丹後の地名 若狭版

若狭

遠敷(おにゅう)
福井県小浜市遠敷


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福井県小浜市遠敷

福井県遠敷郡遠敷村遠敷



遠敷の概要




《遠敷の概要》
このページは大字遠敷の地を取り上げる。遠敷郡の中心地、若狭のヘソの部分、旧遠敷村の心臓である。若狭姫神社が鎮座するあたりである。
ワタシの母は遠敷郡名田庄村で、子供の頃から、何で遠敷と書いてオニュウと読むのか不思議だったが、「遠丹敷」の二字化で「丹」が略されたものであろうか。
遠敷は小丹生の意味で、丹の産地、伴信友は「東市場の邊、殊に美しき丹土あり」としているが、何かの金属が酸化して美しき丹土になるのだが、その含有金属が水銀の場合殊に美しく、価値が高い。無尽蔵にあるわけでなく、太古以来人間が採り尽くしていて、もう残ってはいないのだが、当地からは採り残された辰砂が実際に出たという。「小」は美称、オ茶碗オ箸のオのような語。北川を越えた太良庄に式内社の丹生神社、南の針畑に小入村、この周辺にもけっこう丹生があるが、もっと広く若狭湾沿岸は水銀が出る地であったと見られていた、その物的証拠が見つからなかった。古代の水銀は金以上の価値があったという。若狭湾はいわば金鉱山ダイヤモンド鉱山地帯にあったのである、その証拠の辰砂が見つかったという。この辰砂で遠敷の意味は確定した。国宝仏像ザクザクの財源の見当もつく。
『遠敷郷土誌』
〝遠敷〟の語源について
平成三年(一九九一)四月二十六日の新聞に「遠敷の通称惣谷にある洞穴から岩石を採鉱し、奈良のヤマト分析研究所で鑑定の結果、九三〇〇ppmいう高濃度の水銀を含む辰砂(硫化水銀)であることが分かった」と報じられた。
日本海側では報告例がないという。そして「地名の裏付け」との見出しまでつけられていた。そこで地名「遠敷」の語源について考えたい。十二世紀頃にできた「東大寺要録」に二月堂のことを掲げ「お水取り」の起源について記されている。その中には「彼ノ大明神在り若狭国遠敷郡二」と地名「遠敷」そのものが明記されている。
 江戸後期の国学者「伴信友」は著書「若狭旧事考」に「さて遠敷と云う義は、今遠敷村のわたりの山々に美しき丹土の出る処多く、山ならぬ地も然も処多し(中略)故に小丹生と呼へるにて、小はその地を称える詞なり」と書いている。また奈良時代の初めに編纂された「豊後風土記」の同義の文章も引用されている。
 戦後、ある研究者は、アイヌ語で「乗船する所」と発表、またある作家は、朝鮮語で「遠くにやる」との説を紹介し、更に「敷」とは「配置する。統治することである」との主張をも紹介している。難しいばかりに様々な「語源説」が出てくることは致し方ないといえる。
 しかし誰が何といったとしても少なくとも、伴信友が喝破した通り「遠敷」の語源は「小丹生」であった。近年その最も決定的な証拠資料が確認された。昭和四十年(一九六五)、奈良平城宮より発掘された「木簡」に初めて「若狭国遠敷郡小丹生郷」との地名表記したものが発見された。その後、藤原宮跡からも「小丹生郡」、あるいは「小丹生評」と記した木簡が幾点も出土した。また平城京跡からも和銅五年十月の紀年銘をもつ木簡が発掘され「小丹生郡」名が明記されていた。
 また「続日本記」によると元明天皇の和銅六年(七一三)五月二日に「諸国の郡郷名は好字、二字で表記せよ」との官命が出された。和銅五年の木簡は「小丹生郡」と書かれている。和銅六年(五月以降)のものには「遠敷郡」と書かれており、元来の地名「小丹生」)が「遠敷」に替わった時期と理由を確認できる最適の資料となっている。
 シルクロード研究の第一人者で歴史学者(当時早大教授)の〝松田寿男博士〟が丹生とは丹(辰砂)を生ずる所、辰砂とは水銀と硫黄との化合物であることを歴史地理学的に立証した論文を発表された。
 しかもこの研究の真価を確固不動のものとして決定づけたのは水銀鉱床学の権威〝矢嶋澄策博士〟であった。昭和二十四年(一九四五)七月、松田博士一行が現地「遠敷」を訪ね諸所で採取した資料から一五ppm前後の水銀が検出され「遠敷=小丹生」の地名解釈の正しさが証明された。
 しかもその後平成三年(一九九一)四月遠敷の山中に朱を掘ったと思われる古い洞窟が見つかり残存する辰砂(朱)が採取できた。先の新聞の通り九三〇〇ppmの水銀含有が証明された。「丹生は水銀産地」という松田、矢嶋の両学説に一つの見事な実証を加え得たのである。    (若狭歴史民俗資料館嘱託 永江秀雄氏に学ぶ)



古代の遠敷郷。「和名抄」若狭国遠敷郡8郷の1つ。高山寺本は「乎邇布」、東急本は「乎爾布」の訓を付す。古くは少丹生・小丹生にもつくる。和銅4年4月10日の年紀を有する平城宮出土の調塩付札木簡に「若狭国遠敷郡〈遠敷里□□果□調塩一斗□□〉」と墨書したものがある(平城宮出土木簡概報19)。また里名表記などから和銅6年以前と推定される米の付札木簡に「少丹生里〈米七斗 秦人老五□(戸力)〉」と見える(同前12)。さらに調塩の付札として「若狭国遠敷郡遠敷郷〈秦人牟都麻呂 御調塩三斗〉」「天平宝字四年九月」(平城宮出土木簡概報17、「若狭国遠敷郡〈小丹生郷三家人波泉 調塩一斗〉」(平城宮木簡2)、貢進物付札の断片として「□遠敷郡丸部臣真国」(同前)などの墨書が見える。

