丹後の地名 若狭版

若狭

後瀬山城(のちせやまじょう)
福井県小浜市男山・伏原


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福井県小浜市男山・伏原

福井県遠敷郡今富村

後瀬山城の概要




《後瀬山城の概要》


後瀬山(168メートル。北東にある小浜図書館からガラス越し)。万葉集や枕草子にもうたわれる名山。国道27号の後瀬山トンネルのある山である。
一番高いところに主郭、右手の一段低いところに二ノ丸があったという。(左の平に削平されたところにも曲輪群)。中世山城があるような山はどこでもそうだが、険しい、足腰弱った年寄りは死にものぐるいで登る。今は山頂に愛宕神社があり、参道があるというから、ゆっくり登れば登れるかも、木々の葉が落ちたら登ってみよう。

そこの鳥居から登るのだが、消防車、救急車がサイレン鳴らして集結してくる。火事でもない様子だし、何があったのだろう。
フェンスは国道27号で、後瀬山トンネルの東側入口のすぐ脇である。


道は険しい、展望はない。城があった時代の道ではないよう。

後瀬山城の主郭

山頂の主郭部。頂上は削平され、今は愛宕神社が祀られている。主郭の四囲は石垣積みとなっているが、築城当初のものではなく天正10年(1582)、柴田勝家と羽柴秀吉確執のとき秀吉方北国警備の拠点として丹羽長秀が補強したものらしいといわれる。石段も当初のものではなかろうと思われる。

主郭はだいたい3段になっている。主郭は山頂を削平して造成、南北(参道や神社の主軸のだいたいの方向)90メ-トル、東西30メートルと当城で最も広い郭を形成する。3段構えの上2段は周囲を石垣積みにしている。あまり高いものではなく、気休めでイミないかも知れない。

建物は愛宕神社。元和元年(1615)に京極家、京極高次の妻・常高院により本丸跡に勧請されたもの。写真は冬至10日前の13:40で、太陽はこの位置ある。
当城は全体に北向き(海の方向、写真の右側)、西向き(丹後の方向)で、その方向から敵が来襲すると想定していたようである。

大永2年(1522)若狭守護武田元光の築城。元光の父元信の代まで、武田氏は若狭・安芸および名目上は丹後守護も兼ねるかなりの勢力であったが、永正4年(1507)の丹後侵攻で敗退、同14年には重臣逸見氏が丹後守護代と語らい反乱を起こすなど、元光が家督を継いだ頃は内外ともに緊迫した状況にあった。従来の防備では対処できず、より強固な要害として当城を築城したという。「数千人の人数を以て石垣を築、櫓を建て要害を構え玉ふ、是は武田殿居城平城なるに依て軍用のため今如是」と「若狭国伝記」は記している。

後瀬山城の曲輪群(参道脇にあるもの)


男山の八幡神社に通じる道に合流する。八幡神社から主郭への道が当初の当城の大手道であろうと思われる。

登山道の北側は頂上から北ヘ伸びる支脈の痩稜線で、その尾根上には小さな曲輪が何箇所も連続して築かれている。尾根の両側は険しい斜面になっている。
消防隊が遭難者(たぶん)を捜索している様子であった。命綱をつけた隊員が斜面を降りて「○○さ~ん」と何度も呼び探しているが返事がないよう。こんな急斜面で滑落すると、ヘタしたら命を一つ失う、捜索難航、祈無事救出。

後瀬山城二の丸
愛宕神社の裏側にあるそうだが、こちらの斜面は急、ほぼ垂直で10メートル以上はありそう。道のようなものはあるが、はたして無事に二の丸までつながっているかは不明。行くのはやめた。方向としてはこの方向と思われる。


