丹後の地名 若狭版

若狭

西津(にしづ)
福井県小浜市西津


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福井県小浜市西津

福井県遠敷郡小浜町西津

西津の概要




《西津の概要》
北川下流右岸側に位置し、東は小浜湾に面する。地名は、小浜湾東岸の入江の最奥阿納尻(古津)はかつて湊として栄え、その古津の西の津であるところから西津と称されるようになったと伝える。
現在の西津は国道162号と釣姫神社横の大通りとの交差点付近(綱女の碑がある交差点)だけの狭い範囲の一帯である。

中世は西津荘として、平安末期~戦国期に見える。嘉応2年(1170)6月16日の某書状が、西津荘の御月忌は供僧役所分をもって勤仕することを承知したかどうか尋ねているのが初見(日下文書)。元暦2年(1185)正月19日の文覚起請文によれば,検非違使尉となった安倍資良が「若狭国西津勝載使」の得分を京都の高雄神護寺に寄進したことにより神護寺領西津荘が成立したとする(神護寺文書)。勝載とは船荷に対する津料のことであることから、西津がその頃湊として機能していたことが知られる。西津荘はまた平家知行の地であったことから、平氏滅亡時には関東御家人比企朝宗などが当荘に押し入ったが、寿永3年4月に源頼朝は彼らの濫妨を禁止する書状を発して神護寺領として保証している。
文治4年(1188)7月24日には後白河院院宣によって西津荘をはじめとする8か所の神護寺領の役夫工米が停止されており、文治6年2月16日に後白河院が神護寺に参詣した時の雑人料を西津荘も負担している。西津荘支配の実権を握っていたのは文覚で、彼は越中国般若野(富山県礪波市・高岡市)の年貢米船が多烏浦に着いたので、多烏浦を「西津のかた庄」に打入れたとされ、事実鎌倉期には多烏浦とその北の汲部浦は神護寺領となっている。文覚が正治元年に配流されたのち当荘は「院ノ御庄」となったが承久の乱後の承久4年(1222)2月10日の後高倉院院宣によって西津荘など4荘は神護寺に返付された。下司職は若狭の最有力在庁官人で御家人でもあった稲庭時定が有し、時定は建久7年8月に全所領を没収されたが、わずかに西津荘だけは安堵され、建仁2年西津荘で死んだという。しかし建久7年頃には若狭忠季が地頭に任じられたものと考えられる。そして安貞2年以後は守護でもあった北条氏得宗家が地頭職を支配することとなった。また荘の預所には寄進者の安倍資良の子孫が任じられており、貞応元年12月には資良孫子盛員入道嫡女が預所となっている。この女子は念浄と称した尼とみられ宝治2年5月28日孫の駿河局に預所職を譲ったが建長6年5月27日改めて亀王に譲り、亀王死後はいすみの太郎左衛門ひろさねが知行すべしと定めている。文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案には西津荘は田数17町9反230歩と見え、元亨年間頃の朱注に「領家高雄神護寺」「地頭得宗御領」とある。
南北朝期にも神護寺領として見えるが、地頭職については元弘3年(1333)頃守護代官の蔵谷左衛門三郎が西津・多烏を給わった。貞治5年(1366)から守護となった一色氏の守護所は西津に置かれており、応安4年正月に一色詮範は若狭国人一揆を討つために西津を出発し、合戦の後は西津に引きあげている。一色氏の守護所が西津にあったことは守護又代官と考えられる武田重信が永和3年8月3日に「にしつの奉行」と称されている例、太良荘の農民が西津に赴いて守護役免除を願った例、享10年正月に守護代三方忠治らが国富荘に乱入して農民の資財雑物を西津に持去った例などから推測できる。「若狭国守護職次第」では、守護代所は開発保にあったものを応永16年11月塩浜の若王子前に移したとする。しかし開発保も広い意味で西津と称している。「若狭国守護職次第」によれば、西津荘は三方弾正左衛門が知行しており、同23年8月12日に代官として布施大炊助が入部したという。羽賀寺に伝わる如法経米寄進札によって文安4年に西津荘代官六郎兵衛が知られるほか、西津荘中塩屋(長禄3年・文明2年)、西津荘北塩室(北塩屋か、寛正3年)、西津荘福谷村(文明2・4年)、西津松原(文明9年)、西津湊(文明9年・永禄8年)、西津中村右近大夫(永正15年)などが見える。これによって西津荘には江戸期の北塩屋・大湊・小湊・小松原・福谷の各村が属していたことがわかる。

