丹後の地名 若狭版

若狭

旧・小浜町(おばまちょう)
福井県小浜市


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福井県小浜市

福井県遠敷郡小浜町

旧・小浜町の概要




《旧・小浜町の概要》
旧小浜町は明治22年の町村制により誕生した町で、西は小浜湾に臨み、北東は南川の下流を以て雲浜村に境し、東は今富村字伏原南は同村字青井に接す。
小浜の地域は時代により変動があるが、元は南川及北川の河口に近き海浜の一小部落に名けられたもののようである。古くは遠敷郷に属し、中世には今富庄の一部をなし、港市として次第に發展し藩政時代に於ては城下町として産業交通の中心となった。旧城下町にできた町人の町である。

『小浜市史』の図↑。北は左。いつの時代の地図とも書かれていないが、小浜広峰から西は南川で、今の市役所などがある所は南川の河口であった時代のもの。明治9年以前であろうと思われる。
同書は、
中世の文書・記録に現れる町名はいずれも小路名である。この点に注目すれば、近世になって小路名を持つ町の多くは、中世後期には成立していたと推測される。小路名を持つ町々は小浜の中央部から西部にみられ、さきの推側か正しければ、中世後期の小浜は、南川の流れと海の風波によって形成された浜堤の背とそこから海に向かって櫛状に広がっていたことになる。

青井側から広がっていった町域なのであろう。

そろぞれの町名は時代によって一部変遷し今とは異なるが、現行の町名になったのは明治7年という。
『小浜町誌』
五十二区ノ改正
 明治七年三月、敦賀縣ニ於テ、旧町名及ヒ五十二区域ヲ改正シテ、二十四ケ町一村トナス。其ノ区別左ノ如シ。
清瀧町 大津町、松本町、川縁町、本町ノ内
多賀町 川崎町ノ内、洲崎町
生玉町 本町ノ内、八百屋町、川縁町ノ内
塩竃町 魚屋町、北本町ノ内、安良町、本町ノ内
廣峯町 川縁町ノ内、和泉町、松寺小路ノ内
酒井町 質屋町、片原町、松寺小路ノ内
住吉町 永三小路、質屋町ノ内、上小路、石屋小路
津島町 松本町ノ内、川崎町ノ内
鈴鹿町 塩屋町、北本町ノ内
今宮町 突抜町、上市場町、下市場町、安居町
玉前町 瀬木町、新町、塩濱小路ノ内
白鬚町 大蔵小路、新町ノ内、塩濱小路ノ内、松寺小路ノ内
龍田町 今在家町、材木町、松寺小路ノ内、
日古町 今町ノ内、達磨小路、薬師小路
神田町 東宮前町、廣小路、薬師小路ノ内、今町ノ内
大宮町 闕脇町、東宮前町ノ内
男山町 中小路、西宮前町、八幡小路
鹿島町 中西町、福岡町、富田町
白鳥町 二ツ鳥居町、風呂小路
貴船町 文殊丸町、濱浦町
浅間町 瀧ノ町、今道町ノ内、石垣町
大原町 清水町、今道町ノ内
香取町 常在小路、柳町ノ内 猟師町
飛鳥町 元青井町、柳町ノ内
青井村
酒井町ハ元春日町ト稱シ、大宮町ハ四宮町ト稱セシガ、明治九年ノ頃、各今ノ名ニ改稱セリ。
八幡小路ノ半分ヲ男山町ヨリ分割シテ鹿島町へ属シ、下廣小路ヲ神田町ヨリ分割シテ住吉町へ属ス(年月未詳)明治十四年四月、滋賀縣ニ於テ長源寺境内全部ヲ龍田町地籍ヨリ割キテ酒井町ニ編入セリ。
小濱町中央ナル堀川ハ、旧小濱藩士武久権十郎町奉行タリシトキ、火災予防ノ為メ開鑿シテ、伏原村杓川ノ水ヲ導ケリ。其工事ハ安政六年三月二起リ、翌年五月ニ竣工スト云フ。
川口突堤波止場ノ改築ハ、敦賀縣時代明治九年六月起工、同年十月竣成スト云フ。



