2年(1233)3月に山僧筑前房宗俊が両所の住人を日吉神人化することによって所領化しようとした。宮川保および宮川新保の地頭代は宗慶阿闍梨と結んで宗俊のもくろみを阻止するとともに、天福2年10月には両所を保の所領にしようとした。文暦2年閠6月10日に新保の地頭は大谷村は前地頭の時からの支配地であり、矢代浦も将軍から与えられた7か浦の1つであると主張したが六波羅探題は新保地頭のこの要求を退けている。文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案には、保は50町1反150歩、新保は15町2反290歩と見える。保と新保には合わせて6町5反140歩の賀茂出作田が除分として記されているが、これが賀茂別雷社の宮河荘の一部である。保と新保にはそれぞれ10町・1町8反180歩の地頭給があり、元亨年間頃の朱注には地頭として「備前守殿御跡」とある。応安4年(1371)の若狭国人一揆には宮川保・宮河荘に勢力を有していた稲葉時定の子孫たちも一揆方として蜂起したと考えられ、一揆方は宮川に城郭を構えたが、4月に守護方の攻撃を受けて武長入道が討たれている。戦国期の享禄~天文年間には武田氏重臣の粟屋元行が宮川保に居住していた。保内大谷の霊沢寺には天文10年に没した元行の位牌がある。
天文年間には当保は幕府料所とされており「大館常興日記」天文7年(1538)9月から同11年3月の間、当保からの年貢納入に関する記事がしばしば見られる。そののち武田信高・信方父子が新保に住して「宮川殿」と称され、大きな勢力を振るった。



案内板



旧・宮川村の主な歴史記録


『遠敷郡誌』
宮川村
南方に於て野木村に接する外は山を以て北は内外海村、東は鳥羽村、野木村、西は國富村に境に、村内の諸水は宮川に集注し野木村の西部を流れて北川に入る、郡道は野木村より殆んど宮川に沿ひて北上し大谷區に逹す、宮川保・賀茂庄は此地に該當す、生業は農業を主とせり。
竹長 本村の中央に位し學校・役場・駐在所あり、狹野神社の傍に蛇木の池あり、字口野谷に龍泉寺末竹林庵の址あり、今薬師堂を存す。
加茂 賀茂庄にして賀茂神社あり、字耕雲に耕雲寺ありしと傳ふ、爲生寺の觀音堂あり、當區前野治郎太夫氏所藏の文保元年の宮川庄下文に、爲生寺別當識の事あり、又同氏藏文安五年の文書に賀茂庄常徳寺堂職半分の賣渡證文あり、其跡を知らず、城址あり、白井民部丞の據りし所と云ふ。
新保 加茂の北にあり、硯材として有名なりし宮川石は、此區赤石原より産出せりと云ふ、霧ヶ峯城址は武田氏の臣武田元度、元實の據りし所と傳ふ。
大谷 本村の東北隅に位し小澤寺・大谷・矢袋の三部落に分る、小澤寺に不動瀧あり、又薬師堂ありて小澤寺の額を掲ぐ、細谷を俗に護摩谷と稱し、昔眞言宗全光寺ありしと傳ふ、字諏訪の森には諏訪明神ありしと云ふ、大谷には源三位頼政が宮川を領せし時の館址及び怪鳥を射るに用ひし箭竹を産せしと傳ふる地矢袋に在り。
本保 村の西北にあり、字下町に観音堂あり十一面観世音を本尊とし、天洽元年天臺宗の明師和尚を開基とせし保中寺の遺跡なりと傳ふ、山中鹿之介の居城址と傳ふる所あり。


『新わかさ探訪』(地図も)
沖の石と二条院讃岐 若狭のふれあい第103号掲載(平成9年8月26日発行)
源平争乱の世を生きた歌姫ゆかりの海辺の丘
 小倉百人一首にある二条院讃岐の歌
「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわくまもなし」は、せつない恋心を、干潮のときも見えることのない海中の岩にたとえ、人は知らないでしょうが、私の袖はいつも涙にぬれて乾くひまもない、と詠んだもの。
 この歌にある「沖の石」は、若狭湾のほぼ中央に位置する田烏半島先端の黒崎から約2㎞沖の岩礁「沖の石」のことではないかといわれています。
 二条院讃岐(1141年ごろ生まれ。没年は不明ですが、かなりの長命)は、平家の栄華と滅亡、鎌倉幕府の成立という源平争乱の世を生きた女性で、その父は平氏打倒の先駆けとなった源頼政(1180年、以仁王を奉じて挙兵したものの、敗れて宇治の平等院で自刃)。讃岐は若くして二条天皇に仕え、天皇崩御(1165年)のあと、藤原重頼の妻となり二男一女をもうけています。重頼は、のちに鎌倉幕府を開く源頼朝の側近でもあった人物です。
 沖の石の歌は、千載和歌集(藤原俊成が編集、1188年に完成)に取り上げられ、藤原定家(俊成の子)が百人一首に選んだとされています。
 讃岐と若狭との関わりは深く、夫の重頼が文治4年(1188)に、現在の小浜市東部、松永と宮川の地頭であったことは歴史的な事実。田烏の旧家、秦家に伝わる鎌倉期の古文書には、田烏半島の黒崎山は宮川を領する讃岐尼御前の所領とあります。また平家物語には、父の頼政が「若狭東宮川」を支配したとあり、大谷地区には今もその館跡と伝えられる場所があります。
 田烏と矢代の間にある丘陵地は「御所平」と呼ばれています。ここに讃岐の居館があったと地元では伝え、『若狭国志』にも、そのことが書かれています。館跡は、昔から女性が立ち入ってはならない禁足地とされてきました。御所平は棚田が広がる海辺の丘で、ここから約6.5㎞先の海上に沖の石が見えます。その雅趣に富んだ景色を眺めると、讃岐がここに暮らし、歌を詠んで過ごした日々が目に浮かぶようです。
 ただ、沖の石の歌については、若狭に暮らした讃岐が、実際に沖の石を見て歌を詠んだのか、それとも沖の石の歌が先にあって、のちに人々が田鳥沖の岩礁を沖の石と呼ぶようになったのか--800年余りを経た今となっては知るすべがありません。でも、この丘に立つと、沖の石の歌と御所平の風景とがしっくりなじむことに心うたれ、ここが歌詠み地とされていることにも素直に得心させられます。
田島にある永源寺は、建久4年(1193)、讃岐が父頼政の菩提を弔うために創建した寺で、その名は源氏が末永く栄えることを願ってつけられたと、永源寺の縁起に記されています。同寺は、田烏子供会の百人一首の練習会場。二条院讃岐ゆかりの地とあって、田烏の子供たちは、各地のカルタ大会で常に上位入賞を果たしています。





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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