丹後の地名 若狭版

若狭

丹生郷(にうごう)(若狭国遠敷郡)
福井県小浜市


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福井県小浜市太良庄

福井県遠敷郡

丹生郷の概要




《丹生郷の概要》
丹生郷は、奈良期~平安期に見える郷名。「和名抄」の若狭国遠敷郡8郷の1つ。高山寺本は「邇布」、東急本は「爾布」の訓を付している。
郷域の正確なところは不明だが、小浜市太良庄に式内社・丹生神社があるので、この周辺一帯と思われる。


かつては一宮と称したというが、今は小祠(祭神・彦火火出見命)のみ、左は天神社。
北川右岸の宮川、野木、国富あたりとされる。伴信友は赤土である丹生を産出することにちなむという(若狭旧事考)。土壌を分析すると実際にHg 0.0032%ほどの水銀が含まれていて、地下には水銀鉱床があると推定されている。
丹生の意味はそうだが、赤土が出るだけでは丹生にはならなくて、丹生氏がその生産に当たっていたと思われ、その氏族名であろうという。
丹は丹後の丹でニとは読めない漢字で、赤の意味であるが、丹をニと読むのは元々は特殊な氏族に限られたことであったのかも知れない。
『丹生の研究』は、
現在でもなおニフ(にう)を丹生と書く土地、また丹生を社名とする神社が、全国的に数多く残されているのを、すべて丹生氏の活動と開連づけて、この特殊な採鉱民の植民的な進出を考慮しなければならないのである。
とするが、そうしたことであろう。ではその丹生氏とは、
『朱の考古学』は、
丹生氏の活躍は施朱の風習の盛衰と同じくしていた。丹生氏は紀氏と同族関係にあって紀伊に居住し、丹生氏による最初の辰砂採掘は紀ノ川とその支流域であったものと思われ、また紀氏自体も辰砂と何んらかの関係を有していたのではないだろうか。四世紀には辰砂管掌氏族として丹生氏の抬頭があり、丹生氏は五世紀に最も活躍し、全国各地の辰砂開発もこの世紀に行なわれたものではないだろうか。そして、丹生都比売祭祀もこの頃には開始され丹生人、丹人部も丹生氏の隷属下にあったものであろう。
 丹生氏は施朱の風習の盛衰と運命をともにし、アマルガム鍍金法が導入されてからというもの、朱の権威は失落するばかりで、単に丹生郡比売祭祀者としてのみ存在し、辰砂管掌を契機として有力豪族に成長することはできなかった。辰砂・水銀の採掘管理はやがて官司制下に組入れられ、一氏族のものとはならなかった。

丹生郷の南は遠敷郷で、遠敷は小丹生のこと、オは今でもお茶碗などと言うが、そのオであり、美称的な意味。同じ丹生氏の一部が自らをオ丹生と名乗ったものかと思われる。若狭彦神社の境内社に蟻通神社があるが、この社がかの地に丹生の名を残しているのかも知れない。だいたいは5世紀頃のことのようである。

霊亀元年(715)以前の里制下と推定される平城宮出土の調塩付札木簡に、
「・□〔遠ヵ〕敷郡/丹生里人夫膳臣→/御調塩三斗∥・○九月十日」(平城宮木簡2)。
次いで、天平勝宝5年(754)6月15日以前の仕丁送文(正倉院丹裏古文書)に「奏人広山年廿四【若狭国遠敷郡丹生郷戸主秦人可久麻戸口】」と見える。
平安期の貞観12年(870)には「遠敷郡人丹生弘吉」が母に孝行を尽くし亡父への追善に努めたとして、勅により位2階を叙されたとある(三代実録貞観12年12月8日条)。下って大治元年(1126)2月の源某若狭国所領処分状(東寺百合文書ぬ・平遺2066)に、丹生二郎隆清から太郎忠政に譲与された中手東郷の所領畠lか所は「丹生村」に所在したとあり、郷の故地に丹生村が成立したと考えられる。以後、忠政はこれら田畠を中心として国衙領太良保を成立させる(東寺百合文書ね仁平元年3月小槻某田畠付属状・同前2725)。
中世の丹生は、鎌倉期から見える地名。遠敷郡のうち。平安末期成立の太良保は建保4年に歓喜寿院領として立荘される、古代の地名である丹生も用いられることがあった。弘安7年(1284)2月21日の尼信阿の太良荘末武名譲状には「若狭国丹生末武名」とあり(東寺百合文書ア)、観応2年(1351)7月25日の尼妙性譲状も太良荘預所のことを「たらのしやうわかさの国にふのあつかり所」と記している(同前ツ)。
なお、太良荘から竹長へ越える山道を丹生坂という(若狭旧事考)、そうである。





丹生郷の主な歴史記録


『丹生の研究』
遠敷郡の丹生(現小浜市太良庄)Hg 0.0032%

添記した分析値を示す数字は,私が現地を踏査して得た試料を矢嶋博士が分析されたものである。同博士によれば,水銀鉱床附近の母岩ないし土壌は10-3%(1ppm)くらいの水銀が検出されるのが普通で,10-5%以下になると,多くの場合鉱床とは無関係である(「日本水銀鉱床の分布ついて」早稲田大学鉱山研究報告,3巻55号,昭和28年12月,p,207)。つまり母岩や土壌に10-3%ないし10-4%くらいの水銀が分有されている場合は,地下に水銀鉱床が存在するわけで,その露頭部が古代において採取の対象とされたことになる。また矢嶋博士はいう「特に水銀鉱床が他の金属元素の鉱床に付随的に伴って来る場合は,ほとんど,鉱床の上表部分に賦存する場合が多く,水銀の稼行対象としては,鉱床も矮小で,かつ富鉱体も顕著に発達しないのが普通である。このために,水銀鉱山は極く少数の特例を除いては規模においても大きくは望めず,また長期にわたって稼行されるものも至って少いのである」(「日本水銀鉱床の史的考察」地学雑誌,72ノ4,p.179),このことは,古代の採鉱技術に限界があったこととともに、古代の水銀(朱砂)炭坑が早く消滅したり,全く顧られなくなってしまった有力な原因であり,半目か,そこに新しい朱砂鉱を求める植民的進出も考慮できるのである。 この矢嶋理論に基くならば,上記の23地点のうち,現に稼行中あるいは休山中の4鉱山の所在地を除いて,他の19地点はどれもが新発見の鉱床ということになる。しかし,その露頭部が採取しつくされたとする歴史的な判断からすれば,私たちの成果は,むしろ我々の祖先が利用した水銀鉱床の確認にすぎない。こうして,私は伝承や地名や神社などが,或る場合には古記録以上に物を言うことを、改めて痛感したのである。いま私は,このように顕著であった古代の水銀文化をいっそう明瞭に把握したいために,土器・土偶・古墳などに使用された朱を分析して,古代鉱業や技術の分野に立入っているが,このテーマは後日にまとめることにする。しかし,重ねていう,10のマイナス3乗オーダー(1ppm)ないしマイナス4乗オーダーの水銀含有率の重要性は,全篇を通して常に注意していただきたい。

1ppm = 0.0001%で、気の遠くなるほどにわずかなもののよう。32ppmもあれば立派な水銀鉱床のようである。




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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