小浜町は昭和10年雲浜・西津の2村を編入、昭和26年、内外海村・国富村・松永村・遠敷村・今富村・口名田村・中名田村の7ヵ村を合併して市制を施行、小浜市が誕生した。同30年2月宮川村および大飯郡加斗村(字長井を除く)が編入され、現小浜市域となっている。






旧・小浜町の主な歴史記録


『遠敷郡誌』
小濱町
 現在の小濱町は明治二十二年町村制によりて定まりたるものにして、西は小濱灣に臨み、北東は南川の下流を以て雲濱村に境し、東は今富村字伏原南は同村字青井の地籍に接す。
 往時に於ける小濱の地域は時代により變動あり、元は南川及北川の河口に近き海濱の一小部落に名けられたりしが如し、古くは遠敷郷に屬し中世には今富庄の一部をなし、港市として次第に發展し藩政時代に於ては城下町として産業交通の中心となり以て今日に及べり。
 中世以前國府及遠敷が一國の中心たりし時代に於て小濱に關する記録甚少なし、僅かに八幡宮に關する二三の記亊を中右記等に散見するのみ、鎌倉時代に入りては、文永二年惣田數帳に表はれたる今富名は後の今富村の如き郷名にあらずして富田郷、志萬郷、西郷、東郷、三方郡、青郷の六郷に分布散在せる一團の土地の所有名にして、今富庄など稱する區劃的の土地名とは別種のものなり、向之れに関しては庄園の條下に詳し、今富名領主の所在地たるを以て小濱附近を今富庄と名けたるは後の事にして、當時の今富名は主として富田郷に存し、富田郷は今の今富村を含み又志萬郷は西津、雲濱にも及びし郷名なりしなり。
 八幡宮の外に鎌倉時代以前より存せる古社寺は此町域に存せず、中世以前に於ける小濱は小部落に過ぎざりし事の一證たるべし、中世に於ける小濱の發逹は建武中興を以て一新時機を劃せるを見る、即ち建武三年七月二十五日尾張式部大夫斯波時宗が小濱に入部し同八月廿八日國司代若狭又太郎守護代式部六郎等小濱に入り九月四日尾張式部大夫家憲が小濱へ入部せし事若狹守護職次第に見え、暦應元年大高重成守護たるに及び、足利氏が諸國に創立せし安國寺の一たる高成寺(寺院誌参照)を創立したる際に小濱の地を撰定したる如き、一は庄園の勢力圏外に地盤を有して漸く發展せんとする土地たると、一は宗教上寺院分布の少なき所に禪宗の根據を置かんとしたるに外ならざるものあり。
 室町時代に到りて小濱町民の經濟的發展特に著しきものあり、問屋として交通運輸及商業に関して特権を握り、富豪たりし問九あり、船舶漁業貿易等海上に関して特権を有せし刀禰あり、何れも宏大なる屋敷を有せし事は領主の政所又は代官宿所として此等の家宅を撰ばれしによりて知らる、今富名領主代々次第貞治三年の條下に政所屋問心性許、宿問道性許とあり、又伊豆殿御他界之後公家御前の條下に宿刀禰宗覺とあり、同書一色詮範の條下に明徳二年代官入部宿問左衛門三郎同應永六年八月の條下に政所屋宗覺許同應永十五年及同十九年の二回南蕃の使臣の宿問丸本阿とある如きは何れも領主政所役所又は代官宿所として問九又は刀禰の家宅を充てられしを以で見れば、常時の小濱に於て大なる勢力を有したるを知るべし。
 一色氏守護時代に於ては、一は一色氏が足利將軍と親近の間なりし故もあれ共京都との交通頻繁なり、殊に明徳四年には将軍足利義満丹後に出遊の次を以て小濱に来り、玉花院に入り應永二年又同様にして小濱に来り最後に應永十四年には将軍は北室及子供三人を相具して丹後を經て小濱に来り将軍は栖雲寺に宿り、女院は玉華院に入り其間は茶がゝりたる上葺船のとま黒木造り板敷は態と之れをつけず、奇麗此上なき廊下を以で繋ぎ玉華院の傍に浴室を造らせ、諸大名供奉して飾り船二艘を浮ばせたる如き数奇を凝らしゝ豪遊の樣想見さる當時に於ける栖雲寺及玉花院は現存のものと異なる。
