丹後の地名 若狭版

若狭

奥田縄(おくだの)
福井県小浜市奥田縄


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福井県小浜市奥田縄

福井県遠敷郡口名田村奥田縄

奥田縄の概要




《奥田縄の概要》
「小浜市総合運動場」の脇から奥田縄川に沿って入った所。
奥田縄村は、江戸期~明治22年の村。口田縄・須縄と合わせて三縄(みなわ)と総称された。小浜藩領。村内は品野・河原・小杉・西村・落合・松尾・駄都乃目・奥詰・新田などの小村に分かれていた。「雲浜鑑」によると,家数42 ・ 人数244、寺院は禅宗勝元庵・東明庵・浄証寺、神社は山王権現とある。「若州管内社寺由緒記」では浄証寺は一向宗とあり「雲浜鑑」は誤記。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年口名田村の大字となる。
奥田縄は、明治22年~現在の大字名。はじめ口名田村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北24町余、戸数49、人口は男144・女136、小船3。

《奥田縄の人口・世帯数》 62・26


《奥田縄の社寺など》

奥田縄の滝
集落の一番奥、小字親王谷に五丈余の滝があり、伴信友の歌があるという。
『口名田郷土誌』
奥田縄の滝(奥田縄区)
 奥田縄川をさかのぼり、集落が切れたところから林道七〇〇メートルの所に奥田縄の滝がある。高さは十五メートル余り、直立した岩肌を激流が飛沫をあげて落下している。滝の周辺は照葉樹林に覆われ夏でも涼しく、飛沫のかかる岩にはイワタバコの可憐な花が咲く。江戸時代の国学者伴信友もこの滝を訪れ一首の歌を残している。
  繰り返へし見れどもあかず杣木ひく田縄の山の奥の滝水
 奥田縄の集落はこの滝より上流にもあったといわれているが、今は杉や桧の樹林となっている。滝への道やその周辺は区民によって整備され、管理が行き届いている。



日枝神社

奥田縄の入り口の高い所に鎮座。4月中の申の日に祭礼があり神事能が行われたという。
『口名田郷土誌』
日枝神社
祭神は大山昨(おおやまくい)命
祭礼は五月一日。明治十四年五月一日、村社に指定されたが、戦後は社格が廃止された。
 古くは山王権現といわれ、滋賀県坂本町の日吉神社の祭神大山咋神を勧請したものであろう。「福井県神社誌」(昭和十一年刊)では、創設の年を延宝六年(一六七八)と記しているが、「若州管内社寺由緒記」には
  一  山王 十善神 氏神 勧請時代不知
     延宝三年九月廿二日 別当 谷田寺
 と書かれていて、延宝三年にはすでに勧請された年がわからないほど古くから氏神として祭られていたことがわかる。また、この神社の別当は谷田寺で観音堂とあわせて寺務を統括していた。小浜八幡神社が神主となったのは、明治初年の神仏分離政策により、谷田寺から切り離されたことによるものであろう。
 そのため、谷田寺には山王権現についての記録が多く残されている。そのうちの一番古いものは貞享四年(一六八七)山王宮が新しく造立された時の棟札の写しで、次のように書かれている。
  奥田縄村氏神山王宮棟札之写
 貞享四年夘歳  願主 普門山谷田寺
 山王大権現      法師頼運敬白
 四月吉祥日    時庄屋奥田縄村 四郎助
                  久兵衛
       大工 竹原村住 岩崎作大夫家次
               竹中加左衛門家信
 そして、裏面には氏子として「奥田縄村惣中、口田縄村惣中」と書かれている。つまり貞享四年に山王宮が新造され、その時には氏子として口田縄村も入っていたことを示している。また、宝暦九年(一七五九)にも改築が行われ、その時も氏子として口田縄村が入っている。このことから、山王権現は口田縄・奥田縄両村の氏神であったことが知られる。
 天保十五年(一八四四)には御輿が作られ、谷田寺によって完成供養が行われた。この御輿は祭礼の当口、酒宴の終った申の刻(午後四時頃)木製の鎌を竿の先につけた人を先頭に、掛声勇ましくかつぎ出され川向うの岸に渡御、その年の豊作と災厄を祓う祈願の行事になっていた。また、祭礼の当日は戸主たるものは必ず参拝する規定があり、旧来より右の座、左の座、座頭の座席など決められていて、その年にはじめて戸主となったものは裃を着て、氏子一同に挨拶をし、はじめて戸主として認められることになっていた(福井県神社誌)。今は、御輿のかつぎ手もなくなり、戸主の交代の場も新年の総会で行われることになっている。


