丹後の地名 若狭版

若狭

野代(のだい)
福井県小浜市野代


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福井県小浜市野代

福井県遠敷郡今富村野代




野代の概要




《野代の概要》
多田ヶ岳北西麓、南川下流右岸に位置する。集落は南東部を流れる野代川沿いおよび右岸の聖谷山すそに集中し、妙楽寺の門前村。

中世の野田井村は、戦国期に見える村。若狭国遠敷郡富田郷のうち。天文4年10月18日の妙楽寺寄進札に「野田井村 願主道高」とあるのが初見。天文7年12月13日の某判物によると「御料所富田郷田地之内」の「野田井前高田」にある4反の田地が妙楽寺観音灯明料にあてられていたことが知られる。弘治2年6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状には「百五十文 のたい村」と見える。天正2年8月21日の大乗坊分坊領作職米銭納帳案に「下野田井」とあることから、当村は上・下に分けて呼ぶこともあったかと思われる。
近世の野代村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば家数44・人数247。慶長年間には国主京極高次の直轄領となって、代官は小浜城下の豪商組屋六郎左衛門(宗円)が慶長5年に補任された。
明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年今富村の大字となる。
野代は、明治22年~現在の大字名。はじめ今富村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西6町余・南北3町余、戸数46、人口は男120 ・ 女122。


《野代の人口・世帯数》 141・46


《野代の主な社寺など》

厳島神社

『遠敷郡誌』
嚴島神社 村社にして同村野代字迫田にあり、元嚴島明神又は嚴島辯天と稱す、祭神は市杵島姫神にして永仁三年勧請と傳ふ。


高野山真言宗岩屋山妙楽寺




集落の裏山の少し高い場所にある。聖山・聖谷という所だそうで、聖地の観音岩に近いところ。高野山真言宗。山号は岩屋山。本尊は千手観音。創建年代は不詳だが九条兼孝筆の妙楽寺縁起によれば、養老3年行基が岩屋に千手千眼像を彫刻、延暦16年空海が廻国の際この尊像を拝顔して堂舎を開創したのに始まると伝える。
本堂は鎌倉期のもの、若狭最古の建物。日によって本堂の扉が開かれていることがある、そうするとご本尊の二十四面千手観音が拝める。
←いつか訪れた日は、そんなラッキーに日であった。
ぜひどこの寺院も見習ってもらいたい、無料の公開日を日は不特定、さりげなくビンボー人のために設けるべきであろう。
広い駐車場がある、たいていはガラ空き、日本人の信仰心などはもう忘れられたものか。ゼニとることしか知らず、ビンポー人を救うことは忘れた、クソ政治屋も顔負けのダラク仏徒どもにウンザリ嫌気がするものか。
江戸時代の参詣者は非常に多く、弁当開く場所もなく南川河原まで降りたという。「拾椎雑話」に「古来より七月十八日妙楽寺観音参詣、男女ともおひたゝしく道も分行かたき事也、おとり有、見せ物類ひ、物売多し、弁当ひらくへき場もつまり、湯岡より尾崎の川原に一群つゝ円居いたし遊ふ」とある。
案内板がある。

高野山真言宗 岩屋山妙楽寺
 元正天皇の御宇養老三年(七一九)僧行基が身の丈一七六センチタの二十四面千手観音の像を彫刻して此の山腹岩窟に安置した。
その後、桓武天皇の御宇延暦一七年(七九七)に僧空海が当地を巡錫のとき、瑞光山中に現わるるを見て岩窟中に尊像の在るを感得し、此の地に堂宇を建立して安置したと伝える。尊像が岩窟中にありしを以て山号を岩屋山と号し寺名を妙楽寺と名付けたと言う。このように遠く奈良平安の昔、日本仏教の祖師と仰がれる高僧達が若狭路辺歴の途次、留錫開創したと伝える妙楽寺はその遥けき歴史にふさわしい数々の寺宝を伝世する。
本  堂               鎌倉時代 重要文化財
厨  子               鎌倉時代 重要文化財
木造二十四面千手観音立像   平安時代 重要文化財
木造聖観音菩薩立像       平安時代 県指定
木造地蔵菩薩座像         平安時代 県指定
絹本着色不動明王画像      南北朝時代 県指定
古若狭塗              江戸時代 県指定
如法経料足寄進札        室町時代 県指定
木造不動明王座像        平安時代 市指定
銅造懸仏              南北朝時代 市指定


