丹後の地名 若狭版

若狭

岡津(おこづ)
福井県小浜市岡津


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福井県小浜市岡津

福井県大飯郡加斗村岡津




岡津の概要




《岡津の概要》

舞鶴若狭道の小浜西インターがある。高速から国道27号へ出てきた所である。JR小浜線・国道27号・舞鶴若狭自動車道もほぼ東西に走る。
岡津村は、江戸期~明治22年の村。若狭国大飯郡のうち。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば戸数32・人口176。寺院は地蔵院・海林庵、小字として細田・上毛・浦を記す。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年加斗村の大字となる。
岡津は、明治22年~現在の大字名。はじめ加斗村、昭和30年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北4町余、戸数32、人口は男89・女86、小船16。


《岡津の人口・世帯数》 137・36


《岡津の主な社寺など》

国史跡・岡津製塩遺跡
国道27号沿いの「若狭マリンプラザ」の裏側になり、国道から見えなくはないが、何とも見えにくく行きにくい所である。だいたいは7世紀末ころのものである。

案内板がある。
国指定史跡 岡津製塩遺跡
時代 古墳時代後期~奈良時代
面積 4.981㎡
構造 製塩炉(9面)・焼土面(1面)
 私達の生活に欠くことのできない「塩」は、現代でこそ豊富にありますが、古代では大変な貴重品でした。ではその貴重な塩をどのようにして作っていたのでしょうか。
 世界的にみると、塩の原料を海か湖の水に求めるのが、最初のようです。これらの原料から水分を蒸発させて塩を得るわけですが、年間の日射量が少ない地域では、自然感想だけで塩を作ることはできません。そこで工夫されたのが、海水等を土器に入れ煮詰めて塩を手にいれるということでした。これを土器製塩と言います。日本も例にもれず、土器製塩によって塩を得ていました。
 日本の土器製塩は、縄文時代後期末の関東に始まり、弥生時代の中頃には一時期途絶えますが、古墳時代になると瀬戸内を中心に爆発的に広がります。この若狭にも、古墳時代前期には土器製塩が伝わってきます。それは先進地である瀬戸内の技術そのものの導入であり、若狭と瀬戸内の深いつながりがうかがえます。
 しかし、やがて若狭の土器製塩は独自の逎を歩みます。器形はコップ状からバケツ状へ、そしてワイングラス状へと変化します。さらに若狭では製塩土器だけではなく、製塩炉(石敷炉)の発達も見逃すことが出来ません。この土器と炉がセットになって発達するのは、若狭地方特有の現象といえます。
 それは若狭だけの要因で発達したのではなく、古代国家が大和(今の奈良)を中心とした地域で形成されることが、大きく働いています。若狭は古代国家に取り込まれる過程で、古代の3大租税、租・庸・調のうち、「調塩」という形の貢納を負わされます。これが若狭の土器製塩に変革をもたらした最大の要因です。
 この狭い地域で大量の塩生産を負わされた人々は、それを解決すべく生産形態の改革を行います。それは裂塩場の拡大だけではなく、製塩場の多数化をうながします。この狭い若若狭地方で右の図にもあるように、57力所の遺跡が確認されていますし、最盛期には46ヵ所もの製塩場が、同時に稼働していたと考えられています。
 岡津御塩遺跡はその最盛期の遺跡なのです。古代の岡津の人々は都へ送るための塩を、ここでひ??作っていたのです。  平成2年11月  小浜市教育委員会



岡津製塩遺跡
ここはどんな遺跡?
 岡津製塩遺跡はその名のとおり「塩づくりの遺跡」ですが、どのような内容の遺跡なのでしょうか。
 この遺跡の発掘調査で見つかったものは焼土面ゆ製塩炉という遺搆と、製塩土器という遺物です。前の二つは人が塩づくりのために地面に作ったもので、後の一つは塩を作るための容器です。
 この遺跡で重要なのは焼土面の存在です。それは製塩炉群と海岸部の間で見つかったもので、面積は約300㎡です。この遺構の表面は加熱によって赤黒く変色していました。この焼土面上で『万葉集』の「鑷刈り塩焼き」「藻塩垂る」などの表現にある、採鹹(海水の濃縮)を行っていたと考えられています。今まで採鹹方法は不明でしたが、これによって一連の塩づくりが考えられるようになりました。