中世は、「和名抄」に見える遠敷郷と丹生郷は12世紀には合わせられ、これを東西に分けて東郷・西郷と称したが、室町期頃からはこの西郷の中心地を遠敷と称するようになった。文永2年3月の中手西郷実検田取帳案に見える西郷河上里・億田里のあたりが当地に相当するが、この里名は土地台帳上の呼称であろうという。建武元年には「遠敷市」が見え、応永11年9月9日の年紀を持つおおい町福谷天満宮鰐口には「大工遠敷下金屋左近」とある。永享7年11月8日の明通寺寄進札に「遠敷徳妙」が見え、大永3年7月2日の若狭国下宮の棟札銘写に「左近尉藤原正吉遠敷惣大工」とある。大永~天文年間に明通寺と西福寺に寄進・売却された遠敷内の地として「遠敷中西たはた東」「遠敷一本ノ木之本」「遠敷山下分」「遠敷長田之下、横田森下」がある。このうち「横田森下」は近世の東市場村の横田山王社の近くと思われるという。天文21年10月10日の妙楽寺寄進札には「遠敷村太郎兵衛」とあって村と称されている。天正元年9月に丹羽長秀は遠敷滝村に禁制を下しているが、この滝村は若狭姫神社前の小字として近世遠敷村のなかに見出される。同じく丹羽長秀は天正2年閠11月に「若州遠敷金屋中」に金屋職を安堵しており、天正16年11月6日に浅野長吉(長政)は遠敷村内11石を若狭彦神社に寄進している。建武元年に見える「遠敷市」は、近世遠敷村の小字に市場丁があり、同地に比定される。同地は若狭姫神前のすぐ前にあって門前市の性格を持つ市が形成され、近江へ通じる九里半街道の中継地の市としても栄えた。若狭国府に近いことから国衙収納物や国衙に属していた工人の生産物の販売、国衙必要物の購入など国衙との関係も考えられる。
鎌倉期、遠敷市が定期市であったこと、付近の農民が商売や銭貨獲得のために出入りしていた。室町期には市が毎日開かれるようになったと考えられ、遠敷市のこうした発展は周辺の荘園における商品生産が盛んになったことによるのであろう。
しかし、この後は小浜が町として発展し、太良荘農民が小浜に3日も出入りしないではやって行けないと述べているように、遠敷市の比重は相対的に低下したらしいという。

近世の遠敷村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば、家数241 ・ 人数1,212。村内は島ノ町・舞々谷・市場・池田・中村・下村などの小村に分かれていた。々谷は湯谷山と万灯山に挟まれた湯谷東側に位置し、越前幸若流の舞々が居住していた。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年遠敷村の大字となる。

近代の遠敷は、明治22年~現在の大字名。はじめ遠敷村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西15町余・南北6町余、戸数272、人口は男862 ・ 女778。当地はは明治期から昭和期にかけて商・工・農すべての面において他地域を圧倒し、遠敷村の経済の中心地となっていた。全戸数の3分の1以上が商業に従事していたとみられ、高度経済成長期以降小浜の商店街にその地位を奪われるまで周囲の農村部の人々への日用雑貨品の・供給を一手に引き受けていた。
昭和28年国鉄小浜線に東小浜駅が設置され、同42年には国道27号が開通した。同50年一部が遠敷1~10丁目となる。


《遠敷の人口・世帯数》 824・306


《遠敷の主な社寺など》

検見坂古墳群
検見坂・遠敷(おにゆう)集落南の背後の山の尾根や山麓に、6世紀後半の横穴48基・円墳49基がある。市指定史跡。湯谷に最も多く、山麓に横穴群が並び、背後の山の尾根に円墳が点在する。武者ヶ谷の8基の横穴からは昭和48年発掘調査で須恵器の坏・高坏・横瓶や鉄鏃、管玉などが出土した。2点の坏身にはアワビ貝の破片が認められたという。
『小浜市史』
検見坂古墳群と横穴墳
検見坂(けんみざか)の南、遠敷集落西南背後の山嶺や山麓、そして谷間には前方後円墳を含む円墳五四基、墳穴墳三八基が群集する(市史跡)。特に神通寺裏山から湯谷地籍がもっとも多く東側斜面には横穴墳が集中する。この西側山頂が九花峰で頂点の前方後円墳を軸にして波状に山裾に向って三~八基の単位で五ブロックに小円墳が点在し、さらに若狭姫神社裏山から北西の湯谷(ゆたに)に下降する稜線上にも五基が階段状に順列する。消滅したが、武者ケ谷支群の横穴墳などがあって、この地域一帯が古代人の奥津城であったことが窺える。
 旧丹後街道に面した検見坂のほぼ中央に位置する小字武者ヶ谷には横穴墳八基が群集していたが、昭和四十八年(一九七三)五月、土取りによって破壊されるという事態が発生し、やむなく緊急発掘をおこなった。山裾より一~八号墳と名代けたが、第一段階の一~三号墳調査終了後、継続発掘の調整中に四・五号墳が破壊されてしまったのである。あわてて残る六~八号墳を調査したが、作業中ブルドーザーの振動で墓室の側面がくずれるという危険な状況もしばしばあった。ここでは特徴的な部分のみの記述にとどめるが、詳細は 『福井県史』考古編を参照されたい。
 武者ケ谷支群六基の形態は図19・20に示したが、二号墳をのぞいて盗掘による撹乱のため原状の把握はできなかった。しかし、若狭地域中枢部における墳穴墳の形態を部分的に察知し得たことは大きな収穫だったといえる。基本的には墓室はアーチ型、墓室の入口はドーム型となっており、双方ともにドーム型となるのは六号墳のみであった。墓室の平面は円形(三・六号墳)、隅丸方形(一号墳)、隅丸長方形(二・八号墳)、楕円形(七号墳)となっており、墓室・墓道の床面はほゝ同一レベルである。但し三号墳は墓道より墓室がやゝ高くなっていた。また墓室内壁の掘削痕があざやかであった。六基のうち、一号墳では墓室と墓道の間に底辺一・六メートル、高さ〇・四八メートルの赤土で叩きしめた三角状盛土がみられ、これは閉塞を意識した施設と推察された。さらに、この前面に大型カメの須恵器が底部を砕かれて埋納されており、被葬者に対する祭祀儀礼のおこなわれたことを物語っている。
 三号墳は本横穴墳の中で最も大きく、他が全長数メートルなのに、一一・ハメートルとほゞ倍の数値を示す。特異なのは墓道の前面に前庭部ともいうべき外部施設を持っていたことである。この部分は左右に対蹠してテラス状の平場を持ち、その延長は左で二・八メートル、右で二・五メートルと若干の長短がある。山の斜面を削ってつくられており掘込み幅は三・三メートル、深さ二・五メートルで横穴墳ではかなり大規模な土木工事といえよう。墓道と前庭部との接点では両側に穴をうがった一文字の溝跡がみられるが、これは木製扉で観音開き型開閉板の存在したことを示すものとして注目され、石の閉塞ではなく新しい埋葬方法の発露とも推測される。また通常、墳墓間の連絡路がある筈だが、この場合それを確認する余裕がなく悔を残した。三号墳の特殊性は、この支群の族長的性格を有するためと考えられ、また二号墳の出土遺物(図21)をみても、必ずしも横穴墳が終末期の所産とは言えず、むしろ、三号墳などは横穴式石室をしのぐ労力が必要であっただろう。
 一方、横穴式石室では径二〇メートル、高さ四メートルを計る神通寺裏山古墳がある(図22)。外観上の規模は大きく見えるが、石室の全長は五・五メートルと小さい。しかし、墓室は長径四・三メートル、幅二・二メートル、高さ二・六メートルが計測され、奥壁は巨大な石材を使用するいわゆる巨石墳と同様の構築方法をとる。だが、羨道部(墓道)は一・二メートルと短い。墓道の極端に短い古墳は古式の横穴石室は別として、きわめて新しい部類に属すると考えられるが、石室の構造からはそうとは言えず、まったく不思議な古墳である。常識的には六世紀後半代であろう。
 検見坂古墳群の個々についての検討はされておらず、調査は横穴墳を除き分布のみにとどまっているため、なお多くの問題点が山積している。残された大きな課題といえよう。