神社に案内板がある。
後瀬山城跡は大永2年(1522)に若狭守護五代武田元光により築城され、現在地に本丸が所在したとされています。
 二の丸イメージ図は、本丸(現在地)の西南に位置した二の丸(山上御殿)をイメージしたものです。二の丸(山上御殿)は本丸に匹敵する不正台形状の広い平坦面を有し、昭和63年に発掘調査が行われ、礎石建物とこれに伴う玄関遺構、土塁、築山などが検出されています。
 二の丸(山上御殿)の造成は、大永2年の後瀬山城築城と同時に行われたと考えられ、山地を削平して平場を広げ、その上に土塁と築山を配しています。
 礎石建物の規模は東西15.31 m(50.5尺)、南北7.75m(25.6尺)、柱間数は東西8間。南北4間を測り、建物は板葺と考えられます。
 二の丸(山上御殿)は何らかの構造改築が実施されたと考えられ、若狭武田氏ののち若狭を支配した丹羽長秀、浅野長吉もしくは木下勝俊によりなされたと考えられます。
 二の丸(山上御殿)から外国産・国産陶磁器、土師質土器、瓦が出土しています。後瀬山城の城主たちは、二の丸から小浜湾の風景を愛で歌を詠んだり、茶を嗜んだりしたことが想像できます。                 福井県小浜市教育委員会



後瀬山城の全体像
『小浜市史』より。上が東。

案内パンフより


後瀬山城は山頂に主郭を置き、南北500メートル、東西350メートル、主郭から先端郭までの比高118メートル。東西斜面はかなり急で、とくに伏原に面した東側が険しい。東では竪堀が一条みられるのみで郭はない。北側先端郭は八幡神社裏山にあり、それより順次階段状に上部へ17郭を造り主郭に至る。南側は急激に10メートル下降して幅20メートルの空堀を設けて西郭を造り、南・西にL字状の土塁、郭の南下に連絡路を付けている。西側は馬背状の尾根となり、二条の空堀で西端を画している。主郭より西側へ延びる枝峰はいったん落込んで緩斜面となり、50メートル線まで下降して18の郭が造られている。この郭より谷間を挾んだ北側にも7段の小郭があり、これに蛇行して道を付けており、下は山裾の館(跡地は現空印寺)、上は主郭に接続する空堀に到達する。これがかつての大手道と考えられるが、これら郭の連絡路が斜面を巧みに縫って走り、横矢を射るのに都合のよい形態となっている。
武田元光像
城主は⑤元光・⑥信豊・⑦義統と続き、その子⑧元明が永禄11年(1568)越前へ拉致されるまで、四代46年間守護の本城として存続した。
大永7年(1527)2月13日、細川高国にくみした元光は京都桂川の合戦で有力被官人47名を討たれて敗退し、将軍足利義晴を奉じて近江へ走った。敗戦を知った隣国丹後勢は、永正以来の武田氏丹後侵攻の報復として若狭の浦々へ攻寄せた。
「羽賀寺年中行事」は「或は資財ヲ奪、或ハ放火ス、西津・小浜ハ乱杭・逆茂木構え、郡内山木被伐尽者也、当国諸勢加佐郡へ出陣ス、此時越前ヨリ合力ノ軍勢ハ、三方郡ニ在て還テ濫妨ス、此儀中郡ニ風聞シテ在々処々ノ携口ニ木戸ヲ結、堀溝者也」と記し、国内防備を自力でできず、援軍の越前勢が乱妨するなど大きな被害を受けたことを示している。
 こうした内外の騒擾に元光は天文元年(1532)入道し、同7年子息信豊が家督を継いだ。同年、信豊の相続を不満とした有力被官粟屋元隆は、武田氏一門中務少輔信孝を擁して反乱、これを越前朝倉氏・丹波細川氏の被官が援助したため、信豊は幕府に両者の応援を止めるよう要請している。孤立した元隆は谷田寺付近で信豊に敗れて丹波へ没落した。信豊はその後も丹後へ出兵するなどしたが、天文11年(1542)3月17日、三好長慶らと戦った河内太平寺合戦で主力を失った。同12年には、もと被官の粟屋右馬允らが近江より若狭へ侵入、乱妨を働くという事件が起こり、信豊は甥の信方を大将として退去させたが、これには国内被官の内応もあり、守護の権威は失墜した。被官人らはその子義統を担ぎ父子相克となり、信豊方は敗北して隠居させられた。
永禄元年(1558)義統が家督を継いだが、この頃には三方郡の粟屋勝久・熊谷直之ら有力被官は離反、各自の所領へ引きこもってしまった。同4年6月、粟屋・逸見両氏らが丹波守護代松永長頼(蓬雲軒)と反乱を起こし、義統は越前朝倉氏の合力によって鎮圧、かろうじて守護権力を保った。「御湯殿上日記」8月20日条は「わかさ(武)たけ田よりくにしつかなるとてはつさけ(初鮭)まいる」と記し、国内平穏を伝えている。ところが同9年、再度逸見氏が反乱、久手崎で打破ったが、この頃子の元明との確執もあった。同年8月頃、新将軍足利義昭が近江より若狭へ入国したが、武田氏を頼みとはできず、越前朝倉氏へ身を寄せた。
 同10年(1567)11月9日義統が死去、跡職は元明が16歳で継いだが実権はまったく伴わず、守護でありながら浪人のような暮しであったという。同11年8月13日、朝倉氏は小浜へ侵入、元明は越前へ拉致され、武田氏の若狭支配は終わる。元明はのち明智光秀にくみし、天正10年(1582)7月19日、近江で生害、武田氏は滅亡した。
 当城は天正元年以降、国主として入部した丹羽・浅野・木下氏と受継がれたが、慶長5年(1600)京極高次が若狭へ入部するに及んで小浜城が築かれ、廃城となった。