 焼土面で濃縮された海水(鹹水)を煎熬(煮詁め)して塩を作るわけですが、この遺跡では浜禰ⅡB式と船岡式の製塩炉と製塩土器が用いられています。
浜禰ⅡB式…①は変革期の土器と製塩炉であるため規格性に欠けます。この遺跡で見つかった土器は、浜禰ⅡB式の中でも船岡式に近い器形…②をしていますが、底部がまだ丸く、直径も20cm前後と舶岡式の半分くらいです。また、製塩炉にしても長さ3mx幅2mと規格性はありますが、完全な石敷炉ではありません。
船岡式…③の土器は①・②と同じように粘土紐を巻いて作っていますが、法量と器形は大きく異なります。土器は巨大化し直径が約45cmになり、製塩炉に合わせて平底にもなります。製塩炉は艮さ5mx幅3mの規模で規楮性を持った完全な石敷炉になります。特にこの製塩炉は若狭で確認されている製塩遺跡57遺跡中46遺跡に用いられており、奈良時代の塩の大量生産状況がうかがえます。
 製塩土器は土器の一形式として考古学の中で大きな位置を占めており、若狭でも多くの遺跡から発見され研究されています。これまでの編年から若狭湾の土器製塩が最も隆盛を極めた時期つまり浜禰ⅡB式から船岡式へ移行してゆく大きな流れは確認されていました。そこに岡津製塩遺跡の焼土面(濃縮工程)が加えられ、一連の製塩工程が復元できるようになりました。これによって、これまで煎熬土器だけで語られていた製塩の編年に新しい指標が加えられたわけです。これからは採鹹・煎熬といった一連の工程で土器製尾が研究され、それが若狭の古代製塩を明らかにしてくれることでしょう。

時代は大量生産へ!
 4世紀後半(古墳時代中期)から始まった若狭の土器製塩ですが、岡津製塩遺跡の存在した時代はその変革期に当ります。それは土器が一挙に巨大化し、それと対応する製塩炉も整然とした「石敷炉」となる時代です。この変革期の真中に位置付けられる浜禰ⅡB式、そしてそれの完成に位置付けられる船岡式の製塩土器と製塩炉、さらに焼土面がこの遺跡で発見され、さながら塩生産工場のような光景であったと思われます。
 では、何故このような変革が起こったのでしょうか?それは国家の形成と深く関わります。古墳時代までは各地域ごとの塩づくりでしたが、古代国家の建設に伴い税制度が確立されると、若狭では塩を「調」(その地方の特産物を納める税)として納めなけれぱならなくなりました。この税としての貢納こそが、土器製塩形態変革の原因です。藤原・平城京の発掘調査で発見されている木簡(荷札)には、若狭から大量の塩が貢納されていたことが書き記されており、当時時の若狭が古代国家の中で重要な位置にあったことが判ります。そして、この岡津の人々も例外ではなく、命を削るような過重な労働と彫大な時間を掛けて大量の塩を作り、それを自分たちで都へ運んでいたのでした。

復元遺構
 焼土面は発見された焼土の範囲を抽象的に表現し、色調に関しては発掘した時
の色にできるだけ近くしてあります。
 製塩炉の復元は、
     浜禰ⅡB式……1~4号炉 自然石を用いて抽象的に表示
     船岡式…………5 ・6号炉 レプリカ復元(ウレタン樹)
            7~9号炉 自然石を用いて復元
となっています。特にレプリカ復元に関しては、発掘されたとおりの色調で、煎熬(煮詰め)の加熱を受けたように表現してあります。
平成2年11月                    小浜市教育委員会