 應永十五年六月廿二日、南蕃船着岸し番使々臣小濱問丸本阿に入しが十一月大風にて其船破損せしかば、新造もて十六年十月に使臣等乗船して歸り同十九年六月廿一日、南蕃船又二艘着岸し使臣又宿問丸本阿に入り八月廿九日に歸る。
 武田氏領國の時代に及びては、嘉吉元年十一月吉川經信と小濱に入部してより元光に到る四代の間は、小濱に居館あり、室町季世戰図時代となりては、山城の築造必要となり、元光に至りて後瀬山に城を築き、山麓一幣の地は城廓の一部に加へられ栖雲寺玉花院の如きは其儘領主の居館となり長源寺を始め数多の寺院は其爲に移轉され、小濱の西南一帯は城地若くは侍屋敷と化し今の自髪町附近に及べり、されば此時代以後の小濱商家の所在は、南は今の龍田町白髪町より東は南川北河崎の地の間にありし外は、今の雲濱村西津村にありし亊と推定さる、此時代に於ては領主の權威は町家を壓し問丸、刀禰等も前期の勢力なく、或者は自營上武士となりしもあるべく、交通産業の主権は武人の手に歸したり、武田氏亡びて藩政時代に入るに及びては、それらの武人が商人とり、町民に伍して特権も掌握する事となり、藩主又之れらの有力者を優遇し、其特権を利用し来れり、桑村、組屋、古關、木下、和泉諸氏の如きは皆武士より町民と化し、交通産業行政の上に特権を有せし者なり。
 小濱が今富庄の一部として禁裏御料地たりし事は、別項今富庄の條下に逑べしが、長興宿禰記文明十八年八月廿七日の條に、近日彼小濱禁裏御料所也云云とあり、又應永十九年の南蠻船小濱入港に際して、船の公事と稱する一種の税を徴すべき沙汰を朝廷より守護一色義範に下され、事等に依りて小濱其物が御料地たりし事は、史林誌上に三浦博士の示されし所なり。
 豐臣秀吉の征韓役は、又此地に異常の刺激を與えたり、先きに織田氏天下を一統するに及び、天正元年吉利支丹ウルガンを安土に招致するに際しでは、其一行を此濱に上陸せしめ、天正十五年秀吉は重臣浅野弾正長政を以て、此國に封し征韓役の起るに及びては、船舶水手及諸般の地方の物資は此港を利用して積出され凱旋に際しても此港に着船せしことのありし事は今日京都大佛前に耳塚として殘れる耳(一説鼻)が鹽漬にして、此濱に陸けせられたりと云ふ情況などによりても推定さる、又豊太閤は小濱に巡行せし事ありとて長井家に杖を藏す。
 藩政時代に入りては、先づ京極氏の城地移轉は著しく此町の面目を改めしめ、竹原小松原の漁村は城下の中心となり河崎、河縁の如き今迄人家無かりし所は、次第に町家立ち列び、大津町は新たに開かれて丹後道と城下とを連絡する要路となり、市場町は川縁の地に發展し、酒井忠勝初入以来着々として城下町の體裁を具備し来れり。
 此頃町の有力者に組屋六郎左衛門あり、代々小濱公用錢取立の權を有せしは代官職の形式を傳領し来りしものなるべく、海上の桑村謙庵と相並びて、彼は中世の政所に類し、此は刀禰問丸に類せるは全く経済的性質を等しくせるが故なるべし。尚詳細は別篇に重複するを以て茲に逑べず。
 小濱の戸数人口に就ては、京極氏領國以後較其概数を知る事を得、雲濱村齊藤氏所蔵の慶長十二年、京極家より市庭町に與えたる文書に依れば當時の町数四十一町家数一町は三十間にして町を東西に二區分し、東分家数九百三十二軒、此間数二千四百七十八間半五寸西分三百五軒、此間数六百八十一間小半東西家数都合千二百三十七軒、公事大也右之間数惣都合三千百六十間定間也とあり、家数一町に三十間とあるは、家々の間口の間数を一戸約二間とし其間敷に封して夫代銀を課したるものにして、定間とあるも之れが爲なるべし。