館(守護居館)


後瀬山北麓の空印寺と元小浜小学校(今は広い空き地)があったところ一帯に館があった。ユンボが動いていて、なにやら工事中の様子、その山手は空印寺。旧丹後街道が脇を通る、何かモダンな建物の小学校で、教育にかける市民の姿勢がみてとれた。
後瀬山城は大永2年(1522)若狭守護武田氏5代大膳大夫元光によって築かれ、そのとき山裾に所在した日蓮宗長源寺を現在地へ立ち退かせて、その跡地に三方の堀を設け、南北120m、東西110mの範囲の館を構えたという。
案内板

後瀬山城跡守護居館跡
 今から約500年前、若狭を治める守讃武田氏は、当時、全国でも有数の国際港湾都市となっていた小浜を統治するために、港の後背にそびえる後瀬山に城を築きました。
 城は、丹後国一色氏との交戦に備え、さまざまな防御施設を設けています。また、山上近くには御殿とも呼べる庭風の設備を作り、茶会や歌会なども行ったようで、数多くの茶器などか出土しています。武芸ともに秀でた若狭武田氏ならではの城といえます。
 現在地(小浜小学校跡地)は、空印寺境内を含めて当時の守護の住まいかあった場所です。発堀調査の結果、後瀬山々背後にもち、一辺約100mで周囲に堀を巡らせた大規模な方形居館の跡か確認されています。
 守讃武田氏か滅亡後も、豊臣方の丹羽長秀、浅野長政、木下勝俊などの側近が代々住まいました。豊臣秀吉にとっても港湾都市小浜は重要な場所だったのです。また、関ヶ原合戦後は、京極高次か海を望む小浜城か完成するまでここに住まいました。小浜での高次とお朷(常高院)の生活の出発点ともいえます。
 高次の死後は、この居館を利用した菩提寺の泰雲寺か創建されます。また、京極氏国替後に入部する徳川家光側近で大老の酒井忠勝は、父の菩提を弔うために建康寺を創建します。そして忠勝の死後は、その菩提寺として大規模な伽藍が作られ空印寺となり現在にこ引き継がれています。
 現在、発掘調査や歴史資料調査の結果をまとめ、歴史深い小浜市の宝としての活用を検討しています。


ここに移る以前はどこに館があったのだろう、文献を当たってみるが見当たらない。府中のあたりかも知れない。


《姓氏・人物》
若狭武田氏
甲斐の武田信玄の同族。清和源氏の名門というからいかにも中世らしい一族である。こうしたことに権威を認めていたのが中世である。貴族文化ではあるが、文化を高めたという功績がある。近世になると実力社会になり、古い連中からは「どこの馬の骨らや」という、文化的には俗者ばかりになってくる。時代が下った現在を見てみれば、実力とはゼニのチカラであり、文化も学問もないことがますます明確になってくる。
人間社会にはゼニでは買えない大事な物もたくさんあるので、ゼニしかわからんようなトップではどうにもならない。
案内パンフより
若狭武田氏--文武に秀でた若狭国守護--
 武田氏は清和源氏の流れをくむ武家の家系です。永享12年(1440)、安芸分群守護武田信栄が、室町幕府6代将軍足利義教の命をうけて若狭守護一色義貫を討ら、その恩賞として若狭国を拝領し若狭守護となり、以後140年間若狭を支配しました。
 応仁の乱勃発(1467)以後、たびたび一色氏の所領である丹後に侵攻しますが失敗が続き、大永7年(1527)、幕府管領細川高国の要請で臨んだ京都桂川の合戦で大敗したことが、衰退を決定づける要因となりました。
 天正10年(1582)、本能寺の変が発生。若狭守護8代武田元明は光秀に味方したとして自害させられ、若狭武田氏は滅びました。
 武田氏は室町幕府への忠勤に励み中央よりの施策に傾いたために滅びましたが、反面京都の多彩な文化を吸収し、京都五山に多くの若狭武田氏出身の僧を輩出するなど、文芸面で華々しい軌跡を残しました。武田氏が関心を寄せていた中世猿楽の流れは現在も若狭町の能倉座に受け継がれています。