浜禰ⅡB時期の炉↑。石なのか粘土なのかわからん

船岡式時代の石敷炉

これら炉の海側に海水濃縮を行ったと見られる焼土面
当時の海岸線はすぐ先で、焼土面の先に道路のようなものがあるが、その先の小さな石を並べた所であったという。
もう少し展示に工夫をしないと、何だがわかんのではなかろうか。サルでもわかって歴史に興味が強くわくように努力されたい。せっかくの浜禰ⅡBの②(新式、岡津式)の土器を展示してほしい。
岡津製塩遺跡は、本所川の河口部、西向き浜の通称塩汲場(しおくみば)にある土器製塩遺跡。小浜湾にやや突出する地形をなし、東から西へ延びる段丘の最下辺に位置する。若狭湾沿岸に点在の製塩遺跡は、前方が海、背後は山という狭い立地にあり、製塩活動に必要な日照時間はきわめて短いのが特徴である。しかし当遺跡は早朝から日没まで太陽をうける場所にあって製塩には最適の場所といえよう。
昭和53年、54年に発掘調査され、古墳時代から奈良時代(7~8世紀)にかけての浜禰ⅡB式・船岡式製塩土器の時期、両者の間に編年される岡津式製塩土器が使用されたと判明した。製塩炉跡は岡津式に伴うもの4基、船岡式に伴うもの5基が発見され、現海岸線から約10メートル東の配石遺構は、護岸と塩汲場の役割を果していたと推測されている。炉の前面には南北約30メートル、東西約10メートルの範囲に船岡式製塩土器段階の焼土面は、海水を濃縮したと考えられる。遺跡の範囲は南北約100メートル、東西約50メートル。
焼土面を中心に、下辺の長いL字形の配列で7世紀末~8世紀初頭と8世紀代の2時期にわたる製塩炉址群及び土器片が検出された。東側では6面の敷石炉がみられ、内4面はやや深い層にあって、伴出遺物から7世紀末~8世紀初めの時期と推定された。藤原宮跡出土の若狭関係木簡で調塩としてこの周辺から送られたことは明らかであり、それには丁酉年の紀年銘が記されている。この遺跡は藤原宮出土木簡と対応され、同年次の土器製塩遺跡として若狭で初めて発見されたもので岡津式と名付けられた。一方他の2面と、西側3面は従来から船岡式と呼ばれる8世紀代の敷石炉で、当遺跡が藤原宮・平城宮の年次に伴う遺構であることが判明した。海岸部では旧海岸線が残り、塩汲場・採かん場・製塩炉・煎ごうという古代塩つくりの作業工程の全容を知ることができる遺跡として注目される。整然とした炉址群から国衙・郡衙所管による官工房的な要素も感じられる。日本海側では唯一。日本最初の製塩遺跡として環境整備が行われ史跡公園として公開されている。東部には縄文中期・後期の集落跡も発見されている。

『岡津製塩遺跡』
新たに岡津式と提唱される新型式の製塩土器が検出され、今日まで浜禰ⅡB式から船岡へ移行したとされていた土器型式が、実はその空間に若狭式製塩土器の発展過程を示すものが存在したことが知られ、若狭の土器製塩に新しい段階を迎えたこと。さらにこの土器が若狭最古の文献である藤原宮跡出土木簡と対応し、文武元年(A. D.697)には、この地域から藤原の都へ塩の送られていたことは確実であり、その遺跡が岡津遺跡である可能性の強いこと。
つけ加えるならば、岡津で発見されたこの種の土器が、過去の遺跡調査の中に含まれていることも考えられさらに広がることも想定されること。岡津式製塩炉は、海岸線に平行して造営されており、船岡式とは相反の関係にあることなど、岡津式についての諸問題が提起されている。