若狭姫神社
若狭姫神社


天龍神社
『遠敷郷土誌』
天龍神社
○名称  宗教法人 若狭大黒  天龍神社
○祭神  大地主(おおとこぬし)大神・九頭龍大神
○創建日 大正三年(一五七五) 一月十三日
○由来  高橋家(旧猿橋家)は福井県大飯郡おおい町本郷百二十号十番地で田畑八町歩、山林二十町歩を所有して八代與助翁、九代世助翁、十代與助翁は代々庄屋を務めて、六百年有余の歴史を持つ旧家である。十一代猿橋彰は大飯郡誌、郷土大飯等に掲載されているとおり本郷小学校長、本郷村助役、本郷村長等を永きにわたり務めた。十二代高橋美行は京都に於いて四国香川県丸亀市の霊学師より神道霊学を学びおさめて今日の天龍神社を築きあげた中興の祖である。



曹洞宗龍雲山神通寺

遠敷川の谷より一つ東側の小さな谷、検見坂(けみざか)の東山裾にあり、本尊釈迦如来。寛保3年(1743)成立の竜雲山神通寺記(寺蔵)は延暦16年(797)の創建と伝え、当初は華厳・法相を兼学、のち真言宗になり、応安年中(1368-75)兵火で焼失、応永22年(1415)当地の領主内藤下総守が檀越となって再建、大円宗智を招き曹洞禅に改宗したと記す。しかし、内藤氏再建が事実とすれば内藤氏は武田氏被官だから、永享12年(1440)以降ということになる。同寺記は内藤下総守の戒名を「真慶院殿大機竜雲大居士」と記すが、真慶院殿の没年は享禄2年(1529)で、同年12月日付武田元光寄進状(尊経閣文庫蔵)に
  神通寺事、真慶院殿来月廿四日一周忌為追善、号位
  牌所高除之地仁申付上、於向後彼寺領各寄進状約諾
  之外無他妨万雑公事令免除訖、所詮、任先例旨、永
  代知行不可有相違者、早守先例可抽修道勤行等仍新
  寄附状、如件
とある。寺記によれば寛文6年(1666)に末寺10ヵ寺があり、買得・寄進による田畠1町1反余、分米14石余を有した。もと若狭姫神社蔵の平安初期筆写といわれる大般若経六〇〇巻がある。

『遠敷郷土誌』
龍雲山 神通寺(遠敷・検見坂)
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦牟尼佛
 寛保三年(一七四三)成立の神通寺記は延暦一六年(七九七)創建と伝わる。当初は華厳・法相を兼学、のち真言宗となる。応安年中(一三六八~七五)兵火で諸堂をことごとく消失、応永二二年(一四一五)当地領主内藤下総守が檀越となって再建、大圓宗智を招き曹洞禅に改宗したと記されている。内藤下総守逝去に際して、法名を「真慶院殿大機龍雲大居士」と諱されている。
 この故に山号を萬燈山から龍雲山と改められた。寺名神通は神仏影向の聖地は霊妙自在なるが故に神通と称する。永禄元年(一五五八)内藤平八郎の代に山縣民部に攻められて一族は終焉した。神通寺はまた再び焼失の憂き目に遭うも、のち再興し、現在に至る。
 また、「若州管内社寺山緒記」には「龍雲山神通寺は、延暦十六年(七九七)弘法大師妙楽寺建立の時、当国鎮守下宮大明神女神現われ、弘法大師に見せ佛果を成して国家守護の為大般若経六百卷を所望、則十七日うちに早々之を写して明神に授与なされ、其比硯水下宮より池水を持たせ、今に当山下にある、故に古来より弘法水と謂う、右の因縁に依ってこの地に精舎を建て神通寺と号す」とあり、神通寺は、もと真言宗であったが、応安の一揆により堂舎悉く焼け、その後、禅宗大円和尚によって再興されたと伝えている。
 その末寺に遠敷村慶雲寺、同所庭陽庵、同所芳松庵、同所泉谷寺、同所十王堂、同所地蔵堂、同所六斎堂、同所観音堂の八ヶ寺を書き上げているが、地蔵堂を除いてその跡を知ることは出来ない。