『遠敷郡誌』
日枝神社 村社にして同村奥田繩字宮ノ上にあり、元山王社と稱し祭神は大山咋命なり延寳八年創立と傳ふ。


観音堂
村の案内板にもない。『口名田郷土誌』にはその写真があるが、どこにあるのかわからなかった。
『口名田郷土誌』
観音堂
 観音堂は円通山寿福寺と言われ、寺が絶えたあと本尊の聖観音だけが観音堂にまつられることになったと思われる。延宝三年(一六七五)の「若州管内社寺由緒記」でも寿福寺の草創はいつのことかわからないと記されており、その当時、すでに観音堂だけになっていたことが知られる。
 観音堂は古くから谷田寺が別当を勧め、三十三年ごとの開帳は谷田寺の住職によって行われてきた。開帳の記録を「谷田寺記録」(小浜市史社寺文書編)から拾うと次の通りである。
  寛文九年(一六六九)所当所奥田縄村寿福寺観音開帳
            同十一年閉帳  住持敬快
  元禄十四年(一七〇一)奥田縄村円通山寿福寺観音開帳
             同十六年閉帳  住持旭応
  亨保十八年(一七三三)奥田縄村寿福寺観音開帳
             右本尊享保十八年八月ニ開帳相勤ム。三年目ノ夘ノ年ニ閉帳相勤ムルハズニ候得ドモ、夘五月二十二日大洪水ニテ名田庄別テ痛ミ候故、二年相延シ今年五年目ニ閉帳相勤ム者也。英応
 宝暦十二年(一七六二)奥田縄村寿福寺観音開帳
           明和元年閉帳  住持政応
 寛政 三年(一七九一)奥田縄村円通山寿福寺本尊開帳
           同五年閉帳   住持光常
 文政 三年(一八二〇)奥田縄村円通山寿福寺聖観音本開帳
            文政五年閉帳  住持直峯
 天保十四年(一八四三)にも開帳が行われている。
 また、本尊の聖観音像と寿福寺の縁起については、浄證寺に残る文章は次のように記している。
  縁起
 抑、当寺本尊聖観音菩薩は則人皇四十五代聖武天皇の御宇天平十一夘年(七三九)摂津国菅原の大徳行基菩薩御建立の霊場なり。其の由来を尋ぬれば、此菩薩諸国御化導の砌、晩陰に及で当国雲城の南街道を通らせ給ふ。折節人屋の樞もなく、名田之庄大黒山の麓に於て一夜を明し給ふに、夢の内に天童子此の菩薩に告げて曰く、是より東に当り纔の道を歩めば清浄の仏庭あり。其の所に到り一宇を建立せば仏法隆なるべしと示し給ふ。依是行基菩薩告に任せて東方を見給へば流水清らかにして紫雲峯に靉靆、音楽四方に聞ゆるを覚えて夢さめおわんぬ。是、正しく示し給ふ所の地なりと、東雲を待ちてここに来り、則、自ら此人悲の尊容を彫刻して一院を建立し、円通山寿福寺と号し給ひ、日添月重て老若歩を運し此処に無程堂を結び安置し給ふ。其後年数を経て、九十一代伏見院の御宇永仁の末、山門の衆徒重巌阿闍梨門山の院王職たりし晩年に及び、此所に安居して霊像に奉仕し、依て仏宇を再営し一院を建立して円通山寿福寺と号す。僧侶を置て長夜の灯光をかかげしめ、福祐を祈る者也。
 然共、盛衰世に逢て坊舎も影を覆に到りしかば、衆僧も散じて、今、纔に此堂一宇のみ残れりといえども、誠に大慈大悲の本誓止む事なし。信心の輩霊験を豪り響の音に応ずるが如し.依て<貴賤男女歩を運んで結縁せば、現には福寿円満の薬に誇り、当には等覚妙覚に至らん事疑いあるべからず。皆々近かく寄りて御拝あられましょう。               浄證寺  釈浄現
 この聖観音は、明治維新の時、神仏分離令によって神社の境内に置くことができなくなり、明治六年浄證寺に預けられた。しかし、明治四十一年長床(現在の観音堂)が再建され、区の要請でもとの場所に安置されたことが、浄證寺の記録に残っている。