今日まで以上の3型式をおしなべてⅡB式と総称しているが、今後これらの名称を改めることか要求されるもので、いわゆる若狭タイプの初現が、ⅡBの第3型式となるであろう。
 今回の調査で検出された、船岡式に先行する岡津式と命名した製塩土器は、基本的にはⅡB第3型式に概当するものである。器形は岡津式の場合、口縁部が外反し胴しぼりとなるが、これは一般的ではなく、船岡式に類似する器形も認められ、これより船岡式に発展したことが推察されよう。
 今日までⅡB式と称して来たものの中で大型の第3型式が各地で検出されており、これらはおおむね船岡遺跡と同一地帯に共存するがこのことは船岡式とⅡB第3型式の年代がさほどへだたらないことを示すものである。これらの容量は2,000ccとかなり大きいもので、塩生産の増大を意図したことが知られる。
 8世紀代に入ると土器製塩が最も降盛し、いわゆる船岡式の出現をみる。今日まで明らかにされているように、若狭湾沿岸では急激に遺跡が増え、56ヶ所中46ヶ所にもおよぶ。炉も平面的な一定の規格を持ち、土器は従来とは大きな変化を遂げ極端に大型化する。これまで丸底だったものが、鍋底型、もしくは平底に替り、容量も10,000c.cに達するものが認められる。岡津式でかなり大型化したものがさらに大型化し、塩生産の大巾な増大を目途としたことは明らかである。
 8世紀末~9世紀代は傾式であり、土器製塩に新しい段階を迎えることになる。同じく敷石炉を使用するものだが、支脚を用いるようになった。これは製塩土器と炉の間に大きな空間をつくることで熱効力の増大をはかったものでこれによって、煎ごうが容易になり時間的短縮も可能となったことに伺せる。従来の炉と異なることは、支脚を支えるための配石でありしたがって敷石が若干粗となることである。支脚は高さ10cm内外で上面は4.5cmのくばみを持つ。これは、船岡式に類似する半円形丸底土器を乗せるためのもので、それに耐える構造を見せるものである。
 吉見浜式は10世紀代に年次の求められるもので、傾式と同じく独立支脚を伴うが炉はさらに粗くなり使用石材も角礫が主となり大小さまざまな石を用いている。支脚もさらに高くなり15cm内外が計測され、上面は4㎝程度となる。この時期では製塩土器に大きな変化がみられ、口縁部がやや外反するつぼ型となる。器厚は船岡式・傾式よりはるかにうすく、製塩土器特有の粗雑さはあるが焼成はかなり良好で、ときには土師器と見間違うほどのものもある。土器の口径は14cm~17cmのものが大半を占め、容量は船岡式より劣るが傾式よりは多い。これらは大量に出土しており、傾式の段階で衰退をきたしたのではないかと危惧された土器製塩を再び盛返えした感じを与えるものである。
 土器製塩は11世紀の塩浜式をもって終焉を迎えることになる。この頃ではおそらく鉄釜の使用が一般的であったと考えられるが、若狭では部分的に土器製塩がおこなわれている。支脚は細く長くなり20㎝内外となっている。土器もⅡA式に類似するコップ状となり土器製塩の復古調を思わせるものである。
 以上は製塩土器を中心に述べたものだが、これらには炉の伴うことは当然であり、それぞれの特色をみせている。
 浜禰I式炉は粘土敷をして製塩土器を固定させており、風うけの悪いレンズ状の底辺で煎ごうをおこなっている。このことは無風の中でないと煎ごうの出来なかったことを示すもので、以後の炉跡とは趣を異にする。
 ⅡA式では傾でその片鱗を伺せているが、その段階では粘土敷と併用されたと推察される。
 ⅡB式にいたって始めて本格的な敷石炉の設置がみられ、岡津式ではより効率の良い炉となる。これらは土器の大型化に伴う変化であり、機能的な発展を遂げたどいざるを得ない。
 船岡式は密集した敷石炉となるが、これは敷石を密集させることによって火力がその上をつたう効力を狙ったと考えられるのである。そのためには空間が必要であり、拳大の石材を用いてその上に土器をのせたことも推考できるが、もっともこれは岡津遺跡一例の発見であり、今後さらに研究しなければならない問題である。
 傾式炉は船岡と同様の石材を使うが、配石は粗になり支脚を支える形をとる。炉もさほど大きくはなくまた遺跡も少ない。
 吉見浜式炉は前記とまったく一変する。石材も角礫が使われ炉に面はない。吉見浜遺跡では礫の間から支脚が多量に発見され、石によって支脚の支えられでたことが知られる。したがって平面的な炉は不必要であり上面は凸凹である。
 塩浜式の炉はこれよりさらに粗となり小規模となる。形として土器製塩をおこなっているような感じすらうけるのである。
 以上炉は岡津式も含めて再編成しなければならず、いずれは集大成して発表しだい。