 寛永八年、江氏の覺帳に依れば、惣家数千六百廿六軒にして其内町役を受くるもの千三百十一軒、受けざるものは免許衆廿六軒檢校衆三軒、大工衆四十五軒鍛冶衆十九軒、瞽女座頭十四軒、木挽衆七間、家中侍二百一軒あり、其後拾椎雑話及稚狹考等に依れば
 寛永十七年に九千七百十二人、寺社共合計一蒿三百五十人、家数千七百二十八軒、内免許十七軒、寺社三十八。
 延寶元年一万千百六十七人 天利三年一万四百九十一人
 元祿六年一万千九十四人  寶永四年一万八百四十四人
 享保二十年一万百四十六人 寛保元年一万二十七人
 寛保二年九千九百三十三人 寶暦四年九千六百一人
 寶暦六年九千六百九十二人 文化四年一万百五十六人寺社中間共
 右に擧げたる数の増減に關しては、小濱町の範圍又人数に加はる者の範圍に多少の相異変遷もあるべしと雖、今其詳細を究むるを得ず。
 天和二年に於ける惣町家の間数は合計五千八間餘、町数八十三町。
 寶永六年に於ける記録に縱十六町三十間但川崎より青井御番所迄九百九十間也横五丁但薬師小路海側より伏原口御番所迄三百間也又土橋より青井御番所迄九百四十間但昔は誓願寺角迄町の限り也とあり。
 元文二年改にて惣家敷二千二百六十二軒。
 寛保元年改の惣間数五千三百四十七間除内九十六間寺社免許地。
 寛政年度に於て惣家数二千三百六十八、井戸数八百九十六、町数五十二、寺数三十三、内禪宗四、天臺宗二、法華宗七、浄土宗五、時宗五、一向宗十也。
 文化五年正月改に於ては小濱を三組に分てり。
 東組十八町 家敷千三十軒 竃敷千十四軒
 中組十七町 家数七百九十三軒 竈数八百十二軒
 西組十七町 家数七百二十軒 竈数七百三十四軒
 外四軒八幡祁主敷地六軒神明神主敷地
 町数〆五十二町、家數〆 一千五百五十三軒、竈数〆二千五百七十軒。
 天保四年の書上げによれば小濱町家数二千六百七拾軒、宗門人別高即宗門改めを受けたる人数九千三百九十四人、内四千六百七十六人、男四千七百十八人、女とありて右に擧げ來りしものよう数の減少せるは町家数の範圍の相異なるべし。
    寛永十七年十二月改
 大津町 松寺小路町 立町 材木町 瀨木町 今在家町 川崎町 廣小路町 須崎町 東宮前町 魚屋町 石屋小路町 荒町 新町 達磨小路町 薬師小路町 下市場町 今町 上市場町 永三小路町 筑貫町 新筑貫町 西宮前町 中小路町 川緑町 下八幡町 八百屋町 中西町 裏町 二鳥井町 片原町 文珠丸町 鹽濱小路町 濱浦町 大藏小路町 常在小路町 質屋町 後町 上小路町 今道町 清水町 山岸町 石垣町 瀧町 甲路木町 青井町 柳町 柝脇町 獵師町 風呂小路町 鹽屋町。
〆五十一町 家数千八百軒、内役家千七百三十三軒。
 (町役) 上十九町壹坪に付二分二厘五毛宛
      中十町 同   一分七厘五毛宛
      下十七町同   一分二厘五毛宛
 寺三十七ヶ寺
 町名変遷の大要は大津町、松本町は京極時代に出来たり、石垣町は後の甲呂木町、上小路は後に鵜羽小路となり、川崎町は寛永八年には川尻と稱し、八百屋町は青屋町と稱し、富田町は寛永八年に甲呂木町、富澤町は立町、質屋町は建小路(又見小路)猟師町は猟師濱浦町、松寺町は待寺小路、荒町は安良町常在小路は常在町、和泉町は寛永八年迄、新突祓町と稱し、安居町、柳町、青井町、垣脇町は寛永八年後に出来たり。
 町名の起原に關しては瀬木町の瀬木家、和泉町の木下和泉、中西町の中西家より来り、常在小路は常在寺松寺小路は月待日待の寺より薬師町は薬師堂より来り、大津町松本町は京極氏が近江大津より轉封され来りしに因みしなるべく、鹽濱小路は鹽税取立役所のありし故なるべし、富澤町は古名竪町、和泉町は古名新突祓町、西宮前町は古流鏑馬ありしを以て馬場町と稱したる。
    文化五年の小濱