文永2年若狭国惣田数帳写に「妙楽寺温田二反 不作一反 今富名」とみえるのが早く、また文安6年5月8日付若狭国妙楽寺東寺修造料足奉加人数注進状にも2名の僧侶が200文を東寺に寄進している。当寺は南北朝期に万福名名代職をもち、室町期には甲ヶ崎村塩浜の得分権を買得し、天文5年には明通寺より常満保地蔵丸名を寄進されており、天正年間にも大乗坊領や西藏坊領として約20石ほどの寺領を有していたが、いずれも太閤検地で年貢地になった。慶長5年小浜藩主京極高次が禁制状を発給、元和5年同忠高が寺領6石5斗を寄進したが、次の藩主酒井忠勝は寺領を召し上げ禁制状のみを発給した。

『今富村誌』
妙樂寺 (野代にあり古文書縁起の章参照)
妙樂寺は幽靜閑雅展望亦佳絶の地にあり。真言宗の古刹にして養老三年僧行基千手觀音の長五尺一寸なるを彫刻し岩窟中に置けり。延暦十六年空海巡錫堂宇を造立して之れを安置し岩屋山と號す。空海亦不動四天王の像と刻み観音地蔵不動の三像を板面に雕る、空海自筆の棟札自刻の硯石あり。堂の左方に六所明神右方に子易地地蔵尊、前方に藥師堂あり、西に総門ありて金剛力士を置けり。往昔は寺内に六ヶ坊ありしも今は只其の地名を存するのみ。明治三十四年三月本堂桁行五間梁間五間單層屋根四注桟瓦葺一棟は特別保護の建造物となる。境内に征清吊魂碑あり明治二十七八年戦役若州殉難将士の忠靈を祀る。


『遠敷郡誌』
妙樂寺 真言宗古義派金剛峰寺末にして本尊は千手観世音なり、同村野代字墓山に在り、養老三年行基の開創にして延暦十六年空海廻國の際再興して真言宗となすと傳ふ、元無本寺なりしが元禄の頃高野山より来寺に加へんとして住職榮立の不服に依って江戸寺社奉行に訴訟し、結局本寺なき寺として認められしが後代に到りて高野山末となる、正徳の頃薬師堂燒失せり、本堂は特別保護建造物なり。



聖谷城
妙楽寺の裏山、聖谷山山頂に戦国期の守護被官山県某が拠った山城がある。
多田ヶ岳より北へ延びる稜線のやや突出した聖谷山(399メートル)の山頂にある。「若狭郡県志」は「伝言山県氏之所レ居也、未レ詳二実名一」と記す。当城は山頂平坦地を利用してつくられ、径50メートル内外の円形を主郭とし、南に若干の付属郭をもつ小規模なもの。鍬形につくられた土塁に特徴があり、自然地形をうまく利用している。城主は若狭守護武田氏の被官山県氏一族と伝えるが不明。造築は室町中期以降、廃絶は天正12年(1584)丹羽長秀の破却によるものかという。

『今富村誌』
聖谷城趾 野代聖谷に城の遺趾あり里人之れを城山と稱す山縣氏の居りし所なり其の名詳かにせず



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


野代の主な歴史記録


『今富村誌』
野代區
 野代は生守區の西南多太嶽の麓にありのだいといふ。山を越ゆれば即ち多田區なり、戸数四十六、人口三百三十六、田畑段別三十三町、山林九十餘町歩、舊時の草高三百五十石五升七合。
嚴島神社は永仁三年春安藝國嚴島より勧誘せしものなり。或書に『野代村民屋の畔にあり産神たり』と
妙樂寺は真言宗にして僧空海創立の古刹なり。本堂は保護建造物の一に數へらる。或書は『同寺の觀音は若狹三十三所観音第十番にして山城國御室戸寺に准ず』と
郡縣志に『野代村一小村あり野寺谷と號す』と
六所神社 古書に『六所神社は野代村妙樂寺觀音堂の傍に在り祭る所伊勢、住吉、賀茂、春日、愛宕、遠敷下宮等の神なリ四月三日之を祭る其の日土人社前に於て耕種の儀をなす曰く秋ならんを祝ふものなりと然る後又巌島社前に到り之を行ふ』と

野代の伝説






野代の小字一覧


野代 北土部 新土部 土部 上渕 車田 高田 下高田 下唐戸 唐戸 高田窪 畑田 井詰 石丸 琵琶橋 竹ノ上 篠谷 竹ノ下 中島 弐反田 下代 野寺 岩嵜 大平 谷田 松ノ下 森崎 墓山 岸ノ下 迫田 森下 上山 森本 善知坊 奥ノ坊 踊場 袈裟 車谷 巡り山田 木谷 治郎平 権現山 木谷奥山 東谷山 寺山 聖谷 地蔵谷 三昧谷 野寺

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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