ワタシは木簡から判断して、当時の製塩は奴隷労働、このあたりの製塩従事者は東北人奴婢で、安寿と厨子王の伝説を彷彿するものであったと見るが、今後のまことの専門家の研究を待とう。。
この前の戦争でも、中国朝鮮などからの強制連行、奴隷労働、賃金未払などの問題は認定されている、まだ子供まで連行したのだが、「解決済」にはほど遠く、いまだに問題を残して、75年後のこんにちまで尾を引いている。このままなら解決されないまま「時効」待ちか。そうしたまことに情けない歴史を重ねながら当遺跡の歴史を探ってみよう。


南宮神社

『大飯郡誌』
同(村社)南宮神社 同(祭神)金山彦命 菅原道真公(合祀) 岡津字大道に在り 社地三百八十坪 氏子三十三戸 社殿〔〕拜殿〔〕鳥居一基 由緒〔明細帳〕古へ松宮濱ノ岸と申者勧請して後慶長三年氏子再建して南宮と號す。
〔寛永四年國中高附〕宮所は長井村に有鬼子母神。
大正九年二月二十六日次の社を合併せり。
 無格社南宮神社 祭神菅原道真公  岡津字水道〔明細帳〕慶長年中(海隣庵開基)自觀和尚拾自砂中安海岸

海岸ぶちで、何でここに南宮社があるのだろう。鍜冶屋の勧請だろうか。
隣に海隣寺がある。


臨済宗妙心寺派海隣寺

『大飯群誌』
海隣庵 同(臨済宗)  岡津字寺谷に在り 寺地二百二十坪 境外所有地一町三反九畝十七歩 檀徒二十戸 本尊観世音菩薩 堂宇〔〕地蔵堂〔〕由緒〔明細帳〕昔時自観和尚海岸創立爲持庵慶長年中檀徒爲此庵


地蔵院
『大飯郡誌』
地藏院 同(臨済宗)  岡津字細谷に在り 寺地百二十一坪 境外所有地一町五反五畝十歩 檀徒八戸 本尊地蔵菩薩 堂宇〔〕 由緒〔明細帳〕應永の比は七ヶ寺ありしも破壊今此一寺存するのみと傳ふ。
〔若狭郡縣志〕 三十三所観音十七番十一面観音加斗細谷吉祥寺准山城六波羅密寺。



毎年3月3日に区民の安全無事を祈願して御札を各辻に立てる三日講、8月14日の仏の冥福を祈り六斎念仏を唱える念仏講、9月10日前後に豊作を祈願する願ばらしなどの民俗行事が伝わるという。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