曹洞宗無量寿山永福庵

永福庵は小浜空印寺第14世面山和尚の隠居所で、はじめ当地に建てられ、のち上野村に移され、さらに明治16年当地へ移されたもので面山和尚の著作や遺品を所蔵している。面山述賛永平正法眼蔵(6冊)と絹本墨書永平師真影之賛は市文化財。
『口名田郷土誌』
永福庵 山号無量寿山  曹洞宗
 面山禅師にゆかりの寺として有名である。
 永福庵の由来は集落の奥に「永福」という小字があり、それに由来するものと思われる。寛文八年(一六六八)の「奥田縄村検地帳」には名請人(耕作者)として永福庵が「堂の上」や「緩の前」に田畑を所有していたことが記録されている。その永福庵が、小浜空印寺の第十四世面山禅師の隠退に際して、藩主酒井忠音によって松永谷上野へ移築造営された。
 面山禅師は肥後熊本の生れであったが、享保十四年(一七二九)藩主の招きによって空印寺の住職となり、道元禅師の「正法眼蔵」など禅学の研究に専念したが、寛保元年(一七四一)隠退して、移築された上野の永福庵に移り、明和六年(一七六九)八十七歳で寂滅した。
その間、数多くの著作を残し、禅宗学の研究者として、当時、右に出るものがなかった。
 その永福庵が明治十六年再び奥田縄に移築されたのが現在の永福庵である。その時、江戸時代より大光寺の末寺であった東明庵と勝元庵の檀家はすべて永福庵に属することになり、東明庵と勝元庵は廃寺となった。
 また、永福庵には市の文化財に指定された面山禅師の真筆や著述が残されていて、九月十七日の面山忌には、今でも面山禅師の法孫が永福庵を訪れている。




浄土真宗本願寺派小杉山浄証寺

『口名田郷土誌』
浄証寺 山号小杉山 浄土真宗本願寺派
 寺伝によると文明七年(一四七六)九月下旬、本願寺八世蓮如上人が当地へ巡錫のとき教化を受けた僧が法名道信を給わり、小杉谷口に草庵を構えて念仏道場としたのが起源とされている。
 その後、慶長年間に火災により記録等を焼失したが、文政年末(一八二五年頃)に寺基を現在の地、伊弥谷口に移し堂宇を改築、現在に至ると伝えている。山号は開基の地にちなんで小杉山と名付けられたものである。
  しかし「若州管内社寺由緒記」によると
     浄証寺       一向宗妙光寺末
   本尊阿弥陀  開山は了周と申し候。寛正六年(一四六五)の建立。
   当年まで凡二百余年、承応元年(一六五三)に焼失仕り、伝書とも御座無く候。          浄証寺   了慶
 と書かれている。この記録は延宝三年(一六七五)のもので、寺伝とは異なっているが、今では確かめようがない。
 江戸初期の寛文八年(一六六八)「奥田縄村検地帳」によると、当時、奥田縄村には東明庵(禅宗)、勝元庵(禅宗)浄証寺の三ヶ寺があり、いずれもその屋敷の年貢は御赦免となっている。
 また、明治初年に神仏分離令が出され、神社の境内に仏像など仏教関係のものを安置することを禁じられたため、観音堂の本尊聖観音菩薩及び、脇侍不動明王や普門天王は浄証寺に預けられた。その後明治四十一年、観音堂が再築されたため村へ返還され現在に至っている。…