『遠敷郡誌』
神通寺 曹洞宗當在院末にして本尊は釋迦如来なり、遠敷村遠敷字萬燈山に在り。
 和銅年間僧行基當地に来りて上下宮に詣で此寺を開く、延暦年中空海勅を受け本州一の宮に来りて本地垂跡の神事圓備せりと慱ふ。初め華巌兼法相宗なり、後眞言宗となり應安年間兵火に罹る、應永二十二年當所領主内藤下総守當寺の開基となり、禪宗大圓宗智を招き開山とし禪寺を興立す、内藤下総守逝去後法名を眞慶院大機龍雲大居士と名け寺號は舊例によりて神通寺と號し龍雲山と稱す、内藤下総守子孫の祈願所として代々地領を受く、永禄年間太良庄城主山縣民部丞の爲めに滅され、子息内藤平八郎三河の家康による、寺堂又共に燒亡せしが後に再興せりと云ふ。
 附記 當寺経藏に藏する大般若經六百卷は元若狭姫神社に蔵せられ神宮寺僧の管する所にして五筆大般若經と稱し近世に到る迄此経の転読は頗る重大の義とされたり、傳説に拠れば下の宮明神護法の爲め和光の塵に交り女身を現し空海に見え大般若経の所望ありければ空海行基の舊跡に來りて書寫す、其間明神自ら硯水を持す云云。明治維新後一時神通寺に納まりしが現今は遠敷區共有たり。



日蓮宗正幸山妙行寺

旧丹後街道に面して若狭彦・姫神社の鳥居があるが、その少し東側に入口がある。
『遠敷郷土誌』
正幸山 妙行寺(遠敷・島)
宗派 日蓮宗
本尊 釈迦牟尼佛
 創建応永元年(一三九四)開基は出石の正護比丘尼・開山は安住院日源上人(長源寺開山でもある)。同寺は同上人によって建立されたと伝えるが、当初の所在地は不明である。
 享和二年(一八〇三)現在地に移転されたが、翌三年一月十九日夜、池田地区より出大した大火により遠敷区の大部分が延焼した際、当寺も類焼し、建物・仏像・仏具・過去帳等を全て焼失した。当時の住職は第十七世重尊院日現上人の代であり、文化元年(一八〇四)七月八日仮本堂を再建したと記録にある。昭和二十八年(一九五三)この地方を襲った未曾有の台風水害により諸堂・庫裏半壊、仏具、什器類の大半を流失したが、改修して現在に至っている。近年、住職や檀家の努力によって本堂や位牌堂、庫裏等増改築され、見違えるほど立派になった。
 境内には、妙見堂、稲荷社があり、そのそばの桜の大木が毎年立派な花をつけて区内の人々の眼を楽しませてくれる。又以前は境内の中央に枝振りの良い黒松があり、高さ二十メートルを超えて聳えていたが松食い虫にやられ切り倒されたのは残念であった。


『遠敷郡誌』
妙行寺 日蓮宗長源寺末にして本尊は寶塔題目釋迦如来多寶如来なり、同村通敷字市場に在り、應永元年但馬出石の産正護比丘尼の開基なり、尼は長源寺開基日源に陪侍し共に法華を弘傳し長源寺を建つ、應永十一年寂す、境内佛堂に妙見堂あり。


浄土真宗本願寺派湯谷山西光寺

西光寺は永享3年内藤氏の家臣田仲新吾と駿河の浪士木村権之進の建立と伝えられる。
『遠敷郷土誌』
湯谷山 西光寺(遠敷一丁目)
宗派 浄土真宗本願寺派
本尊 木造阿弥陀如来立像
歴史
 応安四年(一三七一)五月、玉置河原の合戦で、遠敷湯谷山城主内藤下総守敗れ遠敷口で討ち死。内藤氏の重臣、田中左右衛門新吾は幼君平八を連れ、落ち延びるが幼君も病死。再び遠敷へ帰り、身を潜めながら主君の菩提を弔いつつ機会を待つが、応永五年(一三九八)頃行先不明となる。田中左右衛門の長子が新太郎(善覚居士、終焉日不明)、孫が道祐法師。享徳元年(一四五二)頃、駿府府中より来る木村権之進寛辰(玄道法師)と共に仏門に入り、現在の地に長禄三年(一四五九)に天台宗の道場「西光院」を建立と伝えられる。
 当山開基道祐法師寛正五年(一四六四)往生 第二代玄道法師。文明七年(一四七五)八月下旬、本願寺第八代宗主・蓮如上人が、越前吉崎御坊を退去して若狭西津に上陸、小浜妙光寺に暫く留錫される。当山第三代住職釋玄古、蓮如上人の教えに遇い浄土真宗に改宗して湯谷山西光寺と改称する。
 第八代住職釋善宮の時、現在の本尊が安置されたと思われる。本尊裏に「願主 若狭国遠敷郡遠敷村 西光寺善宮」と見える。延宝二年(一六七五)九月九日、西本願寺末寺として報告がある。
 寺宝として、親鸞聖人木像、蓮如上人真筆の六字名号がある。


『遠敷郡誌』
西光寺 真宗本願寺派にして本尊は釋迦如来なり、同村遠敷字中西に在り、永享三年内藤下総守の臣田仲新吾剃髪して道佑と號し駿河の浪士木村權之進寛辰と共に一宇を建立し、湯谷庵と號し天台宗に属す後明應五年七月時の住僧玄古蓮如に歸依して今の宗に改め西光寺と稱すといふ。