岡津の主な歴史記録


『小浜市史』
岡津製塩遺跡は語る
遺跡の位置と環境
小浜市街地から国道二七号線を西(舞鶴方面)へ約一〇キロメートル走ったところに位置し、小浜湾に向ってやや突出する地形を形成する。遺跡所在地は上・下段で構成され総面積一、一八○○平方メートルの段丘となるが、上段では製塩土器の散布はなく、下段約五千平方メートルの範囲に散布がみられた。この遺跡は昭和三十三年(一九五八)~同三十六年に同志社大学が実施した若狭湾沿岸一帯の土器製
塩遺跡分布調査によって発見されたものである。当初から広範囲におよぶ製塩土器の散布から大規模遺跡として認識されていた。この種の遺跡は海岸線に面する比較的狭い範囲にみられるのが通例で、多くの場合、波浪の侵蝕や海岸保全工事による破壊があり、必しも良好な遺構の残存を望むことはできなかった。本遺跡も例外ではなく海洋性保養地としてすでに買収されており、開発計画が進展、青写真も出来上っていた。小浜市は直ちに土地所有者と交渉、当面の保護を求めたのである。その上で文化庁と協議し、発掘調査による範囲確認と、遺構の残存状況を把握することとなった。
 文化庁では塩生産遺跡の国指定地を、瀬戸内海の喜兵衛島(香川県)に次いで日本海側に求めており、とくに若狭湾沿岸のどこかに候補地がないかとの狙いもあったらしい。したがって本遺跡の遺構がよく残されていれば国史跡指定もあり得るとの思惑もあって、当初から遺跡保存の目的で、しかも自信を持って発掘調査が進められた。というのも、当該地は昭和四十九年海中に防潮堤をつくって海岸線を埋めたために汀線が保存されていたのと、製塩遺跡としては広い空間を持ち、日照時間も長いという利点を備えており、土器製塩活動には最適の場所であったからである。
発掘調査と遺構
調査は国・県の補助をうけ、昭和五十三年(一九七八)六月二十五日~九月十日と翌年四月二十日~六月八日の二か年にかけて実施した。初年度は土器の散布が密な地点を中心に調査したが、ここは海岸線に近い地区で海抜一・五メートル~二メートルの低い立地を形成し、約五千平方メートルの範囲となる。次年度の調査はこれより東側段丘を対象としたが、ここでは縄文中期末葉~後期の土器片を若干検出したのにとどまった。
 第一次調査区域では二〇~三〇センチの掘下げで遺構が検出され、中心部北側では海水を濃縮する採鹹場と推定される約三百平方メートルの焼土面があった。この東側に一~四号炉跡が検出されたが、焼土面よりやや下層に位置しており、伴出土器も後出の五~九号炉とは異なっていた。一~四号炉跡の南に隣接して五・六号炉跡が併列するが、これらは焼土面と同一レベルとなっている。さらに焼土面の南側終焉ではL字型に七~九号炉跡が検出されている。
岡津式製塩炉跡と土器
遺跡の北東地区で発見された一~四号炉跡群だが、奈良時代(八世紀)の船岡式製塩工場を造営するために整地されたらしく、遺構の全容をみることはできなかった。写真・図は比較的残りのよい三号炉だが、船岡式のような一定のプランを形成せず、ブロック的に空間を持って石材を組合わせている。比較的大きい石材を三方に組んで一方を開くというスタイルとなり、囲みの中は著しく焼けており、石組の内側もまた同様である。これはブロック的な石組がカマドの役割を果していたと推定される。岡津式製塩土器の底部は明らかに丸底であり、こうした方法でない限り煮ふつは不可能であっただろう。
 岡津式製塩土器は、本遺跡において始めて確認されたもので、船岡式に先行する七世紀末~八世紀初頭に年次が求められ、藤原京の時期に相当すると考えられる(『岡津製塩遺跡』)。
 本類の土器をⅡB式とする研究者もいるが、いわゆるⅡB式とはまったく異なる器形で、近年の発掘所見では炉の形態にも差異がある(『大島脇向・長浜・宮留遺跡』)。岡津製塩遺跡の遺構構成は、ⅡB式の遺構を整地して岡津式があり、さらにそれを造成して船岡式製塩炉が形成されている。岡津式は明らかにⅡB・船岡の中間に位置しているのである。土器もまたいわゆるⅡB・船岡両タイプとはまったく異なるもので、ⅡBの形態は確かに残すものの、より吸水性が高く容量の大きい土器に変化しているのである。この背景には律令制の発展があり、このことは我国初の宮都藤原京の造営にも深い関りがある。宮都造営三年後の六九七年、すでに若狭から税として塩が送られていることで証明されよう(一五〇頁参照)。藤原宮跡から多くの若狭関係木簡が出土しており、本遺跡とのかかおりでは「岡田里」(大飯町岡田周辺)と記す木簡があり、この地域に包合される岡安でも岡津式製塩土器が発見されている(『岡安遺跡』)。岡津もおそらくこの範囲に含まれるのであろう。宮都出土の木簡には三方郡・遠敷郡域の地名が記されており、それらに伴う製塩遺跡の存在することは当然考えられることであって遺跡の再検討が必要であろう。大化の改新以後の令制改革によって増大した調塩への対応が岡津式土器製塩の成立であり、これがさらに船岡式へと進化を遂げるのである。