『遠敷郡誌』
淨證寺 真宗本願寺派にして本尊は阿彌陀如来なり、同村奥田繩字伊彌谷に在り、文明七年の創建なり。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


奥田縄の主な歴史記録


『遠敷郡誌』
奥田縄 奥田縄川の溪谷一帯を包み、林産豊かに石灰も又産出す、親王谷に田繩の瀑あり直下五丈。

奥田縄の伝説


『口名田郷土誌』
親王塚とモリさん(奥田縄)
 奥田縄村に、昔から親王谷(しのたん)の森というところがあります。古くより斧を入れたことがないので、大きな欅の木がたくさんはえていましたが、今から八〇年ほど前に一年余りもかけて切り出されました。
 この森から少し登ったところに石垣を積んだ屋敷跡のようなところと、四つの小さな塚らしいものがあり、これが古くから親王塚といわれてきました。付近には姫小松が自生しており、この松は貴い方が死んだところでないと生えないとも言われています。
 この墳墓らしいものについてはいろんな説がありますが、一説にはこの山を越えた名田庄村挙原の皇子塚と同様、市辺押磐(いちべおしわ)皇子の塚ではないかといわれています。市辺押磐皇子は皇位継承のもつれから大長谷王(おおはつせのみこ)に殺された悲運の皇子で、その場所は久多綿の蚊屋野といわれていて、それが久多川の上流にある挙野ではないか
といわれています。そして、殺された皇子の髪の毛は皇子塚に埋められ、遺体は四人の従者によって山を越え親王塚に葬られたと伝えられています。
 従者四人は奥田縄に住みつき、村の草分けとなり、その埋葬された塚は「中前のモリ」「木下のモリ」「尾上のモリ」「松尾のモリ」だといわれています。


『越前若狭の伝説』
千石畑              (奥田縄)
 親王谷の酉よりに、千石畑という所がある。
 むかしひとりの女がいた。女には自分の子とまま子とがあった。ある日、自分の子になまの豆をもたせ、まま子にいり豆をもたせて、千石畑に植えさせた。日がたって女が、千石畑へ行くと、自分の子の植えた豆は、ひとつも実らず、まま子の植えた豆は、大木になり空にそびえ、畑一面に豆かなり、千石もあったという。それから、このところを千石畑というようになった。また越前の永平寺に、この豆の木で作った、大太妓かあるという。   (小川進勇)




奥田縄の小字一覧


奥田繩 石橋 八幡 院王 五良 上藤 上野葉座 上野 清水谷口 上野下 宮ノ上 宮ノ下 宮ノ前 勝部谷口 蘢池 今谷口 杉余谷口 南 段 今谷葉座 中岡 下岡 野 谷口 伊弥谷口 岡 上岡 西小杉 小杉谷口 緩ノ前 鎌倉 小谷口 西ノ森 西 一ノ谷 足谷口 堂上 戸尻 上戸尻 智佐十 落谷口 落谷 落谷奧 下落谷 有明 松尾 上松尾 上田中 向松尾 上ノ山 中島 永福 小今谷 清水谷 後谷 今谷 大黒 鳶ケ谷 箱谷 親王谷 矢柄谷 水谷 松尾谷 足谷 小杉谷 伊弥谷 杉余谷 勝部谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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