湯谷山城跡
湯屋谷城ともいう。多田ヶ岳の枝峰が北に延びる山頂稜線上にある。先端郭は若狭姫神社の裏山(約85メートル)で、南へ順次断続して6郭をつくり、主郭は竜前の裏山山頂(約236メートル)である。総延長は600メートルで、空堀・土塁を残し、西の多田を見下ろす九花峰にも見張台をもち、広範囲の山城であった。
城主は若狭守護武田氏の被官内藤下総守と伝える。内藤氏は永正年中(1504-21)若狭一二宮神官牟久慶繁に娘を縁つかせ、遠敷地域とかかわりをもっていた。代々下総守と名乗り、最後の城主は永禄年中(1558-70)太良庄賀羅嶽城主山県氏・宮川新保山城主武田氏の連合軍と玉置河原で合戦、敗れて没落したと伝えるが、「高野山過去帳」には「嶺日浄善禅門若州内藤下総守元亀二年未之六月十七日」とある。


遠敷舞々
『遠敷郷土誌』
遠敷の舞々について
 集落のほぼ中心丹後街道に接して字市場町、東の島の町、中村、西の池田、三嶋、検見坂等の集落が広がる。三嶋の西側谷間、字湯谷には室町期の守護被官内藤下総守の館跡があったと伝えられる。近世には湯谷の東側を舞々谷と呼び越前幸若舞の一派が居住して幸福座と称した。近世を通じて諸公事が免除されていた。(水島家文書)「若狭郡県志」には「舞々とは一種の舞曲より謡曲の能に似て楽器を使用しないで扇、手拍子を使う。之には幸若、大柏(さいわか・おおかしわ)の二派があり、そして若狭の舞々は何れも幸若の流儀である。「幸若」とは約五百年前、桃井直詮を始祖としている。桃井家は源義家八代後の播磨守直学の孫直詮より始まる。
 当時我が国中世の舞楽には田楽、琵琶、幸若、猿楽、能楽等があった。幸若は天台の聲明(御経の節)をもとにして義経記や太平記等の草子類に曲節をつけて謡い、平曲謡曲に類似して浄瑠璃の源の一つである。最初はただ扇子で拍子をとる位であったが後には舞が加わり「幸若舞」と称するようになった。折烏帽子、直垂に小太刀という衣装で演じるのが普通であったらしい。舞手は一人又は三人でそれを太夫、ワキツレと云い、楽器は鼓だけであったと言われている。
 幸若は上品にして硬い芸術であったため、時代の太平に流れの軟らかい即ち軟派調の猿楽に押され遂に元禄前後より衰えた。しかし若狭や敦賀方面にはその後永らく残ったのである。
 この舞々一座については、江戸中期の町人学者、木崎テキ窓の著す『拾椎雑話』巻四小浜「十五、遠敷の舞々村は、昔より舞の者居住いたし、諸公事御赦免也。陰陽師、竃はらい、梓神子を業とす。空山様(二代藩主 酒井忠直)(一六三〇~一六八三)時分、嘉助、平助とて両人御前にて廣々舞致し御合力米被下候…」この中に出てくる「嘉助」は現在の遠敷池田区の水嶋治一家であり、江戸時代の古文書が多数残されている。
 舞一族の内で今日まで存続する諸家は水嶋治一家(屋号が嘉助)、松田金一家(屋号が太善)、杉本辰臣家(尾号が弥左衛門)の三家のみで他はわからない。以上の三家と講中の方々によって、八幡社と薬師堂のお守りが今日も行われている。


『柳田国男集』
「物語と語り物」
若狭には舞舞太夫が村々に住んで居た。殊に遠敷郡遠敷村字舞々谷の如きは、十餘戸の住民悉く舞々であった。舞の時に唱ふる音曲は凡て越前幸若の流儀である。貞享元年に土御門家が陰陽師の徒を定めたとき、國中の舞々にして彼家に屬する者十餘人、何れも舞々の號を改めて陰陽師と稱し、泰山府君を祀り祈祷を業とした。舞々谷の舞々も亦大半は陰陽師になったと云ふ(若狭郡縣志)。幸若が舞々であることは明證がある。しかも後世の芝居者が幸若の筋を引いて居ることは、桐座の家元たる桐大蔵の系譜を見ても分る。桐氏の太夫は後々は婦人であったが、伊豆の大場から出て越前幸若の弟子となった幸若與太夫を始岨として居る(百戲述略第四集)。
「踊の今と昔」
正徳年中に成りたる若狭郡縣志に依れば、同國遠敷郡遠敷村大字遠敷字舞々谷の條に云へらく、此谷に茅屋十餘家あり、皆舞々の居なり、此外に大飯郡三方郡にも舞舞住めり、凡そ舞の時に唱ふる所の昔聲曲節は皆越前幸若の流なり、貞享元年土御門家にて陰陽師の徒を定めらるゝ時、國中の舞々にして彼家の配下に屬する者十餘人、舞々の號を改めて陰陽師と稱す、專ら泰山府君を崇み祈祷を事とす、此舞々谷の舞々も亦大半陰陽師と成れり(以上)。


『遠敷郡誌』
本郡に於ける舞々は倉座を主とし、酒井家代々之れを保護し神事に限らず、其技を演ぜしめらる、倉座の祖たる倉小左術門は大飯郡青郷に出で中古田烏浦及堅海浦に居住せりと云ふ、宮川村加茂に吉祥座あり、後には倉座と共に能を主とせし事は下に述ぶる如し、遠敷村の舞々は天文年中遠敷山城に住せし内藤下総守の家来が主家没落の後越前幸若太夫の後なる幸福太夫に就て舞法を傳へられ、浅野弾正領國の時幸福座と定められ、諸公事を免除され所々祭禮に神事之舞を勤むるを本職とし、京極氏時代も同様にして酒井家時代に於ても従前通りの保護ありしも舞流行せず、次第に活計に窮せしかば京都土御門家に従屬し泰山府君の修行を許され一流の神職となりしを以て其後は梓巫子に類せし事を主とせし如く、世俗よりは特殊の業として輕視され来れり、大飯郡高濱の舞々記録によれば遠敷村の舞々は其分流にして寛永十四年遠敷上下宮大烏居建立につき舞を舞はんとせし時、申樂吉祥太夫と前後輕重の爭議を起せしが結局舞を先にし能を後にする事となりし事あるを以て見れば遠敷の舞々は大飯郡の系統にして能楽が神事能として盛なるに隨ひ舞々と爭ひを生じたるものなりと知らる。