近世の西津村は、江戸期~明治7年の村。小浜藩領。村内は湊(大湊・小湊)・北塩屋・堀屋敷・福谷・小松原(本小松原・新小松原)・下竹原の各村に分かれ、藩領内ではこれら6か村に分けて扱われることが多く、その総称として西津村あるいは西津郷と呼んでいた。「若狭国志」でも「属邑六以一村今呼西津郷」とあり、邑六とはこれら6か村を指すと思われる。また小浜城に北接する北川河口右岸の地は武家屋敷地となり、西津町または西津侍屋敷と呼ばれて当村とは区別されていた。
「若狭郡県志」によれば、一般に西津村あるいは西津郷と称されたのは松崎(湊村の一部で長応寺・玉津島神社・釣姫神社付近)・大湊・小湊・松原(北塩屋村の一部で、現西津小学校付近)・北塩屋・堀屋敷・通町(板屋町)・小松原(新小松原も含む)・下竹原・福谷を合わせた地域を指すとある。村内のうち湊(大湊・小湊)・北塩屋・堀屋敷・福谷は農業集落、小松原・下竹原・新小松原は漁業集落であった。
慶長7年の若狭国浦々漁師船等取調帳によれば、小松原・西津・竹原を合わせて船82艘、いわし網7張、てくり網13張、船持35人、水主325人となっている。「稚狭考」には、西津漁師町は「男女老少凡三千人、六百家といふ。大船八九十艘、小船百五六十艘あり」とある。陰暦正月から4月の間は25里内外の沖合いで鰈曳漁業が行われ、端午の節句から10月初旬までは20里内外の沖合いで鯖一本釣(夜焚き)漁業が行われ、10月中旬からは沿岸でモヤ網と称する手繰網漁業・磯引漁業(地引網)が行われた。西津地先の専用漁場は狭隘のため小浜湾沿岸全域に入漁し、さらに若狭湾の奥深い場所まで出漁したため、たびたび遭難事故が生じた。最大の遭難は慶応2年7月に起こり、暴風のため鯖釣出漁中の漁船30余艘が遭難し、乗組員120余名が死亡・行方不明となった。小松原・新小松原の漁業の中心は大網と磯引網であったが、下竹原は地引網の権利を持たず一本釣・延縄が中心であった。小松原・新小松原・下竹原(竹原小松原ともいう)は三小松原と総称されたが、文政11年にはこの三小松原共同で鯨漁も行い、紀州から漁師を雇入れていた。天保4年の小浜城下の町屋の打毀には遠敷郡全域から約2,000人余が加わったが、小松原漁師も乗船にて参加した。明治4年小浜県を経て敦賀県に所属。同7年板屋町・西長町・北長町・大湊村・小湊村・堀屋敷村・小松原村・下竹原村・新小松原村・北塩屋村・福谷村に分かれる。

近世の西津町は江戸期~明治22年の町名で、もともとは西津村(西津郷ともいう)の一部であったが、江戸初期に小浜城下の武家屋敷地が形成されたことから西津村と区別されることになった。「若狭郡県志」によれば、京極高次が小浜藩主であった時に西津郷の水田を埋め、また小松原村を北方に移し「家士之居処」にしたと伝える。一般に西津侍屋敷と称した。また明治前期には西津村という(改正敦賀県管轄区分表)。北川の岸から大湊村・堀屋敷村との間に士族屋敷があり、文政7年の雲浜城下全図(拾椎雑話)によれば、浜町・福谷町・梅ケ小路・一番町・二番町・三番町・中ノ町・不断町・桜町・山王町・山下町・東西町に分かれていた。なお一番町~三番町は,正徳年間の小浜城下町図では一之町~三之町と見える。海手御茶屋・小細工所・鷹部屋・相撲取部屋・会所・中町長屋・新建長屋のほか、 120軒の中下級士族の屋敷があった。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「改正敦賀県管轄区分表」には西津村332軒とあるが、この西津村は、当町と湊村の一部を合わせたもので、農村部の西津村のことではない。同13年の「共武政表」によれば、戸数223 ・ 人口1,371。同22年雲浜村の大字となる。

近代の西津村は、明治22年~昭和10年の遠敷郡の自治体名。湊・堀屋敷・小松原・下竹原・新小松原・北塩屋・福谷の7か村が合併して成立した。旧村名を継承した7大字を編成。明治23年7月8・9日に、小松原を中心とした多数の西津村漁民が米価騰貴による生活困窮の救済を求めて暴動を起こし小浜警察署の警部巡査と衝突し、死者を含む犠牲者が出た。昭和8年の職業別戸数は、水産業270 ・ 商工業202(うち若狭塗関係55),農業・俸給者・日稼・その他317 (西津村概覧)。昭和7年の生産物調によれば、工産物31万6,176円・水産物8万8,814円・農産物1万8,315円。若狭塗は江戸期に足軽の内職として始まったとされ、明治後期以降地場産業の地位を確立した。
昭和10年小浜町の一部となり、当村の7大字は同町の大字に継承。
近代の西津は、明治22年~現在の大字名。はじめ雲浜村、昭和10年小浜町、同26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西8町余・南北3町余、戸数134、人口は男312 ・ 女403、小船6。昭和48年一部が雲浜1~2丁目・山手1~3丁目となる。


《西津の人口・世帯数》 87・38


《西津の主な社寺など》



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


西津の主な歴史記録



西津の伝説




西津の小字一覧


西津  西堀 海手 鷹場 西福谷 一之辻 梅田 田辺 二之辻 三ツ合 寺ケ内 中之辻 不断 桜野 宮廻り 山王 山下 鳥越下 越シ前 内浜田

西津  三之辻

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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