歴代の武田氏当主は文芸にも通じていたことが知られている。なかでも15世紀後半の国信は連歌に造詣が深く、「新撰菟玖波集」には彼の句12句が収められており、子の元光も三条西実隆に和歌を送って批評を乞うなど熱心であった。また元光の弟の潤甫周玉は享禄5年に清原宣賢を小浜の栖雲寺に迎え、「孟子」の講義を開いてもらっている。家臣の中にも寺井賢仲のように連歌・和歌に通じている者があり、とりわけ粟屋親栄は三条西実隆のもとに足しげく通い、極めて熱心に「源氏物語」や和歌を学んでいたという。


後瀬山城の主な歴史記録


『今富村誌』
武田城趾  武田城趾は後瀬山上にあり。初め武田氏六代元光大永二年長源寺(今の小濱町男山空印寺及小濱小学校の地)を向島に移し城を築きて之れに居りしが八代義統に至り弘治三年後瀨の山上に城く。爾後丹羽、浅野、木下の諸將皆此に居る號して小濱城といふ。後京極若狹守忠高社を城趾に建て愛宕神を祀る。今尚ほ山頂に基礎の一部を存す。舊記に愛宕宮地三十五間よ四十八間但し古城の趾なりとあり太平記に
 若狭國は細川相模守清氏近年管領の國にて頓宮四郎左衛門藤原藤康かねて在國しければ小濱に究竟の城を構へて兵粮数萬石積み置きたり慶安元年九月相模守此に落つきて城の構へ勢の程を見るに懸合の会戦をするとも又城に籠りて戰ふとも一年二年の内には?く落ふされしものをとぞ思はれける去る程に尾張左衛門佐氏頼討手の大将を承りて北陸道の兵三千餘騎を率して丹波より逆谷へ向ふとあり 何處の城なるか郡縣誌に武田信榮享年間青井に居舘を構ヘ元光大永二年今の空印寺の地に城を建つ義統後瀨山峯に築城すとあり。相模守の落つきし城といふは青井の山か後瀨の山か将た何處か


『小浜町誌』
小濱城址
 武田氏ノ居城ハ、初メ後瀬山麓今ノ空印寺ノ地ニ在リ。文明年中武田國信ノ築ク所ニシテ、八百比丘尼巌穴ノ邉リニ西北ニ濠ヲ二重ニ周ラシ嚴重ナル城郭タリシモ、元ト平城ナルニヨリ、元光ニ及ヒ大永二年、後瀬山上ニ石垣ヲ築キ櫓ヲ起シ要害ヲ構へ、山上山下唇歯相輔ケテ以テ據守ニ便ス。號シテ小濱城卜曰フ。爾後、丹羽・浅野・豊臣・細川等代々ノ國主皆此二居ル。太平記ニ所謂慶安元年九月、相模守(細川清氏)此ニ落ツキテ城ノ構へ勢ノ程ヲ見ルニ、懸合ノ合戦ヲスルトモ又城ニ籠リテ戦フトモ、一年二年ノ内ニハ輙(タヤス)ク落サレジモノヲトソ思ハレケル云々トアルハ此城ナリ。山頂猶ソノ基礎ノー部ヲ存ス。今愛宕神ヲ祀レル所是ナリ。