『若狭郡県志』
舞々谷
在二湯谷之東一、斯谷有二茅屋十餘宇一、皆舞々之所レ居也、
此外大飯郡三方郡亦有レ之、凡舞之時所レ唱之音聲曲
節、皆越前幸若流義也、貞享元年土御門家泰福定二陰陽
之徒一之時、國中之舞々属二彼家一者十餘人、改二舞々
号一称二陰陽師一、而專崇二泰山府君一事二祈祷一、今此處之
舞々亦大半為二陰陽師一


『拾椎雑話』
十四、舞は古代なるものにて猿楽より以前もてあそび、寛文時代まても老人は好みけると、能芸はやりて舞は自然と拾りぬ。空印寺千部の御法事毎に頓写の時は舞有たると也。近年十部もなけれは舞の沙汰もきかす。
十五、遠敷舞々村は昔より舞の者住居いたし、諸公事御赦免也。陰陽師、竃はらひ、梓神子を業とす。空山様時分、嘉助、平助とて両人御前にて度々舞致し御合力米被レ下候。予今時の嘉助に逢ひ様子相尋候得考、遠敷は舞の根元にて候と申伝ふ。越前幸若太夫も遠敷より出たるよし、遠敷を幸福と云、高浜に居候を幸菊と申候。三家に別れ舞の数は三十六番有。今に代々嘉助、平助と申、舞も請ったへ候よし申候。予十五六歳の頃、東宮前町舞五兵術と云あり、頼政宇治川の舞を舞ひしを見たり。是より外舞と申事承はらす。
十六、舞は京極様時代はやり、其余風にて讃州丸亀にても後々迄も翫ひ、舞権兵衛と申もの、折々丸亀へかよひ申候。当国にても空印樣、高台院様には舞御好み被レ成たると也。



《交通》
ワニ街道(かぼちゃ街道)
遠敷は交通の中心地でもある。丹後街道と最も古いと見られている鯖街道(根来越・県道34号・久坂中ノ畑小浜線)が交差する。若狭姫神社の門前市が立った地である。

地元の人が立てた案内板がある。
遠敷は、昭和26年の小浜市政発足まで若狭国遠敷村として若狭の中々として栄えてきました。当時は多くの人々が往来し、文通の要所として北陸と丹後を結ぶ丹後街道が通っていました。また、小浜から京都、奈良へ通ずる歴史・文化の主要な街道であり鯖街道でもありました。街道筋には村人が集まり、「市」が開かれたほか、街道には.日常主活に必要なものをほとんど用立てることかできる店が立ち並び、賑わいのある重要な街道でした。

少し詳しく見れば、遠敷橋の西詰に「かぼちゃ街道(ワニ街道)」がある。
何かワニの名が残っているということは、ワタシは昔から知っていて、これはいつか必ず行ってみようとずっと思っていたのである。

わに街道↑                    旧丹後街道、その先は遠敷橋↑
ワニ街道(かぼちゃ街道)を案内板が街道入り口の民家の壁にある。


角度を変えて見ると、
真ん中の道は旧丹後街道。向こうの鳥居は若狭姫神社、鳥居をくぐって少し行けば若狭姫神社の正面に出る。ワニ街道は右側の奥ヘ入る道である。
遠敷川寄りの遠敷中村には「ワニ街道」(かぼちゃ街道)と呼ばれる街道が残されている。どうやら若狭姫神社の表参道で、それはそのまま鯖街道へ続いていたのではないかと思われ、今は鯖街道といっているが元々は「ワニ街道」と呼ばれていたのかも知れないと思われるのである。


このあたりに「ワニ氏」がいた。遠敷氏や白石氏の以前から「ワニ氏」の拠点であった。
平城宮木簡の貢進物付札の断片に「□遠敷郡丸部臣真国」の墨書があるそうである。
当たり前のハナシかも知れないので誰も書かないようだが、若狭姫神社はワニの神社である。本殿の主祭神の豊玉姫は、記紀にれば、海神の娘でまことの姿は八尋鰐(やひろわに。尋は両手を広げた長さをいう、漁師さんは今でも使っている単位だが、身体尺なのでアバウトで何㎝何㎜とかには換算できない、だいたい1間。だから14メートルほどある大きな鰐)である。その向かって左の中宮神社↓に祀られているのは玉依姫で、豊玉姫の妹で、神武の母であるが、彼女も姉同様に八尋鰐であろう。鰐から生まれた子が初代天皇ということにされていて、彼もまた鰐であろう。ワニ氏のワニの語源は、いろいろ説はあるが、この鰐(アリゲーター・クロッコダイルの類なのか、それとも鮫なのかよくわからないが)であろうかと思われる。この鰐から生まれた者だと信じた彼らのトーテムにあるのであろうかと思う。
豊玉姫の記紀の記述を読むと「産小屋」や「鵜飼い」や「母系社会」はワニ氏の慣習かも知れないなと思う。

本殿の向かって右に祀られているのが、玉守神社↓で、玉作りをしていた当地のワニ氏が祀った氏社と言われている。

ワニを祀る大社がずらりと並んでいるのにワニ氏がいないということはない。ワニ氏は若狭小浜が発祥と言われるのはこうしたことだろうか。もしそうなら当地こそその心臓部であろう。