船岡式土器製塩の発展
大宝令制の施行は、若狭の土器製塩に大きな影響を与えた。前代では二斗(一斗は四・〇四升、約六・五キロ)たった調塩が、三斗に改正され三分一増となったからである。したがって従来の製塩方法では需要を満たすことはできず、新しい様式を考えねばならなかった。当然のことながら煮ふつ容器の拡大、炉の変革が必要となったであろう。
 岡津遺跡の場合、前代の炉跡を整地し、三〇〇平方メートルの海水を濃縮する「採鹹場」を造成してその外側に規格性のある敷石炉を設置して製塩活動をおこなっていたのである。焼土面と称した採鹹場の東側には東西四メートル、南北二メートルの長方形敷石炉二面が海岸線に直行して併列設置され(五、六号炉跡)、南側には東西四・六メートル、南北三・八メートルの七号炉跡、さらに西側下方にはそれよりやや小面積の敷石炉が二面平行して存在する。これらの敷石炉は岡津式と違って、びっしりと敷きつめられており全面利用したことが推測される。しかし、丸底であった岡津式製塩土器とは異なり、より口径の大きい平底の土器に変化しており、それをそのまま敷石に置いて加熱しても、土器の側面だけに加熱され、あまり効果はあがらない。火は底部から側面へ回ってこそ強力な火勢を発揮するもので、当然そうした工夫はなされたと考えられる。炉上には多くの角礫が散乱しており、これらを土台にして空間をつくったのであろう。この方法がやがて支脚への発展につながっていくの
である。
公園化された岡津遺跡
岡津製塩遺跡は、採鹹場(焼土面)、煎ごう場(敷石炉)そして海水を汲みあげた旧海岸線という塩生産工場のパターンを示しており、貴重な遺構であることが確認された。したがって段丘下段の四九八一平方メートルの範囲が、昭和五十四年(一九七九)五月二十一日国指定史跡に認定されたのである。塩生産遺跡としては日本海側唯一の指定であった。昭和五十六年に土地公有化、同五十九年度より環境整備にかかり、平成二年(一九九〇)度に完成をみた(『史跡岡津製塩遺跡環境整備報告』)。塩生産遺跡の国指定は香川県喜兵衛島が最初であったが、これは土器製塩遺跡発見の記念碑的なもので、環境整備されたのは岡津遺跡のみである。将来的にはこの場所で子供達に塩づくりの体験をさせたいと考えている。
 ところで、本遺跡は保存のための調査であり、ある面で遺構保護の必要性から発掘をとめている。実際はこの下層には六世紀代からの製塩遺構があり、八世紀にいたるまでの長期間塩生産の場所であった。塩づくりは令制とともに発展をしたが、塩づくりにたずさわった人々は大変な苦しみであったと思われる。また、藤原宮の存続年代から奈良時代にかけて、岡津・船岡・長浜などこの周辺に集中して大規模製塩遺跡の所在することを注目しなければならない。船岡式を単純に奈良時代と一言で片づけている。しかし、平城宮・京跡出土木簡は和銅五年(七一二)を初現として神護景雲四年(七七〇)までみられ、この内殆んどが、天平勝宝以前、つまり八世紀前半に求められ、いわゆる船岡式土器製塩盛行の年次を考える指標となるであろう。さらに、平成二年発掘の船岡遺跡で萬年通宝(七六〇年鋳造)が出土しており、あるいは船岡式土器製塩の終焉を物語る証しかも知れない。

岡津の伝説





岡津の小字一覧


岡津  水迪 寺谷 宮久保 風ノ木 竹花 新屋敷 塩入 上川 宮前 大道 東山 下坂 松田 池尻 森下 入ケ谷 坂ノ谷 仏坂 玉隣 下狭間 平山 神田 西側 付谷 上狭間 札場 東下 出口 平下 菰池 涼谷 上ケ谷 瓜田 笹山 下内角 上内角 上又角 下又角 笠松 馬場田 小坂 小尻 川尻 塩汲場 寺口 石橋 尾葉川 宗政 一井根 境ノ森 鍛治谷 小鍛治 下細谷 七々谷 細谷 中谷 本戸 堂ノ奥 堤下 西頭 大田 沓掛 岸下 原 昇立 姥ケ谷 風呂山 片江 雛栗 湖上谷 貝坂 北谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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