『小浜市史』
後瀬山城と守護館
若狭守護武田氏五代元光が築城したもので、市街地の南側後瀬山の山頂稜線と西側斜面に遺構が残る。「若狭国伝記」には、大永二年(一五二二)のこととして「数千人の人数をもって石垣を築き、櫓を建て要害を構えたまう。是は武田殿居城平城なるによって軍用のため今かくのごとし」とあるが、石垣は後世のもので、城も応仁二年(一四六八)に武田信賢が築城したとあって、守護の城としてこれが最初のものではない。しかし、大永二年の築城は山麓に所在した日蓮宗本国寺派長源寺を立ち退かせ、跡地を館にしたことで動かず(「長源寺文書」)、同時に館舎の造営もおこなったことが知られる。
 城郭は発心寺側を除く全山にひろがり、五五〇メートル×五〇〇メートルの範囲を示す。この縄張りは当初のまま残されているのではなく、近世初頭にいたるまで拡張、或いは改造されて現状となったもので、近世的な機能もみられる。例えば、最高所の主郭部分三段のうち、上二段は石垣積みとなっているが、これは天正十年(一五八二)丹羽長秀の命によって改築された可能性が強い(「山庄家文書」)。このことは羽柴秀吉方であった長秀が、柴田勝家に対する北国押えの城としての機能を持たせたもので、前戦基地として江州海津にも城をつくっている(同上)。
 城郭遺構のすべてをここでは述べず、特徴的なものだけにとどめるが、
まず注目されるのが⑰の竪堀である。これと背後を画した⑳の竪堀群は築城当初にしつらえられた基本的な遺構であり、特に⑰の連続して四本並ぶ竪堀は、戦国末期に発生する畝状竪堀の祖型と認識されるものである。さらに全国的に類例のない遺構としては、谷間を縦貫するいわゆる谷の中道と称する小道である。これは③と⑨郭への連絡路だけではなく、谷間を攻上る敵に横矢を射る場所として機能するもので、道に上下の段差があり迷路となっているのが特徴といえよう。竪堀のうち㉑畝堀といわれるもので、天文~永禄頃に西側の防備として設置されたことが推測され、同年次に若狭の山城で数ヶ所の類例がみられるのである。
 当城は昭和六十二・六十三年度に国県の補助をうけて測量と一部発掘調査をおこなったが、発掘調査は曲輪の中でもっとも状態の良好な②郭を対象とした。主郭を含む一帯を地区民は「御殿」と呼んでおり、麓の館に対して②郭を山上御殿としたのである。ここは最高所の西南に位置し、約一〇メートル下って張出した一郭をつくる。約八〇〇㎡の平場があり、南側に低い土塁をめぐらし、西南隅では築山となる。調査の結果、二度の造成が確認され土塁も同様の形態がみられた。中央よりやや西北寄りに礎石を伴った東西八間(一五・三一メートル)、南北四間(七・七五ノートル)の建物跡が検出されている。柱間寸法はおおむね六尺三寸(一九一・四センチメートル)となる。南側のほぼ中央に玄関敷石がみられ、上下二段あって二度の建直しを示唆しており、また平入りであったことを窺わせている。再築は棟に使用されたと推定される瓦の出土から天正年中と考えられよう。遺物はさほど多くはなかったが、通常城郭にみられる戦闘的なものはみられず、天目茶碗・肩衝など文化的遺物が主流をなし、この場所が歴代の文化施設として使用されていたことが推測された。
 一方、山裾に所在した館㉔は、現在小浜小学校と空印寺に分断され往時の姿をとどめないが、現地形と明治四年の町割図からかつての規模は推定できる。館は東西一一〇メートル、南北一二〇〇メートル(堀を含む)の範囲となり越前朝倉氏館より広大な面積を持っていた。立派な館だったらしく、永禄十二年(一五六九)ここを訪れた連歌師里村紹巴は「国中しろしめされし時おもひやられぬ」(「紹巴天橋立紀行」)と、逼塞した武田家のかつての栄華をしのんでいる。
 後瀬山城は、永禄十一年(一五六八)最後の当主武田元明が越前朝倉氏に庇護された(「朝倉文書」)あと、天正元年(一五七三)に丹羽長秀、同十五年浅野長吉、文禄二年(一五九二)木下勝俊が入り、慶長五年(一六〇〇)京極高次の入部まで利用されるが、以後京極氏の小浜城築城により廃城となった。地形的な理由によるものか近世まで存続した城郭にしては、近世的な遺構は見当らず、むしろ戦国末期の様相を多く残す不思議な城といえる(昭和六十三年一月二十一日市指定史跡。






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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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