仲哀8年紀に、岡縣主の祖の熊鰐という人が出てくるが、ここは遠賀川の川口で、このあたりにワニ氏がいたことがわかる。北川川口部の「丸山河床遺跡」「府中石田遺跡」から遠賀川式土器が出土している(若狭歴史博物館に展示されている)。ワニ氏はこんな弥生の初期から当地へやってきていて、弥生以降の日本を作っていった立役者であったと思われる。
若狭彦・姫社の祭神は、人口に膾炙する「浦島太郎・乙姫」で、日下部氏・船木氏と同じように「ワニ氏」の祀るものである。神宮寺にはワニ鈴というものもある。鰐口と似ているからこう呼ばれるのかワニ氏と関係があるものなのかはわからないが、昔からワニ鈴といっていたからこう呼ばれるのであろうか。

ワニ氏は漢字では和爾・和珥・丸邇とかいろいろ書くが、ミとかミミの尊称を持っているので見分けがつけやすい、古くは中国南方の呉越、さらに南方方面を発祥とした海人で、漁師や水運だけでなく銅鉄鍜冶水銀や玉作りの技術を持った集団ではなかったかと思われる。日本では後に大和に入ったワニ氏は春日氏となり、さらに大宅氏、粟田氏、小野氏、柿本氏などに分かれていく。綏靖、孝霊、開化、応神、反正、雄略、仁賢、武烈、安閑、欽明、敏達の各天皇の后妃にワニ氏系出身の女性、またはその后妃が生んだ皇女がなっている。母系社会の遺制を強く残した当時の日本で、これだけの后妃が出ているということは天皇が出ている氏族以上のものであったと見なければなるまい。
『倭人伝』のタン耳・朱崖(ともに海南島。耳と朱に留意)に似ているという「倭の水人」で、今の日本人のベースとなった集団であろうか。若狭の「ワニ氏」の拠点は三方郡美浜町で、弥美神社や耳川のあるあたりが知られている。三方郡弥美郷と呼ばれた所で、ミの名が残している。遠敷あたりは文献には見られないが、若狭彦・姫神社がその存在を裏付ける。そもそも日子坐王の系統が「ワニ氏」を思わせるし丹後海部氏も「ワニ氏」を思わせ、三方郡に限らず、「ワニ氏」の拠点は最初は若狭や丹後にあったのでなかろうかと思えるのである。
「ワニ街道」の名には、この辺りを拠点とした「ワニ」集団が海から内陸へと山城や近江、大和へと入っていった、次から次へと何波も何波も新しい集団が渡来してくる土地柄なので、古いものは追い出されるように内陸へ向かった、そうしたことを思わずにはいられなくなる。

『遠敷郷土誌』
わに街道
遠敷中村の町内に、延長わずか一〇〇メートルにも満たない短い街道ではあるが、鰐(王仁)街道と呼ばれる道がある。玉(ぎょく)の信仰を持っていた百済からの渡来人(王仁)に関係しているのではないかと言われている。王仁氏は四世紀末の応神天皇の頃百済より来朝した渡来人で、漢(中国)の高祖の子孫と言われていて、「玉」に対する信仰を持っていた。古事記によれば「論語」と「千字文」を伝えたとされ、その子孫の「わに氏」は文筆を持って朝廷につかえていたということである。
 また遠敷には若狭一の宮があるが、その下社(姫神社)の境内には「玉守神社」が祀られており「わに氏」を祭った氏神とも考えられている。「わに氏」を始めとする「玉造り」の技術を持った渡来人の工人集団が遠敷あたりに住んでいたとも考えられる。
 このわに街道は別名「かぼちや街道」とも呼ばれており、この由来も謎のままで、小さな街道の名前であるが、何か重要な意味を伝えようとしているのかもしれない。
 通常「街道」は行き先の名前をつけて呼ばれることが多いが、この道は丹後街道を越えて根来道につながっていたとも考えられ、その先は針畑峠を越えて滋賀県の「和邇」湖西線の「和邇駅」に行き着くことができる。はっきりしたことはわからないが、遠敷から湖西へ向かう街道の名残なのではないか。
 「わに街道」と交差している目の前の大きな通りは「丹後街道」と呼ばれるものであるが、この丹後街道沿いの若狭一の宮の若狭姫神社の正面には遠敷市場(市庭)と呼ばれる場所があり大変賑わっていたようである。遠敷市場(市庭)は若狭姫神社の門前市として発展すると同時に京都への分岐点として交通の要にもなっていたため街道筋の宿場市として、大きな役割を果たしていた。島・中村区も多種多様な店が軒を連ねていて、今の町並みから昔の面影を偲ぶことが出来る。



旧・丹後街道

今の国道27号の南側に残る旧・丹後街道。遠敷の辺りを通る街道筋は、福井県伝統的民家群保存活用推進地区に指定されている。地域の人達が保存と活用の活動を続けられている。

JR「東小浜駅」
福井県立若狭歴史博物館

《産業》
めのう細工
古代からのワニ氏の玉作りの伝統を引くという、めのう細工である。ワタシも昔何か買った覚えがあるが、それはどこかへ行ってもう見当たらない。
「若狭めのう細工の発祥は奈良時代。鰐族と呼ばれる渡来人が、 若狭彦・若狭姫神社建立の際に玉を作り、奉納した歴史が始まりと伝えられている。」などの言い伝えがよく案内書などに見られる。
玉作りが始まりと見られるが、瑪瑙細工は享保年間高山喜兵衛によって始められ、文化・文政年間に白津久兵衛が京坂神地方に売り歩いて名を広めたという。江戸末期に一時衰退していたが明治期になって中川清助や村長小林佐左衛門らの努力により再興し、昭和51年に国の伝統的工芸品に指定され、翌年若狭めのう会館内に若狭めのう商工業組合が置かれ、観光客を中心に多くの人々が訪れていたという。