 延寶年間に於ける小濱町の状況は、交通商業諸運上等に關し別節の所説と重複する所もあれ共、此時代に於ける町勢を知るに必要あるを以て略説せん。
 問屋の手數料は米銀穀等は銀十匁に付米七合七夕宛取る、上り荷物は一駄に付七合七夕宛宿の収分西国大名米は千俵に付七俵宛北國大名米は千俵に付十俵宛宿へ取る事。
 當地へ着津の大名米及商人の荷物は丹後宮津の御城米は年によりて着津、但馬出石小出修理、同豊岡京極伊勢守丹波福知山朽木伊豫守、丹後宮津永井右近、同嶺山京極主膳各家の御臓米、此外商人の分にては津軽、南部、秋田、庄内、本城、最上、新潟、高田、柴田、長岡、河上、丹後、宮津、田邊、嶺山、但馬、出石、豊岡、加賀等より米雑穀木材を秋田より木村、鐵を但馬、伯耆、出雲より乾魚鹽魚の類を丹後、但馬、因幡、出雲、隠岐、越前、能登より、鹽を播麻より、木地を但馬より茶を丹波、美濃、近江より輸入着津す。
買物問屋とては一二軒あるのみ、一般問屋には御公儀米なし、茶煙草は別に問屋の定なし、茶は年中八九千両より一萬両近くの取引あり、仲人(すあい)は古は五人ありしが三四十年前より十二人と定め仲銀百匁に付三分宛取る、其れを賣手と買手と切半して取る、質屋の作法は期限二ヶ月とし期限内に紛失したる時は、元銀一倍を以て之れを辯償す、盜難の證據あるが火災の僞焼失したる時は責を負はず、質屋の數は寛文九年に七十五軒あり。かいは銀と稱する地舟役銀は櫓一丁に付銀三匁を徴され加賀能登赳中の三ヶ國にては役儀を免ぜらる。
 組屋六郎左衛門は其家督として町中商人より公用餞を徴す、京極忠高以来の慣例たり商人の分限に應し取米不同なり、窪田手間介は沓代又は御傳馬指役にして年中一日に馬一疋宛の沓代米も支給され國中の博勞より定めの取米あり、掛屋宗兵衛は切米廿五俵に二人扶持なり、包銀は夫代沓代かいは海成り等には包賃なし、荼代二百目に付三分宛入木二百に付錢三文宛取り家中の銀も同樣取る、町老は三人扶持下され、町人両季の音物等は一年百五十匁位、八幡宮市祭放生會祗園會の入用は、市祭三石五斗三升七夕江戸升内三石五斗一升五合倉太夫禄米、一石四斗一升五合七夕萬入用、放生會八石八斗四升六合内二石三斗七合六夕八幡宮御洗米左近渡四石二斗三升五合倉太夫祿米二石三斗三合四夕萬入用祇園會一石六斗五升三合八夕萬入用町肝煎は寛文年中よりあり、麹屋役銀は本役廿匁古は麹座ありしが、京極氏の一時廢し運上銀を納むる者には兔さる、桶大工役米は江戸升にて十五石三斗七升五合、桶大工の敷二百五十人の作料米なり。
 町人町役には夜番、時番、火消番、洪水の時土橋に出て橋杭に懸りしものを取る事、家数多き町々には番太郎を控え置き町へかゝりたる人夫あるときは、代理に出す欠脇御門より伏原道迄西の御所より船留岩迄の道作り掃持及空印寺心光寺の掃除等も此者を使用す。



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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