『遠敷郷土誌』
めのう細工業
若狭瑪瑙(めのう)商工業協同組合
 若狭めのう細工の伝統工芸が何時ごろから始まったか確かな文書はないが、伝えるところによると約千三百年前にさかのぼり若狭彦神社、若狭姫神社のご祭神-彦火火出見尊と豊玉姫尊の神話、潮干珠(しおひるたま)、潮満珠(しおみつたま)に始まるといわれている。また玉を信仰するわに族が当地に来て丸玉の製法を伝えたのが始まりとも言われている。
 しかし確かなところでは亨保年間(一七一六~二五)の初めのころ、遠敷村の高山喜兵衛が浪速において金剛砂を用いての研磨法を習得し、更に奥州津軽を訪れた際、めのう原石を焼くと、美しく発色することを知り、当地に帰省したのち、様々な試行錯誤の末、原石を赤土で造った火釜の中で灰に埋め、一定量の炭火で加熱を繰り返すことにより美しく発色させる、いわゆる若狭めのう細工の「焼き入れ法」を完成させた。当遠敷の地に於いて若狭めのう丸玉の製造を始めたとされている。
 最初は玉が専門であった。文化文政年間(一八〇四~二九)には遠敷村の白津久兵衛が盛んに京阪地方に売り広めた結果、嘉永年間には同業者三十余名に増加した。白津久兵衛が逝去の後、同村田中正次郎及び大飯郡高浜町荒木源兵衛等が販路を三都に拡張した。(以上丸玉のみ)文久年間(一八六一~六三)より慶応の年に至り、大きく衰退した。明治初年(一八六八)中川清助が彫刻技術を開発習得し、美術工芸品の製造を創始して、世間に若狭瑪瑙細工の声価が認められ勃興期を迎えた。隆盛期は明治、大正で北海道のめのう原石が入るようになった明治後期から昭和初期にかけての最盛期には、当遠敷村を中心とした近辺地域でめのう細工をする家が三百余軒に及んだ。また天皇即位式の際に使用される「石帯」の製作を宮内省から依頼されているように、名実ともに国内最高の産地であった。…



《姓氏・人物》


遠敷の主な歴史記録


『伴信友全集5』「若狭旧事考」
…さて郡名は、和名抄當郡に遠敷郷あり、今遠敷村と云ふが在て、その民居の東を流るゝ川を遠敷川と呼び、〔東寺に藏る建武元年の當国の進状に、遠敷市場また遠敷市などあり今遠敷村に属たる小里に、市場ト云ふ處あり、又遠敷川を隔て東市場(トイチバ)あり〕其わたりの大名を遠敷谷と云へり、此地名をもて郷名とし、郡名にも負せたるなり、〔もと一区の地名の大名ともなり、又郷にも郡にもおよび、或に遂に國の名ともなれる事、諸国に例あり〕続日本紀に、寳龜元年七月庚辰、授二從五位下若狭遠敷朝臣長売一正五位上一ヽとある若狹の遠敷氏は、上の國號の下に云へるごとく、若狭氏に亦此地名を複たるなり、さて遠敷と云ふ義は、今ノ遠敷村のわたりの山々に美しき丹土の出る處多く山ならぬ地も然る處多し、〔上に注へる東市場の邊、殊に美しき丹土あり〕故小丹生(ヲニフ)と呼へるにて小は小長谷小栗栖などの小と同じく、その地を稱へたる詞なり、〔神名式に越後國高志郡小丹生神社あり、此ノ小丹生決て地名なるべきを其地も神社も今詳ならずとぞ〕豊後風土記に、海部郡丹生郷ハ、昔人取二此山ノ沙一、該二朱砂一因曰二丹生郷一、と云へるにも准らふべし、〔丹生てふ地名の諸國に多かるも、おほく同義なるべし〕さて當郡和名抄に、丹生郷二所見え、神名式に載られたる丹生神社、いま丹生郷の舊地にあり、同式に、三方郡丹生神社とみえたるは、いま丹生浦に在り、これらの丹生も上に説へると同義なるもあるべく、又神社名より転りたるもありげげなり、さて又大安寺流記に、乎入と書るは、爾布に入ノ字の音を借りたるなり、東大寺戒壇流の神名帳に、小入大明神と書るもこの地名なり、今も遠敷の里人、私には小入(ヲニフ)とも書り、古の書ざまの遺れるなり、〔伊勢の山田の宮人藤本家の古き旦家帳といふものにも、小入郡と書りとぞ、また近江國高島郡の山に、小入谷といふ處あり、その麓に小入村あり、其?遠敷郡の東南の國界なれば、彼國より然は呼べるなるべし〕、また遠敷としも書くは、遠の字音乎牟(ヲム)なるを、牟を爾(ニ)に転じ用ひたるなり、これら古の字の用格(ツカヒザマ)なり、…

遠敷の伝説






遠敷の小字一覧


遠敷 下大溝 大溝 中猪ノ子 下猪ノ子 下狐塚 中狐塚 上猪ノ子 上狐塚 北柳原 南柳原 彼岸田 下彼岸田 下郷境 郷境 新田 武者ケ谷 新屋敷 上検見坂 中検見坂 下検見坂 三墓 西牟久 上一丁田 一丁田 柿本 北牟久 上石清水 下一丁田 下石清水 下畳田 上畳田 中大溝 下藺原 上柴垣 口鎌田 上藺蓆 下川原 下見定 見定 下芝原 牟久 南牟久 三嶋 下谷田 万灯山 上谷田 西谷 湯谷 西堂ケ谷 奥堂ケ谷 東堂ケ谷 北堂ケ谷 谷 宮ノ腰 惣谷 掛川 向中川原 根来道 上滝村 滝村 中瀬 市場丁 嶋之丁 石橋 池田 芝原 田中前 森ノ下 中西 田中 上外輪渕 外輪渕 上長塚 上中溝 下中溝 下三丁一 下長塚 東下河原 上蒲田 下清水川 中蒲田 奥蒲田 中大鷺 川大鷺 上大鷺 上清水川 下瓜割 中瓜割 上瓜割 上川原 中川原 新上川原 上三丁一 中三丁一 下大鳥居 上大鳥居 金堂 中大鳥居 山王下 鰐街道 中村 川向 下貴船 上川向 上松塚 下松塚 山畑 東山 白峰 東湯谷 西湯谷 九花峰 